2.本当に珍しい『女の越境生』
後で聞いた話だと、その日は朝から大騒ぎだったらしい。
「おい聞いてきたぜ!」
早耳・早足・早弁が取り柄の高橋が、教室の戸をがらがらと勢い良く開ける。
と同時に、わらわらとその回りに皆が集まった。
夏期休暇が間近。そんな時期柄、黒ズボンに白シャツの男子生徒達が群れている図は、非常にむさ苦しい。
しかし当の本人達にはそんな意識はない。
「それで高橋、どうだったのよ?」
「噂は本当だったのかよ?」
ぐるりと回りを取り囲み、男子生徒達は口々に高橋を問いつめる。
そう、これは彼らにとって大切なことなのだ。
思った通りの反応。高橋は思わず両手の拳を握りしめる。それまでこらえていたのだろう表情が、ぴくぴくと動く。
「ふふふふふ。よくぞ聞いてくれたぜ!」
「と、言うと」
「前々からの噂は」
「そうなんだよ諸君! ほんっとうに珍しい『越境生』だって言うのに、しかも女だぜ女!」
うぉぉぉぉ、と歓声が教室中に鳴り響く。
「うううううれしい…… なあ、一応ここって、共学のはずだよなあ」
「俺もそう信じていたのによ……」
口々に、非常に正直な言葉が上がる。
「入った時にはだまされた、って思ったものなあ」
「だよなあ」
「だけど村の手前、女の子がいないから嫌です行けません行きたくないです、なんて言えねーし、よぉ……」
「お前もかぁ……」
「おおっ同志よっ」
顔を見合わせ、抱きつくふりなどもしている奴もいる。暑苦しい空気が余計に暑苦しくなっているのに、誰も気付かないのが不思議である。
とはいえ、そんな奴が全てではない。
「けっ」
遠山、と誰かが口にする。
シャツの裾をズボンから出し、ボタンを全部外した背の高い生徒が一人、窓際に居た。あぢー、と言いながら襟をぱたぱたとはためかせている。
「女おんなって、お前等、そんな珍しいかねえ」
「そりゃあお前はいいけどさ。俺達はそうそうお前のようにはいかねーよ」
「はれ。けど松崎、お前だって、実家のほうに
「違うよっ!」
松崎と呼ばれた生徒は、即座に否定する。
「
「何でえ違うのか。つまんねーの」
肩をすくめると、遠山は興味を無くしたように窓の外へ視線をやる。
周囲はそのまま「越境生」の話題を続けていたが、彼には関心のないことのようだった。
松崎もその輪の中にしばらく加わっていたが、どうも一度下がってしまった調子というものはなかなか戻らないらしい。口の端がぐにゃりと下がってしまっているのが自分でも判る。
せっかくの明るい話題なのに、だ。
管区を越えて転校してくる「越境生」は、高等学校に在学する四年のうちに、見られるか見られないか、の存在だった。
しかも女。
義務教育の中等学校を卒業してからは、まず学校という場所で見かけることがない存在。
だったらやっぱり話題としては明るいはずではないか。
もちろん故郷には昔なじみの女友達もいるだろう。知り合いがゼロ、という者はまずいない。
だが遠く離れてしまっては、その関係を続けるのは難しい。かと言って新しくそんな関係を作れるというものではない。
だいたい自分達は、高等学校の生徒なのだ。義務教育の初等四年と中等四年を卒業したら、まず大半は仕事をする今の時代に、こんなところに送られている存在。
生活の大半を学校と、附属の寮で、野郎ばかりの中ですごさなくてはならない。
気楽ではある。だが、そんな生活を送っていると、女の子とどう接していたのか、忘れそうになる。
だから皆、自分がそうなってしまうことを恐れてか、少しでも女の子と関わる機会があるなら、過敏な程に積極的になるのだ。
だがしかし―――
「やかましいぞお前ら!」
高い声が、騒がしい低音の喋り声を一気に切り裂く。
やべ、
こういう女だったら、ちょっと勘弁願いたい、と松崎は口の端を下げたまま、がたがたと木の椅子に座った。
「出席を取る。安西!」
紺色の綿の体操着を上下に着込み、女教師生田は、とん、と硬い表紙の出席簿を教壇に立てる。
「斉藤! 杉山! 曽根! 高橋!」
「はい! 先生質問です!」
「何だ」
高橋は立ち上がる。生田もその声に顔を上げる。二つに分けたたっぷりした黒い、長い髪が揺れる。
化粧気はないが、きりりとした端正な顔に、平均よりはやや背の低い高橋とちょうど視線が合う。
「越境生が来るのは今日と聞きましたが」
「何だ、その話か」
何だじゃありませんよー、と堰を切ったように、口々に低い声が飛んだ。彼らにとっては大問題なのだ。
「まだ来ていないだけだ。騒ぐな、ガキども」
「まだって」
「まだ、だ。初日から遅刻するとはけしからん」
とん、と生田は再びとん、と出席簿を立てる。はっ、と生徒達は身構える。こういう時の彼女は怒っているのだ。静かに。だけど確実に。
「滞在先からは、今朝こっちへ直行する、という連絡があった。それだけだ」
出席を続ける、と彼女は宣言し、それ以上の無駄口を押さえる。まあそんなところだろうなあ、と高橋も腰を下ろす。
「あ、でも一つよろしいですかぁ?」
のんびりとした口調で、別の生徒が席を立った。
「何だ森田」
「へえ、すんません。その越境生って、男でしょか、女でしょか」
「私は言ってなかったか?」
「へえ」
その声と同時に、言ってない、と再び一斉に声が上がる。そうだったかな、と今度はそらとぼけた顔で生田は天井を見上げる。
「女だ」
とたんに、教室中に歓声が上がる。
「静まれガキども。だがまだ私もどんな奴かは知らんのだ」
「写真とかは」
「顔は関係なかろう? 森田も座れ。越境してくるんなら、優秀には違いあるまい」
それはそうだ、と松崎は思う。
越境生というのは、現在この日本でも珍しい、全国の管区を移動できる存在なのだ。
現在の日本は、十二の管区に分かれた地方分権制を取っていた。
彼らが住む東海管区は、太平洋側の、本州中部にある。
管区としては大きな方である。地区数も多い。
微妙な差はあるのだが、今では「地区」と呼ばれている区域。それが昔は「県」という単位だったという。
ただ、そのことは高等に入るまで、松崎も知らなかった。
大人達も知っているのか知らないのか、故郷ではまず誰も口にしたことはなかった。
いや、そうではない。
松崎は例外を思い出す。兄貴。
口にはしていた。ただ自分にはその意味が分からなかっただけなのだ。
―――数十年昔には、この国は他の国ともつきあいがあったんだよ。その頃は、管区なんて強力な境もなく、自由に国中を行き来できたのにね。
今では、一部の公務員と、越境生くらいしか、生まれた管区を離れた行動はできなくなっているらしい。勝手に離れれば、それは罪になる。
当たり前だ、と彼は思っていた。上の学校に上がるまでは。
だけどここへ来て、それが当たり前ではない時代があったことを知った。
彼は思う。自分はここに本当に来てよかったのだろうか? 自分がここに来た理由は―――
そのまま授業が始まった。口の端が下がったまま、松崎は教科書を開く。何代もの三年生が使ってきた教科書は、手ずれのした年季ものだった。
授業が始まって三十分くらいした時、廊下でぱたぱたと音がした。
がらがらがら。
引き戸が勢いよく開かれた。
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