第7話 変える覚悟
街区から外れたその場所は、オートノマスカーが案内を拒絶した道の先にあった。
事実、舗装路は端末の地図が示すポインタの三百メートルは手前で途絶え、その先は森と形容できるほどに鬱蒼としている。灯りは乏しく、日暮れも近いせいで足元もおぼつかない暗さだった。
階段状の路面にはかろうじて縁石のようなものが敷かれ、辺りは湿った枯れ葉と土の匂いが立ち込めている。一歩進むごとにケーキの袋が前後左右に大きく揺れる。結局食べられずに土産として持参したのだが、気を使う代物でなくてよかったと未理亜は思わずにいられなかった。
「本当に量子力学の権威がこんな場所に住んでるんですか」
後ろで日向が疑わしそうに言った。
「ああ。これでもマシになった方だよ。前に来たときはもっと手前で車が停まった。一キロは歩かされたかな。言っただろ。変人なんだ」
「そのような人物に心当たりがないんですが。名前は?」
「エマ・ブルックス」
日向の足が止まる気配がした。未理亜が階段を登りきったところで振り返ると、日向は目を丸くしていた。
「EPR通信を確立させた、あの?」
「そう。表立っては普通ぶってるけど、実態は日本フリークのファンキーなおばちゃんだよ。十年以上この奥に引っ込んでる」
「親交があったんですね。どうりで専門外の量子にも詳しくなるわけだ」
「父と彼女が旧知の仲でね。にしてもここは、相変わらずの佇まいだな」
前方には開け放たれた鉄格子の門があり、奥に日本家屋風の屋敷が控えている。
アーチ状のそれを二人はくぐり、玄関の引き戸の脇にある呼び鈴を鳴らした。数十年ほど時を止めたような雰囲気に、日向は圧倒されているようだった。
「今どきバーチャルで会合ができないというから、誰かと思えば」
「通信の先端に行き過ぎて疲れたんだと。知人でも滅多にコールに応じないんだ。五十五歳だったかな。でも、勘は鈍ってないはずだ」
未理亜が「エマ!」と声を張って間もなく、奥からバタバタとした足音が聞こえてきた。
「嬢ちゃん?」
スライドした戸からシックな四季花の浴衣に身を包んだ女が顔を覗かせ、未理亜は見上げて目礼をする。
「ひさしぶり、エマ。急に悪いね」
「ひさしぶりもなにもアンタ、こーんな辺境に何しに……、ってあらま、いい男」
頭のてっぺんでくるりとひとつに丸まったシルバーグレイを見せつけるように、日向の全身をねめつけた。無遠慮な視線にたじろいだ日向だったが、一礼して右手を差し出した。
「篠原日向です。お会いできて光栄です、ブルックス博士」
「エマでいいさ坊っちゃん。とにかくお入り。大したもてなしはできないけどね」
握手を済ませて引っ込んだエマに二人は続く。
和風なつくりでいながら上がりかまちなどはない。鹿のハンティング・トロフィーが出迎えたと思えば、床に小さな松の盆栽が現れもする、奇っ怪な家だ。日向が落ち着きなく頭を振り動かしている。
「エマ。今日のニュースは見てるか?」
「集団消失の? 随分とおかしな事件だねぇ、アレ」
「ああ。アレに父と母が巻き込まれた」
できるだけ感情を押し殺して告げる。しかしエマはひゅっと聞こえるほど息を飲み、勢いよく振り返った。心底驚いた様子だった。
「透吾と杏奈が?」
「私たちの目の前で消えたんだ」
あの瞬間が思い起こされて俯いてしまった未理亜に、エマが駆け寄りそっと抱きしめる。ともすればまた泣き出しそうになるのを耐え、未理亜も彼女に腕を回した。
暫くそうしていたが、慰めてもらいに来たわけではない。そう強く自身に言い聞かせて、彼女の背を二度叩く。再び見合わせた深緑色の瞳を見つめ、未理亜は本題を切り出した。
「私たちは、プロキシマbにいる『何か』がそれに関与してると仮説を立てている」
エマが今度は口をあんぐりと開け、その中で「何か」と繰り返す。
「そう。ただの系外惑星探査だったはずなのにな。とんでもないものを見つけたみたいだ」
「ちょっと嬢ちゃん。『何か』を見つけたってなんだ? 生命体だとでも言う気かい?」
「可能性がある。確信を得るためにも、エマの知恵を借りたい」
しばし動揺していたエマだったが、冗談で言っているのではないことが伝わったらしい。エマは何度か頷いたあと、フローリングに床の間が据えられたダイニングに二人を案内した。
テーブルを埋めていた辞典や紙の論文の束をかき分けて作ったスペースに、皿に載ったケーキと三つの湯呑が置かれた。古ぼけたペンダントライトの淡い光に照らされ、茶の表面には
日向と並んでダイニングチェアに掛けた未理亜は、向かいに座るエマに顛末を要領よく伝え、その結論に至った経緯を詳細に説明する。乱数発生機のことも、透吾と杏奈が消える数秒前に彼らが歪んで見えたことも、必要と感じた情報は余さず伝えた。
鼻で笑われてもおかしくなかったが、エマは黙って聞き、やがて深い息をもらして納得したように顎を沈めた。
「そういうことなら、『何か』がいるかもしれないというのは理屈としちゃ悪くない。むしろこんだけ不可解なら、そのくらいの方がいっそ収まりよくなっちまうね」
「だろ? だから――」
「それでも恐らく理解はされんよ。研究機関の連中もどこまで認めるか。私は嬢ちゃん贔屓だが、あいつらの頭の堅さはよく知ってる」
「そんな奴らどうでもいい。父さんと母さんと……、ほかに消えた人たちが帰ってくるなら」
本気なのかと、エマのまなざしが問いかける。
彼女がこれまで行ってきた奇抜で革新的な発表のほとんどは、研究者の理解を得ることなく葬り去られている。EPR通信は日の目を見たが、彼女を見る目の根の部分は、さほど変わらなかった。
それを遠回しに匂わせているのだろうが、未理亜の決意は揺るがない。
「秘密裏でもいいんだ。取り戻せるなら、それで」
「僕からもお願いします、エマ。レディは二か月もしないうちに活動を停止する。それまでになんとかしないと」
先んじて頭を下げた日向に続き、未理亜も腰をかがめた。エマが慌てた様子でそれをやめさせ、まったく、と吐息をもらす。
「わかったよ。とはいえ、大した力が貸せるとも思えないがね」
「乱数発生器で連続する1。一千万人のID。時空を超えて移動する人間。これらから、どんなモノが考えられる?」
「量子に影響を及ぼすことのできるモノがプロキシマbに。それも五次元よりも上の次元に存在している」
テーブルに前のめりになって喋る彼女の口ぶりに迷いはなかった。むしろ未理亜が話している最中から、その可能性を真っ先に考えていたようにも見受けられた。
未理亜が考えた中で最も納得がいき、最も解決法に困る結論でもある。量子力学の異端者は、それをあっさりと解として明示した。
「量子に干渉できて、IDで個人を識別し一致させ、過去に飛ばす。それもその人物の思い出深い場所や時だったりする。そんなことができる存在なんて三次元にはいない」
「そんな馬鹿な」
いち早く苦言を呈したのは日向だった。エマは困ったような笑みを浮かべて、一旦「うん」と同調する。
「坊っちゃんがそう言いたい気持ちもわかるがね、この宇宙は十一次元まであるんだ。我らが感知できない領域だからといって、『ない』と断言できる術は持たんのだよ」
「未理亜も同意見ですか」
「ああ。プロキシマbのそいつらはさながら、レディを通じてこの地球にやってきた『バグ』ってところか」
日向は不信そうに眉をひそめたが、椅子に深く座り直してエマに先を促した。
「我らが住まう三次元空間四次元時空は、三点の立体的な座標で表現された上に時間の概念が乗っかったもんだ。それより高次の場所にいるモノは、我らと切り離せない時間の制約すらも受けない可能性がある。そうなると、五次元でも六次元でも、もっと上だっていい。そこの存在なら、距離も関係なく我らに干渉できる。しかもそれはどうやったって、
エマはその辺にあった紙を引き寄せペンを手にした。
左上にぐるっと直径五センチほどの円を描く。もう一つ右下に同じような円を描き、その周りに花びらのような波線を足して二人の前に滑らせた。
「我らから見たひとつ下にある二次元はこうなってる。坊っちゃん。その円と花の双方を、二次元的に干渉させてみなよ」
エマはぶっきらぼうにペンを日向へ放り、テーブルに頬杖をつく。
「干渉、って……」
「難しく考えなくていいさ」
日向は渋々ペンを取り、左上の円の外周から右下の花びらの先へとまっすぐに線を引っ張った。
「これでいいですか」
「上出来だ。んじゃ、円と線の接点から花を二次元的に見た時、そこにあるのが花であると認識することは?」
「不可能」
「あるいは、なにか描いていることはわかると思うかい?」
「二次元では、あくまでこの平面上で起こることしか認識できないはずですから、せいぜいペン先が紙に触れたのがわかるくらいでは?」
「そう、そのとおりだ」
緩慢にエマが手を叩いたことに、日向がむっと唇を歪めた。
「じゃあ、そいつに三次元的に干渉するとしたらどうする?」
「は……?」
「なんだい。嬢ちゃんの助手にしてはお前さん随分カタいね」
「そこが私にない良さなんだよ」
未理亜はエマに向かって愛想笑いをもらしたあと、紙を引き寄せ手を出した。
「貸せ、ヒュー」
その手に日向はペンを握らせる。未理亜は紙を裏返し、円と円とを重ね合わせたところへ躊躇いなくペン先を刺した。
「つまり、こういうことだろ」
それをテーブルに放り出して、椅子の背もたれに鷹揚に肘をつく。ペンに貫かれ曲がった紙は、離れていた二点が接するかたちとなっている。
「二つの円にしてみればこの通り、得体の知れない力によって突然別の世界がやってきた感覚だ。でも我々にしてみたら、チェスなんかのボードゲームとなんら変わりない。それが今この地球で起こってることなんじゃないか、って私もエマも思ってるわけだ」
「だからって、高次元からのアクセスだなんて……。そこまで短絡的に考えられないし、あまりに神がかり的過ぎます。仮説にしたってもう少し詰める必要がある」
「待ってられるか。ないと証明する方が難しい」
「アインシュタインだって量子論は最後まで否定しましたよ」
「その頃からもう百年も経過してるんだぞ。神だって、ダイスくらい振りたくなる」
「神って」
日向は険しく目を細め、腹落ちしない様子で鼻を鳴らす。それを宥めるように、眉尻を下げてエマが言った。
「坊っちゃん。量子ってのはおかしい世界でね。観測されるまでわからないのはもちろん、その時あっても数瞬後にはなくなることもある。人間が消えたってのも、量子の世界では当たり前の現象なんだよ」
「なら、現代に住む人間が時空を超えて別の世界に行くってどういうことなんですか」
「さっき嬢ちゃんが言ったように、奴らが我らでチェスをしてるようなイメージかね。原理としては量子テレポーテーション理論に近いはずだ。移動する直前の状態を保持したまま、別の場所に現れるのが基本だからね」
「服や持ち物については?」
「そこは疑問だ。でも、消える少し前に歪みが現れた、ってやつ。その時に、奴らは対象者の脳の一部を一瞬読み取っている、なんてのは、ちょいと飛躍しすぎかね。その対象人物が意識している『自分』を飛ばす、みたいなさ」
シルバーグレイの団子頭をゆらりと揺らし、エマは笑う。
日向が首を振りながらペンを掴み、紙から抜いて両方テーブルに投げ出した。
この男が納得するまでには、もう少し時間がかかりそうだ。
未理亜は、紙にぽっかりと空いた穴に視線を落とす。同じような大きさだが、破れ方は微妙に異なっている。それに気づいた途端、ずっと頭にあった疑問を口にした。
「なあ、エマ。消えた人間をこの世界に戻すには、どうしたらいい?」
「難しい質問だね。ただ、縁ある時と場所にその人物を置くという点は興味深い。この世界とそっちとが干渉し合ってる可能性がある。その世界の未来を変えたら、こっちも変わるかもしれない。あるかないかの確率が常に同じだけある、量子ならではの見方だけどね。もしかしたらそいつらは、そこで人間がどんな行動をするのか、観察しているのかもしれないよ」
「そんな俗物的な真似、高次元を住処とするようなモノがしますかね」
日向が怪訝そうに言うと、エマは軽くほほ笑んだ。
「知的生命には好奇心がつきものだろうよ。たとえば飛ばされたその世界で、こっちが辿るはずのない未来を創る。そうしたら周り巡って、こっちにも影響が生まれたりね」
「じゃあ、親殺しのパラドクスならどうだ?」
未理亜は尋ねた。民間人の声として見聞きし、自身にもまたその可能性があると思ったからだ。両親の行き先が未理亜が生まれるより前だった場合、そこでどちらかが命を落としたら今の自分は果たしてどうなるのかと。
「その世界の未来としては変わるだろうが、この世界で自分と関わった全員の記憶からは消えないし、どうなるかねえ。あるいは同じ歴史を辿ろうとして修正する力が働くか、違う方へとそのままいくか。誰にもわからない。案外全部、そいつらのただの気まぐれでことが運んでいるのかもしれん」
エマが湯呑に口をつけたことで話が終わる。未理亜はそれ以上の回答はないと踏み、深く頷いた。
脳を読み取る。考えなかった発想だ。だが記憶は極論、0と1にまで落とし込んだ情報を脳に蓄積しているに過ぎない。もしもその中を飛び交う意識や記憶を電気信号として読めるのなら、記憶に触れ、その時へと連れて行くことも造作ないのかもしれない。
「ところで、今嬢ちゃんの
エマが未理亜の手の甲を指さした。未理亜は頷く。
「ああ。効果があるかわからないが、数字を書き換えてみた」
「それが一千万人分だっけか」
「書き換えだけならそんなに大したことじゃないんですよ。ちなみにエマは……」
「入ってすらないよ。昔取っ払ってこの通りだ」
テーブルの上を滑ってきた手には、その場所を無理やり抉ったような古い傷痕があった。
二人は言葉を詰まらせたが、彼女は肩を揺らして声もなく笑う。やがて笑みをたおやかなものに変え、窓の向こうに半分視線をやった。
「すっかり暗くなったね。部屋を用意するから、今夜は二人とも泊まっておいきよ。嬢ちゃんも、一人の家に帰るのは嫌だろう」
目尻に刻まれた優しげなしわに、つい親の面差しを重ねてしまいそうになる。
幼い頃から、未理亜はエマを慕っていた。彼女が通信を絶つようになって交流は減ったが、尊敬する一人の科学者であるのは変わらない。ゆえに、その申し出は、少なからずありがたいものだった。
「ありがとう、エマ。しばらくのあいだ、ラボに寝泊まりする気でいたんだ」
声を振り絞ったことを悟られないよう注意を払って未理亜が答えると、エマはゆっくりと瞬き、首を一度縦に振った。
湯上がりにとエマが未理亜に用意したのは、生成りに若葉色の麻の葉模様が散る柔らかな浴衣だった。慣れない布地に袖を通し、すかすかする胸元も放ったらかしにして茶の細帯を身体の前で簡単に結ぶ。蝶結びにしたはずがなぜか縦向きになる。
気にしないことにして廊下を行くと、未理亜にあてがわれた寝室の隣のドアから出てきた日向と鉢合わせた。彼は灰色の浴衣を手にしている。
「先ありがとう、ヒュー」
「いえ。それよりなんですか、その縦結び。工学出のくせに不器用な」
ぶちぶちとぼやきながら未理亜に浴衣を預け、帯に手をかけた。
未理亜は思わず「おい」と目を剥いた。
「結び直すだけです」
「……ああ」
「まったく、衿もなにもだらしのない」
輪をほどいて日向はかがみ、衿と身頃を軽く引いて整える。「そんなことまでできるのか」と未理亜は感心した。
「そういうのを身近にして育ちましたから。この程度は作法みたいなものです」
普段どおりの淡々とした声音で日向は言う。そのあいだにも彼の手はするすると動いた。
考えてみれば三年も組んでいるというのに、彼の私的な話などほとんど訊いたことがない。こんな特技があるとも知らなかった。
「……なあ、ヒュー」
膝をついて甲斐甲斐しく着付ける助手に呼びかける。彼が眉を動かしたため、そのまま未理亜は続けた。
「もしも過去に行けるなら何をする?」
「さあ。考えたこともなかったですね。別分野を新たに開拓したいとは思いますが」
「真面目か」
「でもそれは、他世界ではなくここでしたいことだ。仮に干渉するとしても、僕が僕という人格を認識してるのはこの世界ですからね。未理亜は?」
やや強く帯を締められて一瞬うっと息が詰まった。みるみる内に綺麗な蝶結びができあがる。胸元の心もとない感覚は消え去ったが、頭の中は晴れなかった。
わたしは。掠れた声に、改めて言い直す。
「私は……、過去の自分に、そんなもの造るなと言いに行きたいよ」
ふつっと湧いた憤りに、無意識に袖の内で拳を握る。日向は未理亜を一度見上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「やはりプロトタイプはあなたが造ったんですね」
「……っ」
「でも、今さらなかったことにはできませんよ。今回のことは誰も悪くない。未理亜が自分を責めても無意味だ」
強く断言されて二の句も継げなくなった。こんなフォローが返ってくるとは微塵も思っていなかったのだ。途端に所在ない気分に襲われ、預かった浴衣を顔も見ずに乱暴に突き返す。
「気をつけろ、ヒュー。風呂場も一切全部が手動だった。電気は当然スイッチ式だし、シャワーなんか蛇口の赤と青をそれぞれひねって調節しないと適温にもならない。不便なもんだ」
ほとんど一気に告げると、本当にアナログですねと日向が苦笑した。
「アナログついでに、月が綺麗です。なにがあろうとこの世界は絶えず動いてる」
気づかわしげに投げかけたあと、日向はバスルームの方へと歩いていった。
残された未理亜は、小さなため息をこぼしながら寝室に足を踏み入れる。風呂もそうだったが、照明もモニタも人感センサで自動で切り替わらない家に自身がいることに不思議な心地を覚えた。だけどどこか、懐かしい。
日向が言っていたとおり、大きな満月が昇る明るい夜だった。凛とした光が部屋に降り注ぎ、出窓からでも月の濃淡がはっきりとわかる。
未理亜は明かりもつけぬまま窓際に近づいて、ガラス戸を押し開けた。涼しさをはらんだ夜風が真っ直ぐ落ちる黒髪を揺らし、思考を遠い空の彼方へ舞い上がらせる。
月のひと際濃く映える『静かの海』にアポロが降り立ったのは、一九六九年。そのクルーたちも、裏にある数々のドラマを背負い偉業を成し遂げた。それから百年と経たない内に、人類は、無人とはいえ太陽系外へ旅も果たした。
だが、あらゆる最新工学の賜物が招いた結果は散々なものだ。
元来絶対的な流れとして、この世界には時間の概念が存在する。しかしそれを超越するものが接触してきたとなると、薄ら寒さを覚えると同時に、恐れ知らずの好奇心もわいてくる。
時と世界を、次元を超えて、自分もその流れを体感できたら。
「とんでもないバグを見つけたもんだな……」
呟いて自嘲気味な笑いを落としたとき、控えめにドアを叩く音がした。振り返ったのを見越したように、エマの声がする。
「嬢ちゃん。少しいいかい?」
返事をして迎え入れると、彼女も月を見て頬を緩ませた。
「よく光ってるねぇ」
「うん。あんな感じの色の濃い満月が出ると、父さんは決まって『卵が食べたい』と言い出すんだ」
「そういやよく杏奈のエッグタルトを食べてたな。ケーキも美味しかったよ。ごちそうさん」
二人窓辺に並ぶ。入浴前に、彼女にもレディ・バグの映像や乱数発生器の推移、所内で行方不明になった者の聴取データを共有し、改めての見解を受けた。しかし未理亜の結論はやはり変わらない。
「今もまだ不明者は増え続けているんだね」
「うん。だから早く止めたい。先にアメリカの方への連絡と、
月に背を向け窓に腰を預ける。するとエマが身体を半分ほど未理亜に傾け、頬を強張らせた。
「アンタがどうする気でいるか、ちっとは想像できるつもりだよ」
未理亜は瞬いて先を促す。
「自分もその『何か』に巻き込まれようってんだろう」
エマは平坦な口調で言ったあと、ゆっくりとしたしぐさで腕を組んだ。未理亜は目を大きく見開いた。
「恐れ入るな。年の功ってやつか?」
すると彼女は落胆の息を落とし、首をやれやれと力なく振る。予想通りだったことにエマは心底呆れ返ったようで、思い切り眉を寄せ、ずいと顔を近づけてきた。
「まずいことを言ったと思ったんだ。いくつになろうが、嬢ちゃんの性格の本質まで変わりゃしないんだろうしな」
「もともと一つの案として考えてはいたんだ。エマに言われなくても、いずれそうした」
「そんなことしてどうするんだい。無事で済むかもわからない。望み通りの時代や場所に行けるかも定かじゃないのに」
エマは慌てたように述べたが、未理亜は軽く笑って言葉を遮った。
「本当にな。馬鹿みたいだって自分でも思う。でもな、たとえばそっちの世界で、IDを積む計画を潰す。そもそもそれを抜いておく。私に障害が出るような傷を負わせてもいいかもな。あるいはいっそ、私が生まれないようにしたっていい。そうすればレディも誕生しないだろ? さすがに親殺しは忍びないけど、二人が出会わないようにするくらいなら、良心の呵責も小さくて済む」
「そっちの問題より」ぴんと伸びたエマの指先が、未理亜の胸元を刺すように押し当てられた。「今の、ここに、私の目の前にいるアンタは、どうなる」
単語が区切られるごとに突っつく強さを増す力によろめき、一歩後ずさる。それでも未理亜は決然と言った。
「どうなってもいい。仮に戻ってこれなかったとして、少なくとも母さんは穏やかに過ごせるはずだ」
母がいつからそうだったのかは、記憶力に自信があっても思い出せない。ということは、記憶もろくにないころからなのだろう。一番古い記憶では、未理亜は父の膝の上で外国語の書物を読んでいて、母はその場にはいなかった。
父のお気に入りの古いラジコンヘリが突然動かなくなったとき、未理亜はコントローラを分解して回路部分の接触不良を見つけ、帰宅した父に意気揚々と見せた。よくわかったな、すごいぞ。父は手放しで褒めた。
母さんは、なにか壊れているものない? 隣にいた母に訊いたが、彼女の笑顔は引きつっていた。母の部屋に鍵がかけられるようになったのは、そのすぐあとだ。
MITの誘いが未理亜に来たとき、父はこの上ない教育機関だと喜んだ。一方母は、遠い場所に行くのねと、どこか安堵した様子で言った。
「親って生き物を見くびるんじゃないよ。そんな単純なものか」
低い声でエマが言い放つ。彼女も気づいていたのだと思うと、ますます疑いようもない。
「杏奈が嬢ちゃんに対してうまくやれたかは何も言えん。その分透吾がアンタに甘くなって、余計こじれてもいったんだろうさ。それでも娘の不在を簡単に喜べる子だとは、私は思わん」
「そうかもしれない。でもそれだけじゃない。今もまだ、人は消えたり戻ったりを繰り返してる」
エマの息がぐっと詰まる。
未理亜を思いやってくれてるのはわかっていた。幼い頃から目をかけて、未理亜の才を伸ばす助けを買って出てくれた彼女だ。透吾と杏奈の無事も、未理亜の身も案じるのは当然だろう。
それでも。
0と1は運命を分かつ。ならばその世界で0にしたら、この世界は何か変わってくれるのではなかろうか。そんな単純で飛躍した思考に、気づけば囚われてしまっていた。
「行ったところで、ここまででき上がってる歴史に抗えない可能性もあるんだよ」
「それでもなにもしないでいるよりいい。なんとか邪魔してみるさ」
「嬢ちゃん」エマが未理亜の両肩を掴んだ。未理亜は揺るぎなく見つめ返した。
エマが喉を詰まらせる。月明かりが涙にさざめく瞳を照らし、水面のようにきらきらと輝く。
わかってくれ、とほほ笑みかけた。やがて彼女は諦めたように、未理亜の背を強く抱き寄せた。離れがたいと思うほど優しいぬくもりだった。
「馬鹿な娘だね、本当に……」
父の友人という立場のせいかおばと姪のような関係だったが、彼女と同年代として過ごすのも楽しそうだ。きっと親友になれただろう。
「算段は? なにかメッセージでも送る気かい?」
「ある意味近い。あの星に住んでる『バグ』が私のIDで私個人を識別できるなら、私の意図を読み取ることに賭けてみようと思う」
「なんだそりゃ。そんな都合よくいくか。神様じゃあるまいし」
「そうか? 神様も幽霊も天使も悪魔も実は高次元の存在で、我々に時々気まぐれに干渉してきてるかもしれないのに」
「つまらん冗談言ってんじゃないよ」
エマが思い切りよく尻を叩く。未理亜は「いっ」と小さく呻き、そこをさすった。
「割と本気だぞ」
「知ったことかい。さあさ、もう寝ちまいな」
離れながらエマがぶっきらぼうに手を払う。彼女はそのまま踵を返したが、ドアのもとでくるりと振り返った。
「エマ?」
「アンタ、よくちゃんと浴衣着れたね」
「ヒューが着せてくれた。明日の朝にはどうせぐちゃぐちゃになるだろうにな」
「あんまり迷惑かけるんじゃないよ。あれはいい男だ。心労を煩わせちゃ不憫だよ」
綺麗に整った衿元と帯に未理亜は触れる。残されて一番面倒をかけるのは間違いなくあの男だ。
「ああ、謝っておく」
「そうしな。それじゃ」
おやすみ、と互いに言い合う。ドアが閉じる間際まで、強がりなほほ笑みは絶やさずにいた。
「NASA、アメリカ航空宇宙局は今日未明、ビデオシューティング計画に応募した一千万人分のIDデータが流出したことを正式に発表しました」
エマの家から帰った日の昼過ぎ、ラボで流れてきた音声ニュースに日向がデスクモニタから顔を上げた。向かいで未理亜は耳だけを傾ける。
「該当者は、専用ページで手の甲をかざすだけで、IDの書き換えは行われます。応募をした方への直接のご連絡もしておりますが、お早めに――」
続きのアナウンスに日向は「なるほど」と呟き、椅子に背中を押し付ける。スプリングがキイと神経質そうに鳴く。
「うまいこといくものですね」
「訴訟大国は敏感だからな」
「ハッキングも痕跡も流出も全部偽装。その上書き換え用のプログラム提供まで。朝起きたら全部済んでるなんて」
「仕事が早い人材が多いな。結構結構」
言いながらわき出たあくびを噛み殺す。実際大した手間ではなかったが、何も知らせていなかったせいか、日向の目が細くなった。
「そんな寝言が言えるくらいなら寝て下さいよ。エマとの話で興奮したのかもしれませんが」
「これに関しちゃ時間が惜しい。大目に見ろ」
突貫で作り上げた専用ページへのアクセス数が徐々に伸びていくのを見ながら、未理亜は傍らのタンブラーに入ったコーヒーに口をつけた。日向がこれ見よがしに、大きなため息を天井に向かって飛ばしていた。再び視線を絡ませた時には、もとの精悍な表情に戻っていた。
「あれから今朝一度あっただけですか」
「ああ。一秒間という以外、時間に規則性はないように見える」
「しかもアメリカへ漏洩を報せたあとだったからか、NASA内部での不明者はゼロ」
「これでほかでも減っていくなら確定かもな。あとは……」
壁面スクリーンを一瞥する。七百万人に膨れ上がった行方不明者は、見立てが正しければ、この宇宙のどこかの地球らしき場所に、その身を置いてることになる。
「無事を祈るしかできないなんて、科学者も非力なものですね」
哀愁を漂わせた日向の言葉に首を竦め、未理亜はモニタの端に置いた矩形波グラフを見た。
過去に行くとして、どの地点なら確実にレディ・バグがIDを連れていかずに済むか。昨夜、IDの書き換えプログラムを組みながら考えていた。
ビデオシューティング計画の中止。これはまず不可能である。世界が長年模索してきた系外惑星探査の機会だ。一人の人間の小細工が通じるような規模のプロジェクトではない。
ピューパやレディ・バグそのものの破壊。これも望めない。厳選された人員のみが出入りを許された、最重要機密の中枢に置かれた地下研究施設だ。場所や内容は、透吾ですら未理亜にひと言も漏らさなかった。打ち上げ前の運搬も、核兵器でも運んでいるのかという物々しさだった。
IDの消去やそのチップの破壊ならどうだろうと思ったが、これもすぐに無理を悟った。レディ・バグに搭載するものの扱いは作業者の生体認証が必須で、当時の未理亜にも権限が与えられていない。登録を見ていたのも、強化ガラス越しだった。作業を終えるとチップは速やかに施設に運ばれ、外部のネットワークからも遮断されてしまう。プロジェクトが走ってしまってからでは遅いのだ。
デスクモニタに視線を落とした。そこには、二〇二二年当時の東京の地図が2Dと3Dで表示されている。
父の話では、二人の出会いは、この年の九月に東京で行われたシンポジウムの懇親会だったらしい。そこで出会いさえしなければ、二人が結ばれることはない。恐らくこれが一番負担がなくて、確実だ。研究者同士とはいえ、航空宇宙工学と家政学の宇宙食研究ならばその後も接点はないはずである。
邪魔をするにしても、最悪本人の前に姿を晒す必要があるかもしれない。その時に杏奈と遭遇したとして、そっくりな顔に騒がれでもしたら厄介だ。
接触するなら透吾の方がいい。幸いそちらは、酔って饒舌になった本人からの情報も豊富にある。
どのくらい過ごすことになるのかは不明だが、その時代に存在していない人間ならば、先立つものを得るために少々サイバー犯罪に手を染めても、簡単に見つかりはしないだろう。
左手の端末もローカルである程度動くように設定した。周辺機器は服の中。母の部屋をひっくり返して見つけた杏奈の母校の学生証は、ポケットに忍ばせた。
あとは、日向に残していくもの。
「未理亜?」
ちょうどよく呼ばれて未理亜は顔を上げた。
「だから、神の存在は否定されない」
「『だから』?」
「信仰と関係なくても、科学者だってそう思いたい瞬間がくるんだよ。これは神の所業か、と」
権限については、個人のものまで日向に明け渡している。SETIとの連絡も彼が主体だ。各種端末も、生体認証のロックを外して自由に使えるようにしておけばいい。
エマを通じて量子力学の重鎮との繋がりもできる。今回の件を世に周知させるとするなら、その辺りの人間がもっともらしいプロセスで多世界解釈多元宇宙論を語れる。問題はない。あとはどう切り出すか。怒り呆れる様が目に浮かぶようだ。
その前に、と、ID書き換えの設定画面を開き、打ち込みを始めた。
あの星にある元の自分のID。そのあとに、挨拶代わりの1を百個。飛ばしてほしい先の日時と、会場付近の緯度経度。意味があるかわからないが、プロキシマbの何者かはきっと好奇心旺盛で気まぐれだ。気づいてくれることを願う。
慎重に入力して変更コードを発行し、日向に悟られないよう手の甲をかざして書き換えを完了させた。感嘆な作業だったが、終えた時には鼓動が早くなっていた。
「透吾博士と杏奈さんが――」
日向の声に腕が震えた。その拍子に手先がタンブラーを弾き、横倒しにしてしまう。
「未理亜!」
腰を浮かせた日向がすぐさま手拭きを広げ、こぼれたコーヒーをせき止める。未理亜は反射的に床を蹴ってデスクチェアを後退させた。幸いグレーのタイトスカートは無事だったが、白いスニーカーには跳ねた雫が付着していた。
ハンカチで拭き取っていると、床に滴った水分を検知した掃除ロボットがデスク下へ滑り込む。いつの間にか日向はタオルを取ってきて、未理亜のデスクを拭っている。素早い対処に、未理亜はただ感心しきりだった。
「火傷は?」
「平気だ」
「すみません、急にお二人を話題に出したから」
「いい。なんだ?」
「……戻ってくるとしたら、やはりここなのかと思って。それで未理亜が寝泊まりする気なのかと、確認するつもりで」
「ああ……」
寝泊まり用の衣服は揃えていた。巻き込まれるのなら自宅よりも、映像記録が公的に残るここのほうがいいと思ってのことだ。あの数字はバグに向けたメッセージだが、いつその通りになるかも予測がつかなかった。
「そうだよ、どうも消えた場所に戻るようだしな。それが?」
「僕も付き合おうかと。向こうとのやり取りの時差もあるし、なんなら交代で見張っても――」
日向が不自然に言葉を切る。はっと未理亜が顔を上げた時には、彼の視線は未理亜のモニタの、変更完了を示したままの画面に注がれていた。
「なんですかこれ。ID変更? 未理亜は既に書き換えたはずでしょう。どうして」
振り返った日向の瞳が訝しげに歪んでいた。
「どうしても、かな」
そう告げて立ち上がると、無意識のうちに空笑いが床に落ちた。
日向が未理亜に大股で歩み寄り、未理亜の右手を掴んで持ち上げる。未理亜は抵抗しなかった。予想していた通り、呆れと怒りが彼の表情に浮かんでいた。
「自分がなにをしようとしてるかわかってますか」
「当然だ。でなきゃしない」
「安全圏にいられるのにみすみす手放すと?」
「祈るだけなんて性に合わない。レディが墜落した時だって、私は何者にも祈らなかったよ」
「馬鹿ですか!?」
間近に迫った淡麗な顔が険しさを増す。右手を掴む手にも力がこめられ、未理亜は思わず眉をひそめた。
「それとこれとは話が違う。そんな発想らしくもない!」
「らしくなくていい。この世界と別の世界が干渉するなら、その可能性に賭けるくらいしたっていいだろ」
「リスクが高すぎる。無事戻れるかもわからないのに」
「わからなくてもだ」
「自分の価値を軽視しすぎだ!」
ひと際大きな声に責められて未理亜の息が一瞬止まる。
「あなたの損失は間違いなく、この先の未来二十五年分の損失になる」
どっちがらしくないんだよ。
いつも冷静な助手が珍しく見せる感情的な声と表情が、重たく響く。だが、戻れなくても、なにもできなかったと嘆くよりはずっとましだと未理亜は思った。
「ヒューは私を買い被りすぎだよ。それに数字を結構加えてる。あっちにあるのと一致はしてないから、気づかれないかもな」
「知りませんよ。本当になにを考えてるのかさっぱりだ……」
掴んでいた手を乱暴に離し、日向は愛想を尽かしたように目を逸らす。
「父さんも母さんも、ほかに消えた者も全員無事に戻ってきてほしい。考えてるのなんてそれくらいだ」
苦笑交じりに告げ、謝罪の言葉を続けようとした。その時だった。
突然、頭に奇妙な重圧感を覚えた。次いで
「悪いな、ヒュー」
だが、抗ってやろう。たとえ無様でも不格好でも。
「未理亜?」
「私は案外、神様を信じてるよ」
そう言ってほほ笑んだ直後、シャボン玉のようにたわむ薄膜状のなにかに全身が覆われた気がした。その奥で日向は、手を伸ばしながらなにか叫んでいる。声も手も明らかに届くはずなのに、なぜか届かない。壁の方のスクリーンには、一直線のグラフと1の羅列が刻まれていた。
足を一歩踏み出そうとしたが、無重力空間のような浮遊感に捕われうまくできなかった。味わったことのないプレッシャーのようなものを肌に感じる。しかし未理亜は身体の力を抜き、その脅威にすべてを委ねた。
魂胆は伝わったか。こちらの思惑通りにしてくれる心意気が、異次元の何かにも備わっているのかは不明だが。
「連れていけ」
呟いて目を閉じた瞬間、意識が縁から逃げ場を失っていき、やがて深く沈んだ。
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