9.そんな世界に、下地クリームという概念もないし、ファウンデーションもない。
「ただいまあ」
「滞在先」の玄関であたしは大声を張り上げる。お帰り、とやっぱり大きな声が帰ってくる。
「おおさつき。結構遅かったな。お前の連れてきた女の子、何か元気ないようだで」
「んもう、だから一緒に行こうって言ったのに」
乱暴に靴を脱ぐと、あたしはどんどん、と足音を立てながら、中へと入っていく。
決して大きな家ではない。しかし、老夫婦が住んでいるだけなら、決して小さくはない。それが今回のあたしの「滞在先」だった。
「ばあさんが、それでも時々昼ごはんを一緒に作ったりしてたようだがな」
「へえ、料理」
「さすがに今の子は、料理も上手いで。ばあさんが感心してたがね」
「どうせあたしは上手くないですよーだ。それよりじーさん、鳩はいるんでしょ?」
「あ? ああ」
「旧都地区にまっすぐ向かえるよね、それ」
「何をゆうとる。当たり前だがね。要るのか?」
「うん、ちょっと」
使う時には言え、用立ててやる、とじーさんはそれだけ言って中に引っ込んだ。あたしはまだ少しきらきらと光ってる手の甲を見つめる。
「あ、さつきさんお帰りなさい…… どうだった?」
台所ののれんの向こうから、若葉が顔を出す。ここのおばーさんが用意した服と前掛けを身につけた彼女は、実に台所という場所が良く似合っている。
その向こう側からは、ぷうんと味噌の匂いが漂ってくる。
「やっぱりこっちの味噌の方が美味しい」
「それゃあな、本場が近いで」
どうやらおばーさんと意気投合しているらしい。あたしはそんな女達を横目に見ながら、居間のちゃぶ台の上に、学校用にしているカバンの中から帳面を出す。
『ミキさんお元気ですか』
そこまで書いて、鉛筆を置く。
何をどう説明したものだろう。報告と依頼は簡潔に。彼女のいつもの言葉が頭に浮かぶ。
『調査の依頼です。これは何だと思いますか』
あたしはファウンデーションを思い出した、と付け加えた。
今ではこの国では出回っていない化粧品である。
若葉もそうだし、おばーさんもそうだが、今では、普通の女性が日常に化粧することは、ほとんどなくなっている。
それこそ祭りの日や、特別な祝い事の日に、白粉や紅をさす程度だ。
頬はともかく、目の回りを飾るなんてことはまずない。ましてや、まつげをカールさせたり、色をつけるなど想像もできない世界、らしい。
そんな世界に、下地クリームという概念もないし、ファウンデーションもない。必要もないはずだ。
ただ、何かが引っかかっていた。
「じーさん、鳩貸して」
鳩の足にくくりつけた鉛管に、あたしは「簡潔な依頼」とあの村で拾ったカケラを小さくしたものを入れておいた。
鳩は速い。
公衆電話は管区内しか通じないし、外に出す手紙には下手すると検閲がある。
だからこんな方法をよくあたし達は取っている。越境生の「滞在先」にはだいたい鳩が備え付けられていた。
上手く関東管区の旧都地区にいるミキさんがそれを受け取ってくれたら。そうしたら返事は明後日かその次の日には来るだろう。
気の長い話だ、とあたしはばさばさと夜の空に飛び立つ鳩を見ながら思う。昔なら、手のひらにおさまるくらいの小さな通信器具一つで瞬時に連絡がついたというのに。
「さつきちゃん、ごはんにするで」
おばーさんがあたしを呼ぶ。田楽のみその匂いがぷうん、と鼻に入ってくる。
さっき手紙を書いていたちゃぶ台に、もう夕ご飯の支度ができていた。
「若葉ちゃんのお家の方で、よく食べられるものなんだって」
「へえ」
「でもこっちの味噌のほうが、絶対美味しいですよ。今度からそっちのものも入れてもらおうかな、お父さんに頼んで」
ふっ、と若葉の表情が曇る。
「そう言えば、どうだったね? 東永村のほうは」
「若葉の言った通りだったわよ」
後ろ手に赤茶の髪をくくりながら、あたしは答える。このふわふわの髪は、食事の時にも落ち着きがない。
「じゃあやっぱり誰も」
「うん。あんたは嘘言ってない。誰もいなかった。一応、あんたの言った本郷のあたりをぐるぐるとして、役場や試験場や、桜の木も見てきたけど」
「ああ、あれは古い桜なんです」
「みたいだね。春になったらすごいだろーなあ」
「本当にすごいんですよ」
箸を止め、彼女はうっとりとした表情になる。
「その下から、空を見ると、花の天井になってしまうんです。身体いっぱいに、桜の香りも吸い込んで、あの色で染まっていまうんじゃないかっていうくらい」
「でも夏にお弁当を食べるものじゃないよ。せっかくのかごに毛虫が何回か飛び込んできて」
「そりゃあそうですよ」
あははは、と彼女は笑った。それでもここに落ち着いて数日、やっとそんな表情も見せるようになった。可愛らしい子だから、やっぱり笑っていたほうがいい、と思う。
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