第二章 国境の町
第1話 新たな感情
泣き出しそうになるのはいつぶりだろうか。
孤独、と言う言葉が重くのしかかっていく。
誰もいない、いや、桜井という男がいる。それでも心の中で孤独は感じる。
広い大地でひとりきりなんて嫌。起きて、探すんだ。
目を開くと自分の部屋の天井が見えた。
昨日どうやって自分の家まで来たのか覚えていない。桜井と会って、警報を鳴らしても誰も起きてこなくて……。
昨日感じた恐怖と絶望が突如として頭を支配し、そのまま突っ伏してしまった。まさか、桜井があんな行動を起こすとは。
昨日の夕方に感じた怒りを再び感じ、柔らかな布団に思いきり拳を落とした。衝撃は受けなかったものの、そのまま怒りをぶつけるようにグリグリと布団に拳をねじ込んでいく。
あれは昨日の夕方、話の流れで誰も起きないことに対して桜井に対し少し愚痴をこぼしてしまっていた。疲れや焦りがその口調を荒げてしまったのかもしれない。私から出た言葉は、いつしか桜井を無表情にさせていった。
『そんなに起きてもらいたいならさあ、こうやって強く叩けばいいんだよ』
体を包む冷気のように桜井は言い放つ。そのまま足元で眠っているサラリーマンを思いっきり殴りつけた。その素早い動きは止める間もないほど。
ドサッ、という音と共に横たわるサラリーマンの頭からは、赤い血が流れ始めていた。桜井は仮面を被ったように無表情のままだ。
立ち竦んでいる桜井の足元で横たわるサラリーマンに慌てて駆け寄り、頭を優しく支えるように抱き抱える。桜井に殴られたと思われる箇所からは止め処なく血が滲んでいる。嫌な記憶が頭をかすみ、顔を顰めた。
思い出したようにポケットに突っ込んだままのしわくちゃなハンカチを取り出し、傷口に当てて止血を試みた。入れっぱなし、という点が不潔に感じたが今はそれどころではなかった。しわくちゃなハンカチはすぐに血を吸ってじわじわと赤黒く染まっていく。
『何で殴るの!』
血に染まっていくハンカチを見て、焦る気持ちが止まらなくなる。溢れてくるような焦りをぶつけるように何もせず呆然と立ち竦んでいる桜井に怒鳴ってしまった。これまでに人に怒鳴ったことなどあっただろうか。桜井はまるで鉄仮面を被ったように表情が凍りついている。声を荒げても眉ひとつ動かさない桜井に、心の奥底で焦りが怒りに変わっていくのを感じていた。
『だって、起こそうと思って』
我に返ったように桜井に表情が戻っていく。眉を下げて弁明するような桜井は、いつもテレビで見るようなおちゃらけたタレントの姿に戻っていた。
何を、考えているの。
言葉が出なかった。起こそうと思うなら他の手段があるじゃない、とも暴力的になっても解決しない、とも言えなかった。
いつの間にか荒くなった息を整えながら掛け布団を強く握る。
早くあのサラリーマンのもとに行かなきゃ、と動こうとしてもあの頭から流れる血を思い出し、再び小さい頃のあの映像が蘇る。映像が自分を縛るように、感覚がなくなっていく。
軍事施設を学校の行事か何かで見学中に、爆弾が落とされたあの時の映像が、鮮明に蘇っていく。頭の中で蠢く映像が、忘れたいあの映像が、スライドショーのように次々と蘇る。
泣き叫ぶ声と、助けを求める声、逃げるぞという先生の声、今でも思い出す。
嫌だ嫌だ嫌だ! 思い出したくない!
溢れ出るような映像を消すように首を強く振り、顔を顰めた。
視界が揺らいでいく。涙が一粒、頬をつう、と伝っていった。
続けて友達の顔を思い出していく。たった五秒前まですごいね、なんて感想を言い合っていたあの子を。一瞬で石よりも硬いもので殴られたようにへこんだ頭を、そっと触ったことを。
何もできなかった自分を何度攻めたことか。
涙が止め処なく流れ、震える手でそれを拭った。
深く深呼吸をし、息を整える。横目で時計を見ると昼の十時を指していた。
長い間泣いてしまっていたみたい。まるで赤子ね。
枕元にある鏡を見ると目を真っ赤にし、睨みつけるような目で睨む自分がいた。怒りをも感じるその感情の矛先は自分自身か、それとも桜井か。
化粧も着替えもせずそのまま家を出た。身だしなみに気を使っている方だが、もう気にしてる余裕なんてなかった。駆け足で昨夜桜井がサラリーマンを殴った場所へと向かう。桜井に怒鳴った後、どうなったのか思い出せない。もしかしたら、と最悪なことを想像してしまう。
それだけは嫌だ、何としても助けたい!
昨日警報を鳴らした通りは、あれほどけたたましく鳴っていた警報も鳴っておらず、しん、と静まり返っていた。遠くで空調機が動く音と鳥の鳴き声だけが聞こえている。
あのサラリーマンがいた路地裏へと向かった。つん、とする下水道の匂いに眉間にシワが寄る。人影が見え、自然と走るスピードが下がっていった。そこには昨日のサラリーマンではなく、桜井がいた。
「ちょっとお、昨日何でいきなり怒ったのぉ?」
「……あの人はどこですか」
私に気づいた桜井は眉を下げ、テレビに出ているあの桜井と変わらない口調で言ってきた。まるで心配しているその表情は私にだけ向けており、反吐が出そう。もうこの男に対して怒り以外の感情が浮かばない。冷たく低い声で言い放つ。
「あの男のことぉ? あなたがこの近くで寝かせてあげてるじゃん」
そう言うや否や桜井は返答も待たず大きな通りに向かっていった。疑いながらもその後を追うと、雑居ビルの一階に躊躇なく入っていった。桜井の背中は丸く、歩き方も自分の存在を知らしめるような音を立てながらガニ股で歩く。こういうタイプは苦手だ、さっさと離れたい。だけど今はサラリーマンのことだ、無事ならいいけれど……。
テナント募集、と言う文字を見ながら後に続く。
小さな窓と換気扇と、換気扇の下に小さなキッチンが備え付けられているだけのワンルームの部屋。元は何かのお店だったのだろう。ひんやりとした空間に昨日のサラリーマンが横たわっていた。
慌てて駆け寄り、頭を支えながら昨日の傷口を見る。ティッシュが何重にもつけられ、その上からズレ防止のためにガムテープが貼られていた。
あまりの雑さに、自分でも呆れてしまう。他に血が出ていないか、頭をそっと触る。時々髪の毛に血の塊が付いていたが、他に傷らしきものはない。その男性は小さな寝息をたてながら寝ていた。
生きている、という安堵からその場にへたり込んでしまった。
良かった、無事で本当に良かった。
また目頭が熱くなっていくのを感じて、目頭を指で押さえる。
「良かった……」
思わず声に出してしまった。震えるその声は静まり返ったその部屋に響く。
嬉しくて泣きそうになるのも、いつぶりだろうか。
静かに眠るサラリーマンをあの時の攻撃に巻き込まれ、奇跡的に助かった友達と重ね合わせていた。
「ねえ、聞いてるの!」
涙を堪えていながら考え込んでしまっていたらしい。桜井の声で我に返る。
「あ、ごめん……」
「あのさ、俺の方が年上なんだからちゃんと敬語使おうよ」
なに、偉そうに。
再び湧き上がる苛立ちを飲み込むように喉を鳴らす。
「……こんなところで色々やっていても無駄だと思います。私は国境に向かいます」
「え、もう行くの?」
もう、とは何だろう。
こんな奴に問い詰める事もしたくない、返事もせずに背負っていたリュックを下ろす。
「もう少しここら辺を探索した方が良くない?」
「もう行きます」
「あ、待ってよお」
リュックに雑に詰め込んだバスタオルをたたみ、簡易的な枕を作る。寝ているサラリーマンの男性の頭をそっとあげ、その枕に頭を沈めた。その時、毛布か何かを持って来ればよかったと後悔したが、一先ずはこのままにしておこう。
桜井がブツブツ何か言っていたが無視する。もう答えたくないが、反射的に答えてしまった。だけど桜井の言う通り、この辺り一帯はまだ探索を終えていない。起きている人がいるかもしれない、と入り口に向かっている足を止め桜井の方に振り返ってしまった。
眉を下げ心配そうに見つめる桜井の向こうに未だ眠り続けているサラリーマンを見つめる。
この人は桜井に殴られた後でも、僅かでも瞳を開けようとしなかった。
やはり、起きている人はいないのではないか。……だったら国境まで行くだけだ。
踵を返し、再び外を目指す。桜井は呆然としていたが、すぐ私の後を追ってきた。
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