37「すれ違い」


「なんとかしてくれるんだろうな」

 それは長谷部さんの口を突いて出た、切羽詰まった言葉だったのだと思う。だが僕は彼の言葉に明らかな不快感を覚え、思わず顔を上げて睨み付けた。

 三神さんの説明によって、『レジデンス=リベラメンテ』で起きている怪異についての事象を、誰しもが大方理解することは出来た。しかし文乃さんに相談を持ち掛けている以上、頭から霊的な事柄について否定的ではない長谷部さんでさえ、理解したからといって、到底受け入れられる話ではないのだろう。それはそう思う。ましてや、何故それらの怪異が起きるのか、という一番肝心な理由が分からないままである。相談者として焦り、憤る長谷部さんの気持ちも分からなくはない。

 だが僕は、そもそも最初からこの長谷部さんの事が好きではない。なんなら、今回の事象の背景を三神さんから聞かされるまでは、厄介な怪現象に文乃さんや辺見先輩を巻き込みやがって、と身勝手な敵意すら抱いていたほどだった。

「三神さんと仰いましたな」

 下を向いたまま長谷部さんは言う。

「いかにも」

「あんたぁ、色々分かっていそうじゃないか。拝み屋だとご自分を名乗られましたな。今回の事態に際して、拝み屋のあんたならなんとかしてくれるんだろうね?」

 見下している、とは思いたくない。しかし長谷部さんの言いようは、その場にいたほとんどの人間の反感を買ったように思う。三神さんは苦笑を浮かべると、努めて穏やかにこう切り返した。

「事情が事情です。日常であまり聞く事のない職業に対して過度の期待を抱くお気持ちは、お察しします。ですが本来拝み屋と申しますのは…」

「どうなんだ!」

 あまりの怒声に三神さんは開いた口が塞がらす、長谷部さんのすぐ隣では、岡本さんが微動だに出来ず俯いている。池脇さんはこういう場面に慣れているのか、特に変化は見られない。

「長谷部さん」

 文乃さんがそう優しく声をかけて彼の注意を自分に向けさせようにも、長谷部さんの様子は明らかにおかしかった。限界を超えた、そういった顔に見えた。

「長谷部さん落ち着いて下さい。三神さんは確かに経験豊富なお方です。今回のような特殊な事例に対しても場数を踏んでこられました。ですが、長谷部さんのマンションについてご相談をお受けしたのはこの私です。ですから、三神さんに詰め寄るような言い方は、おやめになってください」

「だったら!いつまで君らはこうして座っているのかね!あんたらのした事と言やぁ、ただ座って話をするか、子どもの霊たらなんたら言って私らを怖がらせただけじゃないか!しかも言うにことかいて、戦争だと!? 一体何の話をしてるんだ! こっちは実際にクレームをばんばん喰らって退去者が続出しとるんだぞ! いつまでも悠長に構えとらんで、とっとと行って御自慢の超能力でも祈祷でもなんでもいいからあのマンションに群がる悪霊どもを追っ払ってくれ!」

 いやいや、ですからぁ~。

 三神さんが笑顔と柔らかな物言いで仲裁に入ろうにも、文乃さんは責任を感じて一歩も引かず、血走った眼で口泡を飛ばす長谷部さんと真正面からぶつかり合う姿勢を見せた。

 池脇さんは興味のない顔で明後日の方向を向き、溜息をついている。僕は正座した太腿の上で握った拳を振るわせ、長谷部さんを怒鳴り付けたい気持ちで一杯だった。しかし昂る気持ちとは裏腹に、僕はやはり行動に移せないダメ人間なのだ。


「でもノーギャラじゃないですか」


 突然、幻子が言った。その顔はそっぽを向いていた。

 なんとか膝立の姿勢でギリギリの理性を保ちつつも、相手を罵らんばかりに声を荒げていた長谷部さんが急に、口を噤んで黙り込んだ。

「い、あ、え? おい、ゲンコ。今お前何と言うた?」

「ノーギャラ」

 再び幻子の愛称を口にした三神さんは、その事に気付かない様子で文乃さんを見つめ、そして再び幻子に視線を戻した。

「いや、ワシら、報酬はもう貰っておるぞ? ……池脇の。お前さんは?」

 池脇さんは急に話を振られて驚き、

「だから俺はこいつのツレだって何度言わせんだよ。金なんか受けとるわけねえだろ。お前らは?」

 と言って僕と辺見先輩に話を投げてよこした。僕が首を横に振ると、幻子は三神さんを見返したまま長谷部さん達の方へと顎をしゃくった。三神さんが事態を理解するまでに、一瞬を要した。

「お嬢。もしかしてお前さん、こちらからは報酬を受け取らない約束で、ワシらにだけ払っとるのか。自腹でか?」

 その問いには、文乃さんは顔を伏せて答えなかった。すると、長谷部さん達の悪態にも静観を決め込んでいた池脇さんが、さすがに呆れた様子で大きなため息をついた。その音は溜息の枠を飛び越えて大きかった。

「そ、それとこれとは話が違うじゃないか。もともと文乃ちゃんは解決するまで報酬を受け取らないと自分から言ったんだ。何も私が払わないと言ってるわけじゃない」

 幾分和らぎはしたものの、やはり長谷部さんの口調はいやらしさと棘を多分に含んでいた。

「もうやめちまえ文乃」

 と、池脇さんが言った。

 岡本さんが顔を上げ、泣き出しそうな目で池脇さんと文乃さんを見やった。長谷部さんとは違い、彼は心底怯え、心底困り果てているのだろうと僕の目は映った。

「俺には、お前が頑張る理由がひとっつも分かんねえよ。金の話以前によ、お前は一体何をやってんだ。もう、三神さんのおっさんに全部任せりゃいいだろうが」

「竜二君、それは違う」

 伏せていた顔を上げて訴える文乃さんに、池脇さんは静かな目を向ける。

「違わねえよ。お前はどこにでもいるただの二十四歳の女で、だけどこの世に一人しかいねえ俺の友達なんだよ。それ以上でもそれ以下でもねえ。こういう事に関してお前よりも適任がいるんなら、事が上手く運ぶようにそいつに任せる。そんなもん当然の話だろ。っつーかよ、この、さんの言う通りだろ」

「え?」

「もう話終わってんじゃねえか。三神のおっさんの言う悲惨な災害が事実だとして、それをお前らが信じるって言うんなら、そんなもんもうどうしようもねえだろ。お前にやれることなんて何もねえよ。な、文乃。三神のおっさん達に任せてよ、もう帰ろうぜ」

「……竜二君」

 文乃さんの頬に涙が伝う。

 長谷部さんを長谷川さんと言い間違えた事など突っ込む気にもならぬほど、池脇さんの優しさは僕らの胸を激しく揺り動かした。どこまでも現実的で、どこまで行っても己を見失わず、雰囲気に呑まれて流される事もない。当たり前のことを、当たり前にやる。それが、この人の強さなんだろうな……。

 強さというのは、霊的な加護を受けているとか、ましてやただ単に喧嘩が強いとか、そういう事を言うんじゃない。困難に直面した時、それでも他人に優しさを忘れない彼のような人間こそが、強いと呼ばれるに相応しいんじゃないだろうか。

 僕は思わず零れ出た貰い泣きの涙を手の甲で拭い、頷いた。

「僕も、池脇さんに賛成です」

「……私も」

 ぽつりと辺見先輩が賛同し、困ったように三神さんが後頭部を掻いた。だがその困り顔には、自分のお株を若者に奪われた、なにかそんなバツの悪さを感じているような、彼なりの優しさが垣間見えた。

 思わぬ展開に焦りを感じた長谷部さんは、立ち上がって全員を見下ろした。僕たちの行為を裏切りとでも感じているのか、その顔は怒りに歪んでいるようにも、そして恐怖に震えているようにも見えた。

「……もういい」

 長谷部さんはそう言うと、こちらの反応を待たずして部屋を出て行ってしまった。岡本さんは肩を落として大きな溜息を付き、

「どうしてこんなことに……」

 と、まるで他人事のように呟いた。

 だが、意外な事が起きた。

 大丈夫ですよ。

 そう、岡本さんに向かって声を掛ける者があった。

 だがそれは文乃さんでも三神さんでもなく、蠱惑的な微笑みを浮かべる……三神幻子だったのだ。


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