第四四.五話 姫のシェフ誕生【織田信秀】

 ◆天文十五年(一五四六年)三月中旬 尾張国 清洲きよす城 織田信秀


 我が娘、吉が治める那古野に流れる不審な噂をただすため、平手中務なかつかさ(政秀)を呼び出した。中務はワシの長年の腹心であり、現在は吉の寄騎よりきである。

 吉と非常に仲の良い滝川左近が、大蛇が棲む池付近で消息を絶ったという。既に彼は那古野で重責を担っているため、打てる手を打たなければならぬ。


 そもそも、蛇が人を食らうことなどあり得るのか。

「毒蛇のまむしは、人をあやめることもあると聞く。だが蛇は人を食うことがあろうか?」と中務に尋ねる。

「蛇は動物を食う生き物でございます。五間(九メートル)ないし六間(一〇.八メートル)の大蛇なれば、人を飲み込むのも可能でしょう」

「左近は大蛇に飲まれたのか? なんとも面妖めんようである。にわかには信じられぬわ」

「吉姫様は、大蛇が棲むと噂の比良の池を、隅々まで捜索させましたが、左近の行方はようとして知れないとのこと」


 五間や六間もある大蛇など信じられぬ。蛇といえば、大きくても一間(一.八メートル)そこそこだろう。それに肝心の大蛇の姿が、見当たらなかったというではないか。とすれば、左近が逃げたのではないか? 彼奴きゃつほどの知恵者が逃げたとなると、尾張にとって重大事件だ。

「左近は逐電ちくでん(逃げて行方をくらますこと)したのではあるまいか?」

「左近は尾張守護代の吉姫様と、恋仲といっていいほどでもあり、最近も新たな仕事に張り切っていた様子。逐電する理由が全く見つかりません。それに今朝方、新たな動きがありました」


「新たな仕事というと『織田屋』のことか?」中務に問う。

「はい。様々な面白きものを売り出すよし

 織田屋といえば、左近が考案したという、快適極まりないこたつを手に入れたいものだ。

「こたつも織田屋で売り出すとよいのだがな」

「こたつは吉姫様に怒られますゆえ、諦めたほうが良いかと」

「我が娘ながら、吉は怒るとなかなか手が付けられぬ。誰に似たのだろう。我が奥に似たのかもしれんな」

「…………」


 どうやら、中務も吉に言い含められて、悔しいことにワシにこたつを渡す気がないようだ。それにしても、吉が殊更気に入っている左近が、行方知れずのままでは実に困る。

 性格がきつく可愛げがない面もあるが、吉は優しい心遣いもできる女子であるぞ。滝川左近に不満はないと思うのだ。なにゆえ、左近は行方をくらましたのか。

「こたつはさておき、今朝何が起きた?」

「吉姫様宛てに、左近の大小二振りの刀と文が届けられたのです」

「ほう、刀と文だと?」

「刀は左近が所持したるものに相違なく、文は何者かが左近の身柄を預かっている旨の報せとのことです」

「左近はかどわかされたのであろうか?」

「間違いないでしょう」


 なるほど。左近を拉致して身柄を拘束したのか。犯人の狙いはなんだろう。

「何ゆえ左近を拐かしたのであろうか。金品の要求は?」

「金品の要求をせず、単に左近をしばらく預かるとのこと。おそらく吉姫様の今後の動きを封じるためかと」

「なるほど。左近の動きを封じれば、吉の矛先も鈍くなるであろうな」

「ええ。あるいは、左近に深く恨みを持つ者であるかもしれません」

「中務、彼奴に恨みを持つ者に心当たりはあるか?」


「那古野の噂によれば、織田十郎左衛門じゅうろうざえもん信清のぶきよ)、美濃みの(岐阜県)の斎藤新九郎(義龍)に近しい者、三河の松平残党、伊勢(三重県)の北畠きたばたけに近しい者。あるいは近江おうみ(滋賀県)の浅井あざい家が取り沙汰されております」

「十郎左、美濃、伊勢、三河は分かるが、浅井も怪しいのか?」

「はっ! 病とされていますが、左近が当家に来る前に、浅井備前びぜん亮政すけまさ)を鉄砲で撃ち殺した由にございます」

「なるほど。あやつも敵が多いな」

「敵するのではなく、左近を篭絡ろうらくすれば、当家のように力を手に入れられます」


 滝川左近ほどの恐るべき知恵者が、他国に仕えるとなると由々しき事態だ。

「なるほどな。しかし、あやつを篭絡ろうらくするのは容易ではないのだろう?」

「はい。女や金も難しいかと。おそらく、吉姫様の命がなければ、左近は動かぬでしょう」

「して、吉はいかがしている?」

「はっ! 大変気落ちされているご様子」


 気丈な吉が気落ちしてるとは、全く珍しいことだ。だが、このまま捨て置くわけにはいかぬ。

「あの吉が気落ちか。困ったな」

「当面の戦は殿や他の者で問題はなかろうかと」

「吉もよく働いてくれた。当面は好きなことをさせて休ませるのもよかろう」

「わしも吉姫様には、心安らかにしていただき、しばらく休んでいただくのがよいかと思います」


 そうだな。昨年秋から吉と左近はよく働いてくれた。拐かされたとはいえ、左近が他国に仕えさえしなければ、差し当たっての問題は少ないはずだ。

 吉には多少の骨休めも良いだろう。

「吉の近習の丹羽五郎左(長秀)といったか。あの器用な男とも打合せ、吉を休ませてやってくれ。――ついでだ。五郎左も呼ぶか」

「こんなこともあろうかと、五郎左も連れてきております。五郎左、ここへ!」

「さすが中務。実に用意がいいな」


 中務の呼ぶ声に応えて、賢そうな顔つきの若者が、如才なく寄ってきて平伏した。

「丹羽五郎左衛門長秀、大殿がお呼びとのことでまかり越しました」

「そう固くならずともよい。して、吉の様子はいかがであろうか」

「はっ! たいそう気落ちしていらっしゃいます。好物のぜんざいをも召し上がりません」

「実に珍しいな」

「はい。今朝も左近殿から贈られたとの小物を握り締め、物思いに耽っていらっしゃいました」


 なんと、あの気丈な吉が物思いに耽るとはな。ワシが思った以上に娘は、左近に思いを寄せていたようだ。

「しかし、吉がその様子では当家は立ち行かぬ」

「はい。私も何とか殿の役に立ちたいと思っております」

「ヌシはたいそう器用たる由、この清洲にも聞こえておるわ」

「恐れ入ります」

「親馬鹿と笑ってもよいが、吉の心をやすんじる手立てを考えよ。策はあるか?」

「はい。殿は、左近殿が考案したる『ひつまぶし』なるうなぎの料理を楽しみにされていました。ですから、ひつまぶしを殿に献上すればよいかと」


 なるほど、食べ物で気分を変えるのか。それにしてもひつまぶしとやらは、いかなる料理であろうか。

「よし! 吉にひつまぶしを作ってやってくれ」

かしこまりました!」

「ところで、ヌシは総技研のかしらでもあったな」

「はっ! 殿と左近殿のために、日々精進しております」


「清洲に一台、こたつがほしいのだがいかがであろうか?」

「こたつの儀は殿より固く禁じられておりますれば、ご容赦いただきたく」

 さすが吉だ。手抜かりないな。丹羽五郎左にも手を打っておったか。とはいえ、ワシも歳だし、ぽかぽかしたい気持ちぐらいわかるだろうに。


「相分かった。こたつは要らぬ。だが、ひつまぶしが完成した折には、必ず清洲にも持ってきてくれぬか」

「はっ! 誠意、ひつまぶしを完成させます」

「うむ。よろしく頼むぞ。下がってよい」

「はい! 那古野に戻り次第、早速料理の手配を始めます」


 丹羽五郎左は、ささっと如才なく退出した。

 ひつまぶしを食べれば、きっと吉も元気が出るであろう。何しろ、あの左近の考案した料理であるからな。

 ひつまぶしはおそらく、たいそう美味なる料理だろう。ワシも楽しみだわ。


「中務、ひつまぶしなる料理は知っておるか?」

「いえ、存じ上げません」

「鰻というからには、精がつく料理かもしれぬな」

「…………」


「まあ、よい。いずれにしろ、中務の手でも左近の行方を探すのだ。なにか動きがあればすぐに知らせろ」

「はっ。おそらく、あの強かな左近であるから無事だとは思いますが」


 とりあえず左近が尾張に戻り、娘と二人でこれからも楽しい夢を見せてくれることを願おう。吉がどうしても許してくれないこたつは忌々しいが、ひつまぶしなる料理は実に楽しみで心が躍るな。

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