第3話 決心の香り
痛さを感じて覚醒していく。何か冷たいものを感じたが、すぐに痛さがそれをかき消す。
瞼を開けば、心配そうに眉を下げる桜井の顔があった。
「あっ、気づいたあ。良かったあ」
あれ、私、何してたんだっけ……?
確か路地裏から出てきた何かに襲われて、それで……。
頭の中にクリームを詰め込まれたようなもったりとした意識の中で、必死に思記憶を辿る。生暖かく気持ち悪い何かに締め付けられ、鋭い痛みで体が千切れそうになりフルーツナイフで……。
だめだ、意識がはっきりとしないから何も考えられない。
桜井に視線を動かせば、私の左腕で何かしているようだ。麻酔をかけられたように、その部分だけ何故か何も感じられなかった。
「私、何を……」
「だめ、まだ動かないで」
体を動かそうとしたが桜井が制する。その声に素直に従い、そのまま地面に寝そべっていた。ビルの隙間から青空が見える。
その青空を眺めていると、普通の日にさえ感じた。このまま家に帰って、お母さんの美味しいご飯も食べて……。
当たり前だったあの時の事を思い出し、涙が溢れそうになり瞼を閉じた。絶対にこの非日常から抜け出して見せると誓った。
さっきから桜井は何をしているのだろう? 時折締め付けられるような痛みが襲ってくる。視線だけを桜井に向けると、腕に何かを巻きつけているようだ。
次第になくなっていた感覚が戻ってきて、左腕に鈍い痛みを感じ顔を顰める。
「ねえ、左腕動かしてみて」
桜井に言われ、素直に鈍痛がする左腕を動かしてみる。が、少し動かした途端、鋭い痛みが襲う。石のように固まり、降ろすことも上げることもできない。
まるであの時の痛みのよう……。
「っ……痛い……」
「ん、折れてるね」
医者でもないのに断定するな、と言いたくなったが本当に骨が折れているように痛い。小さい頃、遊具から落ちた時に感じた痛みみたい。
右腕はどうかと少し動かしてみる。少し鋭い痛みが襲うが、左腕に比べたら動かしやすい。
利き手が無事でひとまず安堵した。それと同時に、痛みに耐えながらゆっくりと左腕も降ろす。
「わ、私……何が……」
「野生動物……うーん、あれは狼かな? 君の体より大きい動物だったね」
ならば襲われている時に感じたあの生暖かい液体のようなものは、その動物の体液だろう。あの感覚を思い出し、背筋がゾクッとした。
あの時、必死に抵抗しなければ私は一溜まりもなかったのね……。
「動ける? なんか動物の遠吠えのようなものが聞こえるし、とりあえず建物の中に入ろうよ」
「すみません、肩を貸してください……」
こんな男に借りを作るのは癪だったが、命の危険がある以上仕方ないこと。私は素直に桜井の肩を掴み震える足を立たせる。不思議と足に痛みを感じないが、この左腕の痛みでかき消されているようだ。
フラフラする足を精一杯動かし、桜井に連れて行かれている形で入ったところは様々な匂いが混ざった雑貨屋だった。普段は雑貨屋の匂いが苦手で避けていたが、今の状態だと様々な匂いが混ざった独特なその匂いが気持ちを落ち着かせてくれた。
ミントの香りや、フローラルの香りや、なんとも言えないお花のような匂い。それが身体中の神経にまで届くようで、肩の力が抜けていく。不思議と、感覚までも戻っていくようだ。
雑多に並んでいる商品に隠れるように座る。待ってて、と言い残し桜井は奥に入っていった。
雑貨屋、という名前の通り物がたくさんあり昼間だというのに店の中は薄暗かった。薄暗い、という事はこのお店にも誰もいないだろう。お店の主に心の中でお邪魔します、と言った。
はぁ、と小さくため息を漏らす。それに連動するように、左腕が鋭い痛みを出した。そっと手をやると、ネチャ、と言う音がした。見れば私のハンカチが雑に巻かれている。勝手に使ったな、と言う恨みはあったがそのハンカチの下で傷口がすごいことになっているだろうと想像した。
グオオオオオオオ−−!
店の中に響くような雄叫びに、背筋が凍った。安心しきっている体に、その雄叫びはいい目覚ましとも悪い目覚ましともなった。桜井の声でもないそれは、さっき襲われた野生生物だとすぐに分かった。かなり近い、という事はあの時は逃げたと思ったがまだ近くに身を潜めていたのだろう。思わず息を殺す。店のドアは施錠してある。外からは隠れているここが見えないはず。大丈夫だと思いたい……。だけど気づかれて襲われたら? まともに歩けない私はすぐに食い殺されるだろう。
あの生暖かく気持ち悪い感覚を思い出し、涙が溢れそうになる。
何か、身を守るものはないのか−−。
「近くにいるみたいだねぇ」
背後から声がし、一瞬息を止めた。パッと振り向けば桜井がテレビでも見た事もないような真面目な目で外を見つめ続けていた。
「声出さないようにして」
口を開こうとしたが早口でそれを遮られてしまう。声では制するが、目線は揺るがず外を向いたままだった。
未だに野生生物の唸り声が近くに聞こえる。街中では誰も起きておらず静まり返っているからか、やけにはっきりと耳に届く。
もしかして、このお店の中にいないよね?
桜井が瞬きもせずに外を睨んでいる。その後ろを眺める。……もちろん雑多な物があるだけで、動いたり音を立てたりと何かがいる気配もない。
その空間がとても怖く、視界から無理やり消すように視線を外へと向けた。
「私を、食べようとした……その、動物ってなんですか?」
「オオカミのような、イノシシのような……そうだね、君が凶暴だと思う動物を思い描けばいいよ」
自分でも可笑しな質問をしていると思っていたが、桜井は視線を逸らさずに答えた。
凶暴な動物、とは一体どのような動物なんだろう。真っ先に思い浮かんだのはライオン。百獣の王とも云われるのだから、人間なんて無防備な草食動物だ。私なんか太刀打ちできるはずがない。あの時はたまたまフルーツナイフを持っていたから助かったのかもしれないれど、もし持っていなかったらと思うと背筋が凍る。
男である桜井も私を助けることのできなかった動物、まだこの辺りをうろうろしているのなら早く逃げるのが賢明なのではないか。
だけど……。
「これで止血しといて」
ぽた、という小さな音に反応して桜井はズボンのポケットから布切れを取り出した。桜井が応急処置してくれた箇所は先ほど見た時よりもちが滲んで血が何滴か床に落ちていた。ぐるぐる巻きにされたハンカチをそっと外そうとしたが、結び目がとても固く結ばれているためにほどけない。どれくらいの力で結んだのだろうか、痛さで力が入らないせいなのか。仕方ないのでそのまま上から布切れを当てて結んだ。じわじわとその布切れが血を吸っていくのをしばらく眺めていた。
グウウウウオオオオオオオオオ!!
また、遠吠えが聞こえ背筋がゾクッとした。また近くに聞こえる。足音や息遣いまでが店の中にまで聞こえて、体を守るようにその場にうずくまってしまった。
怖い、怖い、怖い!
逃げることもできず、その場にうずくまることしかできない自分が情けなく感じた。
「ここは危険だ。逃げよう」
「逃げようだなんて、私、まだ」
「裏口がある。あいつらは俺らの会話に反応したみたいだ。とても耳がいい……すぐにでも行こう」
そう言うや否や、桜井は立ち上がり私の手を取った。フラフラと震える足を立たせ、手を借りながら裏口へと音を立てないよう向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます