38「神の子」①


「なんとかなりますよ、きっと」

 幻子は正座したままスカートの皺を手で伸ばしつつ、微笑みを浮かべている。

 なんとか出来るんですか、という岡本さんの率直な問いには、

「出来るんじゃないですか?」

 と恐ろしく挑発的な返事を口にした。いるならば我が子よりも若いであろう幻子が発する理解不能な答えに、岡本さんは助けを求めるように僕たちを見た。

「お前がか?」

 と、池脇さんが聞いた。

「……」

 幻子の目が真っすぐに池脇さんを見つめ返した。

「……ッチ!」

 その意味を理解した池脇さんは舌打ちし、勢いよく立ち上がった。

「帰るぞ文乃。ここまで来てこんな他力本願なクソガキに、良いように振り回されてたまるかッ!」

 六十を超えているであろう長谷部さんとは比べ物ならない、本物の剣幕だった。そこには焦りや後悔、不安や恐怖などが混じり込まない、純粋な怒りだけがあった。それでも幻子はぷいっと顔を背けてまともに取り合わず、怯える素振りも見せない。

 この子はこの子で、やっぱり浮世離れ感が半端ないな……。

「いや、でもやっぱり私は」

 真剣な目で自分の意見を述べようとした文乃さんの腕を掴み、池脇さんは軽々と彼女の身体を持ち上げて立たせた。

「俺をダチだと思うなら、今日の所は帰るんだ」

「竜二君、待って。話を聞いて」

 そこへ岡本さんが割って入る。こんな遅い時間から帰らなくても、今夜は泊まって行ったらいいじゃありませんか……。聞けば僕たちが到着するまでの間に、長谷部さんと岡本さんは僕たちが寝泊りする為の部屋を準備してくれていたそうだ。

「知るかよ」

 池脇さんがそう吐き捨てた時、不意に僕の隣で辺見先輩が頭を下げた。畳におでこをこすり、両手をついて肘を立て、それはほとんど土下座に近いものだった。

「何やってんだよお前」

「池脇さん、私からもお願いします。……さっき、三神さんからあの場所で災害があったと聞いてから、ずっと寒気で震えが止まらないの。こんな状態で家に帰りたくない。何をしてくれなんてお願いはしない。だけどせめて一緒にいて欲しい。お願いします」

 辺見先輩は伏せていた体をゆっくりと起こし、僕を見た。

「新開君も、お願い出来るかな」

 僕は頷き返し、そしてふと気になって、幻子を盗み見た。彼女の顔は僕を見てはいなかったが、その唇が笑っている事だけは分かった。




 長谷部さんの代理で現れた家政婦に誘われ、僕たちに用意されたという三部屋へと移動した。

 辺見先輩に頭を下げられて以来、池脇さんは言葉で抗う事を止めたものの、長谷部邸で一晩を過ごす事に納得している様子は全くなかった。

 三神さんが、辺見先に霊的治療を施そうと部屋に誘ってくれた。年長者として、空気の流れを変えようとする心遣いを感じたが、僕は僕で三神さんに施術を依頼しようと思っていただけに、有難かった。

 文乃さんは池脇さんに話があると言ってそこから更に場所を移し、本来僕と辺見先輩にあてがわれた部屋には、僕一人だけがぽつんと取り残された。辺見先輩に付いて三神さんの部屋に移動しても良かったのだが、あえてそうしなかった。

 先程皆で話をしていた二十畳の和室と比べて、丁度半分くらいの広さの部屋に、僕はあぐらをかいてただ座っている。

 待っているのだ。

 おそらくそう時間を置かず、約束通り僕のもとへと現れるはずだ。

 時刻は午後十時を回っている。

 長谷部さんの言い付けで、この邸宅の全ての部屋、全ての廊下に煌々と明かりがついているという。それでも人の声が聞こえないただ一人きりの部屋は、様々な恐怖を僕に想像させた。ふと目をやると、出入り口である襖の向こう側に、人型の気配が立っていることに気が付いた。

 来たか……。

 だが、不思議だった。僕にはそれが人なのか幽霊なのか、判断がつかなかったのだ。こんな経験は初めてだった。動かぬ、人型の気配。襖であるがゆえにノックをためらうのか……あるいは。

 すると、僕が片膝を立てて腰を浮かせた瞬間、音もなく襖が開いた。初めにススと動き、それからスーーーと、幻子の手を借りずにひとりでに襖は開き切った。

「そんな事もできるんだね」

 座り直して僕は言う。

 驚いていることを気取られたくなかった。

 だが考えてみれば、それは無駄な事だった。

 幻子は僕の座る部屋の真ん中まで入って来ると、綺麗に膝を折って正座し、両手をついて軽く頭を下げた。先程までポニーテールだった髪が解かれており、はらりと音もなく顔の前に垂れた。

 僕は拍子抜けして、会釈を返す。

「三神、幻子まぼろしです」

「……知ってるよ」

「自分から名乗ったのは、これが初めてです」

 言われてはっとした。

 確かにそうかもしれない。

 出会いがあまりにも特殊だった為に、本来一番手前に来るべき礼儀を欠いていた。年長者としてそれは、やはり恥ずかしい事だろう。

「新開、水留です」

 僕が再び頭を下げると、幻子は嬉しそうに微笑んで頷いた。




「君は、どこまで見えているんだ」

 僕の問いに、幻子は瞬きを一度しただけで、答えなかった。

 聞こえないのか?

「未来予知が出来ると、三神さんから聞いている」

 彼女は答えない。

「……なぜ」

「言えることと言えないことがあります」

 気を吐こうとする僕を遮り、幻子はそう答えた。僕は吸い込まれそうな幻子の瞳をじっと見据え、気持ちを落ち着かせるべく細く長い溜息を吐いた。

「……まずは、病院で辺見先輩を救ってくれたこと。そして、大学の医務室で僕たちを助けてくれたこと。改めてお礼を言います。ありがとう」

 黙ったまま静かに、幻子は体を前に倒した。

「人型の悪……幽霊を見た。あれもやはり、リベラメンテと関わりがあるモノなんだろうか」

 幻子の瞳が左に動き、そして僕の顔へと戻って来る。

「いえ?」

「違う?」

「あれは、あの学校に以前からいるナニカの集合体です。ああ、ですが、彼らを集合させてしまった要因は辺見さんの携帯電話にありますから、そういう意味では、あってるのかも、しれませんね?」

「しれませんね?」

 僕はやはりと言うべきか、どうにもこうにも、幻子の人を食ったような話し方が好きになれなかった。根暗で話下手な僕だからこそ、常に頭の中では自分との対話を繰り返している。人と話すシミュレーションなら誰よりも出来ているのだ。その僕に言わせれば、幻子の話し方には一貫性がない。まるで他人の意見を自分の口から話しているような、僕にはそんな風に聞こえてしまうのだ。

「ネタ晴らしをしよう」

 と幻子は言った。三神さんの口真似らしいが、僕は笑わない。

「……私は、これから起きるであろう事柄を夢で見ることができます。ただ」

「ただ?」

「それが何を意味するのか、何故そうなるのかは、私には分かりません」

「……ああ」

 無意識にそんなだらしのない声が漏れ出たのには理由がある。

 僕も薄々、もしかしたらそうなんじゃないかと疑っていたのだ。

 幻子の予知能力は万能ではない。

 もし万能なら、僕なんかが呼ばれるはずはない。

 僕はきっと間違って選ばれたんだ……だけど。

 だけどもし僕の推測が正しいと分かってしまったら。

 ……僕は。

「何故、泣いているんです?」

 幻子の問い掛けに、僕は振り上げた拳を自分の太腿に打ち降ろした。

「なら何故!どうしてそんなあやふやな情報で辺見先輩を巻き込んだんだ!僕はいい、間違えたというならそれでいい!けど彼女は死にかけたんだぞ!」

「……」

「なんで文乃さんを巻き込んだ!ただでさえあの人は左目の視力がない。そこへ来て今もまた右耳の聴力を失いかけている!君は、それでも平気なのか!」

 叫んだ自分の声よりも、僕の鼓動の方がずっと大きくてうるさかった。幻子はまるで、そんな僕の興奮が収まるのを待つかのように、静かな目で僕を見つめ続けていた。




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