第 七五話 束の間の休息

 ◆天文十六年(一五四七年) 九月中旬 尾張国 那古野城


 松永久秀にも忠告された室町幕府の十三代将軍足利義藤(義輝)は、これまた歴史の流れで実際とは異なるイメージが後付けされた人。

 剣豪将軍と呼ばれたり死の原因となった御所を襲撃をされた際に、畳に足利家に伝わる名刀を何本も刺して、取っ替え引っ替えしながら奮戦した逸話がある。

 ところが、死の間際の奮戦はどうやら江戸時代の創作らしい。そのうえ、免許皆伝ともいわれる剣の腕前も実ははっきりしないのだ。


 太田牛一が残した信長公記には、義輝が三好氏に対して謀反を企てたため返り討ちにされた、と記載されている。どうやら、義輝が暗殺された事件――永禄えいろくの変は自業自得な面があったようだ。

『剣豪将軍』ともなれば高潔な印象がする。

 ところが足利義輝は、政敵の三好長慶に数度も暗殺を仕掛けたり、三好一族の十河そごう一存かずまさ・三好義興よしおき安宅あたぎ冬康ふゆやすの死の黒幕は松永久秀である、とデマを流すなどなど。およそ清廉潔白なイメージとまったくもって程遠く陰険な手段を好む男だ。

 性格も粘着的で義輝の死を喜んだ人も多かったらしい。一言で言えば、関わりたくないタイプ。


 義藤の父親の十二代将軍足利義晴は、武田晴信はるのぶ(信玄)、伊達晴宗はるむね尼子あまご晴久はるひさなど地方の大名や武将に、偏諱へんき(自らの名前の一字を与える)を大量に売り飛ばして幕府の財政を若干改善させる功績はあった。とはいえ、生涯の殆どを権力争いと政争に費やし、とても名君とはいえない問題人物。政敵に京都から追い出されて近江に逃げ出すこと数度。政治的混乱を招いた責任は大きく、戦乱を収めようとする気概と行動のカケラすら見られない。


 史実の信長を苦しめた弟の義昭にしても父親の遺伝なのか、どうにもめんどうくさい家系なのは明らか。だから、久秀の提案どおりに後顧の憂いなく、歴史からご退場いただくと楽な面はある。だが、嘉吉かきつの変で将軍足利義教よしのりを暗殺した赤松あかまつ満祐みつすけが結果的に討伐されたように、安易に織田家主導で義輝を葬り去るという策にも賛成できないのが悩みどころ。

 史実の信長と同様に、将軍義藤を追放するのが、政治的には最善手なのかもしれない。だがしかし、弟より遥かにねちねちと嫌らしい性格だから、信長ちゃんに刺客を送る可能性大で非常に嫌な相手だ。安全かつ穏便に始末する方法はないだろうか。


 がたっがたっ……だーんっ!


 そんな面倒な将軍対策をあれこれシミュレートしていたところに、お約束の信長ちゃんの来訪だ。


「さこーん! なにをしておるのじゃ?」

 おれの気分とは対称的に、彼女はニコニコとかなりの上機嫌。

典厩てんきゅう(足利義藤)殿について考えをまとめていたら、少々気が滅入って参りました。そこで、ぷれぜんとの珠光小茄子じゅこうこなすびを眺めて気を落ち着かせようと思っていました」

 先日、信長ちゃんから貰った珠光小茄子は、この一益の身体に珠光小茄子ラブ遺伝子があるのだろうか。不思議と心が惹かれて眺めるだけでも気分がいい。


「ふむ。ぷれぜんとが気に入ったようで、ワシも嬉しいのじゃが……さこんが左様な顔をしていると心配なのじゃ。らぶらぶすると幾らか元気になるか?」

 ニコニコ甘え顔の信長ちゃんが、はしっと抱きついてきた。


 しっかりと茶器を持っていない今のタイミングはまずいっ!

「のわっ!」

「あっ!」

 カシャン……やってしまった……。哀れ、彼女の勢いに押されて手元からこぼれた愛しの珠光小茄子が、床に落ちて真っ二つならぬ四つほどのカケラに割れてしまった。

「さこん、すまぬ。すまぬ……。ワシが力任せに抱きついたばかりに、あれほど気に入っておった珠光小茄子が割れてしもうた」信長ちゃんは半泣きで、初めてみるような寂しげな表情をしている。もちろん彼女を責められないし責めるつもりもない。

 信長ちゃんをしっかり抱きしめて、背中を優しくなでてなだめる。


「おれには、茶器より姫の方が姫の笑顔の方が大事なのです。それにこのような茶器は、金で継いだ方がかえって味わい深くなるってものです」

 そう慰めたものの彼女はいまだ半べそである。

「うぐっ、うぐっ。すまぬ……」

「だいいち姫は浮かない顔をしていたおれを、力付けようとしてくれたのでしょう? 姫のその気持ちが嬉しいのですから、左様な顔していないで織田焼きでも食べましょう」

 強引に餌付け作戦を実行すると、信長ちゃんはようやく表情を和らげた。


「しかし、左近はなにゆえ浮かない顔をしておったのじゃ?」

「典厩(足利義藤)殿はかなりの陰謀好みです。三好筑前(長慶)などに刺客を送ってあやめようとしました。おそらく姫にも刺客を送る恐れが大かと」

「困った御仁であるのじゃ。ではワシも早々に手を打つか。弾正にも釘を刺されたのでな」

「どのような手でしょう」

「日向(明智光秀)によれば、公方様は怪しげな動きをしているとのことでな。殿中御掟でんちゅうおんおきてなる戒めを送ろうと思うのじゃ」


 殿中御掟といえば、史実で信長が将軍義昭に送りつけた事細かな規則だ。あれしちゃダメです、これしちゃダメです、と将軍の行動を制限しようとしたのだ。

 歴史の必然だろうか。史実の信長と同じことを信長ちゃんは実行しようとしている。


 当然のことながら将軍義藤は、細かな規則には大いに不満で反発したいが、武力が皆無なので独力では反抗はできない。

 仮に将軍の新たな後ろ盾になる勢力が存在するならば、表立って織田家と対立するはず。信長ちゃんは将軍義藤に対する締め付けを強化して、反織田勢力を炙り出そうとしているのだ。


「姫、最高です!」

「うふふ。ようやくさこんも笑顔になって、ワシも嬉しいのじゃ」

 信長ちゃんもすっかり機嫌が戻ったようでホッと一安心。

「御掟を送れば、典厩殿に踊らされている者も炙り出されましょう」

「うむ。面倒なので、一挙に片付けたいのじゃ」

「ええ。兵を出すなら一度の方が得策ですね」


「話は変わるが……さこんとともに読もうと思って、弾正から貰った黄素妙論こうそみょうろんを持ってきたのじゃ」

 信長ちゃんは松永久秀が持参してきた例のアレ――黄素妙論を差し出してきた。

 興味は当然あるので、ちらりちらりとめくって拾い読みをする。

 黄素妙論は致している最中に女性が特定の仕草や表情をした際は、これこれすると良い的なエッチに関するハウツー本だ。参考になる部分もある気がするけれど……。

「おっと。これはこれは……」

「うむ。ワシもひととおり読んだのじゃが……な。はははは。よく分からぬ部分も多くてな。ワシとさこんには些か尚早しょうそうな気がするのじゃ……」

 信長ちゃんにしては珍しく歯切れも悪く、顔を赤く染めて照れ笑い。そこそこに興味はあるけれど、実践が付いていかないといった様子。普段ではなかなか見れない表情だけに実に新鮮だ。

「ええ。時期が来たら分かるようになりましょう」

「うふふ。で、あるなあ」

 未来のヨメちゃんが甘えた口調でもたれかかってくる。

 近いうちに足利将軍家と激しい政戦の攻防が始まるのは間違いないはず。大嵐の前の、気持ちがほっとする束の間の休息だ。


 ◇太田牛一著『公記現代語訳』三巻より抜粋

 ある時滝川左近が弾正(信長)様から、世にも珍しき茶器を拝領した。松永弾正(久秀)が織田家に臣従する際に献上した、侘茶わびちゃの創始者の村田珠光ゆかりの逸品とのこと。

 筆者にも左近が大いに喜んでいた記憶がある。

 ところが左近が拝領して数日後に、件の茶器を壊したため修繕に出したのこと。聞けば酒に酔って粗相をしたらしい。

 常に冷静な左近の思わぬ失態のため、諸人は皆一様に驚いたという。

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