第9話 己を消し去るパラドクス

 全身を包んだ薄膜が、押し出すようにして未理亜の背を突き飛ばした。

 その感触にもすっかり慣れたもので、踏みとどまって後ろを振り返る。そこにはもうあの歪みすらもなく、二〇四七年にいたラボの壁が広がっている。

 戻れたことに安堵して首を回すと、スクリーンの前に日向が立っていた。いつも涼しげな目を大きく見開き、突然現れた未理亜を凝視している。

「……よ、ヒュー」

 気まずい空気を絶つべく軽い調子で手を上げると、彼はつかつかと歩み寄り、未理亜の頬を両手で包んだ。顔の角度を変え、目を覗き込み、くまの浮いた下瞼を押し下げる。

「ちょ、おい」

「未理亜? 本当に未理亜ですか?」

「私だよ。なんだお前――」

 文句をつけ足そうと思った瞬間、力いっぱい抱きしめられた。

 意外だった。日向は他人にベタベタする方では決してない。呆気にとられていると、彼は「すみません」と断りを入れて未理亜の肩を突き放した。

「安心したら勝手に」

「あ、ああ……」

「心配したんですよ。未理亜なら大丈夫だと思いたくても、時間が経つにつれ不安が募って仕方なかった」

 うなだれた表情には、薄氷が張り付いたような硬さと冷たさがあった。未理亜は彼の頬に手を添え、しぼんだ声で「ごめん」と告げた。

「二人は?」

 日向が無言で首を横に振った。そう都合いいことが起こるとは思っていなかったが、落胆は隠せなかった。

 彼は未理亜に背を向けてスクリーンに触れ、ログとニュースを映し出した。

「今、十月七日の十七時三十分。未理亜はほぼ丸二日消えていました。あれから五回発生して、戻ってきた者と消えた者の数は変動してます。行方不明者は現在約六百万人。IDを変えた者で、そこから消えたという報告は今のところない。例の『バグ』がIDで個人を判別すると見てよさそうです。アメリカは本腰を入れて地球外生命体の可能性を考えてる。未理亜の置き土産が役立ってます」

「公表は?」

「まだ慎重です。裏では動いていて調査継続中。どうするかは、僕らの関与するところではないかと」

 そうかと短く相槌を打つと、「そっちは」と日向が振り返る。

「過去には無事に?」

「ああ。でもそれを話す前にひとつ、頼みがあるんだ」

「なんです?」

 未理亜は両手で顔を覆うと、その場で数歩よろめいた。「未理亜!」日向がすぐさまと駆け寄り抱き支える。未理亜は近づいた彼の耳元で、「家に帰りたい。心身衰弱を装うから、ひと芝居付き合ってくれないか?」と平然と囁く。

 日向は数度瞬いたが、すぐに切り返した。

「先にIDだけは書き換えさせて貰います。また消えられたら困りますから」


 自宅前で車を降り、未理亜は日向を招き入れた。実際の時間は大して経っていないはずなのに、随分久しぶりな気がした。

「なんでわざわざ自宅なんですか」

「しばらく時間が必要でね。それに、監視の目からも逃れたかった。過去の話なんかわからず屋どもにわざわざしても仕方ない」

 リビングに入った未理亜は、カウチで身体をくつろがせた。ハウスキーピングシステムが機能しているお陰で、主がいなくとも家の中は埃ひとつなく綺麗な状態が保たれている。

 未理亜が示した斜め向かいのシングルソファに日向も腰掛け、「で」と切り出した。

「過去はどうでした。一体いつのどこに行ったんです?」

「二〇二二年九月一六日。宇宙開発シンポジウムが東京で開かれてね、そこであの二人は出会ったんだ。それを邪魔しに行った」

「そこを選んだんですか。エマから聞きました。そっちを0にしたらこの世界が変わるのでは、と」

「うん。そう思って結構頑張ったんだがな、どう邪魔しても彼らは出会うんだ」

 日向がぴくりと眉を動かす。

「どう邪魔してもって、何回もやったみたいな」

「何回もやったさ。滞在時間には個人があっただろう。一時間四十分が私に与えられた時間だった。それが訪れると、チップに指定した日時の場所に戻るんだ」

 怪訝そうに彼は訊いた。「一体、何度繰り返したんです」

「八回」

 は、と呟いて日向が目を見開いた。未理亜は少し待ってからさらに尋ねた。

「同じ時間をループしたっていう被害者はいたか?」

「いえ、そんな報告は全く。戻ってきていない者がそれに該当していたら調べようがありませんが。未理亜はなぜループをしたと考えています?」

「IDの指定日時をそのままにしていたからだろうな。二回目はやり過ごして三回目に確信した」

「戻ってこれたのは?」

「一時間四十分を迎える前に、IDを元の二十桁に書き換えたんだ。どうやらこれで個人を特定してるのは間違いなさそうだ」

 不可思議そうな顔のままの日向に未理亜は首を竦め、ポケットに手を突っ込んだ。

 戦利品は五人分の名刺と、透吾の使っていたスマートフォンだ。薄型で手のひらにやや余り、どうにも使いづらそうに見えるが、あの時代ではスタンダードなものらしかった。

 それらを一つずつテーブルの上に並べる。彼が改めて未理亜の顔を覗き込み、納得したようにまなじりを薄くした。

「目の下が青い理由はそういうことですか」

「父さんに心配されてしまったよ。徹夜したのかってな」

 その時の言いにくそうな透吾の顔を、思い出し苦笑する。夢中になって研究や工作に没頭していると心配そうに覗きにくる父のそれと、そのまま同じだったからだ。

「透吾博士と接触したんですね」

「できればしたくなかったけどな」

「親殺しでも試してそうなったのかと」

「そうしかねない状況にはなった。なのにそれでも、出会うんだ」

 転落事故の様子も含め、八回分のループの状況と、失敗に終わった理由をそれぞれ説明していく。日向は時折相槌を打つ程度で、ほとんど黙って聞いていた。

「なぜ一時間四十分が私に与えられたのかはわからない。ただ、どうしたって彼らが出会うと悟るには、十分な時間だった。赤い糸ってやつは、本当にあるんじゃないかって感じたよ」

 未理亜がそう締めくくると、彼は理解しがたそうな面持ちで首を横に振った。

「それこそおとぎ話だ」

「私だって信じちゃいない。でもこれだけ不思議なことが起こってる以上、そう思ってるくらいでいい。量子もつれで惹かれ合っているとかだったら面白いだろ」

「そんな馬鹿な」

「父さんは一目惚れだったらしいぞ」

「ただの偶然に過ぎないでしょう」

 吐き捨てるように言ったあと、無愛想な表情のまま頭に指先を当てる。

「恋愛感情と一口に言っても、所詮ドーパミンやテストステロンなどの脳内物質の過剰分泌です。性欲を取り繕う言い訳だ」

 彼らしい無味乾燥な物言いに未理亜はくくっと喉を鳴らした。

 言いたいことはなんとなくわかる。日向の見目がいいせいか過去にはトラブルにも見舞われてきたようで、異性関係には一線置いている傾向がある。

「お二人の場合、赴任による別居などで単純接触の増減が繰り返されてます。セロトニンやオキシトシン等の分泌物が変化すれば、感情も上下して継続的な関係性にも繋がる。よく出来た仕組みです。でも、それを加味しても……」

 チェストに並ぶ数々のフォトフレームに、日向の視線が向けられた。彼らの結婚式から三人で写るものまで飾られた写真は、透吾と杏奈が選んでわざわざ現像している。

「仲がいいですね、お二人は」

「恋愛感情をそこまでバッサリ切っておきながらよく言うよ」

「幻想を持ってないだけです。僕の出生は体外授精の上、代理出産で代理子育て。英才教育にすべて捧げたような家庭でしたから」

 初めて聞く助手の繊細そうな告白に、未理亜はつと顔を上げた。

 珍しい話ではない。不妊の解決としても働き方のひとつとしても、現在では当たり前のように選択される手段だ。彼がそれを告げることそのものが珍しかった。

「どんな育ての親だった」

「華道の家元でした」

 答えに妙に納得し、鷹揚に頷いた。どうりで和服も着付けられるわけだ。

「それより、博士たちのことは未理亜が一番よくわかっているでしょう。歴史に抗おうとしても、無駄に終わるのは摂理なのでは?」

 無理やり話を戻して日向はソファに腰を深く沈めた。

 一理ある。今も手を繋いで歩くような二人だ。それでも引き裂こうとして、何度も失敗した。しかしわずかではあるが、たしかに透吾の心を掴んだ感触があった。もうひと押しできれば、もしかしたら。

「愛着もあるんでしょうが、そういう欲求以外で繋がっていられるのも、人間ならではなんですかね」

 ぼかした言い方に、未理亜は一瞬の間のあと、彼の言わんとしていることに気づく。

「なんだ。お前性欲あったのか」

「僕をなんだと思っているんですか。性自認は男、性指向は女性。生理的生物的反応として備わってますよ」

「参考までに聞くが、どんな女に魅力を感じる?」

 組んだ脚の上で頬杖をつき、未理亜は身を乗り出して尋ねた。日向がめんどくさそうに顔をしかめ、腕を組む。

「未理亜こそ、そういうことに興味あったんですか」

「あの二人を見てても気になったんだ。当時の母と私は、見た目の上ならよく似てるが、それでもいろいろ違うらしい」

「それは当然でしょう。異性的な魅力なら、杏奈さんはいわゆるモテる人かと」

「比較してなにが違う?」

 日向は目を細めながら、未理亜の頭のてっぺんから爪先までを撫でていった。慣れない視線に居心地の悪さを感じつつ、じっと待つ。

「まず愛想や愛嬌は絶望的にないですよね」

 認めているため黙って聞いた。

「あと可愛げも」

 それも自覚がある。目配せをして先を促した。

「空気も読まないし家事能力もない。でも外注できる財力があるから、基本的に一人で生きていけるタイプだ」

 日向が涼しい顔で淡々と挙げていく。未理亜は次第にこめかみがひきつるのを感じた。

「もう少し協調性があっていいし、品もほしい。ああ、恐らく黙っているのが一番いいです」

「言わせておけばさっきから容赦ないなお前」しびれを切らしてとうとう口を挟んだら、「ほら」と指が突き出てきた。

「それ。その言葉遣いと高圧的な態度も」

 未理亜の口と脚を指し示し、未理亜はぐ、と言葉を詰める。

「そうなったのもわかりますけどね。まだまだ男社会が根強い工学分野の中で渡り合うには、おしとやかなだけじゃやっていけなかったでしょう。さらに英語主体になれば、構う必要もなくなる。でも、日本じゃ敬遠はされます。『美人なのに』って枕詞、散々耳にしているのでは?」

 まるで見てきたような口ぶりに、「ああ、そうだよ」と投げやりに返した。

「『ええ、そうね』」鋭くなったまなざしが、言い直せと言っている。未理亜は眉をひそめた。

「えっ、……ええ、そう、……ネ?」

「母語でしょうが。顔もイントネーションも不自然すぎです」

「うるさいな」

「ほらまた」

 ついキッと目が尖るも、組んだ脚もろとも咎めるように見下ろされ、未理亜は居住まいを正し、肩を小さくする。

 指摘はまさに的を射ていた。口調や態度がこうなったのは少なからず、舐められたくないという想いが現れたかたちだった。

「もちろん相手との関係性によりますよ。しかし人間は猿から進化して間もないんです。狩猟採集民の感覚が人間から抜けきってない以上、雄という種が、庇護欲を掻き立てられる女性を好む側面はどうしてもある。僕は慣れてるし気にもしませんが」

 フォローになっていないフォローを受け、小憎らしい気分になった。誘惑以前の問題だ。

「感化されて恋でもしたくなりました?」

 日向が物珍しそうににやついた。

「馬鹿言え」

「言い方」

 思わず舌を鳴らすと、それもまた駄目出しするように指をさして続ける。

「蔑んで言ったら男女問わず引きます。そういうのが好きという嗜好を持った者も中にはいますけど、未理亜は言い方も高圧的になりがちなんだ」

「じゃあどうしろと……」

 嫌気が差してため息をもらした口に、日向の手が触れた。冷たそうなのに意外とあたたかい。その上コロンでもつけているのか、爽やかな香りが漂ってくる。

「なんだよ」

「顎を少し引いて、上目遣い」

 不慣れな事態に戸惑いつつも、不満を飲み込んでひとまず従う。

「……こうか?」

「目は細めず、声も柔らかく囁くみたいに」

「やわ……、あ、あ?」

「少し溜めて、『……馬鹿』」

 溜める、と頭で繰り返してひと呼吸置いた。リードするような日向の紳士的なまなざしを、上目がちに見つめ返して口を開く。

「……っなんで私がそんなことを!」

 日向の肩を両手で押しのけながら身を引いた。

 どういうわけか頬が熱い。触れられた唇に今も指の感触が残っていて、とっさに手の甲を押し当てた。日向は「あーあ」と露骨にため息を吐き、首を振る。

「なぜそこで空気を壊すんですか。せっかくほんのちょっとだけマシになったのに」

「おっ、お前が変なことを要求するからだろ!」

「自分で言ったでしょう。『どうしろと』って。要求に応えたまでだ」

 しれっとした物言いが気に食わず、舌打ちしかけ、慌てて飲み込んだ。

 こんなこともできないんですか、とでも言いたげに挑発してくる冷めた目の助手に、ひと泡吹かせてやりたくなる。

 また出しかねない右手を左手で押さえ、胸元で握った。日向の視線が未理亜に戻ってくる。それを捉えたまま、未理亜は彼と、彼に言われたことを意識した。

 高圧的にならないように。顎を引いて上目遣い。声は柔らかく。

「……ばか」

 発してみると、存外拗ねたような口ぶりになり、さらに頬に熱がのぼった。

 自分ではないみたいだ。我に返るとますます羞恥心に襲われ、うわあと口にしながら顔を両手で覆った。屈辱的にもほどがある。

 まごつく未理亜の様子がよほど滑稽だったのか、日向は笑いを堪えきれなかった様子で吹き出して上半身を揺らした。

「ちょっとは可愛くなったじゃないですか」

「ばかっ……!」

「その調子。傾向と対策みたいなものです。そう考えたら得意なのでは?」

 いまだ笑みを噛み殺そうとしている顔に、「ふざけるな」と毒づく。笑いの波が引いたのか日向が息を整えた。

「でも、どうしてそんなこと急に?」

 未理亜は鼻を鳴らした。

「別に。二人がなぜそこまで惹かれ合うのか疑問に思っただけだ」

 さすがに今計画していることは、日向に言えない。倫理がどうだのと反対されるのは明らかだ。しかし日向は素知らぬ様子で、何かを思いついたように未理亜を見た。

「それより透吾博士には、杏奈さんに単純に掴まれているものがあるじゃないですか」

「父さんが、単純に?」

「胃袋」

 日向の指先が未理亜の身体の中心に向けられる。

「いい機会だし、料理の練習でもしてみたらどうです?」


 翌朝、十分に休息を取った未理亜はキッチンに立っていた。

 髪を後頭部で束ね、母のエプロンを身につける。作業台には生のたまねぎ、にんじん、じゃがいも、牛肉に、カレールゥの箱を並べた。

 処理済み食材ミールキットならば、食べたい料理のパウチを選ぶだけだ。具材はすべて適切な大きさにカットされており、すぐに調理できる。しかし二〇二二年だとそうはいかない。

 作業台も、はかりやディスプレイが内蔵され、カッティングボードも不要なつくりとなっているが、これも当時にはないだろう。

 とはいえまずは慣れることが肝要だ。

 未理亜はディスプレイを起こし、料理の項目を初心者モードに設定する。メニューの『カレー』を選択すれば、レシピと野菜の切り方や手順の実演動画が閲覧できる。

『カレーを作ります。所要時間は三十分から四十五分ほどとなります。それでは……』

 天井からAIが話しかけてきた。

「まあ、これならなんとか……」

 材料の計量を済ませ、意気込むようにひとつ頷いた。

 指示を頼りに薄皮を取り払ったたまねぎと包丁を手にし、動画どおりに半分に割って身を細く切っていく。が、ほどなくしてその独特な臭気が鼻と目を刺激し、瞬く間に涙に視界を奪われた。

 切るどころじゃなくなり、たまらず包丁を放り出してエプロンの裾を目に当てる。

「なんだこれ……目が……」

『タマネギです。ユリ科ネギ属の多年草で、切断時に細胞が壊れることにより、硫化アリルが空気中に拡散します。目や鼻に入るとその刺激で涙や――』

「説明はいいから対策を教えろ」

『対策は加熱、水につけながら切る、換気をするなどがあります』

「換気扇」

 鼻をすすりながら告げると頭上でモーター音が唸り、換気扇が空気を吸い上げていった。杏奈はこんなことをいちいちしていたのかと思うと改めて頭が下がる。いろんな意味で泣けそうだ。

 瞳を潤ませながらたまねぎを切り終え、次はにんじんに取り掛かったがこれも難敵だった。ヘタを落とすところまではよかったが、動画の通りに皮を剥くことができない。

 手つきは問題ないはずだが、どうにもうまくいかず、妙に厚みのあるみすぼらしい破片が作業台にぽろぽろと落ちていった。そのうち体積はどんどん減り、動画にあるような円錐型には程遠い、いびつなオレンジの塊が残る。

 当初二百八グラムあったそれを、未理亜は恐る恐る作業台の端のはかりに載せた。

『百十三グラムです』

 脱力してその場にへたり込む。

 生まれてから二十三年、キッチンに立つ必要のない生活を送ってきた。一般的な学校に通っていればそのような教えも受けられたのだろうが、八歳から今と大差ない暮らしだったのだ。無理からぬこととはいえ、情けなさにため息が出る。

「……皮むきのいい方法ないか?」

『ピーラーが中央上段の引き出しに入っています』

「ピーラー? 先に言ってくれよ。ってかこの動画も動画だ、わざわざ面倒なことさせて」

『次の工程に移ります』

「は? 待て待て、次?」

 なぜ次なのか、と眉を寄せたが、「先に言って」を先に進むよう命じたと解釈されたのだと気づいた。

 AIは優秀だが、細かな文脈となるとまだ弱い部分も散見する。文句のひとつも言ってやりたくなったが、相手は機械だ。八つ当たりをしても仕方がない。

 帰ってきたら、もっと便利に改良してやろう。

「……にんじんを切るところからもう一度」

 作業台に手を掛け、未理亜は再び立ち上がった。


 カレーはなんとか昼までに仕上がり、人心地つくことができた。反省点は、不慣れゆえの手際の悪さと、知識不足。回数を重ねればきっとどうとでもなる。

 料理もまた科学だ。使う材料や機材が異なるだけで、実験とそう大きく変わらない。

 片付けを済ませてリビングに戻る。そこには一点とても異質な、精巧に造られた成人男性アンドロイドが、透吾のシャツとジーンズを纏い、脚を投げ出して座っている。

 一階の倉庫に押し込まれていたのを持ってきたのだ。充電プラグが腰に、ソフトのインストール用プラグが頭に刺さっている。両親は使わなかったようだが、未理亜と日向の手が加わっているのもあってか、実用性の評判はすこぶるいい。

 コミュニケーション能力に特化しているため、会話や仕草はほとんどと言っていいほど人間に近い。性格付けもプログラムが可能で、ネットではリアルな人物からアニメキャラクタまで、さまざまなタイプの『性格』が販売されてもいる。

 そうなると必然なのだろうが、成人指定対象となる言動をする『性格』が出回った。

 異性不信を治療するという名目だったが、比較的早いうちに『Sexandroidセクサロイド』という通称がついた。非常に高価であるにもかかわらず一定の需要のある品である。

 体表はポリマーとゴム、シリコンが合成された人工皮膚で、弾力がありとてもなめらかにできている。実際服を着せないと目のやり場に困るほどだ。圧がかかればダイラタンシーが作動して、男性的な反応もするという。

 引っ張り出してきた時には伏せられていた彼の瞼が開いた。充電と『性格』のインストールが完了したようだ。

 未理亜が彼に近づくと、甘いマスクとこげ茶色の短い髪と瞳の持ち主は、へたに無表情な人間よりも人間らしくほほ笑み、「ミリア」と呼んだ。日向よりもまろやかで、透吾より軽いテノールだ。

「うん。お前――じゃない。あなたは、ロイ」

「そう名付けたのはミリアだね。一年と二十八日ぶり」

 アンドロイド、ゆえに、ロイ。ネーミングセンスのなさを内心呪いながら、未理亜は問いかけた。

「1と0の真正乱数が発生する時、1が百回連続する確率は何分の一?」

「7.888609052210118の三十一乗分の一」

「計算も速い」

 適度な話し相手としても、練習相手にもちょうどいいだろう。

 設定は、二つ上の青年。性格は穏やかで優しくロマンティスト。さらに未理亜は脳内神経伝達物質の変化が起こる言動を評価するプログラムを組み、新たに取り込んだ。

「恋愛もしたことがないのに誘惑するとか、笑い話だよなあ……」

 苦笑混じりに呟いて彼の頬に触れる。内部での放熱が皮膚によって行われるため、あたたかさもほとんど人間の体温と同じだ。瞬きや呼吸、肌のキメも精巧で、遠目から見たら人間と見分けがつかない。

「そう? 俺には君を笑うなんてできないな」

「イントネーションも完璧だな。大したものだ」

 唇に触れ口を開けさせると、セラミックの歯列の奥に舌がある。指を突っ込むとしっとりと濡れて淡く沈み、指先よりも温度があった。出した指に糸が伝う。粘り気はあるが、唾液のような生臭さはない。グリセリンと水を配合し、分泌させているのだろう。

「ヘンタイの国が作ったプログラムはさすがだな」

「ヘンタイの国? なに、それは」

 彼はくすくすと笑って、頬に触れていた未理亜の手を柔らかく掴む。

 力加減も笑う時の息遣いも完璧にできていた。インストールの際、アクションのプログラムも一新させたが、一年前はここまでではなかった。この手の欲求を満たそうとするユーザとプログラマの執念を感じた。なんにしても、利用できるものは利用させてもらうまでだ。

「これも勉強だな。とりあえず恋愛レクチャーをよろしく、ロイ」

「了解。それじゃあ」

 ロイは掴んだ未理亜の手の甲に、柔らかな唇を押し付けた。上目遣いに覗き込んでくる綺麗なガラス玉の瞳。見つめられると、柄にもなくどきりとする。

 見事なものだ。統計データから算出された行動パターンを元に、どのような振る舞いが異性として興味をそそるか。彼らは常に計算している。

「心拍数、発汗ともに上昇。ミリア、ドキドキしてる?」

「違うよ、逆だ。私は相手をドキドキさせたいのであって、私をそうさせてどうする」

「でも君もそういう感情を知っていないと」

「屁理屈まで達者か。まあいい」

 恋愛はもちろん男女の生々しい部分も含め、現実に直面する前に手応えをしっかり掴んでおきたい。

 日向の言った通り、脳内物質の分泌を促せるよう計算するだけだ。それにアンドロイドを相手にする分には、自分のキャラクタも変えやすい。らしくないことをしたところで羞恥心に苛まれずに済む。

 これも未だ行方不明の者たちを戻すためだ。目標設定は、このアンドロイドの情動反応が一定レベルに達したとき。すなわち人間でいうところの、『その気になったら』。

「好きにして。私もそうする」

 未理亜はロイの首に顎を沈め、静かに囁いた。


「ミリア、それは悪手だ」

 制止を受け、言いかけのセリフを飲み込む。

「思ってもない言葉を発するよりも、触れるほうが効果がある。身体的接触は好意に繋がりやすい」

 手を二の腕へと導かれ、未理亜はぐっと歯を食い縛った。が、結局仰け反って床に寝転んだ。

「ああもうっ、休憩だ。笑顔ばかり作ったせいで顔が痛い」

 ほぐすように両手で頬を揉んでいると、ロイが上から覗き込み、均整の取れた頭部で影を作る。

「さっきの発言は面白かったよ。『この出会いは奇跡ね』って、ミリアの口から出るなんて」

「やめてくれ。思い出すだけで嫌になる」

「また言葉」

「それも含めて休憩だよ」

 腕で自身の両目を覆い、彼のガラス玉の視線センサーを遮った。

 コミュニケーション用アンドロイドは、心拍や発汗、呼吸はもちろん、瞳孔の開き具合や目線の動きも観察してくる。わかってはいても居心地は悪い。

「じゃあ、総評。ミリアは多言語が扱えるとはいえ言語センスに長けているわけじゃないから、言葉でどうこうしようと思わないほうがいい。触り方もぎこちないかな。もっと大胆でも問題ない。作り笑顔はまだまだ不自然。研究のことを語っている時が一番かわいい」

「そのかわいいってのの具体的な基準ってなんだ」

「世界各国美醜問わず、男女別であらゆる表情をデータベース化し、『かわいいと感じる笑顔』というアンケート項目でもっともポイントが高い表情と比較した結果、口角や――」

「あーあー、わかった。やっぱお前はアンドロイドなんだな」

「なにそれ。おかしなことを言う」

 面白い、かわいい、おかしい。そんな感覚的な言語が、まるでロイの主観かのようにすらすらと出てくることに、未理亜は些か驚いていた。

 未婚化が進むわけだ。これで欲求が満たされるのなら、煩わしい人間関係も不要になっていく。

「ミリアが情報を組み込んだこのトーゴって人は、すごく娘思いだね」

 腕をわずかにずらして彼を盗み見た。控えめな笑みと優しげなまなざしが未理亜に注がれている。

「うん。昔からそうだ」

「子どもの頃のミリアは素直に笑うんだなあ。今と全然違う。画像の通りそのまま再現してごらんよ」

「お前らと一緒にするなよ。大体何年前だと……」

「人間は不便だね。俺たちはちょっとデータをインストールしたら、メモリも人格も一瞬で変えられるのに」

 不便と言われれば確かに不便だ。食事や社会性、精神の安定。必要なものはやたら多く、生まれた瞬間から死に向かう。繁栄するには子孫を残すしかない。

 人間同士でも国同士でも小競り合いが絶えないくせに、たかだか数百万人消えただけでも大騒ぎになる。プログラムのようにそれを切り捨てられるほど、人間というのはできてはいない。

「でもその不便さや不器用さがなきゃ、我々人間は『アンドロイド』という人間に近しいものを作らなかった」

「そういうもの? 不可解だなあ。俺たちへの命令や下させる判断は、最終的には0か1かしか用意しないじゃないか」

「人間に限らず、生き物はなかなか0と1で割り切れない。むしろ1と1で対立する。なのに孤独に耐えられないから始末が悪い。人間がロボットをわざわざヒトに似せるのも、人間じみた感情や反応を持たせようとするのも、その表れだと思う。しかもそれだけじゃ飽き足らず、地球外でも知性体がいないか探してる」

「対立するのに?」

「そうだよ。対立もするけど、触れたいと思ったりもするんだ」

「オキシトシンが分泌されるからだよね」

「それは結果。たとえ動機が孤独感や衝動や性欲だったとしても、嫌いだったら行動に出ない」

「どうして?」

「人間には、好きか嫌いか判断して先の行動を決める情動反応が、脳の中心部にある扁桃体に刻まれてる。中心にあるということはつまり内臓と同様、原始的で生命の根幹に関わる部分だ。つまり直感的な『好き』と『嫌い』は、生命維持に必要なんだよ」

「ううん、ミリアはよくわからないことを言うね」

「私たちも、お前らで言う1と0を、好きか嫌いかの一次情報として持ってるんだよ。だけどそれ以外の感情や意識がその邪魔をする。私たちは二次情報三次情報にも支配されている。好きなのに好きと言えなかったり、嫌いなのに義務だからと仕事をしたりするように」

 未理亜は腕をほどいて再びロイと視線を交えた。

「……だからこそわからないんだよな。量子に影響を及ぼすような、高次元に住まうものの正体が。我々より遥かに複雑な生命体のはずなんだ」

 ひとり言のように呟き、ゆっくりと上半身を起こす。

 意識は空間を浮遊する。ヒトのそれは、好きか嫌いかを起因とした、感情を伴う信号だ。

 しかし、触れた気がしたあの物体ともなにとも言いがたい不思議なものは、巨大な力そのものに感じた。

 好き嫌いなど些末すぎる。二次元と三次元に大きな隔たりがあるように、この世界とその上の次元のものは、突然紙に穴が穿たれるのと同様、同じ常識で考えることができない。それでいて傍目からは0と1でしか見えてこないシンプルさは、エネルギーの数式を彷彿とさせた。

 あの星を拠点とする何かは、人類が触れるには早すぎた『バグ』だったのかもしれない。

「ミリア?」

 立ち上がった未理亜は、ダイニングテーブルに置いていたスマートフォンを取り上げ、首を傾げるロイに差し出す。父の部屋から充電ケーブルとアダプタを見つけ、バッテリーだけ満たしたのだ。

「ロイ。このスマホってやつのロック解除と中身の解析、できるか?」

「随分昔の型だね。これは誰の?」

「トーゴが過去で使っていたのを偶然手に入れた。交友関係や当時の趣味嗜好も洗えそうなら見たい」

「オーケー。ケーブルを貸して」

 白いケーブルを渡すと、彼は一方をうなじに、手のひらに載せたそれに端子を繋いだ。認証用ロックを難なくクリアし、画面が光る。ロイは目を閉じ、解析に注力しているようだ。話しかけていいものかと思っていたところに、「ふうん」と柔らかな声が訳知り顔からもれた。

「父親としての情報しかなかったけど、この中身を見る限り標準的な成人男性だね。ほほ笑ましい」

「ああそう……」

「連絡先にエマ・ブルックス」

「そりゃいい。明日当時のことを聞きに行こう」

「ロマンティストを裏付けるものがいろいろ出てくる。火星探査機『インサイト』のことは、アンナの情報と共通していたね」

「パブリックビューイングか? 同じところに実は二人ともいたって」

「その時の画像を見つけた。こういうものは使っていこう。奇跡は技術で作れるものだし、チープな言葉よりずっと有用性が高い」

 提示された画面には、ビッグニュースに湧く観衆が写っている。その中の小さな女の人影を、ロイが指で拡大して見せた。ぼやけてはいるが、それはたしかに母らしい姿をしていた。


 夕方になって、ロイのレクチャーは丁寧さを増して細かくなった。

 なにをしたらドーパミンが分泌され、いかにセロトニンを安定供給させるのか。リビングのソファに腰掛けながら、壁面スクリーンで脳の中を色分けされた神経伝達物質が行き交うのを見せられ、実践と称して歯の浮きそうなセリフを吐かれたり言わされたりもする。二十三年間避けてきたことを、ツケのように支払わされている気分になった。

「君の知性は魅力だよ。だけど喋りすぎてもよくない」

「そういうものなの?」

「言葉がよくなると笑顔が駄目だな」

「ほかに参考資料ない?」

「『彼を落とす十二のルール』、『彼はあなたに気がある? 見逃し厳禁ラブサイン』、『この瞬間が狙い目! 恋のきっかけ七パターン』……ミリア?」

「いや、これまで通りでいい」

 根も葉もなさそうな記事だ。ついこめかみを押さえ、未理亜はソファにもたれかかる。

「疲れた?」

 未理亜をうかがうロイが、心配そうに手を額にあてがった。

「少しね。いいなお前は、疲れ知らずで」

「バッテリー切れは起こすけどね。ミリアにしてはまあまあ頑張ってるんじゃない? 学習能力はさすがだと思う」

「そりゃどうも」

「あとね、時々ちらりと見せる隙がとてもかわいいよ。そのままでも好意を抱く男性はいる。『理想女性』の項目をアンナにしてるけど、ミリアはそうじゃない。初心なところや新鮮な反応に女性的な魅力を感じる男性の割合は――」

「そういうことじゃないんだよロイ。私の目的は、トーゴを誘惑することだ」

 彼の手が一度離れて間もなく再び額にあてがわれた。未理亜はむっとし、「熱はない」と乱暴に振り払う。

「トーゴはミリアの父親でしょ?」

「そうだよ。でも、そうするしかないんだ」

「倫理的に問題がある」

「でもあの時代に私とトーゴを関係付けるものはなにもない。私だって好きでこんな手段は選ばないよ」

「近親交配は双方が持つ劣性遺伝子が似通うから、奇形が発現するリスクが高い」

「そこまで至るか」

「性欲の男女差の話はしたよね。君が思ってるより至ることは多いんだ。特に、男が」

 低い声で警告するように言うと、ロイは唐突に未理亜を跨いでぐっと迫った。

「なっ……」

 ソファが沈んで身体が揺らぐ。両手で肩を押さえつけられ退路も絶たれた。腕を掴んでもびくともしない。睨みつけても、無駄と言わんばかりに視線が流される。

「……出過ぎた真似するな。ハラスメントコードに引っ掛かるぞ」

「今の俺は対象外だよ。それに、目標設定忘れてないよね?」

「忘れるか。その」

「その気になったら」

 言葉尻を奪われ言葉に詰まった。覆いかぶさる影が重量以上に重く感じた。

「実はクリアしてる。ミリアは頑張り屋さんだからね。続けたそうだったから続けたまでだよ」

「だからってこれは……」

「好意は好意を呼ぶ。積み重なったら、なる」

 ロイが未理亜の手を取り、じっと見つめながらゆっくりと導いた。

 指先がジーンズに触れ、反射的に指を折る。ロイは構わずさらに引き寄せ、ジッパーに沿わせるように手のひらを押し付けた。

 布越しに広がる熱に、慄くような声が出た。服を着せる前はだらりと力をなくしていたはずのものが、硬く大きく主張している。

 どく、と力強い律動が伝わると、たまらず息を吸い込んだ。

 手を引こうとしてもびくともしない。包んでいるとそれだけで、生きているかのように脈打つ。ロイはなにも言わないままだったが、この熱さが欲の塊だと雄弁に語っている。

 これが生身の人間なら、掴んでしまえば悶絶するのだろう。しかし機械相手にもかかわらず、その程度の抵抗をすることさえままならなかった。

 歴然とした力の差を感じた。逃げたいと。怖い、と思った。普段接する異性は本来、そういう力を備えた存在でもあるのだと思い知らされた気がした。

「悪い。私の見通しが甘かった」

 手の力をふっと抜いておとなしく引き下がる。すると彼も柔らかな笑みを浮かべ、「ごめんね」と未理亜から離れた。

「怯えさせちゃったね。俺のしきい値がそこまで高く設定されていないのもあるけど、基準はあくまで一般男性だってことは忘れないで」

「……ああ」

「これは極端な例。トーゴはそんなことしないと思うけど、ミリアだってそれだけ魅力があるんだよ。怖いと思うなら、怖くないと思えるまで、関係を構築することだ」

「……わかった」

 傾いでいく未理亜の頭にロイが手を添え、髪をくしけずった。

 今も手に残る熱さを、教訓にするように握りしめた。しばらく無言で呼吸に集中する。動揺が少しずつ落ち着いてきて、最後にふうっと長い息を吐いた。

 彼の役目はこれだけではない。アンドロイド本来の役割も果たして貰おうと思い立ち、未理亜は顔を上げた。

「ロイの中のプロキシマbの情報もアップデートしないとな」

「プロキシマ・ケンタウリを主星とする岩石惑星のこと?」

「ああ。今から言うことを全て記録してくれないか」

「了解。記録したら、それをどうしたらいい?」

 変える覚悟を決めた以上、帰れない覚悟も必要だ。

「私が向こうへ行ったあとのためだ。ヒューを助けてやってくれ」


 翌朝、未理亜は日向とともにエマの家の前にいた。

 この日も呼び鈴を鳴らすとバタバタとした足音が駆けてきて、勢いよく開いた扉から、淡い藤色の撫子柄の浴衣姿に団子頭のシルバーグレイが覗く。

「おはよう、エマ」

「なあにが悠長に「おはよう」だ。帰ってきたならすぐ来るのが道理ってもんだろうよ」

 エマは口をへの字に曲げ、未理亜の鼻を摘んで捻った。「いぃぃぃっ!」と思わず声を上げる。

「悪かったって、ちょっといろいろありすぎて疲れて」

 痛む鼻をさすりながら言い訳を述べると、エマは息巻いて未理亜をねめつけた。

「まったく……。とにかく無事でよかったよ。坊っちゃんもきっちり怒ったかい?」

「顔見たらどうでもよくなって忘れてましたよ。僕も耳くらい引っ張ってやればよかった」

「やっておやり。どうせ懲りやしないんだ」

 むすっとしながらも、彼女は身体を引いて二人を招き入れた。

「で? 結局なにしに行ったんだい」

「二人の出会いを邪魔しに。でも何度やっても駄目だったから、もう一度行こうと思ってる」

「はぁ!?」

 エマと日向の声が、綺麗に重なった。

 彼女への報告は滞りなく済んだが、予想に違わず説明はひと筋縄ではいかなかった。

「どうしてもう一回行こうなんて気になるんだい、この馬鹿娘!」

「だからそこにしか答えがない気がしてるんだって言ってるだろ、偏屈!」

「気がするからで行動するなんてアンタ科学者だろうに、無鉄砲もいいところだよ! これだから子どもの頃からチヤホヤされたガキは困るね。意味のわからない絶対的な自信を持ってやがる」

「そのチヤホヤする一人だったくせによく言うよ。覚えてるからな、私がチェスでエマを負かした時の持ち上げっぷり」

「あれはわざと。がきんちょのアンタに花を持たせて負けてやったんだよ」

「最初舐めてかかったからあとから取り返しつかなくなっただけだろ? あの時のゲームなら空で言えるぞ。初手が私で」

「ちょっと」

 ダイニングテーブルを挟んで口喧嘩を始めた未理亜とエマに、日向が割って入る。噛みつきそうな顔で同時に睨むと、日向は尻込みしたように顔をひきつらせた。

「じゃあ坊っちゃんはこの馬鹿な理屈に納得するのかい」

「しなくたってどうせ止められないので放っときます」

「ほら。そういう奴だよこの男は」

「僕に矛先を向けないでください」

 非難めいた視線が日向から注がれ未理亜は身じろいだ。

 素知らぬ振りで顔を逸らすが、エマからも睨まれ、とうとう観念したように両手を上げる。

「二人の言いたいことはわかるけど、もう決めたことだ」

「それがわかってないと言ってるんじゃないか! 簡単に行って帰ってができてるように感じてるのかもしれないがね、量子テレポーテーションだってEPRペアが壊れりゃ転送に失敗することもある。そいつらが同じ原理だったとしたら……」

「エマ。案外あいつら話がわかるぞ。それに我々の科学を遥かに凌駕してる。そんなミスしないさ」

「信頼を持てる意味がわからん。何度もそいつらに触れて気まで触れちまったかい」

 ふんぞり返るエマを見ながら、未理亜はふとあの巨大な力を思い返す。

 確かに脅威ではあったが、恐怖は決して感じなかった。八度も体験したからこそわかる。途方もない力であることは間違いないが、恐れさせるような意志もなかったはずだ。

 そんなことを彼らに言ったら、「世迷い言を」と罵られるだろう。今もまだ、巻き込まれた者たちの被害は続いている。

「2020年代初頭のイスラエルに飛ばされた元軍人は、空爆で子どもをかばい片脚を失くして帰ってきた。その妻は錯乱状態で一緒になって入院した。昔友人が自殺したって者は、飛ばされた先に首を吊ったそいつがいたそうだ。その光景を当時見たわけでもないのに、なぜかそこにいた。蝿がたかり蛆がわき全身も黒ずんで手遅れなのはすぐわかったらしいが、咄嗟に手を伸ばしてしまったと。そうしたら、腐敗が進んでいたんだろうな。掴んだ腕がずるっと――」

「未理亜!」

 黙って聞いていたエマが突然声を張り上げ、未理亜は一度呼吸を挟む。だけど、言わねばならない。

「イギリス首相とインド外相が消えた。どちらも公にはされていないが、事実らしい。中国は情報統制がかかってるし、アメリカ大統領は核シェルターに引っ込むって噂だ。陰謀論まで流れ出した今、下手をしたら国家間の戦争になりかねない。関係なんか、何もないのに」

 なんてことだ。エマの小さな呟きが彼女の膝に向かって落ちた。その顔はもどかしそうに歪んでいた。

 事態はすでに、巻き込まれた本人にとどまらず、周囲にも影響を与え始めている。

「また行きたい理由はもう一つあるんだ。実は思いがけず、こんなものが手に入った」

 未理亜はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルに置いた。エマが「スマホ?」と眉を動かす。傾けた拍子に灯った画面に、火星探査機『インサイト』の画像が表示された。

「透吾のじゃないか。どうしてこれを」

「たまたま預かったまま飛んでしまった。にしてもよくわかったな」

 彼女は目を大きく見開いて頷き、スマートフォンを取り上げた。未理亜の手には余ると感じたそれは、皺の浮いた彼女の手にとても馴染んで見える。

「こんなマニアックな壁紙忘れるか。またこれにまみえるとはね」

「その中にエマの連絡先があった」

 学生のころは、日本でくすぶっていたという彼女。透吾からの縁で、当時のエマとももしかしたら邂逅を果たせるかもしれない。彼女の研究に未理亜も加担できたら、別の発展を遂げる可能性がある。

 説得は諦めたのか、エマは呆れたように鼻息を荒くしながら、慣れた様子で画面に指を滑らせた。

「ロックのパスは?」

「101010。なにする気?」

「このままじゃ透吾のやつと同じだろう。使える状態にしてやるから黙っておいで」

 そう言ってエマはカバーを取り去った。本体のシルバーが姿を見せる。

 中身を一瞥してにべもなく端末を初期化した。それから開いたメモに、文字を入力していく。

「あっちに着いたらこのメモのアプリをインストールしておくといい。カフェや駅ならフリーのWi-Fiが飛んでるから、ちょっと設定すれば通信できるはずだ」

 そう言いながら彼女の指先は、すいすいと淀みなく動いた。

「懐かしいな。みんなそこかしこでこいつを構えて、なんでもかんでもパシャパシャ撮影してた」

 操作を終えてエマがほほ笑む。未理亜は手元を覗き込んだ。

「背面と画面側両方にカメラがついてるんだな」

「そうだよ。こうやってカメラを起動して、切り替えてやると……」

 エマは腕を伸ばし身体をカメラに対面させる。画面の端に未理亜と日向も入ったところで、安っぽい機械音がした。「これがあの時代の自撮りってやつだ」

 未理亜は思わず左腕の端末を見た。文化がずいぶんと違うのだと改めて感じる。

「電話はできないようにしたよ。使えるのは通信だけ。必要に応じて端末のショップで相談するんだね。あっちで困ったら私を頼りな。ちょうどその頃東京にいるし、人助けは半分生業みたいにしてたから」

 ぶっきらぼうに言い捨て、エマはスマートフォンを未理亜に放り投げた。メモの中身をざっと見て、礼を告げる。するとエマが「それから」と声のトーンを低くした。

「もし嬢ちゃんが私を頼るくらい近づけたんなら、私にひとつ言ってやってくれないか」

 聞いたことのない真剣な口ぶりだった。なに、と尋ねた途端、彼女は目を薄く伏せた。

「『日本を出ろ』って。それだけで当時の私は理解するだろうさ」

「どうしてだ? この国で頑張ってたんだろ」

 その頃のエマは、量子テレポーテーション理論を基盤とした、EPR通信の前身となる研究を進めていたはずだ。しかし彼女は遠くにやった目を寂しげに細めた。

「大学に残ってたんだけどね。なかなか研究成果を認めない日本のバカどもを打ち負かしてやろうって、躍起になって、妙な正義感にとらわれちまってね。大事なもんが見えなくなってたんだ」

 達観した笑みを浮かべ、エマは胸の奥に留めていたような負い目を口にする。豪胆な彼女しか未理亜は知らなかっただけに、彼女の言葉は重く響いた。


「よかったですね。協力してもらえて」

 帰りの車内、後部座席で横に並んだ日向が目も合わさず告げる。

 怒っているのか、声に棘が感じられた。エマの前では特に言及しなかっただけで、彼なりに憤りもあるようだ。未理亜はまっすぐ前を向き、気づかぬふりを決め込むことにした。

「そうだな。助かった」

「彼女があんな後悔を抱えてるなんて、意外でした」

 未理亜も無言で頷く。苦労がたたったのか、早いうちからシルバーグレイであったのは知っていたが、本人が言葉にしたのは初めてのことだった。

「そういうのを踏まえた上で、ヒューは、過去に行ったらなにをする?」

「未理亜の助手になんてなるなって自分に言いに行きます」

「はあ? なんでだよ」

 声に角を立て彼を見る。

「レディ・バグのプロトタイプを造ったのはこんな残念な人だって、余すことなく教えます」

「残念って。お前な」

「こんな気苦労、しなくて済むならそのほうがいいですから」

 ここへきてやっと日向と視線が交わる。呆れを通り越し、もはや無表情だ。

「どうせ仮説はその頭の中にあるんでしょう」

 彼も彼でわかってくれているのだと未理亜は思う。

「ヒューは本当に察しがいいね。一年前に携わったアンドロイド、覚えてる?」

「ああ、ロイですか」

「うん。それが今家にいるんだ。打ち込むのすら面倒だったから、仮説は全部そいつに託してある。CPUも改良してるし、役立つはずだよ」

 日向が大げさな手振りをつけて肩を竦めた。

「あなたがいるほうがよっぽど有用だ」

「心配するな。戻る気はあるよ。でも、戻ってこない覚悟もある。ここだけの話だが、十六歳のときから毎年、卵子凍結もしてる」

「タチの悪いジョークやめてくださいよ。未理亜は未理亜です。たとえクローンだろうとイコールになんてなるわけがない」

 自宅の前で車が停まった。別れを告げようとした瞬間、日向が声を滑り込ませた。

「なんだか、たった一日で柔らかくなりましたね。口調も表情も。僕が余計なことを言ったせいですか?」

「関係ないよ。変えようとするなら、変わる必要もあるって思っただけ」

「なんでもいいけど、気をつけてくださいね。どうせすぐにボロが出る」

「余計なお世話だ」

 顔を合わせるのはこれが最後になるかもしれない。しかし、そうはしたくなかった。日向はああ言ったが、未理亜が助手にしたいと思った者は彼しかいない。

 彼を見た。エマと別れた時と同じように、穏やかな表情で互いに軽やかに手を振った。


 あの重圧感が未理亜を襲ったのは、IDを変えてから十五分が経過した頃だった。

 身支度も持ち物も、準備はすべて済ませていた。

 身体全体がたわむ何かに包まれ、リビングの上にぼうっと浮かぶ。ロイが未理亜を探してきょろきょろとしていた。狙い通り、記録は撮れたはずだ。

「連れて行く前に、少しひとり言を聞いてくれないか。私の言ってることが理解できなかったら適当に流してくれ」

 背中をゆったりと預けてみる。ビーズクッションに寝ているような感覚に近かった。

「お前らバグが拠点にしてるであろうプロキシマbに、明確な目的を持った異物が降り立ったのは、初めてだったって私は推測してる。お前らにとってレディは、とても興味深い代物だったんじゃないか? あらゆる技術を積み重ねて我々人間が送り込んだ使者は、案外……そうだな。嬉しかったのかもしれない。だから、その中に搭載した一千万人の人間にも興味を持った。そいつらの脳に触れて、そいつらが大切にしてる思い出に触れたとして、そこに戻してやろう、なんて考えたとかな」

 突飛な仮説に自然と苦笑が漏れる。未理亜は続けた。

「確かにエマのように後悔して、その時代に戻れたらこうしたいって考える人間も多い。それでもみんな、今を大事に生きてる。お前らの戯れに翻弄されたくないんだよ。私がしたいのは、私が生まれずレディ・バグがそこへ行かない未来を作ることだ。そうなったら、その戯れに付き合う義理はないって思うんだけど。それとも、高次元の生命体でも『孤独』とか『寂しい』とか考えたりするのか? そういうことならわからんでもない。できればもっと友好的な態度できてほしいけどね。ああ、あと、ひとつ嘘をついてる。懺悔代わりに白状しておくよ」

 力を抜ききり、目を閉じる。

「本当は、両親さえ戻ってきたら私はそれでいい。人類がどうのっていう正義感みたいなものは持ってないんだ。でも、同じことをみんなが思ってその通りにしたら、やっぱりこの世界は成り立たない。研究者ってのは、個より全を優先することを常に考える生き物みたいでね。まあ、お前らバグにしてみれば、こんな行動は私の悪足掻きだろうが――……」



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