第3話

 死んだ魚のような目が、じわりと潤んだ。

 まるで傀儡くぐつのように、ごろんと、うつ伏せになる。


 他の男に寝取られそうなのに、何も言えない。奴の手から美弥子を引き離すことも。

 情けない。それしか、言いようがない。


 次第に上下し始める身体を、抑えることが出来ず、滴り落ちる鼻水を何度もすする音だけが、寒々しい部屋に響いた。


 ふっと、何かを思い出したように、孝介は顔を上げた。救いを求める子供のように、匍匐前進ほふくぜんしんしながらベランダに向かう。おもむろに窓を開けてベランダの隅を覗くと、猫の餌が、こんもりと盛られてある赤い皿があった。


「なんだ。食べてないじゃないか」


 今朝、孝介が入れておいた餌が、そのまま残っている。


「おーい、麻呂まろ様」


 力なく、餌の入った皿を持ち上げた。


「お前も、俺から離れていくのかぁ」


 アパートを取り囲むブロック塀。その塀を、どうやって乗り越えてくるのか、一匹の雄猫が、毎日餌をねだりに来るようになった。

 元は白かっただろう、薄茶色の毛並みと短い尻尾。両目の上に、丸い茶色の虎模様があるから、麻呂様と名付けたのだが。

 3日前から姿を見せない。


 孝介は、封を切ったばかりの餌袋を手に取った。


「どうすんだよ、これ」


 それに、これもだと、指輪を手にした。

 美弥子の誕生石、ブルートパーズを中心に、いくつものダイヤを花弁に見立てた指輪。


 もう、ため息さえも出てこない。今頃、美弥子は奴と一緒か。


「もう、どうにでもなれ」


 孝介は、残りのビールを呑み干した。


 時計の秒針が、時を刻む。風が草木を揺らす。まるで子守唄だ。


 窓を閉めなければ。それに横になるなら、ベットに。

 孝介は見慣れた天井を、ただ、黙って見つめた。


 美弥子が誰を選ぶかなど、孝介には決められないし、たとえ奴を選んだとしても、文句を言う資格もない。


「美弥子」


 消え入りそうな声で、呟いた。


「愛してる」


 酒は弱い方ではない。しかし、ここ最近、ろくに眠っていなかった孝介の瞼は、本人の意思に関係なく、ゆっくりと下がっていく。


 風が孝介の髪を揺らした。優しく頬を撫でる。


 安らかな寝息が、夜の帳に吸い込まれるのは、そんなに時間はかからなかった。


 大人になっても、その寝顔には、幼かった頃の、あどけなさを垣間見ることができる。


 泣き疲れた子供みたいな表情で眠る孝介を、じっと見つめる、ふたつの丸い目があった。


 薄汚れた毛並み。目の上の上毛じょうもうあたりに、丸く茶色の虎模様。孝介が麻呂様と呼ぶ猫だ。


 麻呂様は硬く丸い尻尾を、ぴんと立てると、足音も立てずに孝介に近づいた。身をかがめて寝ている孝介の匂いを嗅ぐ。そして部屋の様子をうかがうと、軽やかな足取りで自分の餌場へと向かった。


 カリッ、コリと、美味そうに食べる麻呂様。その音でも起きない孝介の携帯の画面が、青白く灯った。


 1 : 48

 (美弥子)

 孝、起きてる?


 美弥子からのメールだった。


 2 : 03

 (美弥子)

 まだ、怒ってる?


 お腹を満たした麻呂様が、孝介の枕元に座り毛づくろいを始める。


 2 : 24

 (美弥子)

 孝。神木くんとは、何でもないのよ。


 風が吹き、ぶるっと震えた孝介が、寝返りを打った。

 何か、異変を感じたのか。孝介の頭上で、眠りにつこうとした麻呂様が、動きを止めた。

 じっと携帯電話から目を離さない。


 カチン、カチカチと、部屋の電気が不規則に点滅し始める。

 球が軽い音を立て切れると、様子をうかがっていた麻呂様が、急に立ち上がった。

 本能で、今から起こることを警戒しているようだ。


 暗闇の中、孝介の携帯電話のホーム画面が光る。青白い光の中に、時刻を示す数字が浮かんだ。


 3 : 0 0


 光の中で時が、1分を刻んだ。生き物のように、胎動しながら明滅する光。それに合わせながら、画面の奥深くから声がする。


『……ち……がう……、ごか……い』


 途切れ途切れだが、その声には聞き覚えがある。さびしげな声だが、間違いない。兵藤美弥子に似ているのだ。


 囁くように、しかし、はっきりと美弥子と思われる声は、孝介に語りかける。


『なんで……もないの……、私が……好きな……のは……あな……た』


 声は、次第に大きくなっていった。


『プロポー……ズしてくれる……んじゃなかった……の?』


 携帯電話の画面が、激しく点滅し始める。


『もし、時間が……、あの……時に戻れる……なら、もう一度……戻り……たい』


 聞き覚えのある声に、頭をかきながら孝介が目を覚ました。


「んっ、えっ、なに。美弥子?」


 部屋いっぱい、煌々と照らしていた光が、ゆっくりと収束していく。麻呂様が、ひと鳴きすると同時に部屋に、また、闇が訪れた。


 孝介は、息をのんだ。美弥子の気配が、すぐ近くに感じる。ふっと息を吹きかけられたようで、孝介は耳たぶを触った。


「待ってるのに。ちゃんと言ってよ……、ばか」


 甘ったるい、美弥子の声がした。

 


 

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