48「呪い」①

 

 長谷部さんの言い分はこうだ。

「私やこの岡本さんはそもそも、うちのマンションで何が起きているのかを知らなかったんだ。知らないからこそわざわざ文乃ちゃんに相談を持ちかけたんじゃないか。別に君が言ったような後ろ暗い事なんか何もありゃしない。あんたらがうちへ来て台風や土砂災害の話をするまで、私らは何が起きてるのか皆目見当もつかなかったんだ。それにだ、そもそもだよ。あんたらの話が全て正しいなんて証拠はどこにあるね。あんたらが一体何を見て何を経験したのか知らないがね、その、なんだ、霊障とやらが本当だっていう証拠を私らに見せられるのかね?」

 証拠? 今更何を言い出すんだ、この人は……。

「いい加減離せッ、いつまで掴んでるんだ!」

 怒りに任せて振り回した長谷部さんの腕が僕の顔に当たり、僕は力が抜けたようにヨロヨロと尻もちをついた。

「言っておくが」

 不意に言葉を差し挟んで来たのは、岡本さんだ。

「目の前で人が死ぬわけじゃないんだ」

 彼はそう言った。

 その口調は冷静で、だがどこかなげやりな印象でもあった。

「やめなさい!」

 長谷部さんの叱責が飛ぶ。

 しかし岡本さんは、不機嫌というよりも無感動な、興味がないような表情を浮かべた顔で僕を見下ろし、話を続けた。

「ゴミが落ちているのは決まってクレームが出た直後でね。大騒ぎする住民をなだめすかせて時には救急車を呼んでやり、形ばかりの清掃強化なんぞを約束して、使わない消臭スプレーを大量に自腹で買いこんでわざわざ見せに回ったり。その挙句が気持ちの悪い生ゴミだ。あんたは私らを責めるがね、そもそも何かが起きて人が即死するような事例は一件も起きていないんだ。自殺も殺しもなんもない。皆泣き腫らした顔で訴えを起こした後、親類の家に移ったり別の家族に引き取られたりして去って行くんだ。ほとんど夜逃げに近いんだよ。そら、死んだ人間がおったとも聞いているさ。だけどそれが何なんだよ。それが私のせいだとでも言いたいのか? おい」

 そう言って、岡本さんが僕を蹴った。

「おい、お前、何なんだガキのくせに偉そうにしやがってお前。おい!お前!お前だよ!」

 岡本さんは人が変わったように激昂し、何度も僕を踏み付けた。三神さんと文乃さんが慌てて止めに入る。傍らの長谷部さんは怯えたような目で、変貌した旧友を茫然と見つめていた。


「なんとも思わないのか」


 僕は肩や顔を蹴りつけられながらも、どうしても言わずにはおれなかった。別に正義感を振りかざしたかったわけじゃない。

「毎日毎日、顔をあわせてた人だっているんじゃないのか。毎日挨拶をかわして、仲の良くなった家族や意気投合した住人なんかもいただろ!責任をとれなんて話をしてるんじゃないんだ!なんとも思わないのか!人が死んでるんだぞ!昨日までそこにいて笑ってた人が!……死んだんだろ?」

 腹が立って仕方なかった。

 ただそれだけだった。 

 だが尻もちをついたまま、充血した目で喚く学生の声など、僕の言葉など岡本さんには届かなかった。口の中でモゴモゴと何かを呟いているが、恐らく僕に対する罵倒だろう。すると問答無用で僕を足蹴にし続ける岡本さんを突き飛ばし、文乃さんが僕を抱きしめた。

「辺見さん、やめましょう」

 文乃さんがそう言い、僕が驚いて見やると、辺見先輩は両膝を地面に付きながら今まさに、右手に握った石を岡本さんに投げつけようとするところだった。疲労と霊障による消耗が激しく、彼女の白い顔は更に色を無くし、唇にいたってはチアノーゼを起こしていた。

 僕は先輩の姿を見て、不覚にも涙を浮かべてしまった。


「そこまでにしよう」


 僕の頭上で三神さんの声が聞こえた。

 見上げると、彼の手が岡本さんの胸に押し当てられていた。

 岡本さんは煩わしそうにその手を振り払おうとした。その瞬間、彼の身体が背後の扉に叩きつけられた。殴られたわけでもないのに、岡本さんの背中は勢いよく管理室の扉に当たって派手な音を立てた。

「貴様、何を……ッ」

 胸を押さえたまま血走った眼を向ける岡本さんに右手を突き出し、三神さんが言った。

「今、あなたの身体に呪いを仕込みました」

 彼の言葉に、ゾクリとする悪寒が全身を駆け巡った。

 呪いを……かけたのか?

 僕も、文乃さんも、三神さんを見つめたまま何も言えなかった。

 そんな僕らの反応に、岡本さんは顔を歪めて身を乗り出した。温厚だった面影が、今はもうない。怒り心頭だった長谷部さんは怯えた様子でしゅんとなり、五歳も十歳も老けてしまったように見える。彼の様子を見る限り、岡本さんの本当の姿はこちらの方だったのではないかと、僕には思えてならなかった。

「方法と手順。それを知っているがゆえ、それに縛られ過ぎていたようだ。新開の、すまなかったね。若い君にばかり損な役目を押し付けてしまった。ここから先は、ワシの番だよ」

 方法と手順?

 損な役目ってなんだ。

 何の話をしている?

「三神さん、何を……」

 三神さんは尻もちをついたままだった僕の手を取って立たせ、文乃さんと共に僕らを自分の後ろへ下がらせた。

 

 パアン!


 三神さんの両手が、柏手のような乾いた音を立てた。

「岡本さん。一つ、お願いがあります」

 そう言った三神さんの声には普段のような軽やかさがなく、しっとりとして、それでいて妙に力強かった。

 岡本さんは目を細め、押し黙ったまま三神さんを睨み付けている。岡本さんの右手は、しきりに自分の胸を撫でていた。

「ワシの語る推測にお付き合いいただく前にあえて申し上げておきたいのは、ワシはどちらかと言えば若さよりも経験を重んじる古いタイプの人間なもんで、本音を言えば考え方の面であなた方には同情しているんです」

 文乃さんが、僕の背中の衣服を掴んでもう少し後ろへ下がれと伝えて来た。彼女の意志に従って後退した所で、文乃さんが辺見先輩の腹部に手を当てた。初めて僕たちを救った時と同じやり方で、霊障を体内から外へ押し出そうとしているのだ。

 だが僕はその行為を有難いと思いながらも、正直、三神さんの話が気になって仕方がなかった。いや、話の内容もそうだが、その声だ。上手く説明できないが、とても、心に引っかかる声と口調なのだ。


 何かが始まろうとしている……。


 そんな予感に、僕の意識は三神さんに引っ張られ続けた。

 三神さんは言う。

「商売人としての葛藤があったのだろうと想像はつきます。人が死んだ事に対する恐怖や困惑もゼロではなかっただろう。だがそれらを天秤にかけた時あなた方は住人の死に目を閉ざし、この地に眠る怨霊たちの声に耳を閉ざす事で己の防衛を第一優先とした」

 淀みなく朗々と歌いあげるような三神さんの言葉は、まるで……。

「その時、あなた方は自らに呪いをかけたのです」

 そう、三神さんの言葉はそれ自体がまるで、まじないのような響きを持っていた。

 

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