47「噓」


 公園の入り口を塞いでいた二体の影はすでにその姿を消していた。おそらく本体は匂いそのものであり、幻子が空に吸い上げて消したと同時に、その形を保っていられなくなったと思われる。

 三神さんが携帯電話で連絡を取った時、幻子は僕たちのいる児童公園から約十五キロ程離れた場所にいると分かった。口々に感謝の言葉を述べる僕たちの声を聞いて、幻子は電話の向こうでくすぐったそうに笑った。

 一瞬現れた彼女は何だったのですか?

 僕の率直な質問に、三神さんは流石に断言をためらうような顔で、こう答えた。

「生霊だよ」

 もはや何でもありだね。

 驚き目を丸くする僕の隣で、辺見先輩は苦笑して言う。しかしその顔はとてもじゃないが軽口が似合うとは言い難かった。やはりこの四人、いやこの場にいない幻子や池脇さんを加えた六人の顔ぶれで比較しても、最も霊障による被害を受けやすいのが辺見先輩である事は間違いなかった……。

 意識を失った彼女を抱きかかえる僕の側に三神さんがしゃがみ込み、

「どれ」

 と言いざま、辺見先輩の額に手の平を押し当てた。三神さんの口元がもごもごと動く。呪文か祝詞のような詠唱を僕は想像したが、すぐさま彼が首を捻って地面に「ベッ!」と何かを吐き出した。

 黒いタールのように見えたその液体からは、

「う」

 と文乃さんが顔を背ける程の、地獄の残り香が立ち昇った。

 幸いにも、三神さんの処置が済むと同時に辺見先輩は意識を取り戻した。しかし額には玉のような汗が浮かび、こめかみには青筋がくっきりと浮かんで脈打っていた。電話で幻子への感謝を伝え終わる頃には、「もはやなんでもありだ」などと軽口を叩ける程度には回復していたが、顔色の悪さだけは戻らなかった。

『もう二度とこんな事はしないで下さい』

 僕はまたしても自分を救おうとしてくれた辺見先輩に、はっきりとそう伝えるべきだったのかもしれない。だがそれは、人を助ける事に理由なんてないと言った彼女に対する非礼であるようにも感じ、僕は俯くしかなかった。自分が情けないと思う。それでも僕は、言えなかったのだ。

「今のうちに移動してしまおう」

 そう進言した三神さんに頷いて、僕たちは『レジデンス=リベラメンテ』へと向かった。

 幻子の生き霊が降って来た空を見上げると、端の方から少しずつ夜の気配が運ばれて来ていた。




 マンション管理室の前。

 渋々、という態度が顔に出ていた。

 長谷部さんのご自宅で持たれた話し合いの場は物別れに終わっている。それどころか彼は自身が所有する土地にまつわる悲劇的な真実を突きつけられ、挙句百名を超える被災者の霊魂が彷徨い出ていることを聞かされた。相談者であるとは言え、本音を言えばこの場に来ることは嫌だっただろう。

 その本音を全く隠す素振りも見せず、長谷部さんは苛立ちの浮かんだ顔で僕たちを出迎えた。隣には岡本さんが所在無さげに立っていたが、僕はそんな彼ら二人が目に入った瞬間、走り出していた。文乃さんと三神さんが驚いて立ち止まる。二人の間を駆け抜け、辺見先輩が僕を追いかけてくるのが分かった。

「新開君!」

 霊的治療を受けたとはいえ簡易的に過ぎず、辺見先輩の体調は全快とは程遠い。僕は運動が苦手で足も遅い。しかしその僕にさえ、辺見先輩は追い付けなかった。

「な」

 恐怖すら浮かんだ長谷部さんの顔を間近に見据えたまま、僕は彼の両肩を掴んで『どん』と音がするほど強く扉に押し付けた。

「痛い! 何をするんだこの若造!」

「教えて下さい長谷部さん」

 岡本さんが慌てて僕の腕を掴んで引き離そうとしたが、僕の力は意外な程に強かったようだ。

「何を教えるんだね。こっちの方こそ早いとこ解決策を知りたいもんだよ!それより君は自分が何をしてるか分かってるのか!」

「あなた方は文乃さんに対して、このマンションから転居者が続出していると告げたそうですね」

 僕の質問に、長谷部さんは一瞬口を閉ざした。

「そ、そうだとも。それが…ッ」

「その後彼ら住人たちはどうなったんですか」

 文乃さん達が追い付いて来たのが、背後の気配で分かった。苦しそうな辺見先輩の息遣いが聞こえ、僕の鼓動がさらに加速していく。

「どうなったとは何だ、出て行った人間たちのことなど……ッ」

「いや、あなた方は僕らに噓をついている。長谷部さんだけならまだしも、岡本さん、あなたはここの住人からクレームを受けて直接本人達に会ってるはずだ。その彼らが出て行く時どういう状況だったか、あるいはどうなってしまったのか、……知らないなんて言わせないぞッ!」

「新開くん、どういう意味…?」

 消え入りそうな声で、辺見先輩が尋ねた。

 長谷部さんも岡本さんも、目を見開いたまま口を閉じ、僕の質問に答えようとはしなかった。


「一体何人死んだんですか……ここの住人達は」


 誰も何も言わなかった。

 だが、目の前の長谷部さんと岡本さんが口を開かないその事が、かえって僕の抱いた疑念をより強固なものに変えた。それはほとんど、確信に近かった。

「だっておかしいじゃないか。僕も先輩も、文乃さんや幻子がいなければ死んでいたかもしれない程の強烈な霊障なんだ。何の対策も取れないここの人たちが、揃いも揃ってただ引っ越してハイ終わりなんて事あるはずがない。少なくとも、ほとんど死にかけの状態で病院へ運びこまれるか、逃げるようにして出て行くか、あるいはこのマンションから出られずに死んでしまったかだ」

 いや、それは……。

 呻くように割って入る三神さんに、僕は問うた。

「本当はもっと前から思っていたことです。だけど今夜、建て前上修繕作業という事になっている今回の計画に際して、一時避難する住人全員に宿泊代を支給したという話を聞いてピンときました。おかしいと思いませんでしたか? 普通はそうなんですよ。普通はこちらが何らかの補填をする側なんです。このマンションが分譲であれ賃貸であれ、まともに考えればクレームを出す側である住人たちがそう簡単に引っ越しなんかするでしょうか。近隣トラブルや犯罪者が住んでるわけでもない。ただ単に臭いというだけなら文句を言って、今回のようにお金をせしめる事だって出来た筈だ。だが実態は違う。もっともっと深刻なんだ。それが全員示し合わせたようにただ退去した? そんなことあるでしょうか」

 疑惑からくる僕の推理が100%正しいなど、僕自身も思ってはいない。

 だがもし僕の推測通り、人が死んでいて、そして最初から死者の出ている案件だと知っていたなら、僕はまだしも辺見先輩を巻き込む事は絶対にしなかった。

『得体の知れない悪臭がする。しかし幽霊騒動ではないという』

 その事が、大学生である僕たちがほんの軽い気持ちで事件に首を突っ込んだ理由である。もちろん文乃さんとの出会いも大きな要因ではある。だが彼女から話を聞く段階で、既に霊障被害による人死にが発生していている事を知っていれば、遡ってその事を長谷部さんたちが正直に文乃さんに伝えてさえいれば、僕はおそらく文乃さんの誘いを断っていただろう。

 その僕が、実際今ここにこうしているのは、自分なりの仮説が正しいという事を前提にした、それなりの覚悟の上である。もちろん辺見先輩をこれ以上巻き込みたくない気持ちはある。しかし彼女自身が僕の気遣いを望まなかった。だから、僕や辺見先輩の身に起こる危険ついて、長谷部さんや岡本さんを責めるのはお門違いだというこも、もちろん分かっている。

 しかし僕や辺見先輩、文乃さんや三神さんですら危うく死にかけたのだ。マンション住人が全員無事であるはずないと思い至ってから今日まで、僕の中に生まれた火種はずっとくすぶり続けて来た。

「あなた方はきっと、人が死んでいることを事前に告げれば助けを得られないと踏んだ。だから黙ったまま文乃さんに相談を持ち掛けた。……違いますか?」






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