第8話 邂逅する父娘

 会議室に肩を並べた大勢の者たちが、スクリーンを見ながら波打つようにどよめいた。

 流れているのは未理亜が消えた瞬間の映像だ。状況の報告のためにモニタルームで登壇した日向は、集まった者たちとともにそれを見つめる。時間はあれからまだ三十分ほどしか経っていない。

 界隈では最も有名といっていい親子が、立て続けに行方をくらました。未理亜は軽視していたが、その衝撃は日向の想像通り大きい。

「映像はここまで。未理亜博士がこの結論に至った経緯については、地球外知的生命体探査SETIに送った内容と同じものを配信してます」

 質問は、と日向が続けると、すぐに声が上がる。

「どんな数値が打ち込まれていたんですか?」

「暗号化されて追えませんでした。未理亜博士による処理と思われます」

「どこに行ったか見当は」

「まったく」

「この報告書が本当なら、今起きてるのはすべてプロキシマbにいる『バグ』が原因の可能性があると未理亜博士は考えて……?」

「そうです」

 動揺した空気がひと際大きくなる。問答を続けるのも埒があかないように思えて、日向は適当なところで強引に切り上げた。

 引き止める声も多くあったが、耳を貸さずに未理亜のラボに戻った。どうせこのあとは、誰がレディ・バグ探査の責任を取るか、指揮はどうするかといった言い合いが繰り広げられるだけだ。

 頭が痛い。顔をしかめながらスクリーンを見ると、隅で不在着信を示すアイコンが点滅していた。エマからだった。鎮痛薬をコーヒーで飲み下してすぐさま折り返す。

「見たよ、坊っちゃん」

 妙に達観した彼女の表情に、日向は「なんだ」と批難めいたため息とともにこぼした。

「エマは知ってたんですね」

「なに、どうするかってだけね。こんな早く行っちまうとは思わんかったさ」

「彼女、どこに行こうとしたんですか」

「さあね。いくつか候補は挙げていたけど、どれを選んだかはわからん。ともかくレディがIDを連れてあの星にいかないようにしようって腹づもりだと」

「そんなことしたってその世界が変わるだけだ」

「そっちでなかったことにしたら、こっちにすべてが戻ってくるかもしれない。そんな理屈だよ」

 スピーカー越しに太い息が聞こえた。きっと彼女も止めようとはしたのだろう。未理亜の性格からして聞かなかったのだと察する。

「あの跳ねっ返り、あれで謝ったつもりなら傲慢なもんだ」

「ご丁寧にデータも端末の使用権限もいろいろ残してくれてました。謝罪代わりみたいに」

「残された方はたまったもんじゃないってのにねえ……」

 日向は同意しつつも、彼女ほど構えていられない自身を情けなく思いながら頷いた。



 ふいに風船に弾かれたように吐き出され、未理亜は「うわっ」と声を上げながら数歩たたらを踏んだ。

 最初に目に飛び込んできたのは下へと続く階段で、落ちる間際で手すりを掴み、なんとか踏みとどまる。スニーカーのゴムがきゅっと鳴いた。リノリウムの踊り場に飛ばされたらしい。さらに上へ通じる階段もあった。辺りにひと気はない。あまり使われていない場所のようだ。

 遠くにかすかに聞こえる雑踏の音と、反響してぼやける人の声。カビと埃の匂いもかすかに鼻先に感じた。神経系には異常はないと見受けられる。

 蛍光灯の薄白い明かりを頼りに身体を見下ろしてみる。直前の記憶にある白の七分袖シャツ、グレーのタイトスカート、白いスニーカーという服装はなんら変わりない。跳ねたコーヒーのシミも残っていた。後頭部で束ねた髪も背中で揺れた。

 ここは本当に、行くことを望んだ二〇二二年の東京なのだろうか。

 左腕の端末も問題なく起動したが、ネットワークには通じていない。時間は二〇四七年の十月五日、十四時三十八分。このまま繋がらなければ、ゆっくりとずれが生じるだろう。ストップウォッチを起動して、滞在時間だけでも記録しようと思った。

 ミラーにして顔を写し、未理亜は未理亜であることをようやく認識する。

 シャツの前をつまみ上げ、ブラジャーに挟んでいた端末用の付属機器があるのを確かめた。ポケットにもカードの手触り。衣服や身体のどこにも欠損はない。

 未理亜は早速、目の前の階段を降りてみることにした。

 ひとつ降りたところにドアがあり、迷わずそこを開ける。すると、天高く吹き抜ける広いコンコースが眼前に広がった。調べていたとおりの景色だ。行き交う人々は男女問わずせわしげで、ビジネスマンらしき風貌をしている。顔立ちからしても日本人がほとんどのようだった。

 ということは、恐らくここが、指定した緯度経度のおおよその位置なのだろう。誤差を考慮しても、シンポジウムの会場はそう遠くないはずだ。

 しかし今、それのどこにいるのかがわからない。地図が頭に入っていてもこれではどうしようもない。

 ガラス張りの壁面を見つけ、映り込む全身を確認してみる。特段見た目が変化するようなこともなく、量子テレポーテーション理論の通り、直前の状態が保持されている。これならば不審に思われることもないはずだ。

 足早な人を避け、通りがかりのゆったりと歩く女性にすみません、と声をかけた。足を止めた彼女は人懐っこい笑みを浮かべる。

「なんでしょう?」

「コンビニ、どこ……ですか? 迷ってしまって」

「ああ。西ホール方面にいった先の、エスカレーターを降りたところにありますよ」

 指差す方にそれが見えた。店のすぐそばが会場のはずだ。

「どうもありがとう」

 未理亜は自然と駆け出していた。エスカレーターの下は広大なフロアで、コンコースよりも多くの人が溢れている。天井を支える何本もの柱には、『宇宙開発シンポジウム』の案内サイネージが灯っている。

 緑のラインのコンビニエンスストアが目に入った。店員がいて、現金でやり取りをしている。元いた時代では、そういった店の類の大半が無人化している。

 中に足を踏み入れ、すぐそこにある新聞のひとつを手に取った。これもとうに電子化されて久しいが、今だけはこの紙という媒体がありがたかった。手にした経済新聞には、二〇二二年九月十六日という日付が印字されていた。

 えもいわれぬ興奮が全身を襲い、肌が粟立った。

 本来自分が跡形もない時代に存在している。なんとも奇妙な心地だ。話や情報の中でしか知らない世界が目の前に広がっている。

 店内の壁にかかる時計は、間もなく十八時をさそうとしていた。イベントが終わりを迎える時刻だ。そのあとは、すぐ隣の会場で立食パーティーが開かれ、そこで二十五歳の透吾と二十三歳の杏奈は親しくなる。

 新聞を戻してシンポジウム会場に小走りで向かった。しかし、アーチ状になっているゲートをくぐろうとしたその時、

「お待ち下さい!」

 わきに立っていた青年に正面に回り込まれた。

「受け付けされてませんよね? あちらで手続きをしていただかないと……」

 青年の示した場所には大きく『受付』と書かれたブースがある。

 見れば周りの者は名入りのネックストラップを提げている。未理亜は申し訳なさそうな笑顔を咄嗟に作り上げ、ポケットから出した杏奈の学生証を手に堂々と告げた。

「もうすぐパーティーだから、それは教授に預けてしまったんです。登録は済んでます。芹澤杏奈で照会していただけますか?」

 青年は、タブレット端末を出してその場で確認を進めた。母の旧姓でのフルネームを見つけたのか、彼は朗らかに「どうぞ」と中へ促した。

 煌々と照らされる会場の中を大股で歩く。終わりに近いせいか来場者はまばらだが、隣のパーティー会場は賑わっている。

 いかにも関係者だという顔をしてそちらに入るも、想像よりもずっと人数が多い。二、三百人はいようかという規模で、点在する丸テーブルを囲むように、多くのグループが群れをなしている。しかも揃いも揃って似たようなスーツ姿。この中から探さねばならないと思うと気が遠くなった。

 出会いは二人がそれぞれ師事する教授の紹介だったと聞くが、名前も顔もわからない。未理亜が知り得るのは両親のみだ。

 パーティー開始のアナウンスが流れ、賑やかさは一層増した。

 こういった場にも、義理で何度か参加したことがある。人に会わされすぎて面倒だった覚えしかないが、知る者がいないとそれも困った。

 さて、と顎に指先をあてて人の流れを注視する。そうしてみると周囲から、それも男からの視線が度々向けられていることに気づいてハッとした。

 この手の集まりは、圧倒的に男女比が偏っている。しかも女が一人となるとやや目立つ。未理亜は上背もあるためなおさらだ。これまで参加したものはどれも、透吾か日向がそばに控えており、そうそう声をかけられるような状況に遭ったことがない。

 盲点だった。そそくさと壁際へ寄ったが、既に遅かった。一人、また一人と、名刺を手にした男が代わる代わる名前と肩書きを勝手に喋っていった。

 名乗られると、名乗らなければいけない気がしてくる。相手もまたそれを望んでくる。

 同姓同名もいなかろう。透吾の関係者に当たってくれればそれも幸いだ。そう思って辻未理亜と名乗っていると、四人目に会った青年が眉を上げた。

「辻……?」

 内心膝を打ちながら、未理亜は素知らぬふうを装い首を傾げる。

「なにか?」

「いえ、名刺を交換した人で同じ苗字がいたんですよ。つくばのドクターコースだったかな? ドローン研究で。ご親族なのかと一瞬思いました」

 間違いなく透吾だ。親族どころか親子だが、顔が似ていないことを幸いに思う。

「いえ、そちらの道の者はいなかったはずです」

「そうでしたか。失礼しました」

「ここの会場にもその方、いらっしゃいます?」

「見かけましたよ。確か、あの辺りに」

 彼が指さした方に顔を向けた。

 テーブルを四つほど数えた先にそれらしい姿を見つけた。目を凝らして見ると、写真の中でのみ知る二十代の父がそこに立っていた。

 パリッとしたスーツ姿に整髪料で撫でつけた髪。体躯も少し細いだろうか。距離があるため顔の細部まで見えないのが惜しい。しかし、知っている父と同一人物のはずなのに、まったく異なる雰囲気を感じた。未理亜は透吾にしばし見入った。

「もしかしてお知り合いでした?」

「いや――」

 隣の彼に尋ねられ、慌てて否定し、未理亜は息を抜いて無理やりほほ笑む。

「……知らない人です」

 そう言わざるを得ないとわかっていても、ほんの少し心が軋んだ。

「あれ? むしろ一緒に喋っている人の方があなたに似てますね」

「え?」

「角度的に見づらいかな。ほら、ここからだと」

 瞬時に嫌な予感がした。彼が横にずれて未理亜を招く。人影が揺れ、透吾と向かい合う者の顔がはっきりと見えた。

 予感は奇しくも当たってしまった。透吾と楽しげに談笑する相手は、同じく若かりし頃の杏奈だった。

 唇を結ぶと知的に見えるが、喋りだすと少女のようだ。笑うたび、内側へ巻かれた茶色の髪が鎖骨の辺りで揺れている。ここにいる杏奈は未理亜と同じ年でも、未理亜よりもずっと柔らかな印象を与えた。

「ね? 似てませんか?」

 彼に同意を求められた時には、身体が勝手に後ずさり、踵を返して逃げるようにそこを離れた。

 このあとどうやったら彼らを引き裂けるだろう。だが、すぐにそれも難しいと気がついた。広間を出たところで足を止めた未理亜は、無意識のうちに額に手を押し付けた。肝心なことを思い出したのだ。

『杏奈は一目惚れしてしまってね』と、少年のような瞳で透吾が語っていたことを。

 広間を辞して一時間半。未理亜は、パーティー会場を見下ろすことの出来る上階のギャラリーに腰を下ろしていた。透明な強化アクリルパネルに仕切られたそこは、暗がりになっていて、階下からは見えにくい。

 未理亜は首を伸ばして下の様子を伺った。酒も入って騒がしさを増した会場の一画で、二人はずっと、二人だけでしゃべっている。

 膝を引き寄せ、大きなため息を吐き捨てた。

 一度仲良くなってしまったものを、どうやって壊せばいいのだろう。特に男女のケースは、下手に手出しをすると逆に燃え上がるパターンもあるという。

 ふと、略奪という物騒な手段もよぎったが、未理亜には恋愛経験が皆無だ。そんな高度な真似はできそうにない。苛立ち紛れにアクリルパネルを蹴飛ばすと、たてつけが悪いのかガタガタと揺れた。

 このまま無意味にこの世界で生きていてなにになるだろう。

 もしもここで自死を選んだらどうなるか。そんな暗いことを考え出した瞬間、再び未理亜をあの重圧感が襲った。

「っな――!」

 薄膜状の何かが全身を覆い、来たときと同様に音が遠のいていく。

「待て! まだ諦めたわけじゃ――」

 声を張り上げ手を伸ばしたが、不可解な力はものともせずに、未理亜のすべてを飲み込んだ。

 弾かれたように吐き出され、目に飛び込んできたのは見覚えのある下へと続く階段。人気のない踊り場。まさかと思って確認もろくにせず転げるように階段を駆け下り、ドアを開ける。すると眼前にはコンコースが広がり、ビジネスマンが行き交っていた。

 しばらくそこにいてみると、未理亜がつい先ほどコンビニエンスストアの場所を聞いた女性がやってくる。わけがわからぬままポケットに手を突っ込んでみると、学生証にまぎれて四枚の名刺が残っていた。

「嘘だろ……」

 端末を開き、ストップウォッチを見た。一時間四十三分二十八秒から、時間はどんどん進んでいく。

 一度リセットし、また0からスタートさせてエスカレーターに走った。下から天井まで貫く柱にはサイネージの案内があった。

 階下へ駆け下りて会場の受付へと向かえば、ゲートのわきにあの青年が佇んでいる。アーチ状のそれをくぐろうとしたその時、「お待ち下さい!」とまったく同じ動きで正面に回り込まれた。

「受け付けされてませんよね? あちらで手続きをしていただかないと……」

 どうやら二度目が、未理亜に用意されたらしい。


 認識している限りでは、戻ってきた者の話の中に『その時を繰り返した』という報告はなかった。

 そんなものがあれば、もっと検証していたはずだ。ループするとなるとその時代に取り残される危険がある。未だ戻ってきていない者が、それに陥っている可能性も出てくる。

 しかし、このIDに意味を持たせたのは未理亜しかいない。二回目で結論を出すのは早計だ。

 最初と同じ手口で中に潜り込んだ未理亜は、パーティー会場の人目につかない片隅から、透吾のいるテーブルの様子を窺うことにした。

 位置が知れたことは幸いだった。いざとなれば、手を引いてでも連れ出せる。可能なら接触は避けたいのが本音だが、そうも言っていられない。もし未理亜がこの世界にいられる時間が一時間四十分程度なら、なりふり構っている余地もない。

 パーティー開始のアナウンスが流れて、未理亜はすぐに動き出した。

 ドリンクコーナーからワイングラスを掠め取り、透吾が周囲の者と乾杯をしているところへ、さりげなく割り入ろうとした。が、彼の周りにはひっきりなしに人が訪れる。

 こういう場での己を、おぼろげに振り返った。元の世界ではそれなりの知名度があったせいか、無表情で突っ立っているだけであっても人はやってきた。無愛想でも少し喋れば彼らは勝手に感心し、未理亜のことを褒め称え、適当に撮影に応じると喜びもした。加えて透吾や日向がいたのだ。頼まなくても注目される。

 振る舞い方を母に教わっておけたらよかった。先ほど見た杏奈の柔らかな笑顔は、天性でもあるのだろうが、人を惹きつける魅力にあふれていた。

 あのように笑えたのは、一体いつが最後だったか。役に立たない後悔を追い払うように首を振る。

「頭を使え頭を……」

 なんでもいい。透吾の気を引いて杏奈と会わない未来を作れば凌げるはずなのだ。

 意を決して足を踏み出した。ちょうど来客が途切れ、透吾が息をつく隙を狙いすまして目の前に立つ。彼は未理亜を歓迎するようににこりと笑った。

「こんにちは」

 間近で感じる肌や声の若さにうろたえそうになる。この透吾は、日向よりも年下だ。

「辻透吾さん」

 動揺をごまかして笑顔を作った。頭に描いたのは、レディ・バグを飛ばし『Hi Daddy』のメッセージを自慢げに見せた幼子だったが、上手く笑えた自信はなかった。

「ええと、シンポジウムのほうでお会いしてました? 美人は忘れないと思うんですが、人に会いすぎてどうも……」

 笑いじわが浮かばないだけで、笑った時に眉尻の下がる様子は見慣れた父そのものだ。平気で数か月顔を合わせなかったこともあるのに、目の前で消えたせいもあってか、いざ直面するとやけに感傷的になる。

 はぐらかすようにワイングラスを彼に掲げ、未理亜は名乗った。

「芹澤といいます。MITで航空宇宙工学を専攻していて、ぜひお話ができたらと」

 いろいろと間違った気がしないでもなかったが、透吾の心を掴むことはできたと確信した。彼の瞳が、少年のように生き生きときらめいたのだ。


「ドローンを宇宙で活動させるのはまだ難しいですね」

 声色に歯がゆさを混ぜながらも、透吾は唇に笑みをかたち作る。

「現段階では、地上からただ真上に上昇させてそのまま成層圏を抜け、中間圏から地球を撮影するのが精々です。大気圏への再突入は、燃え尽きてしまうので不可。飛ばしっぱなしの状態です」

 ここでは人が多すぎる、などと適当な理由をつけて、未理亜は透吾を端のテーブルに連れ出した。そこまではよかったものの、気の利いた会話などできるわけもなく、この時代の工学技術の知識もぼんやりとしていたせいで話題にも事欠いてしまった。

 苦し紛れに『宇宙でドローンを活動させるには』と尋ねたところ、また彼の瞳は輝きだし、熱のこもった口調で話し始めた。

「だから、捨て置いてくるしか現状選択肢がないんですよ。どこかの惑星で、宇宙飛行士が置いてくればできなくもないでしょうが、大気がある程度ないとどこまでも飛んでいってしまう」

 でもこんなこと、MITにいらっしゃる方にしたら当然ご存知ですよね、失礼しました。謝る透吾に未理亜はいいえと首を振り、ワインを口に運ぶ。

 地球には大気があるため、それを押しのけるだけの力を要する。ゆえに、『マルチコプター』という三つ以上のプロペラを持つ形になっている。最初に造ったレディ・バグのプロトタイプも、その形状だった。

 将来的には大気の薄い場所に適応させることも可能になるが、ここでヒントを与えては、この透吾が作ってしまう危険がある。

「でもいつかできると思います。辻さんの言うように、宇宙飛行士が置いてくるのもひとつの手ですけど、宇宙船でそこまで行って、空中で射出したっていい。太陽系の中の適した星で実験を繰り返すことになるだろうけど」

「もっと高速で宇宙を旅できれば、もう少し変わりそうですね。通信にしろ移動にしろ時間がどうしてもネックになって」

「ああ、それなら――」

 口を滑らせかけて瞬時に噤む。当たり前になってしまったEPR通信がこの時代にはまだない。知っていることを知らない体でいるのは、案外骨が折れた。

「それなら?」

「いえ。いずれ解決すると思います」

 彼は不思議そうな顔をしたが、すぐにふっと息を抜いて顎を引いた。

 エマがEPR通信を確立させるのはもう数年あとだ。その頃には加速推進技術もだいぶ進歩している。レディ・バグがなくても、ホーキングらが提唱した『ブレイクスルー・スターショット計画』くらいは可能になるかもしれない。

 幸いというべきか、透吾が未理亜に一目惚れをしたような気配もない。このまま引きつけられればきっと大丈夫だろうと安心しかけたその時、透吾がスーツの胸ポケットをまさぐりだした。

 取り出されたのは、長方形のガジェットだ。表面のディスプレイが明るく光っている。

「失礼。ちょっと電話を」

 もしや、と勘が働いた。透吾は数歩未理亜から離れた場所でそれを耳に押し当て、誰かと会話をし始める。あれが例の、スマートフォンなのではなかろうか。

「すみません。教授に呼ばれてしまったので、これで」

 透吾は笑顔で会釈をして、未理亜に手を振り背を向けた。呼び止めるだけの口実も思い浮かばず、未理亜は彼を視線で追いかける。

 ストップウォッチをちらりと見やった。起動から一時間以上経過しており、杏奈と対面したタイミングと随分時間もずれている。

 十分邪魔になったはずだとほっと息を吐きかけた未理亜だったが、目の前の光景にまたしても額を覆う羽目になった。

 教授らしき者に杏奈を紹介された透吾が、目を丸くしたあと、こちらを窺おうとしている。未理亜は慌てて人影に身を隠す。

 少々抵抗したところで、未来は変えられないようだ。


 未理亜は階段を見下ろし、リノリウムの頂上で膝を抱えて座った。

 薄膜に包まれる時間は、体感的にはわずか三秒。端末のストップウォッチは一時間四十分三十七秒。対して時計は、最初に飛ばされた時から四十八分進んだ状態だ。時間の流れが違うのか、ただ狂っているだけなのかはわからない。

 右手の甲を目前にかざし、チップの埋まる場所を見つめた。この世界がまた二〇二二年なら、原因はこれの可能性がある。

 日時と場所を指定したから何度もここに戻ってくる。この数字をIDだけに書き換えれば、元の世界に戻れるのかもしれない。あるいは書き換えたら、この世界に留まることも。

「……行くか」

 意気込むように膝を押して未理亜は立ち上がった。

 ほんの数分透吾を引きつけた程度では失敗する。ならば、パーティーの最中ずっと気を引くくらいでないと難しそうだ。どこかへ連れ出す。教授もろともおしゃべりに興じる。別の誰かを利用する。物理的な拘束。あるいは、いっそ。

 薄ら寒いことを思い浮かべた自分に嫌気がさす。相手は人であり父親なのだ。親殺しのパラドクスはさておいても、そんなことが許されるわけがない。なにより自分が許せない。

 痛みだしそうな頭を振って、コンコースへ出るドアを身体で押し開けた。思った通り、二〇二二年の光景だった。

 三度目ともなると慣れたもので、潜入も、透吾との出会いも、難なく果たすことができた。先ほどよりも会話もスムーズで、未理亜も内心胸を撫で下ろす。

 透吾は誰かからの『教えて』に弱い。一を聞くと、五にも十にもなる。その傾向はこの頃からあったようだ。単なる子煩悩なのではなく、面倒見がいい性格をしていたのだろう。

「マイクロドローンもますます性能が向上してきました。センサーやカメラを付けるとどうしても重量がかさみますが、次から次へとクリアしていきます」

「どのくらいの大きさなんですか?」

「お見せしましょう。手を出して」

 透吾はジャケットのポケットから平たい機体を出し、未理亜が差し向けた手のひらに、名刺を下敷きにして載せた。ハッとして顔を上げると、なにも言わず透吾は笑う。そこには所属と研究室と透吾の名前が書かれていた。

 しかたなく名刺をポケットにしまい、ドローンをまじまじと見る。

 四つのプロペラと小さな本体。少し風が吹いただけで飛んでしまいそうなそれは、わずかな水面の揺らぎで逃げゆくアメンボを思わせた。

「小さい……」

「でしょう?」

 レディ・バグは未理亜の両手の上に載るほどの大きさだ。だが、その機体はプロペラを含めても、未理亜の片手にすっぽり収まっている。

 小型化技術は日本が随一と言われたのがよくわかる。未理亜は本体をつまみ上げ、ひっくり返してみた。構造自体はとてもシンプルらしい。

「カメラとセンサーとバッテリーがついて、それで百五十グラム。稼働時間は十五分ほどで、まだまだ改良の余地がありますが」

「屋内用? 風には弱いですよね」

「屋内限定です。操作はこれなので、手軽でいいんですがね」

 透吾が胸ポケットをまさぐって、スマートフォンを取り出し揺らす。瞬間、未理亜は顔を跳ね上げた。

「飛んでいるところ、見ることはできますか?」

 父におねだりなど幼少以来禄にした覚えはないが、小首を傾げて媚びるように尋ねる。すると、透吾の表情がわずかながら、惚けたように見えた。

 上階のギャラリーに誘い、会場が見渡せる場所で二人は立ち止まる。アクリルパネルのへりを掴んだ未理亜は、マイクロドローンを置いた手のひらを宙空に差し出し、透吾を急き立てた。

 透吾が画面でなにかの操作を終えると、静かなモーター音とともにプロペラが勢いよく回転する。

「落とさないようにしないとなあ。バレたら教授に怒られそうだ」

 彼の口からぼやきがもれると同時に、ドローンは未理亜の手から飛び上がった。

 動きはとてもなめらかで、会場の上空をすいすいと飛んでいく。透吾が心血を注ぎ開発していたものに、時代を越えて出会えた。その事実も嬉しく、言葉も忘れて前のめりになる。

「……クールな人ですね」透吾が突然告げた。

「クール? ああ、申し訳ない。表現に乏しくて」

「あ、いや、すみません。そういうつもりでは。こういうのを誰かにお見せすると大体、『わあ』とか『きゃあ』とか言われるんですけどね。あなたはただ目を輝かせてずっと見てるから、それが……」

 印象的で。

 掠れかけの声でそう続けたあと、透吾ははにかんで視線をドローンに戻す。

 胸中がそばだつ気配に、未理亜は咄嗟に透吾から顔を背けた。

 彼はロマンティストだ。妙な刺激はできれば避けたい。再びドローンを注視していると、ゆっくりと会場を旋回して二人の元へ戻ってくる。

「充電が切れるな……。ちょっと預かって」

「え? あ」

 渡されたスマートフォンには、バッテリー低下を示すアラートが表示されている。画面には薄いフィルムが貼られ、外周と背面を保護するようにグレーのシンプルなシリコンカバーがはまっていた。

 透吾は動きが鈍くなってきたそれを受け止めようと、身を乗り出す。

 その時だった。ガコンという音とともにアクリルパネルが揺れて外れ、透吾の身体を支えていたそれは、彼を振り落としてボルト一本でぶら下がった。

「とうさ――……っ!!」

 手を伸ばしたが、二の舞を恐れて踏みとどまった。そのまま立ち竦んで膝が崩折れる。鈍い落下音とともに悲鳴が聞こえ、未理亜は叫びだしそうな口を両手で覆った。

 最初に蹴飛ばしたアクリルパネルの場所だとわかった。あの時既にガタついていた。下までは十五メートルはあろうかという高さだ。打ちどころが悪ければ死にかねない。

 いっそ手を掛けたら早いのではないかと一瞬でも考えた自身を呪った。事故でもこの後味の悪さなのに、自ら手をかけるなど、考えただけでも怖気が走った。今でさえ、ガチガチと鳴る奥歯の震えに必死で耐えている。

「おい君っ、怪我は!?」

「動いちゃだめだ! 今救助を――」

 透吾の安否を問う周囲の声が耳に入り、未理亜は這いずるようにパネルに近寄った。見ると彼は、背をさすりながらも身体を起こし、笑顔まで見せていた。

 そばに、シンポジウム会場で使われていたらしい設営用の発泡スチロールが散乱している。どうやら運ばれていたそれに突っ込んだようだった。

 内臓が飛び出てきそうなほどに大きな息を吐いて、緊張が緩んだのもつかの間。そこに駆け寄る女の姿に未理亜は眉をひそめた。杏奈だ。

 入念に避けてきたのに、ここでも杏奈が、透吾に近付く。

 運命など信じたこともない。あるのはただの偶然と縁。そう思って生きてきた。しかし彼らに限っては、あり得るのかもしれないという想いがよぎる。

 未理亜は電源が切れた透吾のスマートフォンを握りしめ、ポケットにしまい込んだ。ストップウォッチが間もなく、一時間四十分に届こうとしていた。


 それから未理亜は、何度かループを繰り返した。何がどのタイミングで起こるかも把握し、なんとか会わさないように画策するも、毎度毎度無駄に終わった。

 どう足掻いてもこのパーティーの最中に彼らは出会い、惹かれ合うようにできている。シナリオをどう変えても、彼らは約束されたように出会う。

 七回目を数えた頃には目の下にくまが浮き、八回目ではついに透吾に「徹夜ですか?」と気遣われる醜態まで晒した。しまいにはその場を辞して、階段に戻ってきたのである。

「埒が明かない」

 こうまで妨害に失敗すると、本当にここにこそ、全員を戻すためのキーが潜んでいるのではと思いたくなってくる。

 滞在時間には個人差があった。未理亜は比較的短い上、毎回その時間でタイムリープする。ということは。

 一番上まで昇って座り込み、未理亜は端末でIDの変換画面を開いた。1から先を全て消して、IDのみに変更する。これで元の世界に戻れなかったら、その時は別の手立てを考えるしかない。

 この世界で得たものは、透吾を含む数名の名刺。彼が使っていたスマートフォン。それから、どうやっても二人が出会うという事実。唯一検証できなかったのは、この世界で未理亜自身が死のうとしたらどうなるか。

 透吾も杏奈も死なせたくはない。とするともっとも排除が簡単なのは、未理亜自身だ。それも常に他者に囲まれるようになるMITに入る前、八歳未満の未理亜に手をかける必要がある。

 障害が残る傷を負わせるか、手っ取り早くこの手にかけてしまうか。しかしそうしたら、両親はどうなる?

 父は確実に消沈するし、そばで過ごす母にも酷な思いをさせる。それを目の当たりにして、これでよかったと思えるだろうか。そもそも平手打ちすらまともにしたことがないのに、手を下すことなどできるだろうか。

 ならばやはり、この時代を利用したい。必要以上に誰かを傷つけないでいられる方法はこれしかない。

 幸いにして手応えはあった。あとは己の覚悟次第だ。杏奈に惹かれるよりも早く、父を。あの無邪気な青年を。

 透吾を誘惑すればいい。

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