36「リプレイ」


「ゴミ?」

 三神さんが眉を片方ずつ上げ下げしながら聞き返した。

 初耳である彼の様子に気が付き、岡本さんは改めて説明を始めた。

 岡本さんがマンションの管理業務として日課にしている棟内の清掃、その後に遭遇するという出来事である。ルーティーンとして彼なりのやり方と手順が構築されていて、清掃作業だけなら午前中一杯で終わるそうだ。だがもちろん管理業務は清掃だけではない。午後になってマンションの廊下を歩いていると、ぽつりと、黒ずんだ生ゴミが落ちている事があるのだという。

 同じく初めて聞いたらしい池脇さんが、

「なんだよ、うんこか?」

 と聞いた。冗談を言っているわけではない。犬や猫の糞か、と聞いているのだ。岡本さんは首を横に振り、

「サイズは近いかもしれないが、私には、西荻さんにも言いましたが、生レバーみたいなものに見えたね」

「レバーって、あんた……」

 三神さんはそう言い、文乃さんを見た。文乃さんは三神さんを見返し、曖昧な表情ながらもニ、三度首を縦に振った。

「岡本さん。あんたそれをどうしたんです?」

「どうって……」

 岡本さんは隣の長谷部さんを見やり「そりゃあチリ取りでとって捨てますよ。ゴミなんだから」

 と答える。

「そのゴミは、どこに捨てます?」

「マンションに設置されている蓋つきの大きなゴミ箱です。いけませんか?」

「あなたはそれを、その後気になってご覧になったことは?」

「はあ?ありませんよ、そんなの。……気持ち悪い」

 気持ち悪い。清掃後のマンション廊下に黒ずんだレバーのような何かが落ちていれば、確かに気持ち悪いだろう。……だが。

「何故お二人は、異臭騒ぎの原因がそのゴミにあると考えないんです?」

 と、三神さんが聞いた。

 すると岡本さんが即答する。匂いがないからです、と。

 僕の隣で、辺見先輩が自分の身体を抱きしめた。

「大丈夫ですか?」

 小声で問うと、彼女は頷きつつも僕の左手を強く握ってきた。

 ふうんむ。

 三神さんは溜息をついて、指先で顎を撫でた。

 なんです?

 岡本さんの代わりに、長谷部さんが額を突き出して聞いた。

「おそらく、あなた方が見たというそのゴミは、この世のモノじゃあないねえ」

 あぐらをかいてじっと座っていた池脇さんの顔が、驚いたように長谷部さん達へと向いた。音もなく動いた彼のその挙動が、もの凄く怖いものに感じられた。それほどまでに、僕達の間には異常な緊張感が張り詰めていた。

「そんなバカな」

 と呻く長谷部さんを見据えて、三神さんが言う。

「これを今言ってもせんないことではあるが、岡本さんが、いや、長谷部さんでもいい、その後もう一度ゴミ箱を覗いていれば気が付いたのかもしれませんなあ」

「何を根拠にそんな!」

 長谷部さんが腰を浮かせて声を荒げると、同じように三神幻子が膝立ちになった。タイミングがばっちりと合った為に、恐怖や怒りよりも驚きが勝った様子で、長谷部さんが彼女を見やった。

 すると幻子が左手を上に向け、くいっと魚を釣り上げるように手首を返した。

 ポトリ。

 音がして、幻子の手の平に何かが落ちてきた。

「ゲンコ!」

 三神さんが強い調子で叱責する。幻子はやや予想外だったような顔をして、すぐにその何かを真上に放り投げた。その何かは空中に舞い上がると同時に……消えた。

 しかし誰もが目にしたはずだ。幻子の手の平に落ちて来たもの。それはまさしく、岡本さんたちが目撃したという黒ずんだレバーのようなものだった。

「今のは、どういうことだ、あんたの仕業だってんじゃないだろうな!」

 唾を飛ばしてがなり立てる長谷部さんから顔を背け、幻子は言った。

「今のは私の背中の肉です」

 彼女がそう言った瞬間、僕らの視線が辺見先輩に集まった。

 僕だけでなく、文乃さんも、池脇さんも、幻子の行った強烈なデモンストレーションによって事情を理解したのてある。あるいは理解というより、奇なる事実を突きつけられたと言ってもいい。それは辺見先輩の体に起きた、筋肉消失という異変だけではない。土砂災害に呑まれて大勢が死んだ、悲しい土地であるリベラメンテで起こる怪異のひとつ、黒ずんだ生ゴミの正体が知れたわけだ。

「もちろん、ケースバイケース、ということもあると思います」

 そう断った上で、三神さんはこう説明した。

 断崖の崩落によって起こる土石流などで被害を負った犠牲者の中には、ただ家屋の下敷きになって圧死するだけでは済まされない事があるという。流れ来る岩石の衝撃をまともに食らうと、体の部位が欠損してしまう事態が起こりうるそうだ。ひどい時には遺体がバラバラに発見される事すらあるといい、災害現場の悲惨さは見る者に戦争を想起させる程だった。

「では何故、リベラメンテで見つかる肉片が、腕一本や頭部丸ごとではなかったかと問われれば、おそらくは質量の問題だろうと考えられます。岡本さんが業務中に気が付き、それに触れる。そこまでリアルな代物をこの世に送り出すには、現実に働きかける相当な力が必要となるでしょう。それが暗示や幻覚の類であれ、実際に実物を顕現させるのであれ、どちらにせよ相当な力です。となると、被災者たちの思いや残留思念が作り出せる合図としては、岡本さんにはレバーと見える、そのサイズが限界だったのではないでしょうか。彼らが亡くなったのは、もう四十年以上前ですから」

 欠けてしまった肉体の部位をこの世に発現させることで、無念を訴えているというわけか。もしそれが三神さんの言う通りであるとするならば、……ということは。

「戦争ねえ」

 と、池脇さんが呟いた。「じゃあよ、俺達が食らったあの匂いの正体ってのも、その災害に関係してるわけか」

「であれば、辻褄はあう」

 三神さんの答えに、池脇さんは納得したように頷いた。

「四十年前、昭和の三十年代ともなれば、この東京といえどもまだ各家庭の厠は汲み取り式が主流だった。土砂によって家ごと流されたとあってはどうしたってそれらの汚物が散乱する事は免れない。くわえて、体のパーツが欠けてしまうほどの衝撃が人々を襲ったわけで、ありとあらゆる、人の放つ体液からなる臭気が辺り一面を覆ったであろうことは、想像に難くない。そういった面でも、人々には戦争を思い起こさせたでしょうな」

 僕はこの時、思い出していた。

 物凄く臭い何か、その霊障を食らった日、三神さんは弟子である幻子と携帯電話でやりとりをした。遠隔透視によってこちらの様子を見ていた彼女に、三神さんはこう問うたのだ。

 どうだ、なんとかなりそうか。

 すると時彼女は、こう答えたのである。

『先生、アレは、無理です』

 それもそのはずだ。これは単なる霊障被害というよりも、土砂災害によって犠牲となった者達の、恐怖と苦痛のリプレイに他ならない。そんなもの、どうやって止めるというのだ。

 幻子を見つめる。

 するとやはり、彼女もまた僕を見ていた。


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