第6話 超越するもの

 医務室の様子を凝視する者たちの声で、透吾の周りはざわざわと波立っていた。

 どういうことだ、あり得るのか、彼は正気か。

 報告をまとめる手間を省くための合理的な手段がこの配信なのだろうが、それでもあまり気分はよくなかった。外野の声も不快だったが、人のセンシティブな部分を盗み見するような気まずさがどうにも拭えない。

 娘たちとともに席を立てばよかった。そう透吾が感じていると、左腕が妻からのコールを知らせた。今日は休暇を取っている彼女も、こんな不可解なことが立て続けに起こってはおちおち休んでもいられないだろう。

 口実ができたことを幸いに思い、断りを告げて部屋を出る。それから無線イヤホンを左耳に押し入れた。

「杏奈」

「よかった、透吾さん。大変なことになってるから心配で……」

 声が聞けたことに安堵し、二人して息をつく。これ以上不安を煽らないようしたいところだが、研究者である彼女にそれが通じる気もしなかった。

「うん。問題はいろいろ起きてるけど、僕も未理亜もここにいるよ。君も無事でよかった」

「ねえ、どうなってるの? いやな予感がして仕方ないの」

「僕らも混乱してる。原因を探れるのかすらもわかっていない」

「そうよね。だからつい慌てて焼いてたレモンケーキを持って来てしまったんだけど……」

 思いがけない言葉が続き、廊下を歩いていた透吾は耳を疑って「ケーキ?」と足を止めた。

「ちょうどでき上がって。少ししたらまたあのニュースじゃない。透吾さんの顔を見ないと、って思ったら」

 ごめんなさい、と申し訳なさそうにする杏奈の様子に笑みがもれる。

 無理もない。現に、相当数に及ぶ職員の家族の問い合わせや訪問がある。それに思わぬおやつの差し入れは、重たくなっていた気分を少なからず軽やかにしてくれた。

「構わないよ。ゲスト登録するから上がっておいで」

「本当? ありがとう。それじゃああとで」

 通話を終えて登録を済ませる。すると間もなく入場の通知が入り、透吾はラボフロアのエレベータ前に向かった。

 アメリカでは既に政府が、テロから超常現象までの可能性を踏まえて動き始めている。同盟国はそれに追随する形で、軍や有識者、研究者を募る流れだ。

 だがもしもプロキシマbのそれが影響しているとしたら、なにでどう対処したらいいのだろう。四光年先にいる何かに対し、できることなどあるだろうか。送信の機能しか積めなかったことが、ここにきて悔やまれる。

 無論まだ検証すべき課題はある。しかし日向の指摘どおり、そちらの方に考えが寄っているのも否めなかった。

 プロキシマbは放射線量が非常に高い。地球が太陽から受ける約四百倍もの放射線が、あの星には降り注いでいる。頑丈なつくりではあるものの通信系統へのダメージは計り知れず、普通に運用してもおそらく半年ともたない。そのため二か月と期間を定め、グランドフィナーレで爆破させることを決めたのだ。

 もし仮にレディと関係があるのなら、彼女が活動限界を迎えるまでこの現象は続くことになるのだろうか。それまでに全員戻らなかったら。想像しただけでぞっとした。

 ホールに着いてほどなくエレベータが到着し、中から杏奈が現れた。ケーキを入れているのであろうトートバッグを大事そうに抱えている。透吾は小走りで駆けてくる彼女に向かって、顔の横で手を振った。

「透吾さん」

「ようこそ航空宇宙センターへ」

 同じ街で働いているものの、別棟との行き来はほとんどない。歓迎したつもりだったが妻には不評らしく、口を曲げられた。

「なによもう。心配で気が気じゃなかったっていうのに……」

「ごめんごめん。ちゃんと連絡をしておくべきだったね」

 腰に手を回しながら宥めようと試みる。きつく結んだ唇に膨らんだ小鼻。それでいて彼女の表情には、拭いがたそうな不安が浮かんでいた。

 全身に染み付いたケーキの甘い香りにつかの間の平穏を感じながら、カフェラウンジへ立ち寄る。コーヒーと紅茶を二つずつ、未理亜のラボに届けて貰うようオーダーした。

「未理亜のラボ? あなたのじゃなくて?」

 杏奈の顔がわずかに曇る。それは彼女が抱いていた憂いとはまた違う、彼女の個人的な感情であることを、透吾は知っていた。

「うん。彼女に用意された機器類は、ここにいる誰のものよりハイスペックだから」

 能力を考えれば当然の待遇なのだが、ただの事実を伝えるだけにもかかわらず妻に気を遣っていると自身でも感じる。杏奈は「そう」と笑顔を堅くした。

 娘のラボに行けば、杏奈は娘の仕事を目の当たりにする。研究分野は違えど、娘がしていることの一端を垣間見れば嫌でもその才を見せつけられる。

 透吾は娘の才を喜んだ。しかし杏奈は、娘を恐れた。『同じ遺伝子だと思えない』と。

「ここでも消失事件についてなにか話し合っていたりするの?」

 杏奈に訊かれ、透吾は小さく息を吸った。

「話し合いにまで至っていないのが現状かな。今朝所内で消えた者がさっき戻ってきて、今まで話を聞いていたんだけどね。謎が増えてく一方だ」

「その人はなんて?」

「二〇一六年のパリに三日間いたらしい」

「時空を超えるというのは本当なの」

「錯乱気味だからどこまで真実か不明だけど、嘘をつく理由も見当たらない」

「そう……。メディアじゃ信憑性もない憶測ばかりが飛び交ってるのよ。ここに来たら、少しはまともな情報が得られるかもって思ったりもしたんだけど」

「そんなこともない。『どうやったら同時期に多数の人間をその場から消し去ることが可能か』の、納得いく説明なんてとても」

 妻の顔がみるみるうちに、研究者然としていく。彼女の理知的なまなざしは、娘にしっかりと受け継がれていると透吾は思う。

「あなたの見解は?」

「プロキシマbにいる『何か』の関与」

「は?」

 杏奈が頓狂な声を上げ、いぶかりながら透吾を覗き見る。

「なんですって? 本気で?」

「ありえると考えてる方が、本当にそうだった時に驚きが少ない」

「証拠でもあるの?」

「それを調べているところだよ」

 銀色の扉前で立ち止まり、認証を受けて室内に入る。すると、スクリーンの前にいた未理亜が「母さん」と杏奈の姿に目を丸くした。

「よかった未理亜。無事なのね」

 突如現れた母に、未理亜の手が宙を彷徨った。表示しているウインドウを追い払おうか迷ったのだろう。そこにある数字やプログラムが何のためにあるのか、透吾でさえすぐにはわからない。

「心配して来たんだって」

 娘の視線が尖る前に透吾が弁明した。

「そうよ。いきなり妙なことが続いたから、落ち着かなくて。ちょうど焼いてたケーキを持って来たの。日向くんも一緒に、ね?」

「いえ、僕は――」

 杏奈は数歩歩み寄り、持っていた白いトートバッグを未理亜と日向にちらつかせる。

「遠慮しないで。ねえ、この映像って、レディが送ってきてるのよね?」

 彼女はバッグを未理亜に押し付け、スクリーンに向き直る。透吾は仕方なしに、杏奈の隣に立った。


 母の目から離れ、未理亜はバッグの中身を覗いて箱を掴んだ。柑橘と砂糖の合わさった甘酸っぱい香りが漂ってくる。

 張り詰めていた気がふと緩む。そのまま顔を上げると日向と目が合い、テーブルの方へと誘うように顎をしゃくった。スクリーン前では父が母の肩を抱き、掻い摘んだ説明を始めていた。

 箱を開ける。パウンド型のそれは、既に切り分けられていた。グレーズドされた表面の下に輪切りレモンが見え隠れしている。

「さすが。雑で粗野な娘のことをよくわかっていらっしゃる」日向に言われて未理亜は眉をひそめた。

「うるさいな。どうせナイフなんて禄に握ってこなかったよ」

 雑だの乱暴だのと日向にいつも小言を言われる。『杏奈に反抗でもしてるのか』と訊かれたときは、開いた口がふさがらなかった。そうかもしれないという自覚があったせいだ。

 緻密な軌道計算はできるのに、未理亜には、この外見以外まったく似ていない母との距離感がうまくはかれない。

「未理亜。この数字は?」

 先ほどのリストを透吾が指さして尋ねた。

「行方不明者と、プロキシマbに行きたいと願った一千万人のID」

「つまり応募者?」

「うん。行方不明になってるのは全員、あのマイクロチップに登録した人間だ。唯一の共通点がそれだった」

 画面の前で棒立ちになっていた二人が、随分な時間をかけて身体半分振り向いた。

「ますます因縁めいてきてる」未理亜が茶化して言ったものの、誰も笑いもしなかった。

 透吾が空いている手を頭にやった。

「まいったなあ、どこになんて発表したらいいのかな。少なくともこの国は、こういう事象を公式に受け入れるような体質でもないし」

 未理亜もちょうど同じことを考えていた。今手元にあるデータだけでは、納得してもらうにも心もとない。まして未理亜が独自で導き出した可能性など、到底理解されないだろう。

「まだアメリカの方が寛容ですね。変な計画にも変人にも」

 お皿やフォーク、この部屋にあるんですか。続けて言った日向にない、と返して両親のほうを見る。「カフェに行くけど――」

 瞬間、ぐわんと両親の姿が歪んだ気がして未理亜は言葉を切った。

 日向を反射的に見ても同じようにはならず、内心首を傾げながらもう一度二人へ視線をやる。

 突然、透吾と杏奈が消え失せた。電子的な短い通知音が鳴ったのと同時だった。

「……え?」

 いたはずのその場所を呆然と見つめる。だが、彼らはまるで最初からそこにいなかったかのように完全に姿を消していた。服の一片すら残っていなかった。

「……父さん? 母さん?」

 彼らの影も、寸前まで聞いていた声もない。代わりにスクリーンの片隅で、ログが百個の1を並べながら真一文字のグラフを描いていた。

 たった一秒の異常はほどなくして元の均衡を取り戻したが、目の前の不在は変わらなかった。

「博士! 透吾博士! 杏奈さん?」

 部屋を見回して叫ぶ日向の声が響く中、未理亜はふらふらと二人のいた場所へ近づき両腕を伸ばす。しかし手は虚しく空を切った。

 力をなくした膝がその場にくず折れ、触れることの敵わなかった手のひらを開いて見つめた。

 ほんの少し前には確かにこの手で触れたはずだ。未理亜、と呼ぶ助手の声だけやけにはっきりとしている。

「ライトつけて」鋭く命じた日向に応じ、AIが部屋を明るくする。

 瞼を差すまぶしさに顔をしかめながら、改めて室内を見た。それでも両親はどこにもいなかった。

「嘘だろ……」

 駆け寄って膝をついた日向が、未理亜の震えた肩に触れようとして躊躇ったのが窺える。それにもどこか虚無感を覚え、握りしめた右の拳で彼の胸を叩いた。

「なんで……っ」

 日向はなにも言わぬまま未理亜の理不尽を数度受け入れた。が、その力もなくなっていくのを見かねたのか、二の腕を掴む。

 端正な彼の顔が同情的に歪むのを見たら、悔しさと憤りが一挙にこみあげた。わからないことだらけの中でも、なにか手段を講じることは可能だったのではないかと。

 三回目にして両親が被害者になったのは偶然ではない。自分たちが例外であるわけがないのだ。彼らもプロキシマbへ旅立った中に、分身とも言える数字を連ねている。

 当然、未理亜も。

「室内サーチ。誰がいる?」

 未理亜は天井を見上げた。本来は防犯や捜し物に使うその命令を、AIがセンサを用いて忠実に実行する。ほんの数秒間がやたらと長く、固唾をのんだ。

『辻未理亜。篠原日向。以上です』

 無慈悲に突きつけられた現実が空恐ろしくなり、未理亜は日向を突き飛ばすようにして部屋を飛び出した。

「未理亜!」

 扉をラウンジの方へ折れてすぐ、四つのカップを透明なケースに収めた配膳アンドロイドに出くわした。腕が強く当たったせいか、警報のアラートが鳴り響く。それも無視して廊下を駆け抜け、父のラボへと急いだ。

 認証を受ける時間すら焦れったく思う。扉が開くと、そこに誰もいなかったことを示すように明かりが灯る。

 物が少ない未理亜の部屋とは違い、レディ・バグの模型や天球儀などがところ狭しと並んでいる。ジャケットや白衣がソファに無造作に放置され、デスクも資料で散らかり雑然としていた。だが、棚のある一角だけは綺麗に片付けられていた。

 ふらふらとしながらそこに近寄ると、今や滅多に見なくなった正方形のフォトアルバムが置いてあった。

 親子三人で写る表紙を目にした途端、救いでも求めるように手を伸ばす。表紙を捲って現れたのは、レディ・バグの試作機を手にして笑う、幼き日の未理亜だった。

「――……っ!」

 声にならない叫びが喉奥を灼いた。

 力んだ指先が白んで震える。割れそうなほどに歯を食いしばり、やり場のない感情に目をきつく閉じた。

 暫くして扉が開き、日向の姿を視界に捉えた。迫る足音に顔を上げると、彼は周囲に目もくれず、向かい合う形になった。

「戻ってくる可能性もある」

「気休めを言うな、可能性はあっても保証はない! いつどうなるかもわからないのにそれを待てと?」

「そうは言ってません。保証なんてないのが常の分野にいるくせに寝ぼけたことを」

「お前っ……」

「もうプロキシマbに『何か』がいる前提で話を進めます。向こうがレディのデータを読み取り、IDで個人を識別してるなら、今後あなただって消える可能性がある。ですよね?」

 両肩を掴んで覗いてくる瞳に、思いがけず息を吸い込む。

「……そのとおりだ」

「だったらどうするのが最善ですか」

 この助手は、無理矢理にでも自分に考えさせるようにしているのだと未理亜は悟った。

 父がいる手前、自由も多いが不自由も同じだけ多い。それが不本意な形であっても取り除かれた今、この件に関してならなんとか言い訳が立つ。父を失った天才(むすめ)が必死に編み出した手立てとして。

「まだ消えてない応募者たちのIDの書き換えを行う。そこからは様子見が必要だが、それが起こったタイミングがわかるのは幸いだ。あとはどう全員戻ってきてくれるか」

「可能性としてなにか考えていたでしょう。あの場で言えなかったことが、実はあるのでは」

 お見通しか、と未理亜はひとりごち、

「多元宇宙論、多世界解釈」薄笑いを混じらせ小声で言った。

 未だ自分でも信じきれていない仮説に、日向も眉をひそめた。

「大胆なことを言う」

「だがそう考えると説明がついてしまう。過去に行くことも戻ってこれることも、四光年離れた『何か』からの干渉を受けられることも全部な」

 アルバムを胸に抱きかかえ、いつの間にか頬に落ちていたらしい涙を乱暴に拭った。

 解決策をいくつか頭に浮かべた。IDの書き換えはそう難しくない。その上で何が自分にできるだろう。

「ヒュー。私はどうにかして確実に全員戻したい」

「わかってます。でも手がかりや心当たりでもあるんですか?」

「大胆なことを散々してきた博士がこの街の端に住んでるんだ」

 歯を食いしばり、未理亜は立ち上がる。

「知恵を借りに行こう」

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