第三九話 夜更けの来訪

 ◆天文十五年(一五四六年)三月上旬 尾張国 那古野城


 岩倉城攻めの成功で念願の尾張統一がなって、十三年も歴史が早まったことになる。 

 尾張統一は本来の歴史ならば、信長が二六歳の一五五九年のこと。その翌年に、三河みかわ(愛知県東部)を既に手中に収めていた駿河するが(静岡県東部)の今川義元マロが、さらに尾張へ軍を進めようとしたとき、信長が迎え撃つ。

 かの有名な桶狭間おけはざまの合戦だ。


 合戦当時、信長は五千程度の兵しか用意できず、数倍以上の今川の軍勢に対して圧倒的劣勢で、籠城論も取り沙汰されて軍議は紛糾したという。

 面積が小さいので忘れがちだが、尾張国は五十七万石ほどの米が収穫できる全国でも上位を争うほど非常に豊かな土地。単純計算では一七〇〇〇名の軍勢を賄えるほどなのだ。

 なのに、三分の一未満の五〇〇〇の軍勢しか用意できなかった史実の信長は、尾張を完全に掌握できていなかった状態だったといえる。信長は尾張統一間もなく、家中の混乱もあり寝返る将もいたので、今川義元に対して不利な状況に陥ったのだろう。


 一方で、現在の状態と比較してみよう。

 史実では六年後に病死してしまう信パパも、まだまだ元気いっぱい、エネルギッシュで頼もしい。

 そして、仮想敵国ともいえる今川義元マロの領地は、駿河と遠江とおとうみ(静岡県西部)を合わせて、四〇万石ほど。実質的に三河も勢力下においている織田家は、八五万石ほどなので国力が倍以上。しかも、現在マロは相模(神奈川県)の北条ほうじょう氏と激しく抗争中なので、さしあたっての脅威にはならないはずだ。

 だけど、もちろん義元マロに対しては、打てる手は打っておくぞ。


義兄者あにじゃ、駿河と遠江で調べてほしいことがある」

 諜報衆の多羅尾たらお光俊みつとしを呼ぶ。

「はっ。今川ですな」

「ああ。まずは今川家の情報収集だ。それともう一つ、遠江ではあるものを探してほしい。相良さがら(静岡県牧之原市)という場所にな……」

 日本国内では、遠江の相良だけでしか採れないモノがあるんだ。取り扱いは充分に注意しなければいけないけれど、うまく利用すれば、織田家の戦闘能力を確実にアップできるはず。

 今川対策は差し当たって、このぐらいでいいだろう。

 現在の織田家の方針は、新領地を完璧に掌握して、政治的経済的基盤を確実なものとすること。最低限今年一年間は、じっくりと力を貯める段階だ。もちろん、信長ちゃんと相談して決めた方針で、こちらからは攻勢は仕掛けない。


 あとは史実の信長が、桶狭間の後に取った戦略を参考に――。

 夜更けまで今後の戦略に頭を悩ませていたところ、不意に来訪があった。

「さーこーんー? 久しぶりやねえ」

 親しげな関西弁の若い女性。甲賀こうか女忍びのお奈津。現在は、信長ちゃんのボディーガード役を担っている。

 だがお奈津が夜更けに来る用件がさっぱり思いつかない。はて、なんだろう。


「ああ、どうした? こんな時間に」

 お奈津を見ていると、とても懐いていた後輩の奈津を思い出して胸がチクリと痛む。奈津はどうしているのだろうか。元気でやっていると嬉しいが。

 それにこのお奈津も、戦国時代のおれ滝川一益と浅からぬ因縁があるし、好意を向けられているので、嬉しくはあるけれど親しくなりすぎるのもまずいぞ。

 信長ちゃんに要らぬ邪推をされる可能性もある。


「ええっとなあ。姫様がな、忘れたものがあるんで、後でここに取りに来るって、言わはってなあ」

 信長ちゃんが忘れ物だと?

 岩倉城攻めから那古野に戻ってきてから、さっきまでこたつでぽかぽかを堪能していたのだけれど、忘れる物など持参していたかな?


「姫が忘れ物? なにを忘れたんだ?」

 見当もつかないのでささっと辺りを見渡してみるのだが、それらしきものは見当たらない。

「それがなあ。自分で取りに来るって、姫様が言わはって……。ウチは分からんのよ」

 改めて探してみるのだが、やはり信長ちゃんの忘れた物は見つけられない。

 はて。


「姫様のものは見当たらないなあ」

「なんやろうねえ。姫様が左近に会いに来たいんちゃうかあ。夜這いかもよ?」

「夜這いッ!?」

 お奈津が聞き捨てならないことをいうので、どぎまぎしてしまった。愛しの信長ちゃんが来てくれるのは大歓迎だけど、忘れ物ならばお奈津に言伝てをすればいい話。既に戸締りをしていたとしても、おれを呼べばいい。

 さすがに夜這いなんてあるはずないだろう。なにか重要な話をしたいのだろうか。


「はははは、まさか……姫だし、十三歳だぞ」

「十三歳いうてもな、姫様は乳や腰なんかは大人の身体になりかけとるしな。女子おなご男衆おとこしゅうより育ちが早いんよ。ウチだって十四でオンナにしてもろうたしな……」


 ちょっと待て。

 お奈津が信長ちゃんの発育状況の話をするから、少し想像しちゃったじゃないか。

 戦国時代に来て禁欲生活を続けているので、もちろん性的欲望を抑えている状態ではある。だから、なるべく信長ちゃんを性的な目で見ないようにしているのに。


 いけない、いけない。

 本能寺の悪夢どおり彼女と結ばれる運命だとしても、さすがに十三歳は早すぎだし、信長ちゃんは主君でもある。


「とはいっても、姫様とはなあ……」

「あー、なるほどなあ。もしかして左近、既に姫様とまぐおうとったんか?」

 お奈津は茶化すような口調。まぐわう、とは致すこと。


「も、もちろん姫様とはしてないぞ」

「まあ……主君と家臣やし、左近がいくら姫様を思うても無理やろな。仲ええのもほどほどにな。ほな。まったねー」


 下世話な笑みを残して、お奈津は出て行ってしまった。

 お奈津が、夜這いや信長ちゃんの肉体の発育状況など、エッチに関連する話題を振ってくるので、妙に意識してしまう。

 これから信長ちゃんが来るというのにまずいぞ。気持ちを切り替えないと。


 ◇◇◇


 お奈津が行ってしまってから、半刻(一時間)ほど経っただろうか――。


 とんとん。


 屋敷の戸を軽く叩く音。

 信長ちゃんならば、戸締りをしていないので、勝手に入ってくるはず。誰だろうか。

 小走りに屋敷の入り口に向かって、戸を開いたところ仰天してしまった。


「え……祥姫さちひめ様?」

 信長ちゃんの妹でそっくりさんの美少女。お淑やかなさち姫である。

 祥姫は、信パパが古渡城から清州城に移った際に、ここ那古野城に居を移しているので、廊下など城内で時折すれ違うこともあるけれど、会釈する程度の間柄だ。

 信長ちゃんが来るはずなのに、なぜ妹ちゃんが?


「姉上が何やら忘れたそうでして……。代わりにわたしが取りに参りましたの」

 なるほど。信長ちゃんが妹の祥姫に忘れ物の回収を頼んだのだろうか。

「左様ですか。姫の忘れた物はなんでしょう?」

「こたつとやらに……姉上が忘れたそうです」

「ああ。こちらです」


 祥姫をこたつに案内する。

「これが姉上がお気に入りのこたつですか。うふふ……今日は冷えますので、わたしもしばし堪能させていただけますこと?」

「ええ。火も入れてあるのでどうぞ」


 妹ちゃんはこたつにささっと入り込んで、屈託ない笑顔で温かさを堪能している。服装、口調や立ち居振る舞いは、信長ちゃんとは全く違うけれど、姉妹だけあって笑顔は非常に似ている。というか、全く同じ表情にすら思えるぞ。

 勇ましい男装も凛とした美しさはあるけれど、美麗な姫の衣装ももちろん好みだ。信長ちゃんも姫の格好もたまには堪能させてほしい、と思っていたので祥姫に見とれてしまっていた。


「姉上に伺っておりましたとおり、真に癖になりそうな心地良さですこと。あ……寒くなってきましたし、左近殿もこちらで温まりましょう」

 静かに微笑む祥姫が、自分の隣を指さしておれを招いてきた。

 お奈津の夜這いというフレーズが頭をよぎったが、織田家の姫の命令ともいえるので、ノーはない。

「はっ。では、失礼いたします」

 祥姫の横でおれもこたつで暖を取ることにした。

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