39「神の子」②
「新開さんが、私に対してそのような、怒りに似た感情をふつふつと抱き続けていたことは、分かっていましたよ」
幻子は少しだけ落ち着いた僕の心境を見定めて、静かに話を始めた。僕は怒りと気恥ずかしさの半々を理由に、彼女から目を逸らした。だが計らずも彼女に向かって近づいた僕の耳に、意外な言葉が飛び込んで来た。
僕の目が再び少女に吸い寄せられる。
「……知っていたって、そう言いたいのか?」
幻子は黙って頷いた。彼女はこう言ったのである
自分は文乃さんに対して、これまでに見た夢の話を全て報告していた、と。
「極力、私はあの方に、自身の持てる超常的な力を使い過ぎてはいけないと、そう進言していました。ですが彼女は尊敬に値する、責任感の強い女性ですから。あのマンションで新開さんたちが物凄く臭いモノに巻かれた時、彼女は咄嗟に力を使ってしまった」
僕は何も言えなくなって、顔を伏せた。
「いえ、咄嗟というよりも、それこそ責任感からくる覚悟のようなものだったのかもしれません。先生と繋がった携帯電話を辿り、私は文乃さんにも制止の声を届けたはずですが、彼女はそれを当たり前のように振り切ってしまった。結果的には、あの時使った程度の力であれば、体への負担はそう重くないようです。ですが問題は、その後です。救えたと思っていたはずの辺見さんがひどい霊障を受けてしまい、文乃さんは更なる責任を感じてしまったんです」
「大学の医務室で起きる事も、事前に分かっていた……?」
目を細めて頷く幻子を前に、僕の心は千々に乱れた。
針のように尖った感情が内側から僕の全身を刺し貫く。
しかしその感情の種類は幾つもあった。
「その結果文乃さんが聴力を失うことも?」
僕の問いに尚も唇を結んで、幻子は頷いた。
「なら、どうして……」
その先の言葉を口にすることに、ためらいを感じた。ささくれ立つ僕の心にある感情は幾重にも重なりあい、本当の自分がどこにいるのか、分からなかった。
文乃さんに好意を寄せる僕だから、腹が立つのか。
止められた筈の幻子が文乃さんを止めなかったことに、腹が立つのか。
何もできずに守られてばかりの僕自身に、腹が立つのか。
文乃さんは分かっていながら、僕達の呼び出しに応じてくれた。
これから自分の右耳が聴力を失う、下手をすればそれ以上のものを失うと分かっていながら。それでも大学へと訪れた彼女はその時、一体どんな心境だったのだろう。
「……どうして」
どうして、こうなる事を回避できなかったのか。
辺見先輩を襲った霊障も、文乃さんの肉体的な障害も。
起きてしまう前に回避できる術は、あったんじゃないのか……?
無意識に振り下ろした拳が、今度は僕と幻子の間の畳に当たって鈍い音を立てた。僕はほとんど四つん這いに近い状態で顔を伏せたまま、独り言のように呟いた。
「抗う力を何一つ持たない僕だけはこれを言うまいと、ずっと胸の内にしまい込んできた。だけどもう限界だ。初めて三神さんから君の力を聞いた時、もしそれが本当ならこんなに凄い事はない、問題解決に向けてこんなに簡単は話はないと思ったよ。だけど実際蓋をあけてみれば事件は何一つ進展しやしない。それどころか、事態は悪化する一方だ。僕は長谷部さんのように、自分だけ安全な場所にいて他人を危険な目にさらそうなんて思わない。僕に出来ることがあるならなんでも言ってほしい。だからこそッ」
僕は一息に捲し立てると、ぐっと奥歯を噛み締めた。
本当は、これを言うべきではないと、僕自身が分かっていた。
「だからこそ君には、君だけが成しえたはずの事がたくさんあったんじゃないのかッ!」
幻子は小声で何か反論したように思う。だが僕の耳に彼女の言葉は薄ぼんやりとしか届かず、その言葉の意味を理解する為にはしばしの時間を要した。
意識が飛んだようになり、気が付いた時には僕は別の部屋にいて、目の前には三神さんと池脇さんが座っていた。
彼らの話では、僕と幻子、二人きりの対話が始まって十分が過ぎた頃、感情を昂らせた僕が再び霊道を開いてしまうと、幻子から事前に知らされていたそうだ。茫然とする僕の身体を池脇さんが抱え上げ、強制的に別室へと運んだのはそれが理由である。だが、説明を受けた僕の口から出た言葉は、
「こういう事にはあっさりと予知能力を発揮するんだな」
という皮肉だった。
三神さんも池脇さんも、そんな僕を責めはしなかった。しかし、僕の味方というわけでもなさそうだった。
「まあー、なんだよ。色々なことがあって、皆色々な人生を生きている。それはすべからく尊いもので、あの時こうであればこうなれた、そういう『たられば』は美しくも見えるが実際そこには何もない。新開の。お前さんは若いが、きっとそれを分かってくれるとワシは思うんだがね」
三神さんの言葉は暗に幻子を許せと言っているに他ならず、今の僕にはあまり響かなかった。そして池脇さんはこう言った。
「文乃は馬鹿じゃねえよ」
思わず睨むような目で彼を見やった僕に、池脇さんは続けて言う。
「新開。どちらかと言やあよ、お前から恨みを買ってる分、あの女子高生の方が被害者なんじゃねえかな」
どういう意味かと問う僕に、池脇さんは苦笑した顔でこう答えた。
「あの女子高生の忠告を無視したのは誰よりも文乃自身なんだ。自分の身体がどうなっちまうかを分かった上で、それでもあいつは自分のやりたいようにやった。それだけの事だ」
それはそうかもしれない、だけど……。
「この事件を引き受けたのはあいつだ。俺はいい。だが新開、お前も、辺見も、このオッサンも女子高生も、みーんなあいつの我儘に付き合わされてるだけじゃねえか」
僕はカッとなって、池脇さんの両肩を掴んだ。
「違う!僕は自分の意志でここに……!」
「だったら、他人を責めるようなダセえ真似すんな」
その言葉はあまりにも辛辣だった。しかし池脇さんの顔はとても優しく、僕は涙を堪える事ができなかった。
「……なんて、そりゃあ俺自身に言ってる部分もあるけどな」
池脇さんはそう言うと、励ますように僕の肩を叩いた。
いやー、池脇の。お前さんやっぱりこっちの世界に来んかね。お前さんの説法は六十前のワシの胸にも響くものがあるなぁ……。明るい口調で盛り立てる三神さんの声が、僕の耳から遠退いて行くのが分かった。
幻子が反論したあの時、僕はその意味をよく理解しないまま部屋から出された。彼女は確かに、こう言ったのだ。
『辛いことや悲しいことがあった時。そのすべてを回避するために私の力は使われつづけるの? 私は、誰の為に生きてるの?』
僕は後悔していた。僕は幻子を追い詰めてしまったのだ。文乃さんはきっとそんな事を望まないはずだし、僕自身もそこまで攻撃的な意思があったわけではない。
なんと言って謝れば、彼女は許してくれるだろうか。
苦笑いで三神さんの勧誘を断っている池脇さんの横顔をぼんやりと見つめながらそう考えていると、辺見先輩が心配そうな顔を覗かせた。僕が微笑を浮かべて片手を挙げると、三神さんと池脇さんは顔を見合わせて頷き、立ち上がった。
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