25「穴についての私見」①
意識を取り戻した辺見先輩の様子を病室でひと目確認した後、軽い自己紹介だけを済ませた三神師弟(と呼んで差し支えないと思う)は、急用が出来たと言い残して病院を後にした。辺見先輩が搬送されて生死の境をさまよい、無事帰還した日の夕方近くであった。
彼ら二人が命の恩人である事を僕が告げても、辺見先輩はよく分かっていない曖昧な笑顔で頭を掻き、「すみません」「申し訳ない」を連発するだけだった。三神さんも幻子も具体的な説明を避けたきらいがあり、事態を理解しないままの辺見先輩との間で、遠慮がちな言葉の応酬がなされただけだった。
病室には僕と文乃さん、そして池脇さんが残った。仕事が忙しく都内にいない事も多いという辺見先輩のご両親が知らせを受けて駆け付けるまで、僕たちは残ることに決めていた。
「なぜ、彼に連絡を?」
売店で買って来たサンドウィッチを開けながら、僕は尋ねた。思い起こせば、昨日はウィダーインゼリーバナナ味しか口にしていない。
辺見先輩は照れ臭そうに、窓際に立って外を見ていた池脇さんの背中を一瞥した後、僕を見た。
「携帯の、ね。アドレスがね」
「はい」
「一番上に来てたのよ。池脇さんが」
「……あ」
なんだよそれ、と池脇さんは笑ったが、三神さん達の話を聞いた後ではそれも鵜呑みには出来なかった。今もって池脇さんの背中にあるものが外から差し込む西日なのか、霊的加護による後光なのか判別が付かない。それでも間違いなく彼の輪郭は力強く光を放っている。
「でも、それは私も分かります」
そう言ったのは文乃さんだ。
「私の場合は、新開さんですけど」
「え、池脇さんではなくて?」
辺見先輩の問いに、
「彼の場合は、池脇では登録していないので」
と文乃さんは眉を下げて答えた。
「あー、なるほど」
おそらく竜二かRで登録されているものと思われたが、辺見先輩の「なるほど」の口調が気になった。
その時池脇さんが「……じゃねえの?」と誰かの名前を口にした。文乃さんは慌てて、「このメンツの中での話」と釘をさすように言って聞かせた。池脇さんの言った名前は完全に聞き洩らしたが、苗字ではなく下の名前だったような印象を受けた。
しかしこの時既に、僕の気持ちはすっきりと片付いていた。二度も振られたくはないし、仲の良い友人関係というものをこの先も続けていけるなら、その方が良かったからだ。昨晩受けた電話の流れでは、もう二度と会うことはないといった意味合いの言葉を彼女は口にしていた。出来ることなら、あんなに悲しい気持ちを再び味わいたくはない。何も知らないまま、何も聞かないまま、友達でいられたらそれだけでいいのだ、僕は。
「池脇さん、バナナ」
と辺見先輩が言って、売店で僕が買ってきたバナナを彼に差し出した。
「いや、いいよ。お前が食え」
と池脇さんは首を横に振ったが、
「ん」
と言いながら辺見先輩は差し出した手を引っ込めない。
「なんだよ、いらねえって」
そう答えながらも池脇さんがバナナを握ると、
「うーわー」
と、辺見先輩が痺れたような声を上げた。僕の目にははっきりと、そのバナナは光って見えた。僕はその様子を驚きの表情で見据えながら、食べかけのサンドウィッチを口に運んだ。
「新開さん。私を見てください」
振り返ったまま硬直して動けない僕の身体を、幻子が再び肩を掴んで振り返らせた。
目の前に、噓のように整った顔立ちの少女がいる。
しかし僕の頭にこだましているのは恐怖と混乱だった。
あの無数の幽霊たちは一体なんだ。
あれだけの数、一体どこから……。
……まさか、いや、まさか。
「よりこ」
「え?」
幻子の口にした、たった三語の響きが僕の頭の中を真っ白に変えて、弾けた。
その瞬間僕の右頬を熱風がかすめた。幻子の突き出した左手には、いつの間にか師匠の数珠が握られている。僕の背後でビー玉がぶつかり合うようなガチャガチャという音が聞こえ、「ああっ」と嘆く三神さんの声と同時に、その数珠が弾け飛んだ。僕が驚いて振り返った時には、無数の幽体は幻子の解き放った数珠と共に消え去っていた。
思わず僕は池脇さんを見た。霊感のない彼はこの場の状況を何一つ理解していないはずだ。当然この僕よりも茫然自失しているはずだった。しかし池脇さんはズボンのポケットに両手を突っ込んで立ったまま、平然と僕を見ていた。
「……なんだよ」
池脇さんは言い、「あれ、今の数珠、どこいった?」と目を細めて辺りを探している。豪胆というよりこれはもう、鈍感であろう。
「いえ」
池脇さんはそう答えて頭を振った僕にもう一度視線を定めると、
「なんだよ。よりこって誰だよ」
と言って苦笑した。
「よりこは、僕の亡くなった母の名です」
「は……え?」
池脇さんの視線が、ようやく訪れた驚きと共に僕から幻子へと移る。しかし、
「よりこさんの話は、今すべきではありません」
ぴしゃりと幻子は断言する。
……霊道。あるいは霊穴。
「例えるならそう、穴です」
唐突に幻子は語り始めた。
三神三歳の弟子である幻子は、この点だけは師匠やその筋の他の人間と意見が食い違うから、話半分で聞いてもらって構わないと前置いた。しかしながら、あくまでも私見だが、私の意見は未来永劫変わらない、という確固たる強い意志を宣言した後に、彼女は僕の身に起きている奇天烈な現象について説明してくれた。
「まず大前提として、あの世とか、死後の世界とか、そういったものは、ありません」
「いや、え?」
この言葉には少なからず衝撃を受けた。僕をはじめ、三神さんや幻子、文乃さんや辺見先輩にいたるまで、僕たちは皆、彷徨う死者の存在を認識しつつ生きている。それが魂なのか残影なのか、意識の残り香なのか表現の違いはあれど、そういうものは確かに存在する事を知っているからだ。
「私たちの生きる現世と平行し、隣り合った次元の違う世界や空間があり、そこに、亡くなられた方の魂などが辿り着いた後、輪廻転生を待つ間永遠に漂い続けている。そういった世界観を描き、そこに安寧だとか天国だとか、あるいは地獄だとかの教義を押し嵌めて奥行を形成するのが宗教的発想であるならば、私は全てを否定します」
十七歳らしい若く凛とした声であるが、口調はあくまでも柔らかい。そしてそこには、貫き通したいという尖った意識も、本来あるべき自信すらも感じられない。
ただそうであるから、そうと言っている。
そんな当たり前の口振りが、僕や三神さんの背中をざわつかせた。特に三神さんなどは、この世とあの世の理を知識として生業に活かす立場の人間である以上、当然のごとく、幻子の意見には苦々しい表情を浮かべて顎を摘まんでいた。
そして僕は混乱する。じゃあ、僕の見てきたものはなんなのか。たった今見たものはなんなのだ。
「それはしかし、死者の霊魂、霊体、魂、その他一切が存在しないという話ではありません。彼らだけが存在している世界などないと、そう言っているにすぎません。ならば」
そうだ。
彼らはどこにいて、どこからやってくるというのか。
「死んだ人間の魂はどこへ行き、私たちが目にする彼らの儚い姿はなぜ現れるのか。その答えが霊道にあると私は考えます。霊穴とも言います。ですからそう、穴なのです」
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