第10話 うまくいく予感

 目を開けると、見慣れた階段が目の前にあった。薄白い光のもとで全身を見下ろす。白いシャツにグレーのタイトスカート、新品の黒いスニーカー。家の中で靴を履いていたことが母に知れたら面倒だな、とひとりごちながら靴紐をぎゅっと結び直した。

 スカートのポケットをまさぐる。持ってきたものは、杏奈の学生証に透吾の名刺。左腕の端末と下着に挟んだ周辺機器。スマホ。その中に、未理亜がざっと書いた論文の概論データが数点入っていた。

 どうかこれが、最後となればよいのだが。

 すぐさま右手の甲のIDを消去し、端末のストップウォッチを起動させ階段を降りる。扉を開けてコンコースを行き交う人の中を通り、下りのエスカレーターに乗った。

 シンポジウムの案内サイネージ。受付。コンビニエンスストア。何もかも同じだった。受付をクリアして会場に乗り込むと、未理亜は後頭部に手をやり、ひとつに束ねた髪をほどいた。

 結んだ痕もつかない父親譲りの黒が、大股で歩むごとにさらさらと背で揺れる。視線の先は真っ直ぐに辻透吾を捉えていた。

 父親であった透吾はここにはいない。一人の人間で一人の男だ。その彼に出会うのは、娘としての自分ではない。

「辻透吾さん?」

 できるだけ柔らかな声で未理亜は尋ねた。

「はい」

 振り返った透吾はにこやかに返したが、頭の中で検索しているかのように、未理亜の顔をぼんやりと見ていた。

「ええと、あちらでお会いしてました? 美人は忘れないと思うんですが、人に会いすぎてどうも」

 これまで通り杏奈を名乗ろうと息を吸う。だが、この先過ごすにあたって同姓同名の彼女が一切出てこないとも限らない。

「芹澤杏理あんりと申します。独学で、航空宇宙学とドローンの研究をしています」

 ほんの一文字分だけ自身を投げ入れ、透吾の名刺を提示する。

「以前こちらを頂いただけなので、覚えてらっしゃらないのも無理はないかと」

「それは失礼しました。こういう場に出てきすぎるのもよくないものですね。誰と交流したかも忘れてしまう」

「無理もないです。私はどこかに所属しているわけではないので、そのときお渡しできるものを持っていなくて……」

「そうでしたか。ちなみにどんな研究を?」

「宇宙探査用ドローンです」

 未理亜がきっぱり言い切ると、透吾の表情が明るく華やいだ。

「ですが現状まだ問題だらけです。重量がなかなかクリアできなくて。そこでマイクロドローンの開発を進めている辻さんをおたずねした次第です」

 やや上目がちに透吾を覗き込んだあと、一歩前に出て未理亜は手を差し出した。

「お話、窺えますか?」

 頬を綻ばせ目に弧を描く。すると透吾は快い声で了承を告げ、未理亜の手を取った。

 上階のギャラリーに透吾を誘う。あの不安定なパネルの位置は避け、立ち止まったその場所も、問題がないかどうか入念に確かめた。

「芹澤さん、手を出して」

 透吾がマイクロドローンを未理亜の手に置いた。未理亜は手のひらを目の高さに掲げ、透吾に目配せする。

 彼がスマホを取り出した。未理亜が拝借したものと同じ、グレーのカバーがついている。彼が操作を終えると、虫の羽音に似た音を発してプロペラが回転した。

「落とさないようにしないとなあ。バレたら教授に怒られそうだ」

 聞き覚えのあるぼやきがもれるとともに、ドローンは未理亜の手から飛び上がった。未理亜は口の中で小さく「わぁっ」と感嘆の声を上げた。

「どうです? よく飛ぶでしょう」

「軽くて小さいのに本当にしっかりしてる。カーボンとアルミ?」

「はい。今は予算的にもその辺が限界ですね。カーボンナノチューブとかが安定して使えるようになればまた違うでしょうけど、さすがに高価で」

 透吾が苦笑する。この国の宇宙開発の低予算は、このころから問題らしい。素材の価格がいくらか解決するのは、もう十年ほどあとだ。

 レディ・バグのビデオシューティング計画が叶ったのは、各国協同であった側面も大きい。政治的な問題もありそうだと未理亜は推測する。技術は確かな国なのだ。ただ、理解が得られない。限られた予算での成功事例があると、それでできると思われてしまう。

「でも僕は、遠くない未来、ドローンは宇宙のどこかの惑星を飛ぶときがくるって思ってます。今はまだキャタピラみたいな車輪付きの探査車ローバーや大型のプロペラ機だけど、ドローンなら小さい。洞窟の奥深くだって飛んで行ける」

 操作しながら熱っぽく語る若々しい横顔が、どうしても父と重なる。

 このころ。言うなればもっと前から、彼はそれを夢と思わず、具体的な目標としていたに違いない。

「まあ、現実はこうやって、充電切れとかにも悩まされるんですけどね」

 バッテリー残量低下の表示が出たスマホの画面を参ったように見せながら、透吾は戻ってくるドローンに視線を送った。

 未理亜は咄嗟に手すりを掴み、手を伸ばす。すると彼は得意げに笑い、徐々に減速させて未理亜の手のひらに着地させた。

「すごい」

「操縦ならもうお手の物ですよ。今はセンサーやAI、位置情報の精度がよくなって自動化も進んだし、未来はどんどん広がってる」

 手中の小さな機体を見下ろして、未理亜はぐっと奥歯を噛んだ。そろそろ邪魔が入り始める頃だ。彼がそこに馳せる想いすら利用するのは心苦しいところだが、仕方ない。ドローンを返しながら、「ローバーといえば」と切り出した。

「覚えてますか? 二〇一八年の、探査機『インサイト』のランディング」

「もちろん覚えてますよ。だって僕は」

「私、あの時」

 透吾の言葉を遮って未理亜は続けた。

「ニューヨークのタイムズ・スクエアで見てました。モニタルームの生中継。あのモニタルームに、自分もいたいって思ったの」

 丸く見開いた透吾の眼差しが、未理亜にじっと注がれる。長く感じてしまった無言に、さすがに大げさだったかと不安になって「あの」と落とす。

 透吾がようやく口を開いた。

「僕もそこにいた。あの大きなスクリーン、齧りついて見てた」

 心底驚いたようで、彼はふる、と身体を打ち震わせた。

「そうなんですか? それはすごい偶ぜ――」

「奇跡みたいだ! そんな人に出会ったのは初めてですよ! うわぁ、嬉しいなあ、こんなことってあるんだなあ……」

 ロイに駄目出しをされた言葉が透吾から浴びせられ、未理亜は面食らった。だが彼の口ぶりには不思議と不自然さがない。わざわざ『ミリアは』と強調された意味が、ようやく腑に落ちた。

「芹澤さん、拠点はアメリカだったんですか?」

「え、ええ、まあ……」

「所属がない状態でどうやって研究を?」

「向こうでそのちょっとした手伝いをしていたんです。ビザの期限もあってこちらに戻ってきたんですが、今度は後見人が行方をくらましてしまって。論文みたいなものが数点あるにはあるんですが、どうしようかと途方に暮れているところなんです」

「へえ。どんな論文なのか読んでみたいな」

 あろうことか、出まかせに混ぜた真実に食いつかれた。

 いざとなったらそれを使って、食い扶持にしようと用意していた。この時代にはなく未来にはある、反物質の安定方法、量子通信規格、次世代型の携帯端末、宇宙を飛ぶドローンといったものを、生み出せるようにするための概論に近い。なのに。

「あ、大丈夫、悪いようにはしません。僕が書いた論文とか結構適当で、教授にこっぴどく駄目出しされてしまっててね。いろんな人のも読むようにしてるってだけ」

 透吾ならば、内容はさておきその価値は理解できるだろう。

 もしもこれが誰かの目に留まって、どこかの機関に行けるならそれもいい。現実的な話、未理亜には今夜の宿だってないのだ。

「スマホにあるだけなのですけど、それでよければ」

「充分」

 躊躇いはなくはなかったが、未理亜はスマホを操作して文書を開いた。

 量子通信規格のそれを表示させて透吾に渡す。EPR通信はまだ先の話のため、その一助となる規格のみに留めた概論だった。

 カバーは外していたとはいえ、それ自体は過去で手に入れた透吾の端末だ。同じものだとバレやないかひやひやしたが、透吾は気にも留めないばかりか、その目は読み進めていくうちに真剣味を帯びていく。透吾の眉間に皺が寄り、未理亜はうろたえそうになるのをこらえた。

 出過ぎた科学は時代を壊す。一応この時代には合わせたつもりだが、審判を待つような心地だった。

「芹澤さん」

 硬い声に全身がそばだった。なにを言われるかと内心びくつきつつ返事をすると、「これ、僕の友人に読ませたい」と透吾は言った。

「はい?」拍子抜けして思わず聞き返す。

「いや、興味本位で読ませてって言ってしまったけど、これは僕じゃ判断がつかないや。その友人、量子を専門にしてるから、読ませてみたいって思って」

「ええ? そんなこと……」

「絶対悪用しない。僕も彼女もそんな卑怯なことをする奴じゃない。約束するよ」

 友人とは、と考えるまでもなかった。未理亜は勝手に首を縦に振っていた。

 彼女と繋がりが持てるのなら、これほど心強いことはない。だが、頼れと言われはしたものの、それは関係性が構築された元いた世界での出来事だ。

 きっとこの頃から偏屈だったに違いない。それでも、彼女ともし同世代だったら、友人になってみたい。

 スマートフォンを耳に当てた透吾を、息を潜めて見守った。彼女へと繋がる糸が見えるようだ。

「やあ、エマ?」

 未理亜は反射的に顎を突き上げた。

「うん。ちょっと読んでもらいたい論文があって。僕より君の方が価値がわかると思う」

 漏れ聞こえてくる声がちゃかちゃかとしていて、とても騒々しい。透吾はそのあとも二言三言会話を交わす。「わかった。ありがとう。じゃあ、送るようにするよ」

 通話を終了させると、透吾は未理亜に向き直った。

「この論文、僕に送ってもらえる?」

「あっ、私のスマホ、まだ通信設定がなにも済んでなくて」

「じゃあついでにやろう。これを届けられるならわけもない」

 言いながらさっさと操作をしていく。いつの間にか敬語が消えていた。

「彼女、エマっていうんだけど、量子力学でぶっ飛んだ発表ばっかりするせいか、ここのところ教授連中と対立していてね。どうにかできる道を探しているんだ。もしこれを見せたら、彼女にとって突破口が見つかるかもしれない」

 突破口、とはいえ、そもそもは彼女が考えていた理論だ。しかしワンアイディアがないだけで思考も理屈も止まる。今のタイミングでそれがもたらされるなら、恐らく彼女は大きく飛躍させるだろう。あの時代に当たり前のように使われる通信技術として。

「変な話。量子力学そのものがぶっ飛んでるのに?」

「ほんとにね。不思議なものだよ。……っと、ごめん」

 透吾の手の中で震えたスマホに、エマの名前が表示されていた。通話を始めた透吾を横目に会場を見下ろし杏奈を探す。今のところ、教授からの呼び出しもパネルが外れる様子もないが、彼女の姿も見受けられなかった。

「ちょっと、英語でまくし立てないでくれないかな、君のスコッチ訛りキツすぎて全然わからな……え? 連れてこい?」

 突然調子が外れたように透吾が聞き返す。顔だけそちらに向けると、今にも唸り出しそうな表情の透吾と目が合った。

「今から? 待ってよ僕シンポジウムのパーティーの真っ最中で……」

 エマ相手にたじたじとなるのは今も昔も変わらないのだと、未理亜が咄嗟に吹き出した。

 その時だった。ギャラリーの階段を上がってくる女が目に止まり、薄い暗がりの中で目を凝らした。瞬時によぎった嫌な予感は奇しくも的中する。

 ここでは最も会いたくない若かりし母に、未理亜は少なからず焦った。現状とてもうまくいっているのだ。ここで邪魔が入られてはかなわない。

 階段はひとつ。ギャラリーの奥に、どこへ通じているかわからないが非常口を示す扉がある。未理亜は未だ問答を繰り返す透吾の腕を取った。

「来て」

「え?」

「いいから」

 引っ張るかたちで扉に向かって一気に駆け出す。透吾はたたらを踏みながらも未理亜に従った。スマホからちゃかちゃかとした若い彼女の声がしてた。

「急にどうしたの芹澤さん?」

「その人、困ってるんでしょう?」

「そうだけど、パーティーが」

「パーティーと彼女の未来、どっちが大事?」

 扉の前で立ち止まり、ドアノブを掴んで二択を迫る。すると透吾は無言で、ノブを握る未理亜の手を一回り大きな手で覆った。

「比べるまでもなかった。君はいいの?」

「大丈夫。案内して」

 二人で開けた扉の先は、さらにもうひとつ扉を経てあのコンコースへ繋がっていた。

 透吾がエマへ、今から向かう旨を伝えるのを聞きながら、左腕を一瞥する。そこには、一時間五十分の表示があった。

 電車を乗り継いで一時間。降り立った駅は、下町風情の趣を感じる土地だった。そこからさらに歩いて十五分。古びた木造二階建ての一軒家の前で透吾は足を止める。ぼうっとした明かりがカーテンと雨戸からもれる、郷愁漂う家。彼女はこのころから趣味嗜好が同じらしい。

 申し訳程度にある庭の縁側の軒下に、三毛猫がちょこんと行儀よく座っていた。黄色と白の皿が足元にあるところを見ると、半野良のようだ。

「ここ?」

「うん。ところで君、変人には免疫ある? 彼女、頭は切れるけど結構変わり者で」

 透吾が苦笑いを浮かべたが、決してけなすふうではない。

「大丈夫だから、会わせて」未理亜はくすっと笑う。

 既に知り合いだし、という言葉は飲み込んだ。透吾は笑みを返して開けっ放しの門をくぐった。

 古ぼけたドアの横の呼び鈴を鳴らすと間もなく、ばたばたとした足音がする。透吾がおもむろに石段から一歩下がったため、未理亜もならう。

 見越したかのようにドアが勢いよく開いた。後退するわけだ。

「透吾遅い!」

 後ろでくしゃくしゃとまとめた髪が、『今』とは違うブラウンブロンドに輝いていた。薄い桜色の地に赤い牡丹が咲いた若々しい浴衣に、縹色の帯を合わせている。背は未理亜より少し高く、透吾よりやや低い。

「勘弁してよ、これでもパーティー放り出してすぐ来たんだ。怒られたらエマのせいだからね」

 透吾がぼやくが、エマはぶちぶちと文句を続けていた。

 二十代の、現役のエマだ。肌にも声にもはりがあり、力がみなぎっているのがわかる。偏屈そうなところは変わりないものの、顔立ちもスタイルも綺麗だった。

「エマ、彼女があの概論の執筆者、芹澤杏理さん。で、こっちがさっきの電話の相手で、エマ・ブルックス」

「よろしく、エマ。あなたの論文、読んだことがある」

「ふうん。杏理、ねえ」

 エマは値踏みするように上から下まで未理亜を睨めつけ、鼻息を荒ぶらせて中へ引っ込む。

「芹澤さん、いいみたいだから入って」

「杏理でいい。……透吾」

 母なら『さん』付けだが、それはどうも性に合わない。しかし、父をそう呼ぶ気恥ずかしさが先に立って、意図せず頬が赤らんだ。

「そうだね、杏理」

 透吾の口からくすくすと笑みがもたらされ、心なしか直視もできなくなる。背けたままの顔の緊張が、なかなか戻らなかった。

「全部読んだよ」

 案内された居間で、開口一番エマが丸いちゃぶ台に置かれたスマホを顎でしゃくって、未理亜はほっと息をつく。

「それはよかった。どうだった?」

「いくらだ」

 なにを言われたのか理解が遅れ、「は?」と目をまたたかせる。

「は? じゃない。いくら出したらあれを私に売る!」

 ちゃぶ台を両手で思い切りよく叩いて、彼女は身を乗り出した。血走った目に鬼気迫るものを感じて未理亜が仰け反ると、透吾が横から口を挟む。

「エマ。初対面のお客さんなんだってわかってる?」

「初対面だろうが旧知の仲だろうが知ったことか! あんなもん見せられたら……。行き詰まってる理由付けの後押しになるかもしれないと思ったらそう言いたくもなるさ」

「だからって……」

「そのくらい私の今の理論に沿ってるんだ。たかが金でどうにかなるなら構わない」

 よほど切羽詰まっていたのだろう。呆気に取られて口を噤んでしまう。苦労したとは知っていたが、当時の彼女の置かれている状況は思った以上によくなかったようだ。

 彼女は元来、施しをよしとするような人間ではない。だからこそ誇り高く戦い続け、結果五十歳を前に第一線を退いた。

 今ならその理由がわかる気がした。これでは身体の方が先に悲鳴を上げてしまう。

「わたし、は」

 この理論は、未理亜自身が考えたわけではない。もとは全て彼女のものだ。

「あなたの論文を読んで、それを書き起こした。エマの着想がなかったら生まれなかった」

「あーんな誰が読んでも『ありえない』とか『夢の話だ』とかつまらん講評しか出てこないもんを? 信じられないね」

「でも、エマは信じてるから書いたん、でしょう?」

「そういうのいいから。いらないから。で、いくらだ」

 だからこそ、そんな言葉が悲しくなった。

「……金じゃないだろ」

 自然とこぼれた低い声に、エマがはたとして首をひねった。

「エマなら間違いなくたどり着いた。というか、論文にはそう導けるだけのことが書いてあった。エマはほんの少しなにかを見過ごしてただけだと思う。だから、そんなふうに言わないでほしい」

「そっちこそ知ったようなこと言わないでほしいね」

「知ってるよ」

「はあ?」

 これでもかというほど眉をひそめて、ずいとエマが顔を寄せる。しかし未理亜は怯まなかった。

「知ってる。阻まれる理由が理不尽ってのはつらい」

 自分の世代でも今もまだ潜む、数の暴力や暗黙の了解、性差。この国が遅れをとる理由は、そういう部分にも起因している。それが優秀な人間を潰すことを、何度経験してもなかなか変わらない。

「だから、金なんかいらない。それはエマのものだ。好きなようにしてほしい」

 未理亜はさっと手をひろげてスマホを示し、背筋をしゃんと伸ばした。隣で透吾がおろおろとして、エマと未理亜を交互に見ていた。

 これでいいはず。そう思って未理亜は黙りこくる。無言の時間がしばらく続いたが、沈黙を破ったのはエマだった。

「本気で言ってる?」

「もちろん」

「通信に革命を起こすようなことだよ。何光年離れても瞬時に情報が届くようになるんだよ。それを、こんなにあっさりと?」

「だから、それはエマが導いたものだって。点在していたヒントを結びつけたに過ぎないんだ。私は少しだけ、シンプルに削ぎ落としたっていうか」

 エマが一瞬歯を食いしばったと思ったのもつかの間、エマはちゃぶ台に額をこすり付けんばかりに頭を下げた。

「待っ……、やめてよエマ、そんなこと」

 未理亜は戸惑って両手を上げる。

「正直腹も立つけど頭のつかえがとれた気分だ。もう一度組み直せる気がしてきた」

「ならよかった。それじゃ」

「だからやっぱりタダで受け取るわけにはいかない」

 がばっと上げた顔にもう怒りはなく、そこには年相応の少し拗ねたような、悔しげな色が浮かんでいる。

 強情だ。一歩も引きそうにない。でもそれがまた嬉しくもあった。現実では、こういう顔はそうは見せてはくれない。

「じゃあ、どうしても、って言うなら……」

 少々無茶で図々しいとも思えたが、いざ言おうとするとためらい、指先で頬を掻く。

「なに。遠慮とかめんどくさい」

「いや、遠慮っていうか、ここに、置いてくれないかなー、って……」

「え? なにを?」

「だから、私を」

 透吾がぎょっとして未理亜を見る。対してエマは、目を皿のようにしたあとで、背を反らせて豪快に笑い出した。

 年は違えどエマはエマだ。ゆえに彼女は、過去の自分であっても頼れと言ったのだろう。

「なにを言い出すかと思えばお前さん。そこらの猫じゃああるまいし……」

 だがその猫も、この家に寄り付いている。面倒を見ているのも間違いなくエマだ。これで案外世話好きだから。

「ちょ、ちょっと杏理、考え直しなよ。エマだよ? いくら後見人がいなくなったからってなにも彼女じゃなくても」

「私は構わんよ。今からでもいい。あー、おっかし……」

 申し出は驚くほどあっさりと了承され、今度は未理亜が身を乗り出す番だった。

「本当にいい?」

「一千万くらいは出すつもりでいたからね。この家に置いとくくらいわけもないよ。ミケも住み着いてるし変わらない」

「猫扱いって、エマ」

「透吾は心配しすぎだ、鬱陶しい。取って食うわけじゃないだろう」

「紹介したの僕なんだからもう少しなんかないかな」

「あー、ハイハイ、アリガトー」

「都合よく片言になるなよ。日本フリークのギークなくせに」

 小気味よい応酬に、未理亜は笑みをもらす。この縁は渡りに舟だ。とりあえず野宿の心配はなくなった。

「私こそありがとう、透吾。エマと会えて本当に嬉しい」

 とても素直な想いでそう告げると、透吾は少し照れたように未理亜から視線を外した。

 それからすぐに勉強部屋に閉じこもったエマに代わり、未理亜は透吾の見送りに玄関先へ出た。ここを訪れた時はまだむっとした湿度がこもっていたが、夜が満ちると幾分涼やかだ。都会の割に音すら少なく、空には星がきらめいている。

「じゃあ、僕は帰るよ」

「うん。今さらだけど、パーティーごめん。教授とか怒ってない?」

「まあ途中何回かスマホは鳴ってたけど、ちょっと怒られれば済むから気にしないで」

 それが問題ではと思ったが、さらりと言われてしまい未理亜は黙る。

 ジェットコースターのような一日だった。未理亜でさえそうなのだから、彼にとってはもっとだろう。

「僕にとっても有意義な日だった。お礼を言うよ。ありがとう。君とエマは案外仲良くなれそうで安心した」

「それなら大丈夫。エマはいい奴だ」

 うっかり顔を出した地にハッと口を噤んだが、透吾はすかさず同意を示して笑った。

「うん。エマはいい奴だよね。ちょっと強情だけど愉快でさ」

「透吾はいつまでこっちにいるの?」

「学会と共同研究があるから、あとひと月くらいかな。そうしたら筑波に帰る」

 それならばこの先、杏奈と顔を合わせる機会もないはずだ。本当は四六時中見張っておきたいほどでもある。

 初日としては上出来だろうが、まだ警戒は怠れない。次なる手段も講じなければ。ロイが時折見せてきた根も葉もなさそうな記事には、『周りを巻き込め』というアドバイスがあったが。

「そんな残念そうにしないで。帰りにくくなっちゃう」

 いつの間にか俯いていた顔を上げると、透吾は宥めるように未理亜の肩に手を置いた。その仕草が父のそれを思わせ、一瞬頭が麻痺しかける。

「明日は休みだから、また来るよ」

「わかった」

「それにしても、寝る場所がないほど困ってたの?」

「うん、いろいろあって。だから本当に助かった」

 透吾に心配そうに覗き込まれ、未理亜は口角をそっと持ち上げる。「それに、エマの研究の手伝いができるのも嬉しいし」

「それも心配なんだよなぁ。そっちの話になると彼女、本当に横暴になるから」

「平気だって。そういう手合いなら慣れてる」

 肩の手を両手で包んで外し、念を押すように笑って見せた。透吾はそこでやっと納得したのか、肩を竦めた。

「おやすみ、杏理」

 ともすれば油断にとらわれ、口をついて「父さん」と呼びそうになる。

「……おやすみ、透吾」

 絞り出した声は掠れかけ、夜の中に溶けていってしまいそうだった。

 割り切ろうと思っても、面影を追いかける自分が嫌になる。若いというだけで顔も声も同じだから無理からぬことかもしれないが、心は着実にちくちくと刺された。

 背を視線で追いかける。すると、先ほど見かけた三毛猫が、手入れのされていない芝の上を歩いて未理亜のもとに寄ってきた。

「私も今日から居候仲間だ。よろしく」

 しゃがんで手を差し出すと、興味深そうにふんふんと指先の匂いを嗅ぎ、ぐり、と額を擦りつけてくる。エマと違って随分と人懐っこいらしい。

 顎の下を撫でようとした時、猫は上を向いてなにかを呼ぶようににゃあと鳴いた。その視線の先を辿ると、エマが二階からにやにやとした顔を覗かせていた。


 思いがけず始まったエマとの共同生活は、衝突もあったが楽しかった。二週間も経った頃にはすっかり口喧嘩も増え、それが日常になりつつあった。

 ちょうど近所で催されている秋祭りの囃し立てる音と声が聞こえる中、それをつんざくようにエマの怒号がダイニングに響いた。

「ちょっと杏理! ヘッタクソな料理するのはいいけどねえ、道具は元通り戻せって言ってんだろうが」

「元通りだろうが! なにが不満なんだよ」

「おたまはここ、まな板はその壁。私は住所不定は嫌いなんだよ、元通りってのはそういうことだ。どうせそのアホみたいな記憶力で覚えてんだろ?」

 額をぴんと指で弾かれとっさに呻く。

 部屋ぐっちゃぐちゃのくせになんでキッチンだけ。小声で文句を吐いたが、「あの散らかり方は秩序があるんだ」エマがダイニングテーブルの椅子に掛けながら言い返してきた。

「わかったよ、直す直す。悪かったなヘッタクソで」

「味はいいのに不器用なのが残念だよ、まったくもう」

「あ、なに。おいしい?」

 渋々片付けをやり直し始めた未理亜は、テーブルの蒸し魚の五目あんかけと和風ポテトサラダをつつくエマを、首だけで振り返る。

 彼女は口を動かしながら、ふんと鼻を鳴らした。拳をひそやかに握っていると、エマはまた険しい視線を未理亜によこし、早く戻せとせっついてくる。

 切り方はまだ慣れないのもあっていびつだが、味は問題ないようだ。分量さえ間違わなければどうということはない。ついでに皿洗いもしていると、「杏理」と呼ばれ、返事だけした。

「今日また透吾来るんだっけか」

「うん、夕方って」

「私は出かけるから、二人で近所の祭りでも行っといで」

「ああ、昼頃から賑やかにしているね」

 この家から数ブロック離れた場所にある、立派な鳥居を思い出す。昨日は道端で露店の準備も行われていた。

「っていうかアンタ、祭りなんて行ったことあんの」

「小さい頃にね。両親と行った」

「ふうん。ってことは育ちもこっちになるんだね」

「ああ。それが?」

 片付けをエマの言う元通りにして身体を返すと、彼女は鋭い眼差しで未理亜の目を凝視する。

「アンタの本籍ってどこなんだろうと思ってね。アメリカ帰りっていうけどパスポートもないし、むしろ身ひとつで、持ってたのはほとんど初期状態のスマホと、左腕に付けてた妙な端末」

 ふいに、頭の片隅にあった後ろめたさが主張を始めた。

 同居して二週間。エマが特に詮索してこなかったのをいいことに、未理亜は素性を明らかにしていない。

 学生証は杏奈のものだし、書類で示せるような身分が未理亜にはない。まして口先でなにか言ったところで、他国から来た彼女には通用するとも思えなかった。論破されるのが目に見えている。

 何も言い返せず黙っていると、エマが根負けしたように大きなため息を吐いた。

「やっぱりワケありかい」

「ごめん」

「どっかの教授の愛人とかだったらまだ可愛いと思ってたのに、そんな素振りも見せないし。ま、男たぶらかせそうな色気もないけど」

 ジョークにも笑わないでいると、再びの太い息がテーブルを這った。

「まったく。とんだもん拾っちまったね」

 どうせボロが出る、と嫌味を言ったのは日向だったが、エマの方からくるのは想定外だった。友人になれると思っていたのに、こうなってしまうとそれどころではない。

 身元について考えなくはなかった。偽装偽造はわけもないと短絡的でいた部分だ。この国に住む外国人の彼女だからこそ、気にした点なのかもしれない。

「本当にごめん、エマ。出て行けって言うなら出てく」

 潔く謝ると、それも気に入らないのか、ダイニングチェアにふんぞり返って背もたれに頬杖をついた。

「行くアテも後ろ盾も金もないのに?」

「うん。迷惑かけるつもりはないんだ」

「なんの目的があって透吾に近づいた?」

「よこしまな想いはない。私もドローンの研究をしていて、それで声を掛けただけだよ」

「胡散臭いっちゃ胡散臭いんだよなあ。とはいえ足を引っ張るわけでもなさそうだし」

「事実だよ。成果はほかの論文を見せた通りだ」

「まあ将来性はあるとはいえ、ドクターの男じゃまだまだ甲斐性もないからねえ。狙ってくる女もいなくはないけど、そういうのはもっとあけすけだ。私なんか隣にいた日には敵意むき出しにしてくるのが常ってもんだ」

 この二週間は楽しかったが、彼女にとってはジャッジの期間だったのかもしれない。

 このままでいられるなど虫が良すぎたと、そう簡単にはいかないのだと、気づかれないように嘆息する。

 しかし別れの前に、あっちのエマから伝えるよう言われた言葉を置いていかないといけない。それに出るなら、透吾に会う前がいいだろう。

 先に支度をしようと踵を返す。が、「ちょっと」と制止されて足が止まった。

「待ちなよ、早合点しすぎだ。私ゃ出てけなんて言ってない」

「でも」

「この国の一員にしてやる。だから今はおとなしくここにいな」

 思わぬ言葉に呆気にとられ、未理亜はぽかんと口を開けた。なぜ、が舌の先に乗っかったが、エマはむすっとしていた頬を緩めた。

「研究は嘘をつかない。あれをアンタが書いたなら、それだけ真摯に向き合ってた結果だ。その上で誰かに悪意を持って挑もうっていうなら、全力で阻止するがね」

 見たことのない迫力を宿した瞳が未理亜を睨んだ。

 ぞわりと怖気が背筋を走る。これは、透吾も杏奈も知らない一面なのではなかろうか、と未理亜は思った。第一、二十代の研究者が提示する額にしては、一千万はいささか思い切りがよすぎでもある。

 エマの『頼れ』という発言は、そういう意味もあったのかもしれない。身元の不確かさに不信を抱くと知っていて。

「……エマこそ何者なんだよ」

「こっちの裏側は知らんほうがいい。綺麗なことだけで食っていけるなら、それに越したことはないからね」

「正直助かる。ありがとう。恩に着るよ」

「礼には及ばんさ。これでも本当に危ない奴には関わらないようにしてるんだが、アンタは不思議に思ってた。ちっと背が高いくらいでどっからどう見ても日本人だし、いいとこクォーターだろ。後ろめたきゃもっとオドオドビクビクするもんなのに、それもない。戸籍抜けにしても学は一級品」

 不法入国や不法滞在をしてるわけではないから、その点はそうだろう。身元を保証するものが、少し未来にあるだけだ。

 そうとは言えず曖昧に笑うと、エマは「まあいい」と首を横に振った。

「別にアンタが何者かとか、正体は、なんて野暮なもん聞く気はないんだけど、ひとつ、これだけ」

「なに。答えられることなら」

「透吾のこと、悪くは思ってないんだね」

 先ほどまでの視線が一変、きらりと光った。嘘をついている一点をつかれて息を飲む。

「わ、悪い、っていうか、別にそういうんじゃ……」

 どう取り繕おうかと口を滑らせた途端、エマは椅子に仰け反って痛快そうに笑い出した。

 弁解が思いつかず途方に暮れる。恋愛指南は受けたが、コミュニケーションはどうも不慣れだ。同世代、まして同性の友人など、未理亜には一人としていなかった。

「いやぁ、愛人どころか生娘もいいところだねアンタ。ほんとおっかしい……」 

 なにがそんなにおかしいのかと首をひねる。

 間違ったことは言っていないはずだ。よこしまな想いは実際ないし、悪く思っているでもない。それがなぜか笑われる。

「普通は、素性もわからないような奴が近付くな、じゃないの」

 未理亜が訊くと、エマはやっと止まった笑いに、はあと息を吐いた。

「普通ならね。だが残念ながらアンタも私も普通じゃない。これでも人を見る目はあるつもりだよ。教授運だけは見放されてるがねえ」

「どう、見えてるんだ。エマからは、私と透吾が」

「ん? まあなんだ。悪くないってところかね」

 からかうような口調のまま、エマは言葉をぼんやりと濁す。

「あとで浴衣着せてやるよ。私とそこまで背が変わらないからちょうどいいはずだ」

 含み笑いを噛み殺す彼女はやたらと楽しそうだ。そういえば、元の世界で彼女の家に泊まった時も楽しげに浴衣を選んで差し出してきた。

「普段着も和服多いよね。どうして?」

「この国のこういう楚々とした文化が好きなんだよ。艶やかで自然そのままのものに意味を込めてて。私には謙虚さなんちゅうもんはないが、学びたいところだ。選び方はまだ不慣れだけどね」

 日本フリークのギーク、というには、あまりにたおやかに彼女はほほ笑む。

 この国から離れがたかった理由はほかにもいくつもあるのだろうが、このままエマが日本に留まっても苦労するのは、未理亜も彼女も望まない。

 なにより未来の彼女に、この頃の自分に伝えたい言葉を託された。

「じゃあ、私からもエマにひとつ」

「なんだい」

「日本を出た方がいい」

 エマの目がかっと見開かれる。

 これできっと科学の歴史が変わる。それがこの世界にどう影響を及ぼすのかは未知数だが、本人がそう望むなら、そうしてやるよりほかない。

「エマなら、そう思ってたんじゃない?」

 形勢逆転、というにはあまりにも卑怯な手を使った気がした。押し黙ったエマはテーブルに両肘をついて、顔を静かに伏せた。


 ふん、と意気込んで帯を結ばれ、未理亜はくっと息を詰まらせる。

 柔らかな綿の淡いクリーム色の地に赤い花が咲き、その隙間を縫うようにつばめが飛ぶ爽やかな浴衣。なにを思って未理亜にこれを見繕ったのか、てんでわからなかった。

 鏡に映る自分がどこか他人のように見える。結い上げられた髪も相まって、うなじが涼しく居心地が悪い。

「ちょっと、エマ」

 橙色の帯がなにか形づくられているあいだ、未理亜は鏡越しに背後を恐る恐る窺った。差し込む夕陽が顔に陰影をつけているせいもあって、着付け中のエマはどうも殺気立って見える。

「なんだい。言っとくが拒否権はないからね」

「拒否、っていうか、こんな締めるものなのか?」

「着慣れないやつは着崩れも起きやすいから、念入りにね」

「こんなんじゃ食べ物も入りそうにない」

「たかだか数時間くらいしとやかにおし。はい。これでいいよ」

 どん、と背を叩かれた拍子に未理亜は「うわっ」と声を上げ、一歩鏡の方へと踏み出した。

 袂に触れ、おはしょりをつつき、袖を振ってみる。

 動き回るには確実に向かないであろうに、夏の風物詩として未来でも根強く人気だ。その理由もなんとなくわかる気がした。エマが惹かれたのも納得がいく。楚々として謙虚そうで、いかにもこの国らしい。

「似合うじゃないか」

「そりゃどうも。これ、どうやって脱いだらいいんだ」

「なんだ、もう脱ぐ時のことを考えてるのかい、この子は」

「違う。帰ってきてどうしたらいいのかって意味で」

「いい機会だから覚えな。いいもんだよ」

 からかってくるエマに「答えになってない」とむっと口を尖らせて抗議したが、「はいはい」といなされた。

 そのまま帯のほどき方、脱いだあとの保管場所を説明される。従わないと怒られるのは目に見えているので、真剣に聞いた。

 そうしているうちに呼び鈴が鳴った。

「巾着を持ってくるから、アンタ出といてくれ」

 返事を待たずに背を向けられる。

 出かけると言っていたエマは藤色の夏用着物を着て、いつもより数段しゃんとして見えた。髪もいつもの無造作なまとめ髪ではなく、綺麗に結われていた。

 玄関へ向かい、置いてある下駄に足を入れる。桜模様の鼻緒がやわらかく肌に馴染む。

「透吾?」

 扉を開けると、彼は石段から一歩退いたところで、目をぱちくりさせながら立ち尽くしていた。詰めていいのか測りかねる微妙な距離感だ。

「杏理」

「うん。いらっしゃい。エマなら中だけど、多分すぐ来るよ。入る?」

「ああ、と、大丈夫。ここで。っていうか、それ」

 頭からつま先まで一往復して戻ってきた視線に捕まり、「あ、はは」と変な声が出た。

「さっきエマに着せられた。変じゃないかな」

「や、うん、びっくりした。似合うんだね。すごく、綺麗だ」

 それに引き換え、僕、地味だな。ドット模様の黒い半袖シャツにジーンズ姿の透吾が、言葉をちぎりながらたどたどしく告げる。未理亜も柄にもなく照れてしまった。

 幼い頃、家族で祭りに行ったときも、エマがくれた金魚柄の浴衣を着ていた覚えがある。履き慣れない下駄をしまいには放り出して、途中から透吾に抱きかかえられて帰った。

 気まずい沈黙の彼方で祭り囃子が鳴っている。なにか言おうかと考えあぐねていると、背後からの足音に透吾が視線を奥へやった。

「ああ、エマ」

「なんだい、二人してそんなところで突っ立って」

 呆れた様子で巾着と籐かごのバッグを手にしたエマが玄関から出てくる。彼女は巾着を未理亜に押し付けると、そのまま戸締まりを施して飄々と二人の横をすり抜けた。

「え、エマは行かない?」

 未理亜は尋ねる。

「用事があってねえ。んで、今夜は帰らないから透吾、この子よろしく」

「ええっ?」

 二人して声を張り上げるも、エマは手を振って神社とは逆方向へと門を折れる。

 取り残された気分で透吾を見上げると、彼も困り顔をしていた。が、すぐにくしゃりと顔を綻ばせた。

「まあ、しょうがないから行こうか」

「う、うん。でも、いいの?」

「いいもなにも。お祭りなんて久しぶりだ。筑波じゃ研究室にこもりっきりだから、そういうのがあるのも忘れてしまう」

 縁側で丸まっていたミケが、見送りを告げるようににゃあと鳴いた。

 透吾がそちらに手を振ったが、ミケは興味なさそうに顔を背け、彼は未理亜を振り返って苦笑する。そうして夕陽の色に染まった瞳に、捉えられた時だった。

 未理亜はようやくそこで、透吾が『父』とはかけ離れていることに気がついた。

 隣に並んで歩き始めると、そのうち全身が粟立つような気配がした。寒くもないのに震え上がりそうなほどぞっとしたものが背を駆けていく。理解しているようで理解していなかったことだった。

 エマが言っていたのは。透吾が見せるこの顔は。未理亜が透吾に抱いていた情愛との違いは。

 透吾を無条件で信用し慕っていたのは、元々親子という警戒心のなさがあるからだ。だが、傍から見たら当然そうではない。先日偶然出会った二人の男女というだけ。

 毎日のようにメッセージを送りあったのも、時に電話をしたのも、全ては杏奈のつけ入る隙を与えたくないがためだ。もし未理亜のあずかり知らない場所で杏奈と接触していても、離れていかないように。

「下駄、靴ずれしてない?」

 透吾なら気遣う。わかっている。

「うん、してない」

「痛くなったらすぐ言ってね。食べたいものはある?」

 だけどエマが含ませた物言いをしたのは、きっと違う意味だ。

「ええ、と。小さい頃にしか来たきりだから、なにか食べるイメージがなくて」

「じゃあ僕の好きなものを回ろう。はぐれないようにね」

 透吾が立ち止まり、はにかみながら手を差し出す。

 当然それは、娘に対するものではない。どういう想いで繰り出されるのかは知っているつもりだった。アンドロイドを相手に、他でもない未理亜自身が語ったことだ。

 脳が瞬間的に判断した、好きか嫌いの1と0。好きだと感じたものは意識を動かす。好意の質は関係ない。血縁でも他人でも、それはただの好意でしかない。そして好意は好意を呼ぶ。まるでその意識が浮遊して、相手に届くかのように。その先で、相手に触れたいと思う生き物なのだと。

 彼の手をぼうっと眺め、未理亜は手を上げかけてはたと止めた。どうするのが正解なのか惑うあいだに、透吾が先に口を開く。

「あっ、ごめん。人が結構多いから、……嫌じゃなければ」

 この手を取らなかったら、離れていってしまうかもしれない。

 目論見は、奇しくも成功しようとしているのだ。ここで手放すわけにはいかない。未理亜が生まれるまで、あと三年ある。


 ――だから、あなたを誘惑する。


「……嫌じゃない」

 心を殺そう。自分を生み出さないために。

 そう今一度固く誓うように透吾の手を取った。後戻りなど、可能なタイミングはもうとうに手放している。親子だなんて現実は、どうせ未理亜しか知らない。

 顎を引いて、上目遣い。声は柔らかく。

「うれしい」

 彼の『娘』でいることを放棄して、頭の中で『父』に別れを告げる。

 ロイに「可愛い」と言われた笑顔を未理亜は思い出した。ポイントは目尻と頬と口角。傾向と対策のおかげで、再現性には自信がある。


 祭りは開き直って楽しんだ。

 実際珍しさもあり、露店のものを買いすぎて透吾と分けるということもした。くじ引きの当たりの確率計算を始めた時には透吾に苦笑されてしまったが、それでもよかった。

 人混みを避け、狛犬の陰の石段に腰を下ろす。

 焼き鳥をつまみながらプラカップに入ったビールを煽る。立ち込める雑多な匂いの誘惑が、やっと落ち着いてくる。

 騒々しいため声が届かず、自然と距離が近づいていた。透吾側の左半身が強ばっていた。

「エマとの生活はどう?」

「楽しいよ。喧嘩も多いけど」

「エマは気が強いからなあ。喧嘩の原因てなに?」

「今日したのは『キッチンの片付けは元通りに』」

「そんなこと? しょうもないな」

 透吾がくつくつと肩を揺らす。その度に未理亜の肩とかすかに触れて、びくつきそうになった。

「例の論文はどう?」

「進んでるみたいだよ。もうちょっとで完成すると思う」

「そっか。それならよかった」

「うん。でも……」

 言い淀むと、透吾が優しげな笑顔で先を促す。

 友人なのだから、言っておいた方がいいだろうか。エマはまだ決めたわけではないだろうが、いつ決断したっておかしくない。

「余計なお世話かもしれないけど、エマに言ったんだ。日本を出た方がいいって」

 透吾の表情が固まった。それは彼も思わないことではなかったようで、「そうか」ともらしたあと、数度頷いて続ける。

「君もそう思ったんだね」

 未来からの伝言ではあるが、そばにいてその想いは強まった。自身の研究を認めさせるのはいいとしても、目的を違えてしまってはどうしようもない。彼女の大義は、ここで消耗して留まっていいものではないはずだ。

「僕も何度か言おうかと考えた。その度に頑張ってる姿を見て、釘を刺すのは野暮だって思い直してた。でも多分、彼女にとってはこの国は狭いよね」

「きっとね。けど、どこにいってもやっていけるだけの技量があるから、エマは大丈夫」

「そうだね。きっとそうだ。あの調子で、つまらないことを言ってくる奴らをなぎ倒していくよ」

 声を上げて笑ったあとで、二人のあいだに静寂が舞い降りる。

 その静けさがなんとも怖かった。バグに襲われるより、こちらの方が遥かに怖い。どうしても意識せざるをえなくなる。

 脆弱な覚悟を戒め、足の指をぎゅっと曲げた。それでも祭り囃子と浮かれた人の声は、せせら笑うように絶え間なく鼓膜を揺らす。

「……杏理」

 いい加減慣れた偽名をふいに呼ばれ、大げさに身体が跳ねた。

「ごめん、そんな怯えないでくれると……ありがたいんだけど」

 無茶を言うなと文句を言ってやりたくなった。元来そんなにおとなしい性格などしていないのだ。エマと一緒にいる時のほうがよほど素でいる。それまでの関係性とほとんど変わらないし、なにより刺激的だ。

「不慣れ、なんだ。その、とても」

 言い訳をするが、構わない、と彼はまた照れくさそうにはにかんだ。

 真っ直ぐに見つめてくる目は、日向のようなドライさも、ロイのようなガラス玉の透明感もない。また、父のような優しさもなかった。

 未理亜に迫ったロイが見せた、あの一瞬だけの、不思議な色を持ったまなざし。あれが一番近い。

 つまりそれは、文字通り『色』なのだろう。透吾の手が持ち上がり、未理亜の頭に添えられた。結い上げた髪を気遣うような、淡い手つきだった。

「もし僕が好きだ、って言ったら」

 喜びとも諦めともつかない感情が湧き上がる。これが、あのレクチャーの成果なのか。だとしたら十分役目を果たしてくれた。目論見ならば成功だ。

 なのになぜだか視界が曇り、涙が目頭を焼いた。

「あっ、杏理?」

「ごめ……っ、あの、うれ、しくて……」

 かすれた声で消え消えに裏腹な想いを伝えると、透吾は未理亜を目一杯抱き寄せた。

 ビール。どこともなく漂ってくる油やソース。煙。いろんな匂いがしていたはずが、透吾だけになる。雑踏。祭り囃子。笑い声に話し声、セールストーク。いろんな音がしていたはずが、二人の心音と息遣いだけになる。

 その瞬間感じてしまったのは、やはり父である彼の存在感だった。

「……透吾」

 掻き消すように名前を呼んだ。

「なに、杏理」

 せめてもっと違う名を名乗っていれば、こんな想いも少しは軽減されただろうか。小さな後悔は、最初の欲目を咎めるように鋭い爪を立てた。

 これだけでは済まない。まだ杏奈の存在は消えていない。このまま惹きつけておく必要がある。透吾の頬に手を這わせると、応えるように彼の唇が迫り、未理亜のそこにやわらかく押し付けられた。

 彼は、未理亜が未来の娘であることを知らない。だがもしも父と知らずに出会っていたら、きっと未理亜も好きになった。

 それが唯一の救いだった。


 翌朝帰宅したエマは、居間に入るや否や未理亜に渡した巾着を暴いた。

「なぁんだ。なにもしなかったのかい、透吾の意気地なし」

 和室を闊歩するミケにちょっかいを出していた未理亜は、彼女を見上げ、首を傾げる。

「なにも、ってなに」

「これだよこれ。ご丁寧に入れといてやったってのにさ」

 ぶつくさと言いながら取り出したのは、小さな四角の薄いビニル。そんなものあったか、と突きつけられたものをまじまじと見ると、まごうことなく避妊具だった。

「なっ、なんでそんなもの!」

 未理亜は反射的に仰け反った。

「浴衣、祭り、家人がいないときたらやることはひとつだろうよ! はぁー、見損なった。ついてんのかアイツは」

 額に手を当てて大げさに首を振り、エマは着物の袖を揺らす。が、すぐにその手で口元を覆った。

「まさかアンタ、な――」

「エマ!」

 それ以上言わせまいと強く遮るも、「帰りは送ってもらったんだろ?」と彼女はさらに迫る。

「そうだよ。玄関先まで」

「襲わ……じゃない、誘われなかったのかい?」

「そんなすぐにそこまでいってたまるか!」

 そう声を荒げてはっとする。口が滑ったと思った時には遅かった。ミケは驚いたのか庭へ逃げ出したが、代わりにエマの目が、獲物を見つけた猫のように爛々と輝く。

「そこまで、ねえ。いやいや、めでたいじゃないか。今夜は祝杯だな。いっそのこと赤飯でも炊こうか」

「やめてくれよ……」

 こみ上げてくる恥ずかしさに耐えかね、ちゃぶ台に顔を突っ伏した。大事な友人と素性のわからない女との交際を快く祝う彼女の懐の深さは、一体どこからくるのだろう。

「杏理。アンタ、時々私みたいな口調になってるよ。気をつけなね。目をつけられると面倒だ」

 それはそうだ。元はといえば、未理亜の口調はエマの模倣から始まった。

 工学の猛者たちと渡り合うために強くいようと思ったら、自然と彼女が浮かんだ。それから染み付いた口調だ。柔らかくなるよう練習してみても、長年の癖は主張が強い。

 向かいにエマが座る気配がして、未理亜はぬっと顔を盗み見る。 

「エマは? 昨夜どこに行ってたの」

「んまぁ、大した用じゃないよ。ちょいと教授どもに啖呵きりに行っただけで」

 唖然としながら「どういうこと」と尋ねたが、エマは片目をつぶる。ふっと息を抜いたように笑う彼女は、えもいわれぬほど清々しい表情をしている。

「なんかね、アンタに言われて吹っ切れちまった。この国を出るよ。カリフォルニアに以前師事していた人がいるから、そこを頼ろうと思う」

 カリフォルニア。未理亜は口の中で小さく繰り返した。元の世界のエマが、EPR通信の発表を行った地だ。

 これで、彼女の望む別の未来に導けただろうか。安堵の息をつくと、「っつうわけで」とエマは書類をいくつか並べた。未理亜は見るなり、あっと声を上げた。それらを夢中でぺらぺら捲っていく。

 戸籍謄本に住民票。本籍の住所は東京で、どこの誰だか知らないが、芹澤家長女ということになっていた。

「ま、論文の借りってところだね」

 得意げな声に顔を上げ、どうやって、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。今は訊かない約束だ。いずれ元の世界に戻れたら、本人に訊いてやればいい。

「これで免許もパスポートも取れるし結婚もできる」

「けっ……」

 絶句しているとエマににやにやと見つめられ、未理亜はすかさずちゃぶ台の下の足を伸ばして蹴りを入れた。するとすぐさま反撃が返ってきて、何度かその場で蹴りあう。

 それをしばらく続けたあと、二人は不意にやめ、笑い出した。この時本気で笑いながら、未理亜の頭の片隅ではまったく別のことを考えていた。

 急にもたらされた結婚という言葉。それに驚いたとエマは思っただろうが、本当のところは違う。実感が湧いてしまっただけだ。

 透吾を杏奈から遠ざける手段。この国では、入籍という制度の重みが思いのほか強い。


 誘導路を緩慢に進んでいた飛行機が滑走路へ入り、重低音と高周波を同時に放つ。コンクリートで固めた台から生える観光望遠鏡を覗き込むと、点火したエンジンから陽炎が沸き立つのが見えた。

 ボーイング機は一気に加速して、未理亜の視界を真っ直ぐに横切っていったあと、徐々に傾斜をつけて地上を離れる。高度は瞬く間に上がり、筋雲の浮く青空の中、やがてかもめのように小さくなった。

 飛行機どころか宇宙船が発射する瞬間も見てきているというのに、この時ばかりはまったく別の想いが湧いていた。友人が、自らの道をさらに追い求めて去るのだ。嬉しくも寂しくもある。

「決めてからたった二週間なんて早いなあ」

 展望デッキの柵から手を離し、透吾が未理亜を振り返る。未理亜は、カリフォルニアに向けて飛び立った飛行機を見送るのをやめ、「本当に」と望遠鏡の台から飛び降りた。「でも、エマならそうするに決まってる」

「出会ってほんのひと月しか経ってないのに、僕よりずっと彼女をわかってるみたいだ」

 この時彼らは、出会って二年と聞いている。対する未理亜は生まれた時からだ。年季が違う。

 当然、という自信を口端に浮かべたあと、未理亜は風になびく髪を左肩でかき集めながら踵を返した。

「家はどうするって?」

「外も中身も好きにしていいって。服なんか、この通りすっかり使わせて貰ってるよ」

「うん、よく似合ってる」

 横に並んだ透吾と施設内へ通じる自動ドアを前にすると、全身がガラスに映り込む。カーキのミリタリー風ジャケットに黒のカーゴパンツというおおよそ男受けしなさそうな格好でも、恋人はこともなげに未理亜を褒めた。

 エスカレーターで階下に降り、駐車場を目指す。

「それにしても、キャリー三つも持っていくとは思わなかったよ。荷造り大変だったんじゃない?」

「酷かったよ。桐箪笥開いてずーっと迷ってんだ。適当でいいでしょっつっても、この柄はどうとか格がなんたらとかずっと言ってた。さんっざん迷った挙げ句、キャリー買い足してさ」

 しかし手伝えばラップトップを買ってやると言われ、首を縦に振るしかなかった。エマに触発されて、やはり自分も研究から離れたくないと思っていたのはたしかだ。大方見透かされてもいたのだと推測する。

「それでドライバー兼荷物持ちで僕が呼ばれたのか」

 透吾が苦笑し喉を震わせた。

 駐車場に停め置いていたレンタカーに乗り込んで間もなく、透吾がエンジンをかける。サイドブレーキも解除しないまま、彼はぼうっとフロントガラスを見つめている。どうかしたかその横顔に尋ねようとしたとき、「今日からあの家に一人なんだね」と透吾が言った。未理亜は頷く。

「ちょっと寂しくなるけど、ミケもいるし。透吾も来週末には筑波に帰るんでしょう?」

「うん。荷造りも粗方終わってる」

「さすがだね。誰かさんと大違い」

「だからさ、杏理」

 こちらを見る透吾の切羽詰まった目に、軽く笑っていたはずの顔が固まる。熱っぽく真剣なまなざしは縁日のときのそれを思い出させ、未理亜は「なに?」と身構えた。

「一緒に来ない?」

 意表をつかれた。

「いっしょ、に?」

 付き合う、という関係が始まって二週間。未だキスに留まる間柄だっただけに、それはいささか未理亜の予想の範疇を超えた申し出だった。

「あっ、いや、その……変な意味じゃなくてね。もちろん微妙に遠くなるのが寂しいってのもあるんだけど、君にとって筑波の環境は決して悪くないと思う」

 この時代の技術や情勢はひと通り調べたが、恋愛離れや少子化未婚化晩婚化など、訴えられて久しいはずだ。その上透吾は、カテゴライズするとしたら、明らかに理系草食男子という部類である。それだけに、驚きを隠せない。

「でも私は学籍もないし、連れて行かれたところで何もできないよ」

「なにかしら刺激にはなるんじゃないかと思ってさ。エマとも散々いろんな議論を交わしただろ? そういうことならいくらでもできる」

「あれはエマが吹っ掛けてくるから付き合っただけで」

「それから宇宙探査用ドローン」

 透吾の発した脈絡ない単語に、え、と訝しんだ声がもれた。

「二年前に打ち上げて火星で自律飛行させてたマーズヘリコプターとは違う、もっと小型で性能のいいものを打ち上げようとしてる。今度は宇宙探査用ドローンと呼べるものになるはずだ」

 未理亜の子どものころには、既にいくつか探査は成功していた。この時代に実証実験が進んでいるのは当然と言える。

 レディ・バグに必要な技術の大半は他国で生まれたが、本体はこの国主導だ。もしも芽を摘んでおくことが可能なら、それに越したことはない。なにより彼のそばにいられるのは、杏奈の存在を警戒する上でも大きい。

「ね、目が一瞬で輝いた」

「それは……」

 ただ目を見開いただけだったのに、いいように勘違いされてしまい、未理亜はそれ以上の言葉を飲み込んだ。

 人がいいなとつくづく思う。

「返事はすぐじゃなくていいよ。君の準備もしないといけないだろうし」

「いや……」

「嫌?」

 だが、一緒に住むとなれば、これまでの清い関係だけでは済まなくなるだろう。いずれそうなる。たかが身体、どうということはない。迫りくる迷いを、またひとつ押し殺した。

「邪魔に、ならないなら」

 不自然にならないようにこりとほほ笑む。すると透吾もぱっと顔を輝かせた。


 二週間後、車に揺られて訪れた筑波の街の第一印象は、のどかそのものだった。

「ここ、本当に筑波?」

「うん。田舎で驚いた?」

 申し訳なさを覚えつつ頷く。たどり着いた住宅地も一般的なそれに過ぎず、区画整理がされている印象はない。

 街を走る車は総じて誰かが運転し、AIが管理している気配も皆無。未理亜の知るそことはまったくと言っていいほど様相が異なった。

「だよね。でももうすぐ再開発が始まるからがらりと変わるよ。中央はすでに手が入り始めてる」

 透吾の指差す方向には、航空宇宙センターの建物の上部が見える。スマートシティ化された街並みと馴染みのあるガラス張りのドームになるのは、まだ先のようだ。

 二人は未理亜の荷物が詰まったボストンバッグをそれぞれ抱え、マンションの棟内へ入っていった。

 案内された一室は、開放感のあるリビングダイニングからベッドルームと空き部屋が伸びており、最低限の家具が配置されている。だがベッドルームから覗けたデスクの上は雑然としていて、資料や雑誌が積まれていた。

「こっちの部屋使って。勉強部屋にしてたから、本棚とかはそのまま残ってしまってるんだけど」

「平気。ありがとう、透吾」

 そこの中も六畳ほどのスペースがあり、フローリングに布団が折って置いてある。未理亜は適当に荷物をおろし、ベランダの方へと身体を翻した。

 四階の部屋から真新しい眺めは望めなかったが、日当たりはとてもいい。背後に立った透吾が窓を開けると、秋の気配を深めゆく風が室内へ舞い込んだ。

「透吾。エマに連絡していい? 着いたら教えろって言われてたんだ」

「どうぞ。お茶持ってくるよ」

 透吾がキッチンへ向かうのを見送り、未理亜は早速ラップトップをリビングのコーヒーテーブルに広げる。エマはオンライン状態だ。

「おや杏理。着いたのかい」

 機嫌のよさそうなエマの顔が映る。傍らには半分ほど満たされたビアグラスと、開いたスナックの袋も見えた。

「ついさっきね。エマは晩酌中?」

「そうだよ、ひと段落ついたところでね。ミケは結局見つかったかい?」

 未理亜は黙って首を横に振る。居候仲間だった三毛猫は、三日前に突然姿を消した。

「結構探し回ったんだけど駄目だった。連れてこれたらよかったんだけど」

「元々野良の地域猫だ。気にしなくていいさ。意外と頭のいいやつだったからねえ。大方なにかを察したんだろう」

「だといいな」

「それにしても同棲まで早くて驚いたよ。生娘と思ってたのに」

「ちょっ……、余計なお世話だ」

「そうだよエマ、そんな不純な気持ちで誘ったんじゃないって」

 透吾がコーヒーを注いだマグカップを置きながら割り込み、未理亜の隣に掛ける。すると間髪入れずスピーカーからエマの太い息が漏れた。

「これだから真面目は。ちったぁ不純でいいと思うけどね」

「杏理の言う通り余計なお世話。それよりそっちはどうなの? 順調?」

「ああ、やっぱりこっちの方が認められるのは早い。このままいけば、正式に採用されるまでそう時間はかからないだろうね」

 モニタの中の顔が綻び、声も心なしか弾んでいる。未理亜がつられるように笑うと、エマはそのまま続けた。

「短絡的だが『EPR通信』と名付けた。新たな通信規格になるとは思うが、一般化はせいぜい十年二十年は先だろうね。宇宙事業に提供されれば、これまで戦々恐々としていたラグの空白時間がなくなる」

 送信側と受信側が離れれば離れるほど、通信で発生するラグは長い。その間科学者たちは何も出来ないもどかしさを味わってきたが、これが払拭されたため、元いた世界での宇宙開発は大きく飛躍した。電波ではないため妨害も受けない。ただ0か1かを伝えるだけだとしても、構成次第でとてつもない情報量を持つのだ。

「楽しみにしてるよ、エマ。それが出来たら、ブレークスルー・スターショット計画が現実味を増す」

 透吾が嬉々として言った。

「プロキシマbのそばを宇宙船で通過して撮影するってアレかい? これだけじゃ無理だ。もっと高速が出せる宇宙船の開発が先だろ」

「初速向上や加速装置はまだまだ改良の余地があるからね。そっちが準備してるあいだに僕らも頑張るよ。ねえ、杏理」

「いや、私は――」

 着信を知らせる呼び出し音が透吾の方から鳴り響く。

「ごめん、たぶん先生だ。ちょっと出てくる」

 そう言い残して透吾が部屋に引っ込んだあと、「ところで」とエマが切り出す。「ある画像を手に入れたんだ」

「なに?」

「遠くない未来に生まれるであろう携帯端末の構想の設計図、なんて位置づけの半端モノなんだけどね……」

 どこか含みのある口ぶりに、未理亜は再度「なに」と重ねた。エマがスマホをカメラに突きつける。

 身を乗り出して覗き込んだ瞬間、さっと血の気が引いた。そこに映っていたのは、あの時代当たり前のように皆が手にしているリストレット型の端末だった。

「見覚えがあるなって思ってね」

 当然実際の形状とは異なる。とはいえ、基盤としてはほとんど近しいものとなっていた。エマがそう感じるのは当然と言える。

「……よく似てる」

 素知らぬふうに告げるとエマは意味深に眉を上下させ、「似てる、ねえ」とスマホを引っ込めた。

「ま、勘繰る気はないから安心おし。アンタがそいつの機密情報を持って日本に逃げたって、勝手に想像しておくよ」

「そりゃ悪くないシナリオだね」

 彼女が未理亜にわざわざ言うのは、探るためではなく忠告だろう。意図を読み取って礼を告げると、エマは片目をつむって「おやすみ」と広げた手を振った。

 EPR通信がこの世界で確立したら、通信網も追随するように発展する。未理亜が持つそれも使用可能になるかもしれない。そんな期待は少なからずある。それゆえに、身につけることはしなくなっても、常にバッテリー状態だけは気にしていた。

 あっちではどのくらいの時が経ったのか。あれから何度、あの現象は起きたか。行方不明者はどうなったか。レディ・バグはまだあの星を漂っているのか。得たい情報はいくらでもある。

 通話が切れたのと、透吾が戻ってきたのはほとんど同時だった。

「あれ、もう切れちゃった?」

「おやすみだって」

「マイペースだなぁ。順調そうでよかったけどさ」

「本当に。透吾は? 先生からだったんでしょ」

「向こう半年のスケジュール連絡。研究会やイベントがいろいろあるから、いいように手伝いに使われそうだよ」

 言いながら透吾が差し出したスマホには、カレンダーに沿って予定が細かく刻まれている。未理亜はそれらをくまなく眺めて記憶していったが、その内のひとつが目に留まった。

 宇宙日本食試食会。思わず声に出す。

「ああそれ、筑波でやるんだけどね。理研の宇宙食研究者が来ていろいろ食べさせてくれるんだ。宇宙日本食ってすごい進化してるし人気もあって。そこのセンターで販売もするから、選定も兼ねたりしてるんだよ。うなぎとかおいしいらしい」

 開催日程は二月だったが、とてつもなく嫌な予感がした。自分との関係がどうあれ、透吾と杏奈が顔を合わせる可能性は、できれば作りたくない。

「それ、私も行けたりするの?」

「興味ある? 普通のイベントだったら君も呼びたいんだけど、それはクローズドなんだよなあ」

 すまなそうに言う透吾の傍らで、勢いよく頭が思考を始める。仕事に行く彼を引き止められるすべを考えるために。

 ただのわがままでは難しい。行かないでほしいと言えるだけの、説得力を持った理由が必要だ。

「……そう」

 隣に座る透吾の膝に、そっと手をのせた。自身を駆り立てるものも、手段を選ばない発想も、最近ますます狂気を帯びてきた。

「じゃあ、埋め合わせしてもらわないと」

 媚びるような声音で囁いて首に手を回す。透吾の喉から空気を嚥下する音がする。未理亜は無邪気そうに笑いながら、彼の唇に口づけた。

 殺精剤のゼリー。避妊具。ピル。いずれも用意はあるが、ピルは早々に不要になりそうだ。

 その夜、未理亜はあてがわれた部屋ではなく、透吾と同じベッドの上にいた。

 闇に灯る薄明かりの中で、壁に映る二人は、まるで獣のようである。マットレスが軋むに合わせ、心も軋んでいく感覚を未理亜は覚えていた。破瓜の痛みよりもこちらの方がずっと痛んだ。

 不慣れを言い訳に恥じらいを演じて声を閉じこめる。だが喘いでしまう息だけは、どうにもならなかった。

 この皮膚のすぐ下を流れる血が彼から継がれたものだなどと、一体誰が信じようか。

 身体の奥に残った異物感は、眠りに落ちる時まで消えなかった。代わりに透吾が、いつも以上に未理亜に優しく触れた。

 翌日、透吾を送り出したあと。未理亜は早速ラップトップに向かい、他者からの卵子提供による、非配偶者間体外受精の診察申し込みを試みた。

 本来は、不妊治療の末に選択される手段だ。夫婦どちらか、あるいは両方が理由で、自然妊娠が難しい時に行われる。

「意外に厳しいものなのか……」

 条件や同意書の類の多さに、未理亜は思わずぼやくように呟いた。

 元いた時代ではもう少し寛容だ。代理出産や人工授精、体外受精がメジャーとなってきた背景には、人類の他惑星移住という大いなる目的が背景にあるためだ。

 だが、この時代はまだその粋に達していない。抵抗感だってあることだろう。仕方なく正規手続きを踏もうと、未理亜は必要書類と経歴を作り上げた。

「狂ってるな……」

 血液型さえ整合していれば差し障りない。万が一DNA鑑定を申し入れられても切り抜けられる。種さえ透吾本人のものならば。

「……狂ってる」

 だがそれで未来が変えられるならなんでもよかった。自身の身体の機能を使うくらいわけもない。痛みを背負うのは、未理亜一人で充分だ。

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