金庫屋

 桜も満開を迎えた日の昼下がり。凉衣は薬師の代行として、金庫屋を尋ねた。薬師は金庫屋と言ったが、ようは質屋のことだった。

 薬師は仕事用の狩衣も脱いだ浅黄色の着流し姿で、昼食を終えて勝手方で片づけをしている凉衣に、少し頼まれごとをお願いするよと声をかけたのだ。金庫屋に行って、陸番の金庫を開けてもらってくれないか、薬屋の陸番の金庫と言えば伝わるはずだ。面布もつけずに薬師は煙管を片手に言った。急ぎの用事だというので、凉衣は勝手方の換気窓は開け放したまま、洗物を残して薬屋を出た。

 薬屋のあるのは幾棟も長屋の連なったところの裏通りだ。店の正面などはあまり明るくない場所であるが、裏手には午後の時間は陽が差し込み、縁側で薬草を干したりすることもある。もともとはいまの裏手に正面の入口ができるはずだったのを、薬師が仕事の都合としてこういった造りにしたのだ。

 表の通りへ出ると、今度は商店が表を広げて商売をする。道には人が多く行き交い、馬車も走る。鬼や、ましてや薬師と同じような角を持った者などはそういなかった。

 ゆるやかな斜面になっている大通りをのぼると、川を渡る紅漆で染めたような橋が見えてくる。川の向こうは、茶屋と宿屋とが多くなっている。凉衣はその橋を渡らずに、手前を川沿いに少し歩く。そのうち唐紙障子をたてて吊り行燈に『佐京』の屋号を掲げている店が見えた。薬師の言うところの金庫屋はここである。

 ごめんくださいと唐紙を引いて、なかをのぞく。一番に目に入ったのは、土間に佇む少年であった。古い墨色の着流しを着て、凉衣に背を向けて立ち竦んでいる。その向こう、式台に立って扇子で口元を隠す若い男は、凉衣をちらりと見ると眉根を片方つりあげた。

「借りに来たのか」

「いえ、そういうわけじゃ……」

 機嫌を損ねてしまったらしい男に睨みつけられ、凉衣は居心地の悪い思いをしながら言う。

「薬屋の薬師の使いで参りました。陸番の金庫を、と言付かったのですが」

「あぁ、薬師様か。ちょっと待ってな」

 男が短い黒色の髪をかいて、億劫そうに上り框へのぼる。痩せた背中が目隠しの衝立の向こうの座敷に入った。座敷には金庫というよりは棚が多くあって、規則的に並んだ引き出しには黒い取っ手があるばかりだった。鍵などを必要とするものには見えない。凉衣はなんとなく、薬籠を部屋いっぱいになるほど大きくしたらこんな具合だろうと想像した。

 男は棚を数えて、正面の右上のほうにある取っ手を引き出した。なかから出てきたのは、白地に青色を染めた陶磁の香炉である。ますます、薬籠らしく見えてくる。

 香炉が運ばれてくるあいだ、少年は土間に立ったままだった。じっと男を見つめていて、口を開こうともしない。男がそれを見咎める。

「いつまでそこにいる気だ。お前にはなんも貸せないぞ、ほら帰れ」

 凉衣が式台に立った男を見上げる。土間に入った凉衣だって上背のあるほうだが、この男は凉衣よりもさらに大柄に見えた。

「この店は客を選ぶのか」

「担保がねぇのに質屋が金を貸す道理がない。それとも、あんたが質物になるか?」

「すまない、口を出すべきじゃなかった」

 凉衣は少年の前から進み出て懐から折りたたんだ風呂敷を出す。あらかじめ薬師から預かっていた、藤色のものだ。受け取った香炉を包んで持って行く。彼が風呂敷の口を閉じたあたりで、男に髪を撫でられる。すっかり手元に意識を向けていた凉衣は不愉快そうに顔を上げた。

「俺は薬師様の荷物を受け取ることしかしないぞ」

「ここは受け取る質物が人間でも構わないのさ」

「やめてくれ、」

 風呂敷を片手に提げて踵を返そうとすると、袖を掴むものがあった。少年である。

「もうじきどことも知れぬ場所に買われる身で、せめてものご挨拶に反物の1つでも買いたいのです」

「その話は俺じゃなくて、そっちの男にしてくれ」

 凉衣は少年の細い手をやんわりとどける。これ以上ここにいてはならないと、いよいよ本当に質屋の主人に背を向けた。ところが振り向いた先には、あるべきはずの唐紙障子がなく、積み上げられた棚の引き出しが見えるばかりであった。座敷にあがった覚えはないが、どこかで行先を間違えたのだろうと思い直して、周囲を見回す。右も左も後ろも、すべてが棚で囲われていた。足元は土間の土でなく古い畳になっていて、草履もはいていないありさまだ。気づけば荷物の風呂敷もない。

 あまりのことに頭を抱える。とにかく香炉だけでも持ち帰らねばと、棚のうえのほう、あの男の探していた場所の引き出しをあける。あまり大きくない引き出しであるが、なかなかうえのほうに手を伸ばすのに骨が折れた。しかもそこから出てきたのは若葉色に菖蒲を染めた反物であった。棚を間違えたのだと思って、別の場所もあけてみるが、次に出てきたのは亀甲の帯と帯紐である。

 さらに棚をあけようと取っ手に手をかけると、今度は背後から男に抱きすくめられる。ふり払おうにも、後ろの人物はあまりにも力強く、そして凉衣は非力であった。毎朝裏庭で鍛えているはずのからだは、気づけば幼い少年のように細くなっている。大きな釜を抱えて運ぶのも造作ないはずの腕などは、ともすれば折れてしまいそうなほどだ。

 衿のしたに男の手が差しいれられる。とめようとするよりさきに前をはだけさせられた。肩からずり落ちるのをつかまえようとすると、さらりと糸になって指からこぼれ落ちる。

「蝶がいるんだな」

 耳元で質屋の男の声がした。その手は凉衣の左の腰元を撫でる。見ると、確かに、羽を広げた蝶のような痣があった。こんなものに覚えはない。

「1頭だけか。それも、表だけ」

「なんのことだ」

「標本にするときは裏も並べるもんだ」

「そんな標本は見たこともないぞ」

 きっと裏はどこかにあるんだろう。男がたわむれに凉衣の胸元を撫でる。逃れようと身をよじると、男はあっさり凉衣を解放した。かわりに、からだの支えを失った凉衣がよろけるようにして転がる。鼻先を甘い香りがかすめた。

 このからだがもはや本来の自分のものでないことくらいわかっている。凉衣は畳に手をついて這いずるようにして、香りのもとを探した。棚に囲われた狭い場所だと思っていたら、ここは存外に広かった。煙で視界をぼやかされると、もう向こう側の棚の意匠など見えはしない。

 香りは部屋のすみに置かれた香炉の煙だった。陶磁のふたを開けて、なかの灰からほんのりと温かいにおいを立ち上らせている。

「いい香りだろ? 女の髪みたいなにおいなのさ」

 男が言った。凉衣はいいや違うねと首を振る。

「これは調合部屋のにおいだ。薬師様の」

「ほかの男の話をするんじゃねぇよ」

「女ならいいのか?」

 さあね。男が凉衣の肩をつかまえる。首筋をなぞるものがあって、跳ね除けようと身をよじると、からだがずぶりと沈んだ。畳はいつのまにか柔らかい布団になっていて、凉衣の四肢を絡め取っていた。

「まずは目を閉じることだ」

 男の言葉に合わせるように、視界が暗くなる。もがこうにも、手足はすでにいうことをきかなくなっていた。

 甘い香りがするりと頭のなかに入り込む。心地よさに身をゆだねれば、すぐにでも眠り込んでしまいそうだった。



 目覚めたときには薬屋の布団のなかにいた。格子戸から差し込む陽光が閉じたまぶたの裏側を刺激して、涙がにじむ。凉衣は身を起こすことなくあたりを見回した。枕元に、着流しが畳んでおいてある。いま彼は、衣服を着ていなかった。

 室内には誰もいない。階下からは人の気配がするから、薬師が商売かなにかをしているのだろう。麻の葉模様の布団から抜け出して、そそくさと着流しに袖を通す。そのときにちらりと見えた左の腰元には、やはり蝶の痣などありはしなかった。

 窓際にある文机のうえには、質屋で受け取った香炉が置いてある。煙はあがっていないが、ほんのりと、あの甘い香りがしていた。

 やがて廊下のほうから足音が近づいてきて、唐紙障子が開かれる。面布をつけた薬師が、おやおやとため息をこぼす。

「ようやく帰ったか。またずいぶんな人助けをしてきたもんだ」

「人助けなんてした覚えがない」

「アゲハといったかな。腰に蝶の痣のある彼だ。どれ、ちょっと見せてみろ」

 薬師が部屋にあがり布団の脇に腰をおろす。凉衣は躊躇いながらも、彼の正面に座りなおした。

「痣はなかった」

「それだけじゃないさ」

 着流しをはだけさせて、腰元を確認する。痣の消えたところに触れる薬師の手は白く、とても薬を売っているような者の手には見えなかった。

「すっかり元通りか。縁でもできるかと思ったんだが、これじゃあ期待外れだ」

「なんのことだよ」

「あれは九重の屋敷に買われたのさ。当主の息子がいよいよ家を継ぐってんで、その記念に贈られるんだ。白妙になるんだよ」

 手を引いて姿勢を正した薬師に、凉衣は着流しを直しながらわけがわからないといった目を向ける。

「そんなことより、俺はなにに巻き込まれたんだ?」

「質物にされたのさ。魂だけな。そのあいだ、アゲハがお前のからだで反物を得た。若葉色に菖蒲の反物でな、あれは誰に贈るつもりなんだろうね」

「金を返すあてもなさそうだったのに、」

「私が出しておいたよ。使いに出した弟子がいつまでたっても抜殻じゃあ、私も面倒が増える」

 貸しだぞ。薬師は一方的に言うと立ち上がる。そのまま凉衣を呼びつけるでもなく部屋を出ると、いつもと変わらない仕事へと戻っていった。

 珍しく休みをもらったようで、凉衣はまた布団に横になる。腕を目のうえに乗せて日影をつくって目を閉じると、そのうちにゆるりと眠りについた。


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