迷い猫

 志津、志津……。しきりに名前を呼ぶが、返事はない。山の斜面を少し切り崩して建てた茶屋の店先、2つばかり並んだ長椅子の脇に旅荷物を下ろした途端、ひょいと編笠を飛び下りていずこかへと行ってしまったのだ。師の薬師が店主の身内に病人があると聞いて店の奥の座敷へと招き入れられている間のことだった。

 まったく困ったものだと、凉衣はため息をこぼす。志津は薬師の大切にしている薄茶色の猫だ。この薬師だが、薬屋の家にいるときには毎夜猫相手に物語りして、旅のときには留守を任せるのでなく同行させるほどである。志津がいなくなったとあっては、彼は何を言い出すかわかったものではない。

 地面に直接置いた旅荷物のうえに編笠を乗せて、もう1度店の奥をのぞく。一段高くなった床に唐紙障子が引かれているばかりである。家人が出てくる気配はない。

 凉衣は志津の消えたあたりを見やる。なだらかな斜面に生い茂る下草が、わずかに開けている。獣道のなりかけといった具合だ。木の幹に手をかけながら、泥で足が滑らないよう注意して道をくだる。

 志津、どこに行ったんだ。声をかけながら足元や、木の枝葉の間を見回すが、薄茶色の影はどこにもない。いったいどこに逃げ込んだんだ、舌打ちをこぼしながらさらに道なき道を辿った。そのうち、茶屋も見えなくなったころ、なにか固いものが草履の後ろにあたった。次の瞬間には、ぐらりと視界が揺れる。

 石か古木か、なにかに足をとられたのだ。すっころんで背中をしたたかに打ち付ける。それだけならよかったが、ずるりとからだが滑り、斜面を転がってゆく。腕や頭や足や、いろいろな場所を打ち付けた。最後にもう一度背中を強打して、ようやく静止する。そのころには口のなかに土が入り込んでいて、生臭いにおいが鼻についた。

 のろのろとからだを起こす。つばと一緒に土を吐き出して、泥まみれの袖口で口元をぬぐう。それほど意味はなかった。全身の汚れを払いながら、ついでに怪我がないかを確認する。擦り傷や打ち身だらけだが、目立ったものはない。頬にできた切り傷から血が滴るほど流れているのがせいぜいだ。

 ひどいめに遭った。ぼやいていると、大丈夫ですかと涼やかな声がした。顔をあげたさき、一際大きな木の幹が倒れて枯れかけているところに、人がいた。一見した具合では、娘だろうか。朱色の地に柔らかな桜の染められた上等な着物を着て、しっとりとした長い黒髪を漆塗りの簪でまとめた若者だ。口元にはうっすらと紅を差し、見事な雪肌の頬にも淡い色が置いてある。

 凉衣は状況も忘れてその姿に見入った。彼のいた場所には、これほど艶やかな反物を扱える人などいなかった。

「もし? どうされましたか?」

 黒髪の人物が小首をかしげる。それで凉衣もはっとする。同時に、その人物が両腕で抱えているものが薄茶色の毛並の猫であることにも気づいた。

「少し、足を滑らせて。その、不躾ですまないけれど、その猫は、」

「この子ですか? ついさっき、そこで会って。人の猫のように見えたもので」

 手元の猫――志津をやさしい手つきで撫でる。志津もされるがままで、心地よさそうに目を細めていた。

 志津は、薬師に言わせれば人の品定めをする猫だ。猫のくせに、とは思うが、実際志津は知らない人に懐いたためしがないし、志津なりに人間を見定めているかのような仕草を見せることがある。

「珍しいな、そいつが撫でられるなんて」

「おとなしい子ですよ。まるで誘っているような」

 黒髪の人物がくすっと品よく笑う。凉衣にはその意味がわからなかった。どういうことか、尋ねようとしたときにはその人物の手が凉衣の頬に触れていた。

「怪我の手当てくらいなら、」

「え、あぁ……大丈夫。これでも、薬屋の弟子なんだ。そのくらいは自分で」

「薬屋の? それは、大変な失礼を」

 頬を撫でていた手が下がる。凉衣はかわりに志津へ手を差し伸べた。

「志津が……猫が世話になったな。そいつ探してたんだ、俺」

「志津。そう、志津というのですか、この子は。いい名前ですね」

「あんたは、」

「雅と申します。この山を越えたところの者です」

 凉衣は志津を受け取りながらへぇと声をこぼす。雅のちらりと目をやった方角は、これから薬師と向かうさきだ。

 山を1つ越えたところに、ここよりは少しばかり斜面の急な山がもう1つある。それ全体が九重という家の所有物であり、ここいらでは有名な一族なのだそうだ。凉衣はいっさい聞いたこともないが、薬師などは何世代も前から懇意にしているという。

 志津が腕のなかから身を乗り出して雅を見上げるのをおさえながら、凉衣はじゃあそろそろと軽く会釈をする。

 こちらから山道に出られますよ。雅がすらりとした指で示す。それに軽く礼を述べて、凉衣は教えられたとおりの方向へ足を向けた。確かに、下草が途切れて、少し前に薬師に連れられて通った道がすぐに表れた。

 道をたどって上を目指すと、くだんの茶屋が開けた場所に見える。店先では、白い狩衣姿の薬師が足元に薬籠を置いて湯呑を持っていた。

 志津は見つかったのか。見透かしたような声で薬師が言う。なんだか好みのやつを捕まえたような顔をしているぞ。

 薬師に応えるように、志津が一声鳴いた。

「そうかそうか、そいつはよかったじゃないか。ところで凉衣、お前の笠がキツネに持っていかれたぞ、化かすのに使われるんだ」

 言われたとおり、長椅子の隣に置いていった旅荷物の上には編笠がなくなっている。薬師は、この口振りからするに、笠が盗まれるのを黙って見ていたのだろう。彼の隣に腰を下ろしながら、凉衣は憤慨気味に口を開く。

「どうしてとめてくれなかったんだ」

「いくら私でも、あいつらの楽しみを奪っていい道理はない。さて、一服したら、その傷見せてみ。頬のじゃない、足だ。何かに足首を引っ張られたろう。またタチの悪いもんでも拾っていないか、確認してやらんと」

 なにも拾っちゃいないと抗議しても、薬師は湯気の立ち上る緑茶をすするだけだった。とがった耳の後ろからのびる大きな角、そこに巻きついた蔦の葉が、いつになく青々としているようだった。


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