第3話 乱れぬ数字
透吾の両手に載っていた半球型の小さなドローンが、四点のプロペラを勢いよく回転させて宙を舞う。
公園の入り口にある花時計を越え、すべり台の脚を縫うようにくぐり、アスレチックのロープの吊り橋の猥雑な隙間をすいすいとS字を描いて抜けていく。さらに、古典的なUFOのスプリング遊具の周りを回ったあと、高く飛び上がった。
透吾が眩しそうに目を細め、片手で日よけを作る。その視線の先を浮遊する精巧な機体は、風を掴んだようにスピードを増した。
爽やかな風が吹く初夏の早朝。遊具で遊ぶ者はもちろん、操縦者もいない。それを子どものように目を輝かせて早足で追いかける透吾と、芝に覆われた小高い山の上で様子を眺める幼い未理亜がいるだけだ。
ドローンは徐々に減速し、未理亜の伸ばした手の上に着地する。すると透吾が、小山の麓で堪らずといった様子で手を叩いた。
「すごいな! 動きも軌道も完璧だ。軽いのにしっかり安定もしてる」
まるで誰かに自慢でもするように惜しみなく褒められ、未理亜は面映ゆくなった。誰もおらず空気も澄んでいるせいか、父の声はよく響く。
「この公園の地形データを組み込んだの。障害物はセンサーで距離を測りながら移動させてる。素材はカーボン。3Dプリンタで出力したから少し粗いのが難点」
照れ隠しするように早口で解説し、ドローンを触りながら小山を下る。
「メインバッテリーはなんだろう。そのサイズなら高密度全固体電池かな?」
「そう。ソーラーで高速充電が可能。活動停止しても、撮影した映像や収集したデータを送れる程度の余裕はあるかな」
「基本姿勢制御は?」
「AI任せ」
「もうそんなところまで理解したのか」
未理亜が戻るなり透吾は腕を大きく広げ、「すごいなあ、天才だ」と仰々しく言って抱き上げた。むず痒い心地に未理亜は眉をひそめたが、やがて屈託なく笑う。
「0と1は運命を分かつ、んでしょ?」
破棄した数々のプログラムとゴミになった材料を山ほど出した末に、やっと完成させた機体だ。大事に胸に抱えると、透吾もそれを興味深そうに見つめた。
「改良を重ねたらいずれ宇宙でも活動が見込めそうだ」
「そのつもり。これはそのプロトタイプになると思う」
当然そう考えていたのだが、父には意外だったのか、え、と目が丸くなる。
「地球は大気や重力があるから仕方なくプロペラを四つ付けたけど、環境次第ではもっと小さな羽根で飛べる。裏側には歩行できるように六本の脚をつけた。飛べなくなった時は、充電のために光がある方に向かって歩くんだ」
裏返すと、内側で縮こまっていた六本の脚が、カクカクと伸びて空を掻いた。
「へえ、まるでてんとう虫だね」
「だからね、レディ・バグっていうの」
てんとう虫の英名を冠した機体を回し、胴体の一点を示す。そこにはまだ拙い文字で、『LADY BUG』と書いてあった。
「ねえ父さん、起動画面は見てない?」
「ああ、通知が来てたのは気付いていたんだがね。ドローンに夢中で」
「じゃあ、今度はそっちを見てて」
未理亜は透吾のリストレット端末を顎で差して、んしょ、と飛び降りる。足元にドローンを置いてコントローラになっている腕時計を操作すると、それは再び宙を舞った。
透吾の端末に起動エフェクトが現れたのが裏側からでも見えた。好んで見ていたアニメーションのオープニングを模したものだ。細かな粒子は中央に集まって文字を形づくり、『Hi Daddy』というメッセージを浮かばせる。
その時父が見せた目の輝きを、未理亜は今も覚えている。父と並んで歩きながら帰る道すがら、通りがかった公園での思い出だった。間近に迫る居住区域にほど近いそこは、実家から最も近い遊び場でもあった。
幼い頃から常に、未理亜の好奇心に好意的だった親と、宇宙の存在を感じる環境があった。だからここまで研究一筋でやってこれた。
当時五歳の娘はすでに、父と同じ道を志すことを決めていた。MITからの入学の誘いに八歳で応じたのも、自然な流れだった。
「君がこの家で暮らすのは十五の時以来か」
芝生に敷かれた石畳を歩く透吾が、顔半分振り返る。
「うん。ピューパの打ち上げを母さんと三人で見届けたあと、父さんはこっちで、私はロンドンに渡って」
「そうそう。一家揃うことも滅多になかった。拠点が変わるから仕方ないけれど」
透吾の視線が左右に広がる庭に向けられ、つられて見やる。綺麗に手入れの施された庭は母の力作だ。整ったグリーンが生い茂る中、サルビア、マリーゴールド、アゲラタムの鮮やかな花々が彩りを添え、屋根付きのレトロなオレンジのランプに照らされていた。
先を行く透吾がドアを開ける。玄関に入ってすぐに、未理亜よりワントーン高い声がした。
「おかえりなさい、ふたりとも」
やや目線を下げるほどに背の低い杏奈が、食欲をそそる夕食のにおいを混ぜ込んで二人を迎える。ただいま、と透吾が言うのに重ねて未理亜も告げた。
二年前に会った時よりも、母の目尻に刻まれる皺は増えた。肩までのボブヘアも、混ざる白髪をそっと覆うように控えめな茶に染まっている。楽しげに年齢を重ねているのがよくわかる。
父がしみじみと語った通り、外見はよく似てきたと未理亜自身も感じ入った。もっとも、彼女のそこかしこから醸し出されるようなかわいげは、自身には一切ない。気づいたときには父親っ子だったし、学ぶことも父からのほうが遥かに多かった。
靴を履いたまま一歩踏み出そうとした足を、杏奈が咎めるように制す。未理亜は小さく舌を出し、パンプスを脱ぎ揃えた。
「インタビューの確認依頼が届いたよ、未理亜博士」
テーブルの向かいで手元の端末を見ていた透吾がからかうように言った。ほら、と半分減ったワイングラスをテーブルに置いて端末を操作する。間もなく、未理亜の左腕に通知が来る。開くと編集されたインタビュー動画が、丁寧なお礼とともに添えられていた。近いうちに地上波で放送されるらしい。
「ビー玉を使った説明もそのまま使われるみたいだ。あれ、よく持ってたね」
「念のため。私も人に説明するときに使うんだ」
「原子の組成から惑星配列までそれで君に説明したもんなあ。僕が帰ってくるなり『教えて』っていつもいろんな道具持ってきて言うものだから、困る半面楽しくて仕方なかった」
食事が済み、アルコールも進んで、透吾の機嫌がやけにいい。仕事場では未来のことばかり考えている反動なのか、プライベートになると昔話が多くなるのは彼のくせだ。
「父さんも根気よく付き合ってくれるから、毎回母さんに食事早く食べてって怒られてな」
ああそうだった、と透吾が懐かしそうに笑う。「未理亜のことだ。まともに手料理なんて食べたのも久しぶりだろう」
思わず苦笑してしまう程度には図星だった。日頃から食には頓着しないが、レディ・バグのそれも重なって宇宙食より遥かにひどい食生活だった。しばらくぶりに味わった母の食事は相変わらず絶品で、すっかり満腹だ。
「未理亜が去年ここに送りつけてきた家庭用アンドロイド、君が使うほうがよかったんじゃないか。日向くんと違うタイプの、やたらとイケメンの」
宇宙を語るのとはまた違う輝きを瞳に宿して透吾が言い、未理亜はそんなこともしたと思い出す。
元は、うつ病患者や障害者などのリハビリや、家事手伝いを目的として生産された一体だ。素早く動くことはできないが、直立二足歩行が可能で、触覚をはじめとする知覚センサが発達している。メインCPU開発で一年ほど前に未理亜が携わった際、モニターとして貰い受けたのだが、使わないと踏んで二人に預けたのだった。
「いやだね。お節介役ならヒュー一人で結構」
「だけどあれはアナログな僕らの手には余るよ。処理済み食材《ミールキット》すら滅多に使わないのに」
「この時代に? 母さんらしいな」
「まったくね。お陰で舌が肥える一方だ」
「その舌、酔うとおしゃべりも過ぎるんじゃないか?」
顎先で差しついでに未理亜はグラスを傾ける。透吾はなんのことかわからない様子で眉をひそめた。
「ヒューが有名な噂だって」
「噂?」
「レディのプロトタイプは誰が造ったのか」
ああー、とバツの悪そうな声をしばらく間延びさせて、透吾は視線をテーブルにさまよわせた。
そのまま空になった未理亜のグラスを目ざとく見つけ、「まあまあ」と傍らの瓶を持ち上げる。未理亜がグラスのフットをテーブルに押し付けて滑らすと、薄く色づくレモンイエローが最大径を超えた辺りまで注がれた。
「いつだったか
「本人が流してりゃ世話ないよ」
ため息混じりに呟きグラスに口をつける。すっきりとした味わいのジャパニーズワインで、水のように飲めてしまう。やや青臭い果実の香りも手伝ってペースも早い。
片づけを終えた杏奈が、チーズとレーズン、オリーブの自家製ピクルスを盛った皿を手にやってきて、にこにこしながら透吾の隣に掛けた。
「自慢したかったんでしょう。透吾さん、自分と同じ道を進んでくれるの喜んでいたものね」
「そうそう。本当にね、うれしかったんだよ。マーズクエイクを調べに行った、探査機インサイトの話はしただろう? 二〇一八年だ。ニューヨークのパブリックビューイングにかじりついて見ていた。あの管制室に自分がいる姿を夢見た身としてはなぁ」
「実は母さんもそこにいたって話だろ? 何度も聞いたって」
「その後生まれた娘と同じ星を追いかけられるとまでは思っていなかった」
早口でまくし立てたその上からさらに被せられ、未理亜は言葉を失った。
力が抜けて、よろめくようにテーブルに肘をつく。思わず手で覆った額に感じた熱は、アルコールのせいだけではないらしかった。
「本当にポエマーだな……」
「口説き文句、知りたい? 情熱的だったのよ透吾さん」
「やめてくれ母さん、胸焼けしそうだ」
「そう言ってくれるなよ。これでも感謝と謝罪の念があるんだ」
「感謝はともかく謝罪ってなんだ」
「レディの真の生みの親」
すまなそうに細められた目から注がれる眼差しに、未理亜は居心地悪く身じろいだ。所在なく額に当てた手を離しては振り、閉じたり開いたりして、思いがけない父の想いに返す言葉を探す。
「できることならきちんとそこにも名を連ねたかったんだがね。意地を通せなかった。すまなかったな」
「ちょっと」
頭を下げようとする透吾に、腰を上げかけた。だが、小さくため息を吐いて座り直し、未理亜はワインを流し込んだ。
「気にしてないよ。『成功率二割』を私にまで背負わせたくなかったのもあるんだろ。ただでさえ宇宙事業は民間が力を持ち始めて、国で動かせるプロジェクトは限られてきてる中、やっと通ったんだ。及び腰になるのもわかる」
「それでも、君の名前が世界に轟く機会をひとつ奪ったのは事実だ」
「あれを飛ばしたのは八年前。計画はそのずっと前から走ってた。軌道計算やピューパの構造は誰にだって検証できるが、レディは違う。現地でのメイン活動を担う機体だ。十五の小娘が関わって造っただなんて公表するのはリスクでしかない」
「年は関係ないはずなんだがな」
「組織には必要な事情がある」
漂う懸念を振り払うように手をひらと仰いだ。透吾はまだ納得がいかない面持ちで曖昧な笑みを浮かべたが、未理亜は気にせず皿のピクルスに手を伸ばす。母手作りのそれは、向こうで食べ慣れた瓶詰めのものと比べるべくもないほどやさしい味がした。
「心配しなくとも、功績くらい自分で掴み取るさ」
喉を鳴らして飲み込み得意げに告げる。
「それより今は、レディが送ってくるものの方がずっと楽しみだ」
しかし待ちわびていた変化は翌朝、唐突に訪れた。
未理亜が仕度を済ませて端末を腕にはめようとしたその時、ピピッ、と小さなアラートが鳴った。
レディ・バグの画像解析レポート。活動再開の知らせ。開いて確認していると、また被せるようにアラートが鳴る。
よく見ない内にその通知をタップすると、乱数発生器の矩形波グラフが開いた。
そこに表示されているものを見て、未理亜は首を傾げた。
本来上下ランダムになるはずのものが、上部に直線を描いている。故障でもしたかと一瞬見紛ったが、すぐにまた0と1を刻み出す。
未理亜は空気を嚥下してグラフからログに切り替えた。ログだとタイムスタンプ付きで記録を遡ることができる。
該当部分を表示させてひゅっと息を吸った。画面をなぞる指先が震えていた。
111111111111111111111111……
わずか一秒の間に並んだ1の数は実に百。二分の一で百回連続して1を叩き出す確率は。
素早く頭で計算する。十回で一〇二四分の一。二十回で分母は百万を超える。それが百回。
ざっと十の三十乗。百穣。宇宙にある銀河の数だけで二兆と言われるが、構成する星の数まで数えれば、そのくらいになるだろうか。
「……天文学的確率だぞ」
壁のモニタにはオレンジの薄明かりに照らされた灰色の岩肌が映っている。レディ・バグの影以外に動いているものは見受けられない。
足をふらつかせながらモニタに近づいた。偶然という言葉で受け入れるには、あまりにも大きすぎる数字だった。
「レディ。そこになにがいる……?」
未理亜は呆然と声を出した。四・二光年先にいる『彼女』に、届くはずもない声を。
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