第11話 惹かれ合うDNA
「ねえエマ。地球外生命体が高次元にいるとして、どうやったら交流できると思う?」
リビングのソファで、未理亜はやや前のめりになりながら尋ねた。
向かいに座るエマが、「はあ?」と首を亀のように突き出して聞き返す。青地のちりめんに小花が散る着物が目に鮮やかだ。
「茶菓子はなにがいいかみたいなノリで難題ふっかけてくるんじゃないよアンタは」
「極めて真面目なんだけど」
「真面目かどうかなんてどうでもいいさね。まったく、子ども産んでもそんな調子かい」
大仰に両手を天井へ向け肩を竦めたエマに、未理亜は不満げに唇を尖らせた。が、すぐそこのベビーベッドからぐずぐずとした泣き声が聞こえ、反射的に立ち上がる。
いつの間にか目覚めたらしい。ぱっちりとした二重まぶたに光る涙を拭って抱きかかえると、小さな息遣いはやがて落ち着いた。人肌が恋しかったのだろう。娘を抱いたままソファの肘掛けに腰を下ろす。
「アンタが母親になるなんてなあ。これっぽっちも思いやしなかったよ」
「私も驚いた。わかんないことだらけで二人して手探りだけど、なんとかやれてる。ねえ、ミリア」
柔らかい声音で娘に呼びかけていると、エマも隣にやってきてミリアの小さな頭をそっと撫でた。
この一年は嵐のように過ぎていった。未理亜ですらところどころで記憶が抜け落ちている。
妊娠発覚から間もなく透吾と入籍した。街にもちょうど区画整理の手が入り、中心部にある一軒家へ引っ越したのが半年前。娘を産んでもう三か月経つ。クリスマスを間近に控え、休暇を利用してエマが筑波を訪れると言ってきたのは先週のことだ。
実に一年ぶりの再会だった。その間連絡は取り続けていたが、妊娠、結婚の流れを報告した時は、彼女の顎が外れるのではないかというほど口が開いた。
「名前の由来は?」
「未知なる理を次の世代に継ぐって意味で、未理亜」
「どっちがつけたんだい?」
未理亜は娘をゆっくりと揺らしながら、「透吾」と答えた。エマが感慨深そうに頷く。
「アイツはちゃんと父親してる?」
「うん、もうすっかり親ばか。時短勤務で毎日四時には帰ってくる」
「目に浮かぶね。そんでもって妊娠中からずっとそんな話をその子に聞かせてたんだろ? むしろ教育に悪そうな気がしちまうよ」
「危ない話じゃないからいいだろ。それより、どう思うか見解を教えてほしい」
「高次元ねえ。たしかに量子論と無関係ではないけども」
エマはふむ、と息を吐く。
「高次元なら、我らの文明文化というものは多少理解できていると仮定する。なら、こっちからのコンタクトはできないにしても、向こうからなら可能なんじゃないのかね」
「やっぱこっちからどうこうっていうのは無理があるか……」
「勝手に見つけてくるならあり得るんじゃないか? けど興味を持つかどうか」
「持たないかな? 人間だって二次元の世界に夢中になるやつはいるじゃないか」
「そういうのと同じにするんでないよ。よもやなんか見つけたとか言い出すんじゃないだろうね」
「まさか。大体いたとしても、三次元の我々に認識できるか?」
「そいつは限りになく不可能に近い。それがなにであるか、理解できるかがそもそも怪しい」
エマの答えはぶれそうにない。
本格的に帰ることを視野に入れることができて、どうしたら戻れるかと考えていた。
最初の一時間四十分はとうに過ぎた。そこから今日まで四百五十九日という月日が経っている。IDの書き換えだけで済むならいいが、訴えかける手段はどこかにあるものかと久々に会った友人をせっついてみたのだ。しかし、答えは予想通りであった。
「にしても急にどうした? 子ども産んでおかしなもんでも見えるようになったとか?」
「違う違う。そっちの方がずっと非現実的だよ。それより」
未理亜は話題とともに、視線を娘からエマに移した。
「EPR通信はどうなったんだ。一向に世に出てこないじゃないか」
「ん、ああ、そうさねえ……」
「はぐらかさないでよ。私の論文一千万で買おうとした熱意はどこにいった?」
咎めるような口調で詰め寄るも、彼女は鼻で笑って薄く目を伏せる。未理亜は眉根を寄せて、続く言葉を待った。
「あれな、ちょっと機を見ることにした」
「なんで……っ」
「まだ時代にそぐわないんだよ」
強い口調で彼女は未理亜の言葉に被せてくる。
諦めでもしてしまったのかと思いきや、その表情はやけに清々しく達観していた。
「時代に、って。随分な言い方するんだな」
「なんとでも言うがいいさ。正しく使える人間とそのバックアップが強固でないと、通信だけが発達しても無意味だ。時代から飛び抜けた技術ってのは、よくないものを呼び寄せちまう」
「でも」
「なんにしても今出すのは得策じゃないって私が判断したんだ。気長に時期を待つさ」
解せなかった。エマは早くに認められ世に出したかったから、あの伝言を託したのではなかったのだろうか。
彼女に言われたことはきちんと伝えたつもりでいた。言葉が問題なかったとしたら、自分の行動のせいだろうか。振り返っても議論を交わして喧嘩したことばかりが蘇り、影響を与えそうなことがいくらでも列挙できそうな気がした。
それに加えてさらりと耳に入った『よくないもの』という言葉。
ピューパ、ひいてはレディ・バグを飛ばすために、相当な無理を通した。スイングバイの回数や方向、惑星の並び、完成しうる技術。どれを取ってもあのタイミングだと計算ではじき出せたのだ。だが、あの時代には過ぎたるものだったと自覚しているだけに、エマの言いたいこともわかる。
EPR通信が生まれてなければ、四光年先に宇宙船を飛ばすなどという無謀なプロジェクトは動き出さなかったはずだ。
それでも未理亜は、惜しむように「もったいないなあ」と呟いた。
「アンタがそう思う必要はないよ」
「そのくらい可能性を信じてるんだよ。NASAの人間は諸手を挙げて喜ぶぞ」
EPR通信が世に出る前。遠くの惑星探査ではどうしても情報受信に時間がかかり、空白の数分間、科学者たちは祈るようにそれを待ったという。
「別にそいつらを喜ばしたくて研究してるんじゃないんだ」
「NASAに限らずだよ。せっかくあんなに頑張ったのに」
「ほしきゃやるよ。チップになったやつを持ってきてる」
着物の懐に入れた手が取り出した
「アンタに渡すつもりでいてね。赤が送信、青が受信」
「どうして?」
「そうするのがいい気がした。それに可能性ってのなら、この子の方が無限に持ってそうだ。な、嬢ちゃん」
懐かしく優しげな響きにはっと顔を上げると、エマは白い歯を見せて笑った。こみ上げてきた郷愁じみた想いは、元の世界に戻らねばという使命感に加え、もうひとつの感情を未理亜に気付かせる。
「……一応貰っておく」
「そうしておくれ」
ここの世界にも日増しに大切なものが増えていく。友人もパートナーも子どももそうだ。あちらの世界では、いずれも望んでいなかったものたちだった。
仮りそめの関係と身勝手に作ってしまった娘。そのすべてを置いていくことを、自分は躊躇わず選択できるのだろうか。
腕の中でふにゃふにゃとなにか言っていた娘が、エマへと小さな手を伸ばした。エマが指を出すときゅっと握り、なにか咀嚼しているように口元を動かす。唇の端に、くぷくぷと唾液が浮き出した。
「笑ってんのかい、これは」
「お気に入りのおもちゃ触ってる時と同じ顔だ」
「おも……っ」
「抱っこしてあげてよ」
「ええ?」
「首も据わってるし。好奇心旺盛みたいでさ、ほとんど人見知りしないんだ」
返事も待たず娘を差し出すと、彼女は面映そうにしながら両腕を前にした。
受け渡して手を離せば、娘の黒目がちな瞳が真っ直ぐにエマを捉える。戸惑っていたエマの顔が奇妙に引きつったあと、間もなくふやけ、目尻と頬が垂れ下がった。
「かっ……」
「うん?」
「かっわいいなぁ……」
「でしょ? あ」
玄関の扉が開く音に未理亜が顔を上げる。次いで足早に廊下を進む気配のあとで、リビングのドアが「ただいま」という声とともに開いた。透吾だ。
「やあエマ、久しぶり」
「邪魔してるよ。なんだい息切らして」
「うるさいな。ミリアもただいま。エマに抱っこしてもらって嬉しいね」
バッグを床に置いてすぐだらしなく綻んだ透吾の顔はもう、未理亜が見てきた父親そのものとなっている。
すっかり子どもに夢中な二人を尻目にお茶を淹れ直そうと腰を浮かし、キッチンへ向かう。その間も彼らの会話が耳に入った。
「将来は美人になりそうだ」
「やっぱそう思う? 僕もなんだよ」
「うん。杏理に似てる。目とかそっくり」
「やっぱ? そう思う? 実は僕もなんだよ」
「勘違いだよ二人とも。私となんて似てない」
「杏理はそれ、いつも否定するよね」
間髪入れず差し挟んだ意見は苦笑いで透吾に返される。
血は繋がらずとも産んだ欲目からか、透吾ほどではなくとも娘は可愛く映っている。だが似ているだなんて不本意だ。
「いいじゃないか、自分に似てるなら」
「ね。僕は嬉しいんだけどなぁ」
「だから。赤ん坊の顔なんてすぐ変わるって。それより夕飯どうする? デリバリーでいいなら早めに頼みたいんだけど」
湯の沸いたケトルをティーポットめがけて傾けながら、未理亜は無理やりそこから話題を離した。
そんなわけはない。いっそ声を荒げて、やめてくれと言いたいくらいだ。巧妙に仕組んでようやく勝ち得た安寧を、根拠のないコメントで脅かされるのは嫌だった。
「ありえない」
これに限っては量子とは違う。授精など遺伝子と遺伝子の偶然の掛け合わせだ。そんな想いを、自分だけに聞こえるように呟いた。口内の急激な渇きを覚え、唾液を促そうと舌を動かす。
だがもし、万が一。周期管理と殺精剤を用いることを徹底していてなお、自分の卵子と結びついてしまっていたら。
「……そんなことがあってたまるか」
赤子に心を奪われている友人と父親を複雑な感情で見つめながら、未理亜はそう言い聞かせていた。
しかし、想いとは裏腹に疑念は増した。
錯覚だ、気のせいだと思い込もうとしても、日増しに特徴づいてくる姿に空恐ろしさすら覚えた。所詮赤ん坊のこと。ほかの乳児ともさして変わらぬ容姿だと思っていたが、いざ会う機会があると全然異なるのだと知った。これほど小さくてもしっかりと顔の個性があるのだ。五か月の検診で周りの子らを目の当たりにして、なおのこと募った不審感。病院から帰ってきても、心がざわついたままでいる。
「まだ産毛だけど、いずれ君みたいな綺麗な黒髪になりそうだよね」
ベッドに寝かせた娘を見下ろして透吾が言った。彼の手はまだ生え揃っていない柔らかな髪を撫でている。
子煩悩なのはわかっていたが、毎日こうだとさすがにうんざりしてきた。感情をそのまま映したように、ソファにどかりと腰を下ろす。
「透吾だってそうでしょ」
「違うんだよなあ。わからないもんかなあ」
「あいにくね」
言葉では否定するものの、未理亜自身がよくわかっている。写真で見知った中の幼い自分と娘、ミリアは、記憶違いを願いたくなるほどよく似ていた。顔を見るのが次第に嫌になる。
「……ちょっと前から思ってたけどさ。君はちょっとミリアに冷たくない?」
普段は優しい透吾の口調に棘が立った。
「はあ?」
「確かに子育て大変だけどさ、まるで八つ当たりしてるみたいだ」
「違っ――!」
未理亜は勢いよく振り返った。
冷たくも八つ当たりもしているつもりはない。透吾の親ばか加減だってわかっていた。すべて自分が仕組んだことで、透吾にも娘にも非はない。わかっているのに、目に力が入った。
いつも。初めて文字を書いて見せた時も、ゲームで負かした時も、レディ・バグを造った時もそう。透吾は自分ごとのように喜んだ。
今はそれが、とても鬱陶しく感じる。
「杏理は一体なにがそんなに気に入らないのかな。確かに最近はずっと君よりミリアのことばっかりで……」
「そういうんじゃないよ」
「でも明らかに神経質になってる」
「仕方ないだろ、どんどん動くようになってきてんだから」
「本当にそれだけ? 似てるって言われるのそんなに嫌? 母親なんだから」
「母親だからってなんだ!」
突然口から飛び出した怒声に、未理亜自身が驚いた。呼吸が荒くなる。透吾は目を白黒させ、今にも後ずさりそうだ。
「……杏理?」
訝しげに覗き込もうとしてくる彼から咄嗟に顔を逸らす。
母親ならどうするのが正しいのだろう。杏奈はいつもにこにこしていた覚えがあるが、自分が乳児だった頃はどうだったのか。いくら記憶力がよくても、そんなときのことまで覚えていない。
しかし、彼らはこんな作られた出会いも結婚もしていないのだ。加えて『父親』としての透吾が、未理亜に『母親』を押し付けているようにも感じてしまう。
「……ごめん」
手のひらを額に押し当てた。普通に考えれば、おかしいのは未理亜自身だ。ここで我を通すほうが間違っている。
「少し一人にして。頭、冷やしてくる……」
俯いたまま足早にリビングを出た。告げた声は情けないほどに震えていた。
部屋のドアを背で閉ざしてもたれかかる。が、足の力も抜けて背は滑り落ち、床に崩折れてしまった。そして鼻の奥が痛んだかと思ったときには、両目から涙がこぼれ落ちていた。
立て直さねば。これだけの時間を費やし、ここまで身体を張ってうまいこと彼らを出会わせずに済んでいるのだ。今失っては全てが水の泡になる。
ならばすることはひとつしかない。DNA鑑定で確かめればいい。違うことさえ証明できれば、このような憂いなど抱えずにいられる。
未理亜は濡れた顔をカーディガンの袖で強引に拭って立ち上がり、ラップトップを開いた。リビングで、娘の泣く声が聴こえてきた。
注文した二日後には検査キットが届いた。
説明書を注意深く読み、提出試料の採取方法を念入りに確かめる。同封の綿棒が入った袋を目の前にかざした。口の中、頬の裏をこれでこすって送り返す。十日もしないうちに、その結果が手元にやってくる。
手軽なものだと未理亜は感心した。親子関係を疑う者が調べてしまうのも頷ける。精度も上がり、実に二十一京もの人間をこの遺伝子情報で見分けられるらしい。
母子鑑定だけでよかったが、もののついでだと、娘と未理亜のものに加えて透吾の毛髪も採取した。口腔内細胞より精度は劣るが、それでも九割近い確率で正否がわかる。
ポストに投函した時には、ほとんど祈るような気持ちでいた。
だが、戻ってきた結果は、首を傾げるものだった。
親の可能性のある者のことを示す
父子鑑定については、99.999パーセントの確率で子どもの生物学的父親であることが判定されたとある。ここまではよかった。問題は母子鑑定の方。
「同一?」
本来であれば、父子と同じような書式で母子関係の有無が記載されているはずだが、未理亜と娘の関係についてはひと言『同一』と印字されている。
説明を求めて鑑定結果を紙束の後ろに回し、次の書類に目を通す。すると、規定のシートとは異なる手紙が添えられていた。
「二点ありました口腔内細胞の採取試料ですが、どちらも同じ型のDNAであると判定いたしました」
読み上げるうちから眉が寄る。生物学的母親でなかったことに安堵したが、これはこれで不審だった。
「お子様の試料を余分にお入れになった可能性がございます。母子鑑定が必要でしたら、擬母様の試料が必要です……?」
そんな馬鹿な。
思わず鼻で笑ってもう一度結果を見た。しかし、書かれた内容が変わるわけはない。
採取したときのことを思い出す。間違いなく、娘のあとに自分の試料を取って袋に封をした。つい先日のことで、記憶違いも取り違いもない。
この手の研究では試料の扱いへの配慮は徹底する。データの修正ならまだしも、対象そのものの誤りについては、努力の全てが無駄になるからだ。
当然ながら未理亜も細心の注意を払った。袋と綿棒の採番を何度も確認して送り返した。なのになぜ、このような結果になるのだろう。
顎に手を当てる。人間のやることだし、間違いの可能性はゼロとは言いがたい。
結局別の研究所を探して注文し、キットを待った。
中身は大して変わりない。やり方に問題がないことを証明するため、動画を撮りながら行った。
それにもかかわらず、受け取った結果はまたしても『同一』だった。
「なんでだよ……」
わけがわからぬままダイニングで動画を見返した。今着ている部屋着と同じ、ベージュのワンピースを着た未理亜が、娘の口内に綿棒を突っ込み、続いて自分の試料を採取するさまがしっかりと記録されている。
DNA鑑定は絶対ではない。あくまで遺伝子の型を調べるだけで、他人と合致することは稀とはいえある。だがその偶然の一致が、時空を越えてまでやってきた人間と起こるだろうか。そこまで考えた時、未理亜はひとつの可能性に行き当たった。
卵子提供者。それが杏奈ならば、ありえてしまう。
しかしながら、未理亜が杏奈の腹にいたのは時期はもう少しあとだ。仮に時期が合っていたとしても、自然妊娠で卵子に辿りつける精子は一、二億にひとつのみ。着床率や出産に至る確率まで含めれば可能性はさらに下がる。そのどれもが合致し未理亜と同一の遺伝子になるなどありえない。
だがそもそも未理亜が、この娘と同様に、作為的に作られた子だったとしたら。
未理亜自身、研究協力という名目で採卵をしている。日向の生まれも人工授精の代理出産なのだ。自分の生まれた経緯はさておいても、卵子提供者を調べる価値は十分にあった。
カルテは保管義務がある。まだ残されているはずだと踏み、ラップトップを開いた。体外受精を受けた病院のデータベースに入り込もうと試みるが、気持ちが急いて思うように手が動かない。
多重で複雑なセキュリティをなんとかかいくぐり、ようやく辻杏理の名を見つけた。
卵子提供者欄。指でなぞった先にあったのは、この世界で最も忌むべき存在。芹澤杏奈の名前だった。
提供を受ける際に提示した条件は、未理亜と同じO型の日本人女性。それだけだ。そこに透吾の遺伝子という不確定要素が加わったら。
計算できない確率の数値に、未理亜は初めて直面した。どれだけの数字を重ねた末に起こる偶然なのか、考えただけでも嫌になった。
「なんだそれ……」
遺伝子レベルで彼らが惹かれ合ってるなど、非科学的にもほどがある。なのにこの結果はそれをも否定してくる。
椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りで数歩進んだ。向かった先は、ベビーベッドだった。
「お前、このまま成長したら『私』になるのか……?」
何も知らずすやすやと眠る娘を呆然と見下ろす。
杏奈が母で透吾が父ならば、父が称賛し母が恐れた娘になってしまう。遺伝子が示すとおりの自分ならば、またレディ・バグを作ってしまう。またあの混乱を、世界に呼び込むことに繋がってしまう。そう思ったら、柵を握っていた手が彼女へと伸びた。
身体に近づけるだけであたたかさが漂ってくる。それを感じられるほど、未理亜の指先は冷えていた。
服の上から胸に触れると、小さいながら力強い鼓動が伝った。首元を這い上がり、頬を撫でる。柔らかくてふっくらとしていて、生命力に満ち溢れている。
口と鼻をしばらく押さえれば息の根は止まる。少し力を入れれば、この首だって容易に締められるだろう。そして自分が消えれば、あとは残ったものがどうにかする。
明確に芽生えた殺意に、自然と視線が凍りついていった。
ひとつ深呼吸をする。
大丈夫。それほどかからない。透吾に対しては怖気づいたが、これは『未理亜』だ。未理亜が勝手に生み出した生命。良心を痛めるより目的を果たそう。元々自分を生まれさせないために、この世界に来たのだから。
まず娘の口を塞いだ。手のひらのわずかな面積にしっとりと唇が吸い付いてくる。柔らかな鼻息が手のひらに当たってぬくもりを持った。
女の子とわかった時の透吾の嬉しそうな表情を見た日は、こうして自分も喜ばれたのだろうと思えた。妊娠中に転びかけて咄嗟に腹を庇った時は、自身に備わる母性というものに驚きもした。
初めて腹を蹴られた日。切迫流産しかけた時。出産の際の透吾の慌てぶりに、痛みを通り越して呆れたこともある。生まれてからの日々は目まぐるしかったが、楽しいことも多かった。
数々の思い出を封じるように、ゆっくりと手のひらを寝かせて鼻も塞ぐ。一瞬の静寂のあと、娘は目を見開いた。
手と足が苦しげに空を掻き、未だしっかりした発声の出来ない喉が唸る。陸に揚げられた魚のように暴れる身体をもう一方の手で押さえつけると、彼女の顔はみるみるうちに真っ赤になった。黒目がちの大きな瞳に涙が迸った。
彼女の手が未理亜の手を払いのけようと掴みかかる。この小さな身体のどこに源があるのかというほどの力で手首に絡みつき、迫る死に抗う生存本能を示してくる。思った以上の闘志に、未理亜はさらなる力で返し、引きちぎるように顔を背けた。
額に玉汗が浮くのを感じる。食いしばった歯が、割れるかというほど軋んでいた。未理亜は少しずつ視線を戻し、苦しみ悶えるその表情を薄目で見る。顔はもう、赤というより紫だ。これを終えたらすぐにIDを変更し、もとの世界に戻るまでのあいだ身を隠そう。
永遠にも感じる数十秒が経過し、とうとう彼女は抵抗を諦め、生への執着を手放した。小さな全身の筋肉が弛緩して意識が落ちる。
指先を頸動脈に添えたが拍動は感じない。恐る恐る口と鼻から手をどけると、息は完全に絶えていた。
心肺停止状態。ここから先は、奇跡でも起きない限り生き返らない。安堵とも後悔とも言えるため息を深く吐き出した。
見開かれた目にそっと瞼をおろした途端、足が竦んでへたり込む。すると突然、渇いた笑いがこみ上げてきた。
「あ……は、はは……っ……」
こうしている場合じゃない。早く書類を片付けて逃げる準備をしなければ。だが震えが今さらのように襲ってきて、手足が言うことをきかなかった。
「殺したのは
戦慄しているかのように痙攣する両手を見下ろし、言い聞かせる。
大丈夫。そう思って固く手を握ったその時だった。また、あの浮遊感に全身が覆われた。
「なっ――、嘘だろ?」
なぜだ。なぜ今。たしかにこれで逃げられるのは助かる。でも。
「まだやり残したことが……っ」
書類、痕跡、端末、ここにあっては困るものだらけだ。透吾に見られるなんてことはあってはならない。
だが、そんな想いとは裏腹に囚われた。同時に、ぐにゃりと空間ごと全身が歪められた感覚に、違和感も覚えた。
今までと違う。そう思った矢先に降り立った場所は、透吾や娘と住まう家のリビングだった。
「……は?」
身体ごと捻って辺りを見回す。
ダイニングテーブルにラップトップと書類。それからベビーベッドには、先ほど自分の手で殺めたはずの娘が、淡い寝息を立てて眠っていた。
信じがたい想いでラップトップの画面を覗き込み、日時を確認する。二〇二四年二月十日の十五時四十二分。娘に手を掛ける直前の時間。
「どうして……」
わけがわからぬまま右手を見る。未理亜を示すIDは消去済みだ。なのにどうして、こんなわずかな時間を遡行したのだろう。この娘を殺めた瞬間を見計らったかのように。
前回同じ時を繰り返した際は、指定をしていたからなのではなかったか。
疑問符を頭に並べながら、再び彼女を見下ろした。
なんでもいい。ここにまた
今度は迷いなく首を絞めた。先ほどまでわずかに働いていた保身をかなぐり捨て、両腕に体重を掛ける。
抵抗は、先ほどよりも呆気なく途絶えた。喉から不快な喘鳴音が漏れるごとに顔が紫になっていった。
事切れるまで時間はかからなかった。それでも湧き出た息は太く、整えようと深い呼吸を繰り返す。泡を吹いた口元だけでも拭ってやろうと指を添えた瞬間、またもや『あれ』が未理亜を捉えた。
「なんなんだよ、ふざけるなさっきから!」
叫びに対する答えはない。圧倒的な力はそれが必然だとでも言いたげに、ただ吸い込み、ただ吐き出す。
三度目の娘のいる光景に、混乱はより強まった。舌を鳴らして大股でベビーベッドに歩み寄り、衝動的にまたその首に手を掛けた。
「殺しただろ! 二回も!」
娘になのか奴らに対してなのか、わからぬままに声を荒らげる。だがその時、強いめまい感に襲われて咄嗟に身構えた。
次の瞬間、浮遊感ではなく、強烈なまでの息苦しさが未理亜を襲った。
巨大な力が未理亜の首を絞めている。身を捩ることももがくこともままならない。
涙が滲んだ目に映ったのは、ひ弱で小さな手と檻のような柵。それから鬼のような形相で見下ろしてくる、未理亜自身の顔だった。
「っ――!」
出そうと思った声が喉元で留まり、鈍い音が漏れる。息は潰れ、瞼を開ける力すらも奪われていく。
なぜ。これではまるで入れ替わったようではないか。
薄れゆく視界の中で疑問を繰り返したが、未理亜の意識は、身体から引き剥がされるようになにかに強く吸い取られていく。
娘を産んだ瞬間のこと、縁日、透吾やエマとの出会い、元の世界のラボとそこにいる日向、エマとその家、両親とともにいる自分、0と1の数字の羅列に、レディ・バグのランディングが成功したあの日。フラッシュカードのごとく、あらゆるシーンが脳裏に浮かんでは消えた。
これが『死』なのだろうか。忍び寄るその気配を感じていたその時、ふと父の声が耳元で聞こえた。
『君の頭脳はやはり太陽系には収まらない』
自身に絡みつくすべての不自由から、解き放たれた気がした。
目を開いたときに飛び込んできた風景は、今まで見たこともないどこかだった。
その光に照らされ、灰色の荒涼とした大地が広がっている。時折起こるつむじ風が砂埃を舞い上げる向こう、地平線の低い位置には、太陽よりもひと回り大きな恒星が輝いていた。
手足などの身体の感覚は、ないようなあるような奇妙な状態に置かれていた。地上を歩こうとしたらその方向へと進んでいくことができたし、振り返って背後を見るということも可能だった。
わけがわからない。直前の、娘と入れ替わったような体験もそうだ。混乱する頭の所在すらも掴めずにいると、なにか強大なエネルギーが近づく気配がした。
それは最初、宙に浮かぶシャボン玉のような透明な物体だった。やがて縦に伸び、頭と腕と脚ができ、人のような形を形成する。段々と未理亜と同じくらいの背丈になると、手には指が、胴体にはワンピースらしきシルエットができた。後頭部で束ねた髪が背に流れ落ち、巻き起こる風にたおやかにたなびいた。
これが『バグ』と呼んできたものの姿なのだろうか。しかもそれはあろうことか、未理亜に向かって右手を差し出してきた。
害意はない。そう言われている気がして、未理亜も自身の手と思しきものを持ち上げた。触れた途端、ゲルに包まれたような心地が指を襲う。
「見ていたのか。私が
未理亜は自身が喋ったのか念じたのか、はっきりとはわからなかった。返事らしいものはない。
「いなかったこと《ゼロ》にしても無意味だって? 三回目に入れ替えたのは、どうしたところであれが私だって教えるためか?」
投げやりに尋ねたが、やはり返事はなかった。しかしそれはただ悠然と、肯定しているように見えた。
そこへ突然、大気を切り裂くようなまったく別の強い力を感じた。『バグ』が空を仰いだから、未理亜も頭上を見上げた。急に現れたそれは、直後爆発したように弾け飛ぶ。
散った破片のうち、比較的大きな断片のひとつが、すぐそばに落ちてきた。
『JA01-3952MA67-PUPA』
ピューパの外殻の基幹部分に振られた番号である。
驚きながら、未理亜は『バグ』を再び見るともなく見た。「これはなに?」と、問われた気がしたのだ。
「……これは、蛹の名を持つ宇宙船『ピューパ』。私たちのいる太陽系の第三惑星、地球から、ケンタウルス座α星系の恒星、プロキシマ・ケンタウリを公転するプロキシマbへ向けて発射した。惑星探査ドローン、『レディ・バグ』を送り込むために」
未理亜の答えは『バグ』に通じたらしく、未理亜を模したその首は縦に振られ、再び上空を仰ぐ。次々と分離していくピューパから飛び出した小さな機体が、吹き荒れるガスと大気に巻き上げられていた。
宙に放り出された機体は何度も回転してバランスを失い、この星の持つ重力と下降気流の影響を受け、地面に叩きつけられた。まさにあのランディングの瞬間だ。未理亜がシミュレーションでしか知らなかった光景が、現実だと言わんばかりに広がっていた。
石炭のような岩肌の上に落ちた機体が仰向けに転がる。直径二十センチほどの半球の側面には、『LADY BUG』と刻まれていた。
「あれが『レディ・バグ』。研究者たちのあいだで娘……、『レディ』と呼ばれて可愛がられた。たぶん、父さんがどこかで口を滑らせたんだろうな。それがいつしかお
ひっくり返ってしまった時も、元に戻れるようプログラムされている。彼女は主翼で地面を押して転がると、六本の足を底部から生やしてこの地に立った。カーボンナノファイバー製の頑丈な機体は、汚れただけで傷ひとつない。
そのあとに入るのは動作確認だ。主翼の下から、てんとう虫の薄翅を模して畳まれたソーラーパネルを展開する。光の方角を確かめ、足を動かして数歩進む。動作に問題がないと判断すると、飛行体勢に移る。
『バグ』が彼女の元へ近づこうとしたから、未理亜もともに進んだ。
「……飛べ」
このあとどうなるのかは、わかっていた。それでも彼女の背を押したいと願った。透けた未理亜の手の向こうで、彼女は気高く主翼をひろげた。
多くの無理を通し、父と夢見て現実のものとしようとしてきた太陽系の外の世界に、八年もの宇宙での旅路を経てようやく辿り着いたのだ。その先がどうなろうと、多くの希望を託されたそれを簡単に諦められるものではない。思想、宗教、肌や髪や瞳の色が違っても、宇宙に惹かれる者が抱く想いは共通している。
興味が尽きないからだ。果てしなく広がる空間にある数多の謎も、それらが生まれた理由や意義も。
もしかしたらそれは、この星に住まう者たちも同様なのだろうか。エマも言っていた。知的生命には好奇心がつきものだと。
「飛べ、レディ」
彼女に触れたと感じた瞬間、視界がたわむように歪んだ。彼女は未理亜に応えるように、左右の主翼のプロペラを回転させて機体を押し上げる。次第に高度が上がって前傾姿勢になり、気流や大気を感知しながらゆっくりと平行方向へ移動を始めた。
バランスを掴んだらしい半球形の小さな機体は、プロキシマbの空中を力強く浮遊する。この先二か月の時間をかけて、ここがどんな星かを地球に届けるために。
「笑えるくらい小さいだろ。でもこれが、私たち人間にできる精一杯だった。レディは、私の力作なんだ」
幼いころ、与えてもらった3Dプリンターと設計ソフトを毎日睨み、やっと頭に描いたかたちにした。それを何年もかけて人の理解を得て幾度となく繰り返すうち、こうしてほかの惑星を浮遊するドローンになった。
かたや未理亜がこの一年半で成し遂げたことは、どことも知れぬ地球のような場所で、惨めったらしく足掻いた挙げ句、
地球で起こる程度の事象は、そのくらい矮小なことだと伝えてきているかのようだった。
「お前たちにとっても、これがファーストコンタクトだったんだろ。こんな環境、なかなか適応できる生物はいないだろうからな」
この『バグ』がなぜ、あんなことをしたのか。
理由などない。ただそこに現れたものに好奇心で触れた。それだけだ。隕石の衝突を『超自然現象』とは呼ばないのと同様、人間が消えることすらも偶然であり必然となる。けれど。
「お願いだ。我々人間への害意がないなら、全員を元の居場所に返してくれないか。私はまだやることがあるから戻れないけど、それが済んだら私も」
未理亜は繋いだままの手を握った。未理亜を模したそれは腕を伸ばし、飛んでいるレディ・バグの機体に触れた。その触れる一瞬に、エネルギーの揺らぎが生じたのが腕から伝ってきた。
一人、また一人と戻っていくさまを、不思議と確信させた。乱数発生器が反応する理由はこれなのだろう。チェスのようだとエマが言ったが、それよりも遥かにたやすいように見えた。
安心したのもつかの間、視界がすっと移り変わった。地上で動きを止めたレディ・バグが、空高く舞い上がり、これは、と未理亜は目で追いかける。
「
プロジェクトのシナリオの最後は、彼女の自壊だ。放射線に曝され続けた機体は、どう設計しても最後、核反応を起こして爆発してしまう。プロキシマbを守るために、そうせざるを得なかった。
この大地に影響を及ぼさない安全圏まで飛んだら、自壊プログラムを淡々と遂行する。内部で生じた微小な衝撃が生んだ莫大なエネルギーで、彼女は粉々に砕けて弾け飛んだ。
空中で散ったレディ・バグの塵が、未理亜たちの上に降り注ぐ。
特殊相対性理論に基づいたただの反応だが、宇宙のすべては、この理論から始まっている。
宇宙ができる前に存在したという、量子的な有と無のゆらぎ。均衡していたそれが、ほんのわずかだけ『有』に偏った時、ビッグバンが起こって宇宙が誕生した。
0と1は運命を分かつ。どちらにも意味があり、そこに優位性などない。あとに残るのは、観測結果だけである。
とはいえ、そうやって割り切って生きていけたら苦労しないんだが。ひとりごちていると、『バグ』がふと手をぬるりと伸ばした。
透明な指先に、塵から選び取ったように正方形のなにかが載っていた。
なんの変哲もないパーツになぜか惹かれ、未理亜も触れる。それこそが回路を絶たれた乱数発生器だと直感した次の瞬間、再び意識が勢いよく引きずられるような感覚に陥った。
見ていた景色が一気に暗転する。強烈なめまい感を覚えたときには、未理亜は今一度、押し込まれるような不自由を取り戻していた。
「……え?」
転がり出た声に思わず喉を押さえてハッとした。
頸動脈が規則正しく鼓動を刻んでいる。手足の感覚も身体の動作も問題ない。目の前に広がる光景は元いた部屋のリビングで、ベビーベッドでは健やかな寝息を立てて、娘が眠っていた。
「…………生きてる」
呟いた声がひどくしゃがれていた。咳払いをしてラップトップの時計を見れば、二〇二四年二月十日の十五時四十二分をさしている。テーブルの上の書類もそのまま残っていた。
未理亜はそれを手に取り、衝き動かされたように破き始めた。
無言だった。無心だった。ひたすらに手を動かし、揺るぎない事実が記された紙の束をただの紙屑に変えていく。
印字されたものが判別できないくらい細かくなったところで、テーブルで山となった紙屑に両手を差し、すくい上げたそれを宙に放った。
天井から降り注ぐのをぼんやりと見上げる。
顔や身体に当たっては落ちていくそのひとひらを掴もうと、手を伸ばした。そうやるように先ほども、あの星に住まう者に触れた気がした。
今未理亜がここにいるのも、不思議なことではないのだろう。ただ、未理亜の身体も精神も、三次元空間四次元時空の地球という場所にしか存在できないだけだ。
「
床に落ちた紙屑を踏みしめ、ベッドから娘を抱き上げる。
「自分勝手でごめん」
殺していいはずがない。たとえ彼女が自分だとしても、自然の摂理という営みの歯車のひとつなのだろう。強く抱いていた憎しみじみた感情も、今やすっかり穏やかになっていた。
未理亜の役目は、もうこの世界にはない。レディ・バグは間もなく自壊する。彼女が喋れるようになるまで、待てそうにない。
「お別れだ」
浮遊するランダム・ナンバー 西条彩子 @saicosaijo
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