第5話 膨らむ疑問
施設内の広いカフェテリアは、異様な空気でざわついていた。どのテーブルも話題にしているのは例のニュースだ。おかげで未理亜は、初日のような妙な注目にさらされることなく、窓に面した横並びの椅子に座る日向のもとへ辿り着けた。
提げていた紙袋をテーブルの上でひっくり返す。六種のサンドイッチがばらけて落ちるのを、日向が横で冷ややかに見ていた。「なんだよ」と睨み返す。
「雑」
「構ってられるか。食べる時間すら惜しいんだ」
「それはそういう身体構造である我々人類の問題であって、食べ物に罪はありません」
この説教臭い物言いから離れていられた四日間は楽だった。ふてくされた未理亜は、身を投げ落とすように隣の椅子に座った。
日向が傍らにあったサーモタンブラーと、ミルク、砂糖を順に置き、最後にマドラーを差し出した。米国のカフェよりずっと芳醇なコーヒーの香りがした。
渋い顔のまま手を伸ばし、全部突っ込んでかき混ぜた。糖分、カルシウム、カフェイン、それから食料。今の未理亜に足りないものだらけだ。
「悪い。苛立ってる」
「わかってます。チキンサンドもらいますよ」
「状況は?」
尋ねながら一口啜ってターキーサンドのビニルを剥がし、がっつくように頬張った。
日向がテーブルの端のタッチパネルに触れると、街並みを臨む眼前の窓がディスプレイへと変わる。集団消失現象のテキストニュースと、公開された行方不明者リスト。さらに、NASA関連機関のイントラネットに上がっている、内部での不明者データ。未理亜はそれらに目を通しながら黙々と食べた。
内容はつい二十分ほど前に見た時と大きく変わらない。だが、行方不明者の数は明らかに増えている。
「わかっている限りでは、世界で約八十万人が消えたようです。ただこれは、目撃証言や安否確認等で身元がわかっている者のみ。今後さらに増えていくことが予想されている」
「国籍や所属もバラバラか」
「先進国での報告が多いのはこのチップの普及率のせいでしょうね」
日向が右手の甲を見せるようにチキンサンドを持ち上げた。
「利用履歴が八時五十分以降に途絶えた者も、リストに追加され始めたようで」
採血に使うような注射針で注入するだけ、という手軽さのお陰で、日本では八割の利用者がいる。この施設内となると、それを埋め込んでいない者さえいない。
未理亜は口の中のものを飲み込み、右手の甲をちらりと見た。
「三時間で八十万人。てことは……」
「このまま調査が進めば三百万人以上にはなるだろうと」
硬い声色に、口先で数字を繰り返す。九十八億の世界人口に対し、三千人に一人の割合で人間が消えている。考えただけでもぞっとした。
なにより未理亜の頭の中では、発生時刻が気にかかっていた。乱数発生器が乱れぬ1を検知したのとまったく同じ時間である。そちらとこの事件の発生は、因果関係があるのだろうか。
「ちなみにNASA内部では百四十六名が消えてます」
「百四十六名?」
未理亜は眉をひそめて聞き返した。はい、と日向が頷く。
「全職員で一万もいないのに? 多くないか?」
「総数が増えればまた変わるでしょうが、割合としては不自然ですね。家族を含めるともっと増えそうです」
「家族も……」
このセンター内でも十三名、行方不明であることがわかっている。リーダーである透吾も現在、その確認と対応のために呼び出されていた。
「ヒューの家族は?」
「近しい親類では今のところ特に。未理亜も?」
「幸いね」
「なのになぜそうも落ち着きないんです」
日向は食べ終えたビニルを空の紙袋に詰め込み、未理亜にも傾けた。未理亜は礼を告げてくしゃっと丸めたそれを入れ、次の一つに手を伸ばす。
落ち着かぬ理由を打ち明けようかと逡巡する。話そうが話すまいが気にするような男ではないが、打ち明けてもいいと考える程度には信頼のおける人物だ。信じてくれるかは別として。
日向の尖った顎先がふいに上を向き、椅子を回して小さな礼に沈んだ。未理亜も振り返ると、顔に疲れを残したままの父が脱力した笑みを見せた。
「すっかり小言を言われてしまったよ。『籠もるのはいいけどせめて連絡がつくようにしてくれ』、と」
苦笑をかみ殺したような表情を浮かべて透吾は言い、未理亜が渡したツナサンドをかじった。続けてコーヒーを流し入れる。隣の日向がそれを待って口を開いた。
「未理亜のラボにいたとわかっているはずじゃないですか」
「そうなんだけどね」
「私のラボAIの通知は登録済みの用件以外オフだ。内部も特別仕様で、外部接触は完全にシャットアウトできるようになってる。ヒューが来なけりゃそのまま籠もってたよ」
未理亜が口を挟むと、日向が短く鼻を鳴らす。
「緊急呼び出し(エマージェンシーコール)くらいオンにすればいいのに」
「ほとんどのメールに至急ってつけてくるこの国の緊急なんてあてになるか」
「一体なにをしてたんです? それほど詰めるなんて」
日向の探るような目に、未理亜は無表情のまま視線を逸らした。同じ眼差しは透吾にも向けられたが、透吾は曖昧に笑ってディスプレイに触れた。
「会議の内容を二人にも共有しておこう」
左腕の端末を立ち上げて出てきたスライドをスワイプする。テーブルのそれに映ったのは、名前が書かれたリストと動画データがひとつ。透吾がリストを指先で拡大し、二人に見せた。
「赤字の名前が、消えたここの職員十三名。青字は職員の家族で、こちらは三十七名。研究員の在籍者数は千百六名だ。もうデータは見てるだろうからわかると思うけど、米国同様こっちも割合が多い。関連性は一切不明。日本国内でも十万人を突破する勢いでいる。で、こっちの動画なんだけど……」
再生が始まる。センター内の個人ラボのセキュリティカメラに捉えられた映像らしい。画面端の書棚の前で本を開く、Tシャツにジーンズ姿の男性研究員が映っている。下部に表示されている時刻は、八時四十九分五十八秒。
未理亜と日向は画面をのぞき込んだ。このあとどうなるかわかっていたが、じりじりと迫るカウントは、死の宣告ですらあるようだった。画面の中の彼は何が起こるかなど知らぬまま、分厚い資料を読みながら中央のデスクに歩んでゆく。
八時四十九分五十九秒。彼に異変は見受けられない。
しかしページをぱらりとめくったところで、突然彼だけが瞬時に、最初からそこにいなかったかのように消え失せた。
八時五十分〇一秒。本が音を立てて床に落ち、表紙が静かに一番上を飾る。映像はそこで止まった。
詰めていた息を吐きかけた未理亜だったが、本の様相が変わっていることに気がついた。画面に触れて拡大する。高解像度の映像は、その奇妙さをはっきりとしたものとして映した。彼が持っていた表紙の一部が、切り取られたようになくなっていた。
「本が欠けてる?」
未理亜の指摘に透吾が「そうなんだ」と頷き、
「実物を見せてもらったがね、こう……」左手で本を持つ仕草をしてみせる。「持った状態をなぞるように、表紙から裏表紙にかけて綺麗になくなっていた」
「なんだそれ。さっきニュースで見たのは人間だけが消えていたのに」
「どちらの情報も上がってきてるんだよ。人間が衣服とともに消えているのは同じだけど、持ち物は一緒に消えたり一部残ったり、そのままだったりと一貫性はない」
「考えがたいですけど、ほかの離れた場所での目撃情報とかは」
日向が意見するも、透吾は唇を渋らせて唸った。
「IDの情報をもとにスキャニングをしたようだけどね、施設どころかこの街でも見つからなかった」
首をゆっくりと横に振った透吾を横目に、未理亜はうなだれるように両腕をテーブルについた。組んだ両手に額を押し当て、想定できる可能性をひたすら考える。だが持っている知識をどう紐解いても、全世界規模で同時に人間が消えるという事態を説明できる、腑に落ちる答えが見つからない。
船ごと乗組員が消えた。飛行機がレーダーから消失した。古くから、いわゆる『神隠し』と呼ばれる現象は、世界各地で報告されている。とはいえ、いずれもこうした映像記録が残っているわけではない。誇張され、伝説となって流布してしまえば、真実などわからない。
それが、現実のものとして起こった。折しもレディ・バグに密やかに搭載した、乱数発生器の送ってきた連なる1と同じタイミングで。
「わからないな」
短い息とともに、未理亜の口から降参にも似た失意がもれた。
「わからない」反面、わき上がる好奇心と興奮も堪えきれないほど膨らんでいた。
もしもこれに、プロキシマbにいる『何か』が関係していたとしたら。宇宙工学博士などという肩書きがなくとも、心が躍る展開ではないか。
「未理亜」
それにいち早く気づいたらしい父が、水際で制するように名前を呼ぶ。
「まだそう考えるには早いよ。君はすぐ思考の渦に飛び込むから困る」
未理亜は顔を上げ、大げさに両肩を竦めてみせた。
「わかってるよ。確定情報が少ないんだ。今は手の出しようがない」
「待ってください、なに二人で完結しようとしてるんですか。僕は中途半端なままだ」
日向が端正な顔をわずかにしかめ、鋭く告げる。
「はぐらかされたの、忘れていませんよ。二人でラボに閉じこもってなにをしてたんですか」
助手とはいえ、未理亜同様スキップでMITに入った優秀な科学者だ。それでも、自分たちが画策したファーストコンタクトを、この男が受け入れるかはわからなかった。
未理亜は迷いを押し込めるように唇を噛んで閉ざす。が、横から伸びてきた父の手が肩を叩いた。
「隠すこともないだろう。彼の意見も僕は聞いてみたい」
父の言葉ももっともだと内心理解もしている。躊躇いがちに頷いてから、声をひそめて日向へ切り出した。
「……関係あるかもわからないんだ」
「わからないことだらけの中でわかることが一つでも増えるなら、それに越したことはないです」
力強く断言して口端に浮いた笑みに、未理亜もいくらか救われた気がした。
意を決して迫るように顔を近づけ、さらに声を低くする。
「実は、現在公表されているレディの設計図は、実際プロキシマbを飛んでるものと少し違う」
日向の瞼が怪訝そうに瞬き未理亜を覗き込んだ。
「違う?」
「これは父さんと私の二人しか知らない。私たちが誰にも言わず勝手にやった」
「重大インシデントじゃないですか。なぜそんな真似……」
「好奇心が抑えられなかったんだ。本物を見せるよ、ヒュー。その企みの渦中にいるせいか、私たちにはどうしても判断が難しい」
隣で立ち上がった透吾に続き、未理亜も腰を浮かせた。日向だけが頬を引きつらせ、二人を交互に見上げながら重いため息を吐く。
「企みって。共犯者にするみたいな言い草やめてほしいですね」
「ヒューが気に病む必要はない」
「その判断は僕がすることです。問題ありと思ったら、僕は報告を上げますからね」
テーブルに両手をついて、日向は咎めるでも呆れるでもなく平坦な調子で席を立った。
そういえば未理亜が初めて彼に会ったときも、こんな調子だった。NASA本部にある未理亜のラボがふた回りほど広くなったころ、そこへ来たのが日向だった。長年研究ひと筋、頑強な頭脳を持つ猛者ばかりの中、透吾が手を回した最も歳の近い青年。アンドロイドかと見紛うほど綺麗な造形だったが、彼はその整った顔を、不服そうに歪めていた。
「透吾博士のご依頼により、一週間だけですがお世話になります」
挨拶もそこそこにわざわざ日本語で宣言した彼に、未理亜もあまり関心を向けようとはしなかった。
「あなたの席はそこ。仕事はネットワークの中。私に対する父へのクレームは随時ご自由に」
デスク、端末を順に示し、それからあとは好きにしろと指先を広げる。研究と人徳、どちらも定評のある父のファンは多い。彼もそうだとすぐにわかった。
それが気づけば一週間経ち、ひと月を超えていつの間にか四年目。今では時々、父にするよりある意味で甘えてしまう。
未理亜は罪滅ぼしのつもりでテーブルの上の紙袋を抱え、「行こう」と日向の隣を歩き出した。
スクリーンの中心に据えた二つのレディ・バグの3D設計図に、透吾が触れる。
どちらも見た目はまったく同じだ。てんとう虫を模した半球形の機体で、左側面に『LADY BUG』と印字されている。
それぞれの背中の左右の羽根が開き、薄羽根のように折り畳まれたソーラーパネルが展開したその奥。核を守る外殻のさらに中、内殻に詰まった機材の底にある基盤が覗いた。透吾は右側の機体の一点を差し示した。左側の設計図にはない部分だ。
「ここ。日向くん、わかるかい?」
「え? その爪の先にある点ですか?」
「うん。これの有無が、さっき未理亜の言った本物かどうかの違いなんだ」
透吾の説明を受け、日向がその点に触れる。拡大してやっと、それがチップであるとわかるようなサイズだ。日向が不満そうに頬を渋らせたのがわかり、未理亜は堪えきれずくくっと喉を鳴らす。非難めいた視線が飛んできたが構わなかった。父娘に煽られた彼の心情を思えば、肩透かしもいいところだろう。日向の指が再びチップに触れると、部品名が浮かぶ。
「True Ramdom Number Generator……真性乱数発生器なんて」
「そう。知ってるよね?」
「もちろん知ってますけど、これの意味は? レディに一切無関係じゃないですか」
「だから僕らは隠すことにしたんだ。余計なものをできる限りなくしたい設計チームを、説得できるだけの理由がなくってね」
「わかってますよ。僕が聞いてるのは、それでも搭載した理由です。見る限り、レディが充電中でもバックグラウンドで動き続けるみたいじゃないですか」
日向は無表情を崩すことなく、父に深く切り込んだ。
あくまで冷静な日向を前に、透吾が最後の確認でもするように未理亜を振り返る。「二〇〇一年」未理亜はわずかに漂った沈黙を、静かな声で破った。
「アメリカで同時多発テロが起こった時、あの街にあった乱数発生器にある変化が起きた。本来0と1が均衡するはずのものが、その瞬間大きく1に偏ったんだ。で、この偏りが示すものなんだが」
「知ってますよ。人間の恐怖心や興奮が、乱数の均衡に影響を及ぼしたかもしれないというやつですよね? それが……」
言い掛けた言葉を断ち、日向は腕を組む。
険しい目線が床に沈んだのはほんの数秒だった。閃きの勢いで跳ね上がった顔は、しかめられながらも確信に満ちていた。
「まさか」
「お前は察しがよくて助かるよ」
「本気で? いくらハビタブルゾーンの惑星だからって」
「だからこそだろ。地球以外にも意識を持つような『何か』がいるかもしれない。もっと進化して私たちの知識の及ばない次元に到達している可能性だってある」
未理亜は独自の理屈をひけらかすように、両手を広げてみせた。日向がこめかみに手を当て、息を吐く。
「レディの開発リーダーとその娘がすることですか……」
「だからこそできたと言ってほしいなあ。このチップの小型化、未理亜と僕の傑作なんだよ」
得意げに言った透吾にまで呆れ顔を向けたあと、彼は未理亜を見た。
「で、続きは?」
「今朝送ってきたデータがこれだ」
未理亜は設計図をスワイプして追い払い、ログを表示させた。
「八時五十分〇秒〇〇から一秒間、1が連続して百回」
その数字の持つ意味を理解したのか、日向の顔色がサッと変わる。顔の横にやった手が硬直したように固まり、目も見開かれた。
「ありえない」
「あったんだよ。この通り」
「だとしてもそれが『何か』がいる証拠にはならない。専門外ですがこれだけはわかります。量子の世界に絶対など存在しない」
断言され、未理亜は天井を仰ぎ声を出して笑う。訝しんだ日向の不満の訴えも軽く流し、綻んだ顔のまま眉を下げた。
「いや、お前はそう言ってくれる奴だよな」
「当たり前です。僕は未理亜に迎合する気はない。そもそも、人間の意識を基準にして乱数の変化を生命体に紐付けるのは安易すぎる」
「わかってる。これはあくまで可能性だ。現状議論も途中。事情を知る人間が一人加わっただけ」
もとより大手を振って証拠とする気も未理亜にはない。そうだろう、と透吾に同意を求める。しかし彼は諦めの悪そうな調子で曖昧に頷き、日向を窺った。
「偶然だと思うかい?」
「そう考えるしかありません。というか、判断材料がなさすぎる」
「クールだねえ、日向くんは」
「透吾博士が未理亜に甘いんですよ。そっちに持っていきたい気持ちもわかりますが」
「参ったな。どちらにも反論できない」
笑い混じりに為す術なしといった調子で、両手を肩の辺りまで上げからりと笑う。その様子を見ながら未理亜は、手近な椅子に腰を落ち着けた。
実際のところ、日向の言う通り偶然とするしかない。乱数発生器を搭載したのも、二人のささやかなやりとりがきっかけだ。
『地球以外の惑星に生命体がいるか、君ならどうやって調べる?』
父の問いかけに、十歳になるかという娘はしばし考えた。探査機による撮影、地中のサンプル採取、あるいはボイジャーのような一方的な投げかけはすでに行われている。ゆえにまったく新しいアプローチを父は求めているのだと悟った。
生命とは。
細菌レベルのミクロなものから明確な知性を持つものまで、地球上に存在するそれらは種も形状も多様性に富んでいる。だがこれは、地球環境に偶然適応しただけの結果に過ぎない。
どうせ『何か』を見つけるなら、知性体のほうがおもしろい。思いついた限りでそれを検知できる可能性のある最小のデバイスが、乱数発生器だった。
刻まれる数字が均衡を取り戻してから、間もなく五時間が経とうとしている。レディ・バグはバッテリー残量の低下から飛行をやめ、光のある方へと歩行を始めた。彼女の目となるカメラは、地平の先に淡いオレンジの灯火を捉える。間もなく充電に入るだろう。
「チップそのものではなくて、それに干渉するシステムの不具合も考えられるでしょう」
「そうそう。調べなきゃいけないことはいくつかあってな。折角だ、ヒューも手伝ってくれ」
「巻き込んだのはそれが目的じゃないでしょうね」
「言いがかりだ。アクセス権を付与しておくよ」
未理亜が端末をさっと操作すると、日向の左腕で通知が鳴る。そこに設計図が表示されたのを見やり、さらにログへの閲覧権限を追加していった。
「優先順位は低いですよ。試みとしては面白いけど――」
「父さん。他システムの干渉の調査はサーバを直接見ないと無理かな」
「そうだね、時間をつくろう」
未理亜は透吾に話しかけながら、日向の苦言の大半を意識の外で聞き流す。多少口うるさいものの、戦力としてはこの上ない。きっといいアドバイザーにもなってくれるだろうと思ったのもつかの間。
「これ、本当にレディのもので合ってます?」
不審そうな声に「なんだ?」と眉をひそめ、父とともに彼に振り向いた。
「開いたら1が……、あ」
「未理亜!」
父が緊迫した声を放ち、スクリーンを真っ直ぐ指さす。未理亜は顔を強ばらせてその方向を見た。今朝遭遇したのと同様、グラフは直線を描きログに1が並んでいる。
瞬間、弾かれたように椅子から立ち上がる。竦みそうになる足で床を踏みしめ、駆け寄ったスクリーンのログを手繰り寄せるように遡った。
朝と同様百個、1が乱れなく連続する。頭に浮かぶ戸惑いは今朝と比較にならなかった。
「二回目?」
「十四時二十分〇〇秒から一秒間ですね」
「今朝のから四時間半か。ううん……」
透吾の唸りを背で聞き、未理亜は小さく舌を鳴らす。
「稼働から四日目でそれですよ。やはり不具合でも起きてるんじゃありませんか?」
「そうなのかなあ。念の為早めにサーバを確かめておこうか」
そのような粗末なものを造った覚えはない。試行も十分した上で、取り付けは透吾が行っている。それでも可能性を潰すためだと言い聞かせ、未理亜は頷いた。気持ちとしては自身の研究成果を信じたい方が勝る。地球の時間に合わせたようにわざわざ一秒間なのだ。まるで意志があると誇示しているようではないか。
しかしそうと主張するには、あまりに弱い。
「未理亜、レディのビデオは?」
日向に急き立てられ、素早く確認した。
「ちょうど充電に入る寸前だ。再生するよ」
中央の三角に触れる。流してみても未理亜の目には、ただ岩石惑星の大地が映っているだけだ。不本意ではあるが、不具合の可能性を本格的に模索する必要がありそうだと未理亜は思った。
しかしその矢先、映像の中の奇妙さに気付く。最初のそれにも見た、1を叩き出す三秒前に現れる不自然なたわみ。今度は画面上部が歪んでいる。
「父さ――」
呼びかけたが、同時に鳴り出した彼の端末の通知音にかき消された。未理亜は口を噤み、しかめ面で目を通す透吾を眺めた。
「参ったな、また呼び出しだ」
落胆の声に、言いかけたセリフを「多いな」と同情的なものに変えた。
「リーダーの宿命だね。モニタルームの隣の会議室にいるから、なにかあったら連絡しておいで」
せわしげに部屋を出ていく父を見送ってすぐ、「未理亜」と日向に呼ばれ振り返った。
「なにか言い掛けましたよね。さっき」
「ああ、今朝のもそうだったんだが、1を送ってくる三秒前に、映像の一部が歪むんだ」
「歪む? 放射線の影響では」
「さあな。解析チームに回してるからその回答を待つよ。バグの可能性についても早いところ検証したい」
投げやりな言い方になったことを自覚しながら、スクリーンにニュース番組を表示させる。そこでは、司会者と有識者が好き勝手に議論を繰り広げていた。日本国内での行方不明者は既に十万人を突破し、まだまだ増える勢いだ。
「実際どこまで本気なんですか」
「なにが」
「意識を検知するって」
日向が真面目な顔をしてのぞき込んでくる。未理亜は口からハッと短い笑いを落として顎を突き上げた。
「私らなりに本気だよ。アインシュタインが言ってただろう。好奇心はそれ自体で存在意義があると」
「ですが同時に、科学技術の発展はいつの時代も軍事や政治に利用されてきた。アインシュタインも、純粋な研究を原子核反応を用いた兵器に使われるとは思ってなかったはずです。あなただって身を滅ぼしかねない」
「だから内密にしてたんだ」
「だからって――」
食い下がった日向を遮るように、通知音が鳴った。
スクリーンの一部がコール画面へ切り替わる。発信元は辻透吾。疑問符が頭をもたげ、同時に顔を見合わせつつも応答した。気難しそうに眉をひそめた透吾がそこに映る。
「二人とも今すぐ来てほしい」
「父さん? どうした」
「今朝消えた研究員が一人突然現れたんだ。十四時二十分。あのタイミングで」
透吾に招かれた部屋には、リーダークラスの者が二十名ほど座していた。そっと入室した未理亜と日向は、ドアのすぐそばで壁に背を預ける。
正面のモニタには、共有された映像の中で本の一部とともに姿を消した、還暦頃の男がいた。医務室で女医とテーブル越しに向かい合っている。あの瞬間に着ていた服もそのままだが、ずいぶんと薄汚れて見えた。
彼は両腕で抱いた身体を小刻みに震わせ、目を時折不安そうに泳がせた。落ち着きなく姿勢を何度もただす様子と相まって、相当困惑していることがうかがえる。
未理亜は椅子に掛ける父の後ろ姿を視界に入れながら、モニタを睨むように見つめた。
「小宮さん」
女医が名前を呼ぶと、小宮は血走らせた目を剥いて身を乗り出した。彼女は怯んだのか少し背を反らせたが、見事に抑制してみせ、作り笑いを浮かべた。
「なあ、ここは間違いなく俺がいたセンターなんだよな!?」
「日本の航空宇宙センターです。この五時間のあいだ、どちらにいらっしゃいました?」
「本当に二〇四七年十月四日だな? あの時から五時間しか経ってないんだな!?」
食って掛かるような声に、部屋にも異様な空気が漂う。未理亜は眉を寄せ、続く彼の言葉を待った。
「俺は……っ、二〇一六年十二月三十一日から三日間、パリにいたんだ!」
わななく唇から唾を飛ばしてそう主張したあと、男は頭を抱えてうなだれた。
部屋中に一瞬沈黙が落ちる。だがそれもわずかの間で、すぐに各所からどよめきが押し寄せた。
二〇一六年? どういうことだ? 三十一年前のパリって。
口々に発せられる言葉はどれも動揺と疑念がうかがえる。未理亜も例外ではなく、は、と小さくもれ出た声に、思わず口元を手で覆った。
「二〇一六年のパリに?」
女医はつとめて平静に小宮の言葉を繰り返す。すると彼は頭を掻き毟って喚いた。
「俺だって信じられないんだ! 急にめまいがしたかと思ったら目の前にライトアップしたエッフェル塔があったんだぞ? そこら中で観光客がスマホにセルフィースティックをつけて写真を撮ってた! こんな端末誰もつけていなかった!」
その異様さを伝えようと、小宮は大きな身振りで説明する。
「セルフィー?」馴染みのない単語に未理亜が首を傾げ呟いた。
「当時の文化ですね。通信手段はスマートフォンと呼ばれる端末が主流で、それに伸縮する棒をつけて自分たちを撮影するという行為が流行った」
「ふうん……」
今や撮影は動画が主流である上、カメラは端末から取り外し可能な無線機器が一般的だ。日向から説明を受けても、あまり要領を得なかった。
画面の中で、彼は落ち着くよう宥められている。未だ現実味がないらしく、目は度々カレンダーや時計、壁のモニタに向けられていた。
「二〇一六年ということはどうやって知ったんですか?」
「ちょうど年越しのカウントダウンのタイミングだった。いろんな連中が『2017』をモチーフにしたサングラスや帽子をつけてたよ」
「持ってた本はどうなりました?」
「ああ、それもおかしな話なんだ。手のような形で残ってて慌てて放り出して。……人混みのどこかにやってしまったな」
「三日間その、パリで?」
「そうだよ。たしかにパリは、当時新婚旅行で訪れた思い出深い場所だ。でもこのチップも端末も電子マネーも、通信規格が古すぎるせいで何も使えない。まさか自分が残飯漁るなんて思ってもみなかった……」
自嘲気味な笑いをもらして小宮は再び深くうなだれた。
まだ情緒が不安定そうに見受けられる。これ以上はカウンセラーの手が入ることになりそうだと判断し、未理亜はモニタに背を向けた。
「未理亜」
引きとめようとする日向を無視して退室し、早歩きで廊下を進む。
小宮の様子は取り乱してはいたとはいえ、嘘を述べているとも思えなかった。そのくらい、彼の態度は真に迫るものがあった。
このあと恐らくバイタルチェックと並行し、また同じような詰問がされるだろう。言葉の真意を探るのは、自分たち以外の誰かがすればいいことだ。
それよりもあの時間に消えた人間が、過去へ行き、あのタイミングで帰ってきたと主張した事実の方が気になった。
なにかが作用していると考えたくもある。しかし同時にそんなことがあるわけがないとも考えた。
レディ・バグはただ、AIのプログラム通りに彼の地を浮遊しているだけだ。
ラボフロアへ向かう階段に差し掛かろうかというとき、小走りの足音が迫ってきた。未理亜が歩調を緩めるとすぐ横に日向の長身が並んで、ともに上階へ昇る。
「透吾博士に一応断りを」
「なにか言ってた?」
「苦労かけるね、と。わざわざ呼んでもらったのに、話はもういいんですか」
「三十年も前のパリに行った。思い出深い場所である。三日滞在して戻ってきた。今我々が頼りにしているこれらの機械は一切使えない」
未理亜は軽く両手を肩まで持ち上げる。「情報としてはこれで十分。あとはまたデータとして共有されるのを待つよ」
「小宮氏の話、本当ですかね?」
「さあ。でも、フィクションの中みたいな話をドクターという立場の人間が、科学の中枢であるここでするか? 私ならしないね。馬鹿馬鹿しい」
「なら信じると」
疑わしげな物言いに未理亜は首を竦め、横に振った。
「たった一人が言ってるだけじゃ判断できない。普通に考えたら、どうしたってありえないんだ。さっきのヒューの答えと一緒だよ」
謎がさらに増えたせいで自然と太い息が落ちる。
「ですよね」
「お前はどうだ」
「一信九疑」
「へえ。一もあるとは驚いた」
「納得できる解がそれしかなければ、信じがたくても信じる以外ない。そういった意味で」
日向はおどけながらもひと呼吸おき、真剣な口調に切り替える。
「時間の流れは未来にしか向かわないのに、過去の一点にたどり着ける理由はなんなのか。エネルギーの出所は。しかも現地で数日過ごし、またここに戻ってこれるのはなぜか。本の一部が消えるのも、逆に服や身体の一部が残るようなことが起こらないのも不思議です。彼も僕らも、誰も納得させられるだけの答えを持たない。現代科学ではタイムスリップなんて実現不可能。SFの世界だ」
同じ部分に疑問を持っていたことを示すように、未理亜は頷いた。
階段を上がりきってラボの扉の前に二人は並ぶ。そこに映り込んだ自身と目を合わせ、「でも」と未理亜は続けた。
「そうやってこれまで人間が創造してきたサイエンスフィクションを、追随し理屈づけてリアルにするのが我々の役目じゃないか」
扉が開く。同時に日向から向けられた訳知り顔に笑みを返し、勇み足で中へと入った。点灯したスクリーンの範囲を未理亜は壁いっぱいに拡張させ、二人で作業ができるように変更する。
「ネットでも情報が飛び交ってるよ。統計的に母数が増えれば、実際何が起きてるか少しは把握できるはずだ」
「センター内で消えた者が全て戻ってきたわけでもないあたり、また行方不明者も増えたと考えるのが妥当ですかね」
「だろうな。まずはニュースの続報と一般人からの情報収集か」
「そっちは僕が。未理亜はレディの方を調べたいでしょう」
聞かれるが早いか、未理亜の指先は乱数発生器の解析コマンドを呼び出して叩いていた。
「助かるよヒュー。なにか見つけたら共同で論文でも出そうか」
「いらない世話です」
「なんだよ、つれないな」
「僕も比較的優秀なので。軽口叩いてる暇があったら、バグでも地球外生命体でもいいからさっさと見つけてくださいよ」
素っ気なく言われ、それこそ軽口だと反論しかけた口を噤んで手を動かす。
乱数発生器のプログラムから、EPR通信に用いた量子ペア情報、変換器や、チップが間違いなくプロキシマbにあるかといったごく単純なものまで、くまなく開いた。ほんのわずかな綻びが原因で、あの連続する1を生んでいる可能性もある。量子に限らず絶対はない。
慎重に画面に相対していたその時、甘さの一切ない日向の声がした。
「『福岡に飛ばされた。春だった』」
意識を半分ほど傾けた。個人が発信したものを読み上げているようだ。
「続けてヒュー。聞いてる」
「『二〇四〇年の九月って人に言われて頭おかしいのかと』『十日間シドニーにいたわ。確かにその頃留学してて、まだ若い友人を見かけたりもした。さすがに怖くて声はかけられなかったな……』『地元に二時間くらいだったんだけど、長い人はひと月とからしいね』『意味がわかんなかったけど言ってやったぜ。おい、ここはどこだ? 今は二千何年だ? ってね』」
「悠長なやつもいるんだな」
「ごくわずかだし、作り話の可能性も。それよりネガティブなほうが圧倒的に多いです。『消えてた旦那がさっき戻ってきて発狂した。どうしたらいいの、助けて』『自分の部屋に帰ってこれたけどさっきから震えが止まらない。またこんなこと起きたらと思うと怖いよ』『両親が消えた。過去に行くって本当? もし俺が生まれる以前の時代だったら、そこで親が死んだら俺どうなんの』」
淡々と告げられる個人の生の声に未理亜は言葉を失った。
手を止めて日向が見ている画面を見やる。AIの自動判定により、ポジティブな声は薄いオレンジ、ネガティブはパステルブルーに吹き出しが色づいている。割合は彼が言ったとおり、八割方ブルーだ。恐怖や絶望、混乱、悲観が大半を占めていた。
「むしろ正気を保ってる方がレアだ。救急や警察の通報件数が凄い数字になってます」
「たどり着いた先の年代も、滞在時間も場所もバラバラなのか」
「これじゃ収拾がつきませんね」
喉の奥からうなり声をこぼしながら、未理亜は日向の後ろに立ち尽くす。
『ついに何者かが地球にやってきたようだ』
オレンジに染まったそんな誰かの訴えが、妙に目についた。
「そっちは? なにか不備は?」
仰ぎ見てきた日向にかぶりを振ると、さすがと抑揚なく返ってきた。未理亜はふん、と小さく鼻を鳴らす。
「嫌味か」
「まさか。少なくとも、1を送ってきたことと集団消失を関連付けて考える気になりました」
彼は未理亜に歩み寄り、肩にそっと手を置いた。
「事実があるなら理屈がある。量子は僕の専門外ですが、頭でなら多少は役立てるかと」
発破をかけるような発言が物珍しく、未理亜は一瞬面食らったあとで堪らず吹き出した。笑ったことが意外だったのか、日向が肩の手を天井に向けひらと振る。
「今、不明者リストとして専門機関に公開されてる個人IDをダウンロードしました。国内で二十万人。世界では四百五十万人」
着実に増えているその人数に、笑顔が一気に冷える。
人間の力で、それだけの数の人を傷つけず消し去ることなどどうやったら可能なのだろう。いっそ、人知を超えた『何か』が作用してないと考える方が難しい。
手がかりがもしも、乱数発生器にあるのなら。
「消えた人間たちの共通点が知りたい」
「今のところはこのチップを埋めてる人間、というくらいですね。それをもとに算出してるのもありますけど。利用履歴の参照権限がもらえないか掛け合ってみます」
未理亜は日向から目を逸らさず、一度深く頷いた。
完全に無差別的だとしたら、対処はますます不可能だ。自分や周りの人間だって例外ではなくなる。だからせめてなんらかの秩序があってほしいとも思っていた。この宇宙には、歴然とした秩序がある。凌駕する存在に無闇に現れてもらっては、信じられるものも信じられなくなる。
端末の操作を始めた日向を横目に、再びスクリーンに視線を戻した。呟きの後ろに隠れていた行方不明者のIDリストを最前に配置し、漫然と眺める。
二十桁の数字で構成された数百万人分もの数列。十歳から施術が可能で、これらの数字は登録時に自動で割り振られる。先進国では便利さから、若年層のほとんどが実施している。
それ以上に意味をなさないはずの数列のひとつが目に入った瞬間、ふと既視感に襲われた。
「上長に連絡しておきましたよ。……未理亜?」
呼ばれて我に返るも、頭の一部はそのどこの誰とも知れない数字をひたすらに追いかけていた。
日向が不審そうに近づく。が、未理亜の視線の先を見て首を傾げた。
「不明者のIDがなにか?」
「こいつの数列の並び、見覚えがある」
「他人の? そんなものどこで。管理するような職種の人間でなければ見る機会なんてないでしょう」
「のはずなんだが……」
額に手を当て、その内部にしまわれた記憶を呼び出すように数回叩いた。記憶力はいい方だと自認していても、数字だけなら毎日見る。奥深くに眠るそれをどうにか導き出そうと瞼を伏せたその時、光明がさしたように結びついた。
「……レディだ」
目を見開く。
「は?」
「レディに搭載してるマイクロチップ。レディ・バグとともにあなたもプロキシマbへ、ってやつに応募をしてきた一千万人のIDのひとつだ」
紐解かれた記憶が確かなものとなり、像としてはっきりと浮き彫りになった。
募集自体はNASAの専用フォームでIDを認証させる、という簡単なステップで行われていた。世界を巻き込んだビッグプロジェクトに応募は殺到し、当初二百万人だった上限を大幅に変更したのだ。
「まさかその数列を覚えてるとか言うんですか」
「覚えてるよ。応募者データを登録する場にいた」
「登録時って何年前だと……」
「信じてないな? 見てろ。データベースから引っ張ってきてやる」
コマンドをキーボードで叩き込んで、マイクロチップに入力した元データを呼び出し暗号化を解く。表示されたIDの中から出した検索結果に、未理亜は得意げに笑ってみせた。
「ほら合ってた。ヒューは確か応募してなかったんだよな」
「ほかに覚えてるIDは?」
「あるぞ。42807923135――」
そらんじた数列は音声認識され、日向が開いた検索フォームに吸い込まれる。
「いました。二人目」
「え?」
「どちらにもある」
不明者リストにあるそれと、レディ・バグとともにプロキシマbに旅立ったそれが、黄色いマーカーにより浮かび上がった。
すぐさま日向は双方のリストを検索機にかけた。条件を設定し、不明者と応募者を参照させる。一致すれば正として換算されていく。
中央に表示された処理中を示す丸いメータが徐々に円を描く。そのバックグラウンドでは、凄まじい勢いで数列がスクロールしていった。
円の中に『COMPLETE』が灯ったあと、『100%』の表示が重なる。それを二人はしばらくのあいだ眺め続けた。
百パーセント一致。
行方不明となった者はすべて、プロキシマbに想いを馳せた有志の者たちであることを明示していた。
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