24「愚か者」

 辺見先輩が意識を取り戻したのは、夜が明けて朝になり、さらに日が高くなってからだった。

 いつの間にか処置室前の椅子で眠ってしまった僕の身体を、池脇さんが揺すって起こしてくれた。顔を上げると彼は優しく微笑んで、溜息を付き、そして頷いた。僕は飛び起きるなり、慌てて処置室に駆け込もうとした。そっちじゃない、と池脇さんに呼び止められ、辺見先輩のいる病室へと案内された。僕が眠り呆けている間に、別室へと移動していたのである。

 三神さんと、その愛弟子の幻子、そして池脇さんの三人で処置室の前を陣取り、忙しく入れ替わり立ち替わる医療関係者からの不審な目に晒されながら、夜通し辺見先輩の霊的治療にあたったという。

 後日幻子から聞いた話では、辺見先輩の身体に絡みつく悪い気の正体は、一種の呪いであるという。という事は誰か辺見先輩に対して呪術を施した人間がいるのか、との問いにはしかし、「そうではない」と首を横に振った。

 三神さんと幻子は、無自覚ながら甚大な霊的加護を受ける池脇さんの助力(本人は椅子に座っていただけと語る)を得て、その呪いに似た悪い気を少しずつ辺見先輩の身体から引き剥がしていったのだそうだ。にわかには信じがたい話だが、僕が信じるか信じないかなど些末な問題でしかなかった。

 三神さんたちはその「信じがたい結果」を、現実に引き寄せたのだ。

 例の看護師曰く、「筋肉が戻って来た」。

 僕はただただ奇跡のようなその戦いに、感謝するしかなかった。 

 昨日は雨が降っていたはずだが、そこは噓のように明るい陽射しの差し込む、清潔な匂いの個室だった。辺見先輩はまだベッドの上に横たわっていたが、僕が一人で入室すると、すぐに薄っすら目を開けた。

「……私、今、すっぴんだよね?」

 辺見先輩はそう言い、もぞもぞと体を動かした。「ダメだ、力が入んない」

 それもそのはずだ。何せ先輩の身体は…。

 僕は考えるのをやめて、ベッド脇に立って頭を下げた。

「お帰りなさい」

「……挨拶間違ってるよね?」

 僕は頷きながらも涙が止まらず、両手でごしごしと顔を擦っては、また泣いた。

「何だよ。また怖いものでも見たのかい?」

 先輩はそう言って、左手をシーツの下から出した。わずかに震えるその手で、パンパン、僕の太腿を叩くと、

「元気だしてけ」

 そう言った。僕はたまらない気持ちになり、溢れ出る涙を拭う事はもはや無意味だと悟った。

「見ました。……先輩、僕怖いもの見ました」

「うん?」

「愚か者の僕です」

 先輩は声もなくにこやかに笑い、そのまま反対側を向いた。

「そんなもの、ちっとも怖くなんかないね。もう、見慣れちゃったよ」

 僕は体の震えを止めることが出来ず、何とか歯を食いしばって泣いた。

 



 跳び箱……。

 そう呟いたのは、三神幻子だった。

「とび、ばこ」

 それが僕か?どういう意味なんだ?

「恥ずかしい話ですが私はほとんど無教養に近いので、例えがおかしかったらそう言ってください。世の中に、跳び箱の得意な人って、いますよね?」

 あまりの突拍子の無さに、それが何を例えているかも分からず、誰も反論のしようがなかった。同時に肯定の頷きも、誰一人として返せない。深夜病棟の総合待合ロビーは、幻子の謎の例え話を皮切りに、徐々に不穏な空気に包まれていった。

「僕は跳び箱が得意でーす。そういう人が十人いれば、色んな得意の形があると思うんです。五段の跳び箱をとても綺麗なフォームで飛び越える人。十段の跳び箱を、もの凄く助走をつけて圧倒的な跳躍力で飛び越える人。あるいは一段の跳び箱の上で、目を見張るような宙返りをきめて飛び跳ねる人。だけどそれを脇で見ている人は、彼ら一人一人を指さし、あの人は得意だって認めるけど、あの人はそうじゃない。そんな風には、普通は言いませんね?」

 何を言ってるんだ……。

 僕は正直、話をはぐらかされているような気がして腹立たしくさえあった。僕が聞きたいのはそんな意味の解らない例え話じゃないんだ。僕は何故呼ばれたんだ。僕は一体、何者だと言うんだ。それが知りたいんだ!

「色々な才能。色々な力。色々なやり方。だけどそれはその人が何かを切っ掛けにして勝ち得た、あるいは生まれついた時から持っていた、才能であり、ギフト」

 僕の苛立ちをよそに、幻子は話を続ける。

 新開さん……。

 僕の背後から、文乃さんが心配そうな声を掛けて来た。

 違う。僕が欲しいのはそんな声じゃないんです。

 明るくて、朗らかで、優しい微笑みを……。

「五段」

 と言って幻子は三神さんを指さした。

「十段」

 と言って池脇さんを指さす。

「一段」

 そして最後に文乃さんを指さした。

 ……いい加減にしてくれないか、僕が聞きたいのは……。

 新開さん。

 違う、そんな声じゃない。

 文乃さん。僕は。

「そのどれにも属さない。この世の理から逸れに逸れた、奇天烈極まる人外の存在。……新開さん? それが、あなたですよ」

 何を言ってるんださっきから。

 奇天烈なのはあんただろう。

 この世の理から逸れているのはここにいる全員がそうだろう!

「新開さん。……ゆっくりと、後ろを振り向いてください」

 文乃さんの低く力のこもった声に、僕は我に返った。

 僕は……いま。

 ゾクリとした。

 ずっと離れた位置に立って話をしていた筈の幻子が、僕のすぐ目の前まで来ていた。幻子は僕の隣に並ぶと、僕の肩にやさしく冷たい手を置き、ゆっくりと背後に振り向かせた。

 そこには、総合待合ロビーの椅子すべての上に立っている、この世ならざる者の姿があった。幻子は言う。


「あなたのそばに……霊道はひらく」



 




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