第12話 浮遊するランダム・ナンバー

 実家のリビングに、未理亜はすとんと降り立った。室内の様子は何もかもすべて、最後に見たときのままだ。

 視界に入ったフォトスタンドの一つ一つを、確認するように見る。そこに写る両親の気配はこの家の中にない。代わりに朝らしい爽やかな光が部屋に注ぎ込んでいる。

 安心したせいか膝の力が抜け、カウチソファの上に腰が落ちた。瞬間、家のセキュリティが反応し、ビープ音がけたたましく鳴り出す。そういえばそんな機能もあったと思っていると、背後からアンドロイドが「誰?」と顔を覗かせた。

 未理亜は苦笑しながら立ち上がり、彼に近づいた。

「留守番ご苦労、ロイ」

「ミリア!」

 ロイがすぐさまアラート解除を命じた。音がやんで未理亜は尋ねる。

「今日の日時は?」

「二〇四七年十一月二十日の九時十分」

 間に合った。しかし息をつく暇もなく、ロイの報告が続いた。「帰ってきてくれてよかった。大変なことが十時間前に起きて――」

「ああ待て。言うな」

 ぴんと伸ばした人差し指をシリコンの唇に押し当て黙らせる。

「集団消失の報告については助手に一任しているんだ。ヒューの仕事を奪わないでくれ」

 念を押すように首を傾げた未理亜に、彼は一拍置いて頷いた。

「そのかわり、研究所まで車を手配してくれないか? それと一応IDの書き換えも」

「わかった」

 未理亜の全身をくまなく確認したロイが、左の手首に目を止める。

「端末はどうしたの?」

「諸事情でね。今あるのはこの旧型のスマホだけなんだ」

 あちらの世界で、ラップトップを経由しIDを書き換えた数秒後にあれに捕えられた。

 リストレット端末は、あの世界のエマに託してきた。彼女ならば正しく使ってくれる。最後にストップウォッチを見た時、五百日と六時間半が経過していた。

 代わりにスカートのポケットには、古いスマホを忍ばせてある。シンポジウムで透吾に渡されて以来、ずっと使ってきた端末だ。

「ミリア、準備できたよ」

 ロイに促され、壁面スクリーンの前で右手の甲をかざす。書き換えは一瞬で済んだ。

「あと五分で車がくる」

「じゃあそれまでに着替えてくるとしようか」

 あの時代と違ってここでは、時間きっかりに配車される。未理亜は自室へと急いだ。

 二〇二三年の筑波を離れて現代に戻ると決意してからしたことは三つあった。

 まず、卵子提供者である杏奈に娘の存在を教えること。

 本来提供者にそういった情報をもたらすことはタブーとされている。だが、提供者である杏奈本人が知りたがったその時は、教えるように病院へ伝えた。透吾の住まいと、娘の名前とともに。

 それから、リストレット端末とスマホにEPR通信チップを送信と受信ともに組み込むこと。さらにその端末は、エマに預けること。

 グレーのタイトスカートに白いシャツをねじ込み、ジャケットに袖を通したところで車の到着の知らせを受ける。玄関を出ると、外はもうすっかり空気が冷えていた。

 見やった庭は手入れが滞って荒れ、母が綺麗に整えていたガーデニングの一部が枯れてしまっている。

 元に戻せるか、母に尋ねてみようと未理亜は思った。ついでに料理も。結局まともに作れたのは日常の食事だけで、手の込んだものは一切できないままだ。

 車に乗り込み後部座席に深く腰を沈めたところで、オートノマスカーは研究所に向けて静かに走り出した。


二〇四七年に戻ってくる前、あの星への短い旅をしてきた日の夜に、未理亜は透吾に研究施設を使わせてくれるよう頼んだ。

「研究施設を? 君が? ええと、なんのために」

「作りたいものがある」

 端的に告げる。透吾が少し渋い顔をしたので、エマから受け取ったチップケースを見せた。

「これがどうやったら実用化できるのか知りたくなったんだ」

「ああ、そういうことね。必要な道具ってどんなのがある?」

 使う予定のものをひと通り述べると、透吾は了承したあとに「ただし」と続けた。

「僕も立ち会わせてもらうよ。君の能力は知ってるけど、残念ながら内部の人間じゃないからね」

 三日後の休日。立ち会うと言いながら、透吾はその隣室でずっと娘の面倒を見ていた。いい気晴らしになると踏んだのか時折様子を伺いにくる程度で、口出しも何もしないでいてくれた。

 事実、久しぶりに行う実作業は楽しく、昔のことなどを柄にもなく思い出す。レディ・バグの試作機を作るよりも、さらに前。

「子どもの頃」

 透吾なら知っているものだと錯覚するせいか、思い出話は彼にほとんどしてこなかった。未理亜は、手元から目を離さないまま続ける。

「家にあるいろんなものを分解して遊んでた」

「ああ、やってそう。でもって叱られてもまたやってそう」

 娘を抱いて去りかけた透吾の足が止まる。『芹澤杏理の両親は高校時代に蒸発した』と説明してあったからか、透吾の口調はとても慈しみ深かった。

「うん。だから今度は、分解したあとに元に戻すことを覚えた。だけどテレビを手がけて失敗してさ。バレた時は両親からこってり絞られたよ。何を映してもえげつない色で映像が乱れて、自分でも軽くトラウマになった」

「でもどうせ、懲りなかったんでしょ?」

「懲りた、というか両親が折れたんだ。工作の道具やそのための部屋と知識を与えられて、家のものには触らない約束をした」

 しがらみのない自由な発想のまま、楽しいことをただ追いかけた。そのうち、完成品を父が手放しで褒めるようになった。レディ・バグができたのは、そんな背景があったからだ。

 もしもじぶんがこのまま成長して、そんなことを始めたら。透吾はきっと最後には笑ってくれるだろうが、それでも伝えておきたかった。

 組み込みを終えて手を止める。むき出しになった端末とスマホの基盤に、赤と青の印がついたチップが繋がった。あとは中に戻して外装をはめ込むだけだ。

「もう少しで終わるよ」

「うん。声かけて。片付け手伝うから」

 隣室に戻るのを見送り、また手元に視線を移す。

 端末とスマホの両方に組み込んだ送受信のペア。願わくばそのペアが、時空を超える瞬間でも壊れないでいてくれたらいい。

 出来上がったEPR通信搭載端末をエマに送ろうと手筈を整えていると、朝から冷たい雨が降る二月の終わりの昼に、彼女はふらりと筑波の家を訪れた。

「虫の知らせってやつが働いたんだ」

 本当に突発的にやってきたのか、ジーンズにニットの上からダウンコートをひっかけただけで、荷物もボストンバッグひとつという出で立ちだ。

 エマはそれ以上なにも言わず、複雑そうに表情を歪めている。未理亜は内心浮かんだ申し訳なさを微笑に変え、親愛を込めて茶化した。

「さすが。量子に通じる人間はひと味違う」

「アンタが『住所教えて』とか人並みなことを訊くからだよ。気色の悪い」

「気色悪いって、ひどいな」

 後頭部を掻いていると、エマが膨らませた小鼻を鳴らす。

 出会いからこれまで楽しかった。彼女がいなかったら、生活もまともにできなかった。学籍のひとつでもあれば共に研究することもできただろうが、彼女と友人になるというかけがえのない経験も手に入れた。

 あの伝言によって少し変わった世界は、彼女にとって望ましいものだったのかはわからない。けれど気に入らなければ、エマは自分で変えていける人間だ。

「で、うちなんか尋ねてどうする気だったんだ。お中元やらお歳暮やら送る気じゃないだろうね」

「これを預けたくてさ」

 リストレット端末と充電ケーブルを差し出すと、エマの目がかっと見開く。

「東京にいたころからずっと持ってたやつじゃないか。どうして」

「私にはもう不要なんだ。正しく使ってくれるのはエマしかいない。といっても、中のデータなんて大して残ってないんだけど」

「なんだそりゃ。私が興味があるのはデータやアプリだよ。アメリカじゃ着々とこの型のモデルの準備が始まってるってのに……」

「ごめん」

 短く謝罪を告げると、彼女は嘆息しながら未理亜の手からそれらを乱暴に攫った。

「しおらしくしてんじゃないよ。まったく、ほんっとに気色の悪い」

「そう言うなってエマ。ほら」

 宥めるようにスマホを持った腕を伸ばし、エマの肩を抱く。インカメラが二人を小さな画面の枠内に捉え、未理亜はシャッター音を鳴らした。

「……待て。変な顔した」

「なんだよ、いつも通りのエマだよ」

「うるさいね下手クソ。いいからもう一回」

「わかったわかった。いい?」

 早口で尋ねると、彼女の腕も未理亜の肩に回った。

 この時代にいた証として、このくらいのみやげは許されてほしいと願う。再度撮った時には、エマも未理亜も朗らかに笑った瞬間を収めることができた。

 それからほどなくして、体外受精を行った病院から『卵子提供者が会いたいと言っている』と連絡がきた。手配を済ませた翌日、未理亜は手の甲のIDを書き換えた。あの浮遊感に捉えられたのは、そのすぐあとだった。

 思いふけっていると、幼少時代の遊び場だった公園にさしかかった。

 この世界とあちらでは時の流れがまるで違う。娘が遊べるようになるまでどのくらいかかるのか見当もつかないが、無事育ってくれるのを願うばかりだ。

 だが、透吾は。ひどい目に遭わせてしまったと懺悔の念がよぎる。離婚届を一枚だけ残して無責任にも消えた妻を、どのように責めても構わないから、せめて彼もあっちの世界で、幸せになってくれたらいい。

 杏奈はどうなっただろうか。娘の本当の母になってくれたら嬉しいが、一筋縄ではいかないだろう。それでも、なるようにしかならない。彼らは彼らで生きていくだけだ。


 研究所の入り口前で車を降りたとき、ゲートの中から現れた人物と眼差しがぶつかった。

「ヒュー!」

 思わず駆け寄り、その勢いのままわずかなあいだ抱き合う。それから改めて互いの顔を見た途端、二人して顔を綻ばせた。

「本当に驚かせてくれますねあなたは」

 彼の落ち窪んだ目が、しばらく寝ていないことを物語っている。下瞼に指先を這わせて「悪かった」と述べると、日向は恨みがましいため息を吐いた。

「それで謝ったつもりですか」

「これからおとなしく働くから勘弁してくれ。いろいろ大変だろ?」

「大変どころじゃないですよ」

 いつもぱりっとしているシャツやボトムスも、随分とくたびれた風合いをしていた。

 日向に促され扉をくぐる。エントランスは閑散としていて人一人なく、足音が高く響く。上の方にあるモニタもブラックアウトしたままで、内部の者たちの余裕のなさが窺えた。

「さて、行方不明者はどうなった?」

 エレベータに乗り込み未理亜は尋ねる。確信していたのが伝わったのか、日向はひとつ大きく頷いた。

「最後の一人が、たった今戻ってきました。これでやっと、全行方不明者の帰還が確認できた」

 報告する彼の声にやっと安堵が漂い、未理亜も「そうか」とほっと胸を撫で下ろす。

「うまくいったんですね、あなたの思惑通り」

 返事に窮して無言でいると、日向の表情は少しずつ曇って怪訝そうに眉がひそんだ。

「未理亜?」

「とてもじゃないけど、うまくいったとは思えないな」

 彼に背を向け、上階へいくガラス張りの箱の中から街並みを望む。確かにあるべき姿に戻りはした。だが、禍根がないかと言えばそれは違う。

「結果としては戻ってきたんです。なにが問題だと」

「結果はな。代償は計り知れない。あっちの世界の住人に対して、随分酷いことをしてしまった」

「酷いこと?」

 なにを、とは言えなかった。元よりあちらでなにをしてきたかも、誰かに言うつもりはなかった。ただ一人、例外を除いて。

 エレベータが停まる。日向も未理亜の秘匿を悟ったようで、医務室と仮眠室が並ぶフロアを先導しながら口を開いた。

「大義をなすための犠牲はつきものです」

 抑揚のない低い声だった。

「あなたが過ごしてきた世界がどこであれ、この世界とは本来関係ない。アフリカでは何秒に一人子どもが、って言われても現実味がないのと同様。同じ地球ですらそうなんですよ」

「ヒューは本当にそういうところが合理的だな」

 フォローじみた言い方に未理亜は苦笑する。日向は気遣わしげな視線をよこしたあと、「気に障ったのなら失礼」と前を向いた。

「いや、ある意味救われる。でも、それをしでかした当事者だけは、その驕りを当然と思っちゃいけないんだ」

「それでも周りの人間は、立ち止まってほしくない人間にそう言い続ける」

 つまり止まるなと。日向は未理亜にそう言っている。厳しいな、と思わずぼやく。

「未理亜は感傷的になりましたね。一体どのくらい向こうにいたんです?」

「五百三日と十時間」

「ご……」

 繰り返しかけた彼は絶句した。

「若干歳が近くなったな」

 未理亜は喉を鳴らして笑い、さも些細なことのように告げた。

「老けて見えたのは気のせいじゃなかったんですか」

「失礼だな。そんな変わんないだろ」

「変わりましたよ、見た目も雰囲気も」

 何があったか、尋ねるのは無粋ですかね。ひとりごちるように言う日向に、未理亜は首を竦めた。しばらく並んで歩いていると、「ここです」と銀色の扉のひとつを指し示して立ち止まる。そこには両親の名前と『面会中』の文字が浮かんでいた。

「ごゆっくり。エマもいますよ」

「ヒューは入らないのか」

「水入らずでどうぞ。未理亜にはそのあと精密検査を受けてもらうことになるので、終わったら連絡を」

「検査はいいが、このあと私は記憶喪失になるぞ」

 は、と日向が気の抜けた声を発した。

「何も覚えてないと言い張ると?」

「そうだ」

「その並外れた記憶力があるにもかかわらず」

「ああ。よろしく」

 返事の代わりにため息が返ってくる。だが未理亜ひとりしか証言できない以上、それが最善な気がした。観測された以外のことはあくまで仮説のまま、そっとしておくべきだと。

 投げやりに元きた方へ背を向けた日向を少し見送ったあと、遠慮がちに扉の正面に立った。映り込んだ顔は、唇を噛み締めている。

 認証までの短いあいだ、急に緊張が襲ってくる。だが、心の準備が整う前に、ドアはスライドした。

 入ってすぐ、消毒液の匂いが広がった。窓から差し込む光は明るく、白い壁と床に反射して眩しい。

 洗面所を横切ったあたりで二台のベッドの端が見えてくる。そのまま進むと、振り返ったニットワンピース姿のエマと、一台のベッドに並んで座る両親が目に入る。二人は病衣を纏っていた。

「未理亜」

 落ち着いた深みのある透吾の声と、朗らかで柔らかな杏奈の声が綺麗に重なる。未理亜はそれまで胸に携えていた後ろめたさを放り出して駆け寄った。

「父さん、母さん……」

 弾かれたように立ち上がって手を伸ばした父と母の、真ん中に飛び込む。

 未理亜は広げた両腕で二人の背を抱きかかえた。泣くまいと思ったが、杏奈の肩が震えた瞬間、喉奥が詰まるのを感じた。

 後ろからエマの手が未理亜の頭を撫でる。首だけ回すと、彼女は人差し指で下を示し、片目をつぶって部屋を出ていった。

 言葉もなくしばし三人で抱擁し合う。

 彼らが目の前で消えた時から、絶対に取り戻すと固めた決意。それがようやく報われた実感が押し寄せた。

「無事でよかった。エマから君まで消えたと聞いて気が気じゃなかった」

「ほんとよ。それもあなた一人だけ戻ってないって」

 いつどこに行こうとしたのか、詳しいことは言わずにいてくれたらしい。この二人は、そんなことなど知らないほうがいい。

「でも、帰ってきた。それだけで充分だ」

 両腕にいま一度力を込める。

 ごめん、父さん。家にいたアンドロイド、勝手に動かしてアップグレードさせた。そんなの、君に昔散々壊された家電に比べたらかわいいものだ、と父が言った。

 母さんも、ごめん。せっかくの庭がめちゃくちゃになってるから、元に戻すの、私も手伝わせて。あなたが庭仕事なんて初めてね、うれしい、と母が言った。

 二人をまるごと抱きしめながら、未理亜は青空が広がる窓の外を見上げる。

 あと十日で、レディ・バグの自壊プログラムが発動する。そうすればもう、交信することはできなくなる。それでも彼らは、存在し続けていくのだろう。こちらからはアクセスのできない、高次元のどこかで。

 精密検査の手が及ぶ前に両親の部屋を出た未理亜は、エマを探して下の階に降りた。

 認証を受けた先、日当たりのいい中層のテラスの柵を前に佇む彼女の後ろ姿を見つけ、すぐ横に立つ。エマは、風になびくシルバーグレイの緩いまとめ髪を、手で押さえつけながら口を曲げた。

「まったく、どこで一人油売ってたんだい」

 不機嫌そうな声だったが、目尻には優しげな皺が刻まれている。未理亜は片方の眉と口角を上げた。

「ちょっとね、太陽系外まで」

「どこの透吾だ、笑えないよ。そんなこざっぱりした顔しちゃってまあ」

 言われてとっさに頬に手を当てた。八度のループをしたときとは違い、たしかに直前まで健康的な生活をしていた。

「あいつら会わせずに済んだのかい?」エマが呆れたようにため息をつく。

「会わせないではいられたけどね、結局『私』は生まれてしまった」

 スカートのポケットに手を突っ込み、スマホを掴む。

 すっかり慣れた操作でアルバムから写真をひとつ表示させ、彼女に渡す。するとエマの目は、これでもかというほど大きく剥かれた。彼女の瞳に、向こうで最後に彼女と二人で撮った写真が映り込む。

「これ……」

「エマには世話になったよ。居候させてもらったり、戸籍とかもいろいろ」

「居候? あの下町の家で?」

「そう、ミケと一緒に。信じられるか? 私たち、友達になったんだ」

 どこかの世界で作ってきた思い出を、娘のことも含めて話し聞かせた。その内エマの表情は曇り、しまいには静かに目頭を押さえた。

 向こうでもこちらでも、彼女の涙は今まで見たことがなかった。友人として過ごした調子のまま、「年のせいか」とからかってやろうかとよぎったが、それも憚られる。そのくらい、エマの涙は感傷を誘った。

 大きく鼻をすすってエマは顎を空へ向かって突き上げる。それから最後に太い息を吐き出し、未理亜を見据えた。理解が追いつかない様子で首を振る。

「ごめん、こんなこと話して。でもそうしないと、エマにしか確かめられないことが訊けない」

「この期に及んで何を訊こうってんだい」

「母さんは……、辻杏奈は、自らの腹を痛めて私を産んだのか?」

 エマの呼吸が、一瞬止まった気配がした。

 自分自身の出産を誰がしたところで、未理亜としてはどうとも思わない。代理の者が産もうが人工子宮で育てられようが、未理亜が透吾と杏奈の二人の子である事実は変わりない。

 それでも。あの世界での偶然の確率が、ほんの少しだけまともになった。母が未理亜を恐れた理由にも納得がいく。

「杏奈も……、あの子も悩んでた」

「うん。いつか、話せたらいいと思うよ」

 残してきた生命の存在は、あの世界でも必然だったのだろう。未理亜は息をついてフェンスにもたれ、話を切り替えた。

「私が行った先では、結局EPR通信は世に出なかった。『時期を待つ』って、私に通信チップをくれただけで」

 俯いていると、今度はエマが満足そうに笑った。

「そうか。ならよかった」

「本当にそれでよかったのか? てっきり、日本で燻っていたからこその伝言だったのかと」

「少し違うね。燻っていたことが原因じゃない。発表してから巻き込まれる羽目になった問題が、私には耐えがたかった」

 無意識のうちに眉を寄せるも、未理亜はハッとして顔を上げる。

「まさか」

「そのまさかだ。電波のいらない通信技術なんて、悪用されないわけがない。今の隠居生活は、軍事やら悪事やら厄介なもんに付け回されて疲弊した末の選択さね」

 右手の甲、親指と人差し指のあいだの表皮を抉ったような痕に、未理亜の視線が釘付けになる。

「だから、がむしゃらにやって成果を認めさせる前に、そういうリスクがあることにも気づいてほしくて、アンタに伝言を頼んだんだ。平和ボケした国にいるとどうしても疎くなる。その時代の私が、それでもそいつを使って成し遂げたいなにかを、見つけてくれたら嬉しいね」

 時代にそぐわないと言ったときの、彼女の清々しい顔を思い出す。あれは彼女が考え抜いた末の決断だったのだ。短絡的に考えた自身を、未理亜は内心恥じた。

「よくないねえ、年を取るのも。やたらと若い世代になにかを教えたり託したりしたがる」

 もしもあのまま自分があの時代にいられたら。一切を気にせず学位を取得し、エマとも肩を並べられた未来もあったのかもしれない。

 だが、それは今、本当にこの世界で不可能なことだろうか。そう思ったら、

「なあエマ。第一線に戻る気はないか?」

 そんな誘いが口をついて出ていた。

「はあ? 冗談をお言いでないよ、馬鹿娘が。こんななまくら、使いもんになるか」

「冗談でこんな偏屈誘うか」

「ああ?」

「家にあれだけの資料と、使おうとすればすぐに使える通信環境があるんだ。なまってるなんて言わせない」

 睨んでくる険しい視線を跳ね返すように、未理亜は一歩詰め寄る。このテラスにはゲストは入れない。彼女の生体認証が施設内に残っている、紛れもない証拠だ。

「特に今回の件の後始末で量子力学の方向から口添えしてくれたら、私としては心強いんだけどね」

 エマは悔しそうに歯を剥き出したあとで、スマホを突き返し、ふいっと顔をフェンスの外へ背けた。

 思いつきが過ぎただろうかと、一旦口を噤む。しかしそうそう諦められる気もせず、後頭部に向かって投げかける。

「現代の『若き天才』と隠居した『往年の奇才』だ。最高に心躍らないか?」

「馬鹿馬鹿しい。透吾とアンタの工学親子にお顔と頭のいい助手、ってだけで充分踊ってるだろうが」

「それは世間。私じゃない。返事はすぐじゃなくていいよ。気長に待つけど、本物のお迎えが来る前に答えをくれ」

「そんな歳じゃないよ!」

 エマが勢いよく振り返り、頭痛でも我慢しているような仕草でこめかみを押さえる。

「はーっ。生意気な子だねアンタはほんっとに……」

「考えといてよ、本気だから」

 駄目押しを試みたが、掲げられた手のひらに邪険に追い払われた。

 頑固なのは重々承知している。長期戦でもいい。誘惑するすべは多少身についたのだし、その気になるまで口説くのみだ。未理亜は開き直り、屋内に戻るべく歩き出した。

 ちょうどスライドした扉から、日向が足早にやってくる。また細かな文句を言われそうなのが、呆れ顔からうかがえた。

「検査があるって言ったでしょう」

「今行こうとしてたんだよ。じゃあな、エマ」

「いいですか。グランド・フィナーレまではこちらが決めたスケジュールで動いてもらいますからね。目を離すとあなたはすぐ勝手する――」

「未理亜!」

 あっちの世界で聞いていたより老成の滲む棘の取れた声が、未理亜の名を呼んだ。思わず面食らって、未理亜と日向ともどもエマを振り返る。彼女は厳しく言いつけるように、人差し指を突き立てた。

「和室のあるラボを用意しておきな。そうしたら考えてやる」

 この近代的な造りをした施設の、どこにもない設備である。それをにべもなく注文して、エマは偉そうにふんぞり返る。

 未理亜はしばらく放心した。次いでぷっと吹き出したあと、声を張り上げた。

「桐箪笥とちゃぶ台と、なんなら猫もつけようか。生意気そうな三毛猫でどうだ?」

「猫はいらん。生意気な奴なんかアンタだけで腹いっぱいだよ」

 笑って目配せし合うと、未理亜は建物の中へ、エマは再びフェンスの外を向いた。隣で日向が一人、目をきょとんとさせ、二人を交互に見ていた。


 十一月三十日。レディ・バグのグランド・フィナーレは、ランディングの時とは異なり、内部の人間と一部ネットでのみ放映された。

 三十名ほどのスタッフが肩を並べるモニタルームで、スクリーンを見つめる者たちは、寂しそうでもあり、安堵を浮かべてもいる。その最後列に座る透吾と日向の間に未理亜はいた。

 レディ・バグは間もなく終わりの時を迎える。

 腹にあたる底部のベースカメラからの映像と、レディ・バグの目に搭載されたカメラが送ってくる二つの映像を、ゆったりと眺めていた。

「風速、大気ともに安定。底部ベース切り離し準備完了。噴射します。三・二・一」

 半ば夢うつつの状態で彼の地で見てきたのと同じように、レディ・バグは自身に課せられた最後のプログラムに従い、脚のついた底部を残して空高く舞い上がった。

 灰色の大地が遠くなり、全景が見えてくる。険しい岩山、川の痕跡、金色の低い光に照らされ長く伸びる影。その中の翼を広げたレディ・バグの影が、みるみるうちに小さくなっていく。

『彼女』の目は、地平線に沈むプロキシマ・ケンタウリの夕日を捉えていた。

「上昇成功。自壊適正高度まで五百、四百……」

 硬い表情をした女性オペレータが数値を読み上げる。

 レディ・バグがもたらした現象は世界中に混乱を招いたが、それでも太陽系外惑星の映像を撮影したという事実は、紛れもない偉業であった。赤色矮星の日の出に日の入り、水の痕跡、岩石の状態や種類。検証の課題はいくらでもある。

「適正高度に到達しました。噴射停止、レディ・バグ、未だ上昇中。最終フェーズに移行します」

「実感が薄いね」

 呟かれた透吾の声に、未理亜は正面を向いたまま浅くうなずいた。

「もっとちゃんと見てられたらよかったな」

 リアルタイムで送られてくる映像を見ることができたのは、ほんのわずかだ。ほとんどは集団消失に追われ0と1ばかりを見続け、しまいには過去への旅路に費やしてしまった。

 未理亜は新たにした左腕のリストレット端末をちらりと見やる。乱数発生器は、未理亜が戻って以来乱れぬ1を刻むこともなく、静かに均衡を保ちながら流れていた。

「未理亜、万一それが反応しても意味はないですよ。IDとこっちの人間は、もう誰一人として紐付いていない」

 日向の咎めるような視線が左腕に注がれる。透吾も日向も、未理亜が戻ってすぐに端末への転送も通知もやめていた。

 意味をなさない。わかってはいるが、スマホを手放せないのも、ログをなんとなく見てしまうのもまた事実だった。

「自壊プログラム稼働。起爆カウント、十五、十四」

 平坦に実況を続けていたオペレータが、突然カウントをやめた。

 なにかあったのかと未理亜はわずかに身を乗り出す。オペレータはそのまま、意外な台詞を続けた。

「いろいろありましたが、果てしない可能性と新たな謎と、素晴らしい景色を見せてくれた我らがレディに感謝します」

 その言葉を合図にするように、スクリーンを見ていた者たちが一斉に未理亜を振り仰いだ。

 想定外に起こった事態のせいで、糾弾され、身近な者が消えたりもして、嫌な目に遭った者も多かったはずだ。にもかかわらず、部屋に集まったすべての者が、『彼女』と未理亜を称えている。

「……私じゃないって」

 もはや誤魔化しようのない下手な嘘だと自分でも思った。それが、精一杯の釈明だった。

「最後だぞ、見届けよう」

 照れ隠しをするように、未理亜は無愛想に顎をしゃくる。二人が両隣で肩を細かく揺らした振動が伝ってきた。

 オペレータによるカウントが再開される。しかし、それもほどなくして0を読み上げた。

 強い衝撃が二つの画面を大きく揺らしたのみで、爆発の瞬間の音もなかった。地球から四・二光年離れたプロキシマbを二ヶ月間浮遊していた彼女は、遠くで一人、静かに使命をまっとうし、スクリーンをノイズで乱して暗転させた。

 アメリカで起きたような歓声はあがらない。静寂の中に奥ゆかしい余韻が漂い、誰もがぐっと息を詰めている。ある者は唇を噛み締め、ある者は口を両手で覆い、ある者は静かに涙を流す。そこで誰かが、手を叩いた。

 それは徐々にまばらな波となって広がり、やがてモニタルームを満たすほどの大きな拍手の渦となった。

 未理亜も控えめに手を叩く。だが小さな振動を覚え、拍手をわずかに乱した。

 もう終わったのだ。そう言い聞かせ、手を打つ音を膨らませた。

 最後くらい、と付き合った簡素な打ち上げを抜け出したころには、窓の向こうは夜になっていた。

 他の者に先んじてラボに戻る廊下の途中で、未理亜は左腕のディスプレイを立ち上げる。記された通知は、自壊プログラムが発動した直後とみられる時間に受信していた。

 もう意味などない、乱数発生器の送ってくる数字。それが再び、百個の1を並べていた。

「壊れたはずじゃ……」

 乱れぬ数字の後ろ、さらに0と1の乱数が続いてからログは途絶えた。グラフも脈打つことはなく、レディ・バグ起動前に見ていたようなまっさらな状態でいる。

 先ほど確実に壊れたが、あの星ではたしかに最後、『バグ』がチップの断片に触れていた。それに自身だって同じように、百個の1のあとに彼らへのメッセージを綴った。

 意味がないと断じることができず、1に続く数字を改めて眺める。

 0100100001101001001000000100110001100001011001000111001

 一見して意味のない0と1の羅列に見える。しかしそれは、とても原始的な法則に当てはめることで糸口を得ることができた。

「アスキーコード?」

 コンピュータがアルファベットや数字、記号を識別できるようにするために割り当てられた、0と1で構成されるコードだ。間違いないと確信し、未理亜は早々にその意味を解読する。そして一見乱数のような数字が示した短いセンテンスに、息を飲んだ。

『Hi Lady』

 全身が総毛立つ感覚に襲われた。それから窓を向き、張り付いて空を見ようとした。

 冴え冴えと凍る星の光の中に、あの惑星の輝きはない。地球からでは肉眼で見ることのできない四・二光年先の星。しかしそこに確かに住まう何か。彼らの存在の研究は進められているが、中途半端に頓挫したままだ。

 無理もない。説明をつけるには難解すぎる。敵ではないと説くのも至難の業だった。

「最初っからそのくらい友好的に来てくれりゃよかったんだ」

 舌を鳴らして悪態をつくが、ガラスに映り込んだ自身の顔は、思っていたよりも綻んでいる。

 あの惑星で見たことはおろか、過去でしてきたことの一切は、いまだ未理亜の中に秘めたまま。記憶喪失で通している。もしも話すとしても、そこにたどり着く可能性のある者にだけだろう。

「お前らが何者か、私がわかる日は来るのかな……」

 彼の地へもう一度行けばあるいは。だがそれは、自分の世代では不可能に近い。そこでふと思い立ち、ポケットから旧型のスマホを出した。

 忘れ形見は今、どうしているだろう。何歳になり、なにを考え、なにに意識を傾けて彼女の今を過ごしているのだろう。

 考えても詮ないことだ。しかし時折、写真を開いて見てしまう自分がいる。

『01』とあるアイコンをタップすると、黒背景の数字入力画面が現れる。点滅するカーソルを暫く眺め、未理亜は先ほど受け取った数字と同じものを入力していく。

 何光年離れても即座に届く。だが送信したとして、果たしてこれは彼女に届くのだろうか。

 バカなことを。自嘲気味に笑ったものの、気づけば真剣に数字を打ち込んでいた。

 乱数発生器を搭載しようと透吾と目論んだときと似ている。冗談と本気が好奇心を媒介にして入り交じる感覚。指先は少しのあいだ宙をさまよったのち、矢印のアイコンをタップした。

 一分経ち、三分が過ぎて、自身に呆れ、「そりゃそうだ」と首を振る。仮になにか返ってきたとして、なにができるでもない。

 未理亜はスカートのポケットに手ごとスマホを突っ込み、再びラボを目指して歩いていった。

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