26「穴についての私見」②
辺見先輩は二日で退院することが出来た。
運び込まれた時の衰弱具合と、レントゲン写真・CTスキャンに見る不可思議な筋肉の喪失に、医者は首を捻りっぱなしだったという。そして何より、翌未明には失われた肉が復元していたというのだから、尚の事だ。栄養失調に近い衰弱から回復するのに二日を要したが、その間も原因の解明には至らなかった。
その日大学の講義を午前で終えた僕は、夕方になって辺見先輩の病室を訪れた。
「さっき、下でご両親とお会いしました。明日、迎えに来てもらえるそうですね」
辺見先輩はベッドの上に体を起こし、パックに入った牛乳を飲みながら眉をしかめた。
「大袈裟なんだよねえ、大丈夫だって言ってるのにさあ。二十歳超えた人間が二日入院した程度で、恥ずかしいんだよ」
「いやいや、結果的には二日で退院できますけど、本当に一時はどうなることかと」
僕は丸い椅子に腰かけながらそう苦笑する。
「大学には、言ってないよね?」
「ええ。翌日は僕も講義を飛ばしたもので、今朝になってサークルの先輩から聞かれました。昨日も今日も顔を見ないけど、君、辺見さんと一緒に出掛けてなかったっけ?って。目ざとい」
「目ざといなー」
僕たちは声を揃えて言い、そして他人事のように笑った。
「そりゃあ、変な気を使わせたね」
同情を浮かべた顔で言う辺見先輩に「いえ」と僕は答えたが、話が弾むような上手な受け答えは出来なかった。胸が締め付けられるように苦しかったからだ。
「辺見先輩」
「うん?」
「先輩はどうして。……その」
「文乃さんから聞いたよ。私が君と似た体質だっていう話を、聞いたんだって?」
僕が黙って頷くと、
「どうしてっていうのは、何に対して?」
と辺見先輩は首を傾げた。
「それは。どうして、僕なんかを助けてくれたんでしょうか。それも特異体質を僕に隠したまんまで、ずっと」
先輩は、
「大袈裟だな」
と言って笑った。「ずっとって言っても出会ってまだ半年ほどだよ。そんなに全てを曝け出す程、私たちは仲が良かったっけ?」
本来ならば、それは意地悪な言葉なのだろう。だけど僕には、そういう風には聞こえなかった。
「理由なんてないよ?」
と、いつもの調子で先輩は言った。「理由なんてないよ。公園で友達と遊んでて、自分達の方へテニスボールが飛んできたらキャッチするし、それが虫なら払い落とすでしょ。見えないなら、一緒に当たって痛ーいって叫んでればいいわけだし。だけど、見えるんだもん。そりゃ、払い落すでしょ」
「テニスボールや虫とはわけが違う。何故逃げないんですか」
「君だって逃げないじゃないか。ずっと逃げなかったじゃないか。君がもし逃げていたら、私も逃げてたと思うよ。理由なんて、実はありそうでないもんなんだよ」
「今回の件だって、先輩がどれほど危険な目にあったか」
「それは君が責任を感じる話じゃないでしょ。私が自分で付いて行くって決めて、結果こうなっただけだから。あ、うちの親に何か言われた?」
「いえ、そういうことではありません。もし先輩が、あの時バスで僕の霊障を払ったりなんかしなければ、先輩があそこまで衰弱してしまう事はなかったのかもしれない。今回はたまたま池脇さんが電話に出てくれたから良かった。だけど相手が何者なのかも、どういう存在なのかもわからないんです。現場を遠く離れてなお命の危険にさらされる程の霊障を受けたんだ。そう思えば電話だって、なんらかの妨害を受けて繋がらない可能性だってあった」
「どうせ私たちはいつか」
俯き加減の辺見先輩の左目から涙が零れ、僕は口を噤んだ。
「どうせ、お互いの世界を見つけて別々の道を歩ていくんだよ。だから一緒に歩いている間のこの三年くらい、なんとか出来ると思ったんだよ」
「……」
「今回の件は私の判断ミス。考えが甘かったみたい」
辺見先輩は顔を上げて僕を見つめると、悲しい微笑みを浮かべた。
「君は何も悪くない。だからもうそんな顔しないで」
夜が明けきる前の病棟、総合待合ロビーにまだ僕たちは立っていた。
「顕現という言葉がありますね」
と、幻子は言う。
「それまではそこに影も形も存在しないものが、ふと、この世にはっきりとした姿で生まれ出でる。言葉の意味は、それであってますか? もはやこの世の者ではない彼らは皆、この世に呼び寄せられた瞬間霊体としてこの世に顕現する。それまでは何者でもない。命を失い、消えてしまった、存在しない者なのです」
「呼び寄せる?」
思わず僕はそう聞いた。「この世の幽霊、全部がそうだっていうんですか?」
「私はそう考えます」
「悪霊とか、人に害を成す霊体とか、あるいは呪いとか、そういうものも全部?」
「呪いと幽霊は別ものです」
「あ、いや、しかし」
「悪霊などいません。人に害をもたらそうする意志をもった霊体などありません。そんなものがいるとするなら、それは妖怪とか悪魔とか、人間に端を発するものとは別のナニカです」
「いや、だって」
「それは前提として、私達生きる者、つまりは生者なくして死者の顕現などありえないからです。呼び寄せると言ったのはそういう意味です。口寄せとかイタコとか、そういった技法の話ではありません。例えばこの地球上から人間が一人もいなくなった世界には、永遠に幽霊が現れることはないでしょう」
言っている事は、わかる。わかるがそれはつまり、人間の錯覚とか、幻覚でしかないと言われている一説ではなかったか?
「だけど実際に辺見先輩は霊障を受けて死にかけているじゃないか。それでも人に仇名す霊魂は存在しないとでも?」
僕の口調が強かった為か、幻子は少し怯んだように顎を引いて、
「いません」
とそれでも自分の意見を曲げなかった。「霊障とは、幽体の能動的な意志によってもたらされる被害ではありません。業務用冷凍室にずっと閉じこもっていれば凍えますよね。それと同じです」
「悪気はないって言いたいのか。勝手に手を出した人間が悪いっていうのか?」
おい、新開。
池脇さんの声に、僕は我に返る。
「こいつはさっき、話半分で聞いてくれって言ったろ。年下相手にカリカリすんな。な」
僕は鼻から空気をたっぷりと吸い込み、視線を外して何度も頷いた。
「もしかして」
そう、声を発したのは文乃さんだった。
「まぼちゃんが言いたいのは、新開さんが霊道を開き、存在しなかった筈の幽霊をこの世に顕現させていると、そういった話ですか?」
肯定も否定もしない幻子相手に、文乃さんは焦燥の浮かんだ顔で同じ質問を繰り返した。
「私たち生者や、生きている人間の集合意識ではなく……新開さんがたったお一人で、霊道を開いてるっていうんですか?」
「どういうカラクリかは分かりません」
幻子が初めて苦笑し、首を傾げた。「この世に迷い出る全ての幽霊を新開さんが顕現させている、そういう話でもありません。世界的に見ればそういう現象の置きやすい磁場や場所は、確かに存在します。しかしそこには必ず生きている人間の歴史や意志や祈りに似た思いが関連付いていて、全く人と関係しない、たとえば初めから何もなかった砂漠のような場所に霊穴は開きません。ただ、この人は単独でそれを起こせると思います。新開さんはきっとどこにいようと、霊体を顕現させる事ができます。正直、私にも意味がわかりません。こんなパンドラの箱みたいな人、……見たことありませんから」
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