第2話 展開する理論

 研究所の車寄せに滑り入って停まった車のドアが開き、未理亜はアタッシェケースを片手に降り立った。

 まとわりつく蒸し暑さが周囲には立ち込め、グレーのパンツスーツを着込んだことを呪うように舌を打つ。十月初旬をこの国では昔、『秋』と呼んでいたらしい。

 車窓の隅で青く光る四角い枠に右手の甲をかざした。ピッと短い認証音が鳴った直後、空港からここまで未理亜を送り届けた自走車(オートノマスカー)が「ご利用ありがとうございました」と滑らかに発声し、走り去った。

 手の甲の皮膚のすぐ下には、個人番号が記録された極小のIDチップが埋まっている。

 静脈認証に紐づき、買い物や交通機関の利用といった日常的な行動が、これ一つでまかなうことができるようになって早二十年。先進国での普及率は七割を超えた。

 鏡面のようなガラス窓が壁にはめ込まれた建物は、楕円形に広がっており、天井に向かって緩やかなドームを形成している。未理亜はてっぺんまで仰ぎ見てからゲートへ歩み寄った。銀色の扉は米国施設と同様、入所資格データを表示して開いた。

 光が満ちる吹き抜けのエントランスを一瞥し、壁の高い位置に掲げられたスクリーンを見上げる。先日放送されたレディ・バグのビデオシューティング計画の日本中継が流れており、透吾の顔が時折映った。

 視線を下げると、床に点々と青いガイド用ライトが灯っていく。IDの位置情報と連動したそれは、目の高さと角度が計算され、周囲を行き交う者には見えないようになっている。ガイドに従い進んでゆくと、ガラス張りのカプセル状のエレベータが、扉を開けて未理亜を待っていた。

 日本の航空宇宙センターは、この国の中枢から離れた郊外にある。広い敷地と隣接する街が丸ごと、新技術やシステムの実験場のような扱いとなっており、常に最新の都市機能が提供されている。

 上昇するにつれ視界が開けて、その居住区を望める高さになった。緑と家々、学校やモールなどの公共施設が理路整然と並んだ光景は、上空から見下ろすとまるでただのジオラマのように見える。また暮らすことになる家を探し出す前に、エレベータは目的階に停まった。

 ガイドが再び床に現れたその先に人影があった。父、透吾だ。

「やあ、未理亜」

 朗らかな笑顔で軽く手を上げた父に、未理亜は眉を下げる。

「出迎えなんてわざわざよかったのに」

「以前と階層や場所も変わったからね。念のため」

「ガイドがあるし大丈夫だよ。大体リーダーが離れていいのか?」

「待ちきれなかったんだ。いくら日々オンラインで会話はしていても、こうして触れられはしない」

 伸びてきた手がくしゃりと未理亜の頭を撫でた。昔から変わりない整髪料のにおいがかすかに香る。

「二年ぶり。父さん」

「ああ。君とまた暮らせることを嬉しく思うよ」

 普段見せる研究者としての顔はそこになく、ただ一人の親がそうするように彼は白い歯を見せて笑った。

「しかしどんどん母さんに似てくるな。出会ったころの杏奈にそっくりだ」

 十七を過ぎたころから、透吾は度々そう口にした。それを望ましく思っているようだが、未理亜にとっては反応に困る口癖でもある。

「今日は、母さんは?」

 母の杏奈もこの街区の研究者だ。専門分野は宇宙食。ISSに滞在する宇宙飛行士の食生活を支える役割を担っている。

「2ブロック先の別棟の研究所で香料のサンプルチェック。でも早退してごちそう用意する、って張り切ってた。だから今日は早めに帰ろう」

 撫でた手が背に添えられてその先を促し、並んで歩き出す。

「その後、身辺に変化はあったかい?」

「インタビューに各メディアの出演、寄稿なんかのオファーが山のように増えた。研究者としての見解を求めるものから親子のヒューマンドラマに迫るものまで幅広く。でもあまり応じるつもりはない。ヒューに捌くように頼んでる」

 ため息混じりに言うと、透吾は苦笑した。

「助手っていうよりもマネージャーだな、日向くんは。来たら労わないと」

「ああ、辻透吾のファンだから喜ぶよ。明日ここに着く。父さんの方は、変わったことは?」

「似たようなものだ。特に君と共に取材させてほしいと」

 透吾が最後まで言う前に、未理亜は露骨に眉を寄せた。それを見た彼は顎に手をやり、くくっと喉を鳴らす。

「いや、わかってるよ。約束通り一件だけ。以降は断るつもりでいる。相変わらずメディア嫌いだね」

「この国のメディアが、だ」

 前半分を特に強調して言うと、透吾はますます頬を綻ばせた。

「子どものときから『天才少女』で追いかけられたからなぁ」

「MITに誘われてなきゃどうなってたか」

 太い息を吐きながら銀色のドア前に立つと、しかめ面が映り込む。それを見た透吾に肘で小突かれ、未理亜は居住まいをただした。開いた扉の先に、NASAと似たような造りのモニタルームが広がった。

 中にいる者たちの目がいくつか二人、というより未理亜に注がれる。そこで透吾が二回手を叩き、「注目」と声を張り上げた。

「通達通り、スタッフが一人今日から増える。私の娘の辻未理亜だ。私より有名な上、オンラインで日頃顔を合わせてるから知らない者はいないだろうけど」

 くすくすと辺りから好意的な笑いが湧いた。雰囲気も仲もまあまあいいようだ。

「未理亜。何かひと言」

 透吾に促され、未理亜は部屋全体を見回した。各自のモニタから覗くのは知った顔ばかりだ。

「辻未理亜です。紛らわしいのでどうぞ気軽に、未理亜と呼んで下さい。よろしく」

「この通りあまり愛想がないのも有名だね」

 補足した父のひと言がまた笑いを呼ぶ。娘をフォローしたあと、透吾はその場にいる者たちにこの日の共有事項を説明していった。

「話は以上。何もなければ各自仕事を進めてくれ」

 そう締めくくってスタッフの目線が離れた所で、透吾が未理亜に向き直る。

「さて。早速だけど、例の約束の一件が控えてる。僕と君の父娘インタビューだ」

 未理亜は了解、と短く返し、透吾のあとに続いた。


 プロキシマ・ケンタウリbは、太陽系に最も近い赤色矮星、プロキシマ・ケンタウリを主星とする岩石惑星である。公転軌道の半径は七百五十万キロメートル。主星を約十一日で回るほどの近距離にあるため、放射線量が高く大気も薄い。地球から四・二光年――約四十兆キロメートル離れた場所にあるこの惑星は、水が地上で液体として安定的に存在できるハビタブルゾーンにあった。

 水がある可能性。それは生命が存在しうる可能性をも示唆する。今回のレディ・バグによるビデオシューティング計画は、プロキシマbの実際の姿を観測すること、生命の存在や生命の痕跡、それらの証拠を見つけることが主目的だ。

 未理亜は手元の端末をスワイプし、プレスルームの巨大な3Dスクリーンに、太陽系とプロキシマ・ケンタウリ系を並べて投影する。小さな衛星は省略されているものの、それぞれが主星を中心に公転している。そこには耐亜光速飛行宇宙船『ピューパ』が、地球の衛星軌道上を回るISSに寄り添い映っていた。カメラマンがそれを念入りに撮影するさなか、透吾が説明を始めた。

「ピューパはレディ・バグを守ってプロキシマbまで運ぶ役目を背負った、『さなぎ』の名前通りの堅牢な宇宙船です。中心にレディ・バグが入った大気圏突入ポッドがあり、リング状になった反物質エンジンがこれを守っています。二〇三九年の打ち上げ後、ISSでの調整を経て、プロキシマbへ向かう準備をした」

 女性インタビュアーが別の小さなカメラを持ったスタッフを従え、透吾のあとを追いかける。透吾がスクリーンのピューパに触れると、それはISSから突き出た管を支点にして回転を始めた。

「ピューパの持ち物をなるべく減らせるよう、初速はロケットエンジンではなく、この通り遠心力を使っています。投げ縄の要領で高速で回転させて射出後、まずは木星を目指しました。大きな重力を持つあの惑星で、スイングバイをするためです」

 透吾が再びスクリーンに触れた瞬間、ピューパが放たれた。火星の公転軌道を過ぎて木星の背後を捉えるように迫る。巨大なマーブル模様の星の脇に『JUPITER』と名が浮かんだ直後、宇宙船は振り回されて速度を増した。

「これを何度か繰り返す。さらに地球の衛星軌道上に浮かぶマイクロ波射出衛星から、追尾するかたちでビーミングする」

 透吾の声に合わせ、いくつかの地球の周りの衛星からスポットライトのような光が発現した。同時にピューパの底部から、マイクロ波を受け止めるひし形の帆が展開する。一辺は三十メートル。ピューパ本体と比べても遥かに大きい。「そして二年の月日をかけ、ピューパは太陽系を脱しました」

 海王星の公転軌道を抜け、宇宙船も透吾の口調もいよいよ勢いづく。「十五年前に反物質を安定して保持する装置が開発されたお陰もあり、本体に積んだそれで加速します」

 こうして各国の協力のもと、長年培ってきた宇宙工学の技術を駆使し、太陽系を出た一年後には光速の九十五パーセントの速度に達した。星々のあいだをすり抜けるようにして進むピューパは、次第にプロキシマ・ケンタウリ系へと近づいていった。

「さて、これまで亜光速飛行をしてきましたが、次はランディングのために減速させなければならない。そこで今度は減速スイングバイと反物質エンジンの逆噴射を利用します。プロキシマbの衛星軌道に到達する頃には、秒速千キロメートルまで落としました。以降はライブ中継でご覧いただいていた通りです」

 プロキシマbの周りをピューパが巡り、やがてランディングポイントに向けて態勢を垂直に変え、姿を消した。

 ここまでで質問は。明るい声で振り返った透吾の問いに、インタビュアーの女性は答えなかった。代わりにうっとりとしたため息をつき、十分な余韻のあとで笑みを浮かべた。

「ありがとうございました。透吾博士、未理亜博士。改めて偉業の達成をお祝い申し上げます。計画発足時にもこのシミュレーション……といってももっと簡素なものを拝見したのですが、そのときは失礼ながら、半信半疑でした。本当にこの通りにいくのかと」

 聞き取りやすいきっぱりとした声音で彼女は言った。

 彼女が疑うのもわかる。それくらいよくできたシミュレーションだと未理亜も思う。子どもの考えた軌道計算を、透吾を始めとした科学者たちが見事なまでにかたちにしてくれた。これがなければ、父たちの世代での系外惑星探査は機を逃していただろう。

 あの、と彼女が控えめに申し出る。

「もしよろしければ、プロキシマbが送ってきた映像をお見せいただけますか?」

「もちろんです。未理亜」

 透吾に言われ、未理亜はリストレット端末で宇宙地図を追い払いついでに乱数発生器のグラフにも目を通した。数値は依然として0と1の均衡を保ち、変わりはない。

 アプリを切り替え、レディ・バグが送ってきた映像を呼び出して透吾を見た。促すような手振り。続きは娘に任せる腹のようだ。未理亜は仕方なく口を開いた。

「レディは今は充電中のため、リアルタイムの映像はお見せできません。ケンタウリが閃光星で太陽のように明るくないから、ソーラーの充電が貴重なんです。二時間ほど前に送ってきた最新の映像はこちら。プロキシマ・ケンタウリが地平線から出てくる瞬間、つまり、日の出を捉えたもの」

 手元からスワイプして動画をスクリーンに投影する。

 険しく切り立った岩肌の向こう、弱いオレンジ色の光が差し、薄く白んでいた大地を照らし始めた。幾筋もの陰影を描きながら、赤色矮星による淡い夜明けをゆっくりと彩る。

 インタビュアーの彼女はもちろん、撮影クルーたちのあいだからも感嘆の声がこぼれ出る。

「すごい、これがプロキシマb……」

 彼女がふらりと一歩踏み出し、スクリーンに近づく。目を見開き、カメラがいるのを忘れたように口に小さな空洞を作る。二時間前、同じような反応を未理亜もした。その時隣にいた透吾も、モニタルームの皆もそうだった。

「宇宙のことがお好きなんですか? 報道のお仕事と関係なく」透吾が尋ねた。

「はい。日本中継を解説したのも、今回のお話も自ら志願して担当したんです。私のIDも、今あの地にいるんですね。まるで自分の分身があそこにいるみたい」

 熱っぽく語り、彼女はほうっと息をつく。

「こんな映像がリアルタイムで送られてくるんですか。四光年先にあるなんて信じられません。本来なら、映像を受信するまで四年かかるわけですよね」

「はい。そのタイムロスの排除を、EPR通信が可能にした。光子を利用した量子テレポーテーション理論に基づき、そこへ全く新しいアプローチを提唱したエマが――」

「未理亜」

 透吾が未理亜をたしなめるように遮る。その口元が無音で『はかせ』と動き、未理亜は軽く咳払いをして言い直した。

「エマ・ブルックス博士が改良を加えて実現したお陰です。かつて恐怖の何分間と言われていた時間はなくなった」

 居住まいを正しながら、ここが日本であると改めて認識する。

 父より少し年上の本人にそう呼べと言われ、ずっと呼び捨てにしてきたのだ。今さらすぎて、なんだかむず痒い心地がする。だからメディアは不得手なのだ。かしこまらなければならない場面が多い。

 スクリーンに映っていた動画はそこで、『Good night Daddy』と表示されて途切れた。インタビュアーの彼女は残念そうに眉を下げ、「地球からレディ・バグに対し、なにか操作をすることはできないのでしょうか。実際に、どこか目標をつけて飛ばすような」今度は透吾へと話を振った。

「残念ながら。今なら多少は可能性があるでしょうが、八年前は技術の問題、容量や重量制限の兼ね合いから、スペックを送信限定にせざるを得ませんでした」

「EPR通信、というより量子テレポーテーションは、それほど複雑な仕組みなのですか?」

 彼女が一旦「なんというか」と言葉を切り、困ったようにほほ笑む。「わかるようなわからないような概念でして」

「無理もないですよ。未理亜、あれ持っているかな」

 透吾に言われて、未理亜はスラックスのポケットに手を入れた。赤と青のビー玉を取り出し、インタビュアーに見せてから握り締める。

「私が握っているこの手をひとつの光子とします。これを誰にも観測できないように分割すると、その二つはAでありBでもある情報を、互いに持ち合う。これを量子もつれといいます。どちらの情報を持っているかは、観測しない限りわからない」

 彼女に歩み寄った。「手を出してください。手のひらを下に」

 未理亜に言われるがまま出した彼女の手に、ビー玉のひとつを握らせる。一方は自身で握っておく。

「今、赤と青のビー玉は二つの地点にあります。二点は離れていますが、赤と青は今、どっちがどっちと決まっていない。どちらの可能性もある。そこで片方を観測する」

 未理亜が開いた手に青のビー玉があった。

「つまりあなたは赤を持っている」

 彼女はゆっくり手を開き、赤のビー玉を見つめた。

「一方が観測されたらもう一方も決定する。この情報のやりとりをしているのが、EPR通信の仕組みです。どんなに遠く離れていても一瞬でわかる。レディに持たせた量子チップは、映像情報を0と1のビット単位に落とし込んで送ってきています」

 乱数発生器も同じ原理で運用していた。いずれにしても、地球からのアプローチが不可能なのは変わらない。

 お二人は。ビー玉を未理亜に返しながら彼女は尋ねる。

「あの星になにか生命体がいるとお考えですか?」

 未理亜と透吾は、同時に上げた顔を見合わせた。

 いたらいいとは思う。微生物のひとつでも、もしも見つかれば世紀の大発見だ。しかし今のところその手の報告は上がっておらず、異変があったら通知がくるはずの乱数発生器も、いまだ静かに稼働している。

「その可能性を信じたいと考えてはおります」

 これまで何度も同じ問いに答えてきたのとまったく同様に透吾が言い、未理亜も頷いた。彼女は深追いすることなく、「では最後に」と告げた。

「もう一つ。なぜ、レディ・バグは『ダディ』と?」

 それは未理亜の意表を突いた質問だった。

 プロジェクトチームの中では、初期の頃からまるで娘のように扱われてきていた。ゆえに、その呼び名も自然に受け入れられていた。

 だが元は、娘が父に宛てたメッセージのようなものだ。尊敬する父を喜ばせたい一心で作り上げた、玩具の工作の延長上の。

「……褒めてもらいたかった、のかな」

 未理亜は小さな笑みを落とし、そう言うに留めた。質問をした彼女は要領を得ない回答に、首を傾げていた。

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