大人の葛藤

 晋平と諒太郎に店を任せて所用に出ていた俺が店に戻ってくると、店の前に見慣れた制服の女子高生が数人たまっていた。これから店に入るところなのか、あるいは出たところなのか、判別はつかないがうちの客である事には間違いないだろう。女子高生特有の高いテンションでおしゃべりに花を咲かせながら、ちらちらと店内に視線が飛ぶのはおそらく諒太郎のファンだからだろう。

 俺は彼女たちにいらっしゃいませと一言声を掛けて店に入ろうとしたのだが、そのとき耳に飛び込んできた言葉に動きを止めた。

「あたしの友達が見たらしいの。諒太郎くんがすっごい美人とデートしてたって」

「ええっ、彼女いないって言ってたのに」

「ついにできちゃったってことじゃないの?」

「やだー。みんなのリョーちゃんなのにっ」

「でも、納得できちゃうぐらいの美人だったらしいよ」

 ただのうわさ話だ。けれど胸の中がもやっとする。思わず彼女たちの方を見て固まってしまい、不審に思われるぐらいに動揺した。もちろんほんの一瞬の事で、俺はよそ行きの笑顔で「いらっしゃい、いつもありがとうね」とその場を取り繕って店のドアを押した。


 噂の真偽はどうであれ、諒太郎が自分を好きである事を俺は当たり前に思いすぎていたのかもしれない。高校生の月日は大人よりもずっと長くて、数ヶ月前とは全く違う人間になっていたっておかしくないぐらいのスピードで進化し続けている。気持ちが変わる事なんてよくある話だ。諒太郎は俺と違って女がダメなわけでもないし、美人のお姉さんなんて男子高校生の大好物だろう。迫られればなびく事だって全然不思議ではない。

 千紘さんが欲しいと、口では決して言わないけれど全身でねだり続ける諒太郎を、それと知っていながらはぐらかし続けてきた俺が今更そんな事にビビっているなんて馬鹿げた話だ。


 自己嫌悪でいっぱいになりながら店に入ると、カランと鳴るドアチャイムの音が止まるよりも前に「千紘さんお帰りなさい」と諒太郎が満面の笑みで出迎える。主人の帰りを喜んでちぎれんばかりに尻尾を振って駆け寄ってくる犬の姿を思い浮かべながら、頬を緩めた。

「おお、暇そうだなあ」

 店の中には2組の客が座っているだけで、どちらも既に注文の品はテーブルの上に揃っており、二人の店員はこれといった仕事もなくまったりとしていた。

「暇な時間帯だってわかってて出かけたくせに」

 不満げな諒太郎が可愛くて、つい悪戯心がむくむくと顔を出す。

「それはそれ、これはこれ。『もう、店長遅いよ、早く手伝って』とか言われないかなと密かに楽しみにしてたんだぞ」

 諒太郎の口調を真似しておかしな声色を出すと、カウンターの向こうでカップを拭いていた晋平が小さく吹き出した。

「それってもしかして諒ちゃんのモノマネ?だったらそこは店長じゃなくて『千紘さぁん』でしょ」

 晋平も乗っかっておかしな声色を出す。正直、どっちも呆れるほど似ていない。そもそも似せるつもりなんて端からないのだから当然だ。

「ちょっと、二人とも俺のことバカにしてる?」

 拗ねたように尖らせる諒太郎の唇に噛み付いてやりたい衝動を抑えながら俺はわざとらしく目を逸らす。

「いやいや、諒ちゃんは可愛いなって話だよ。ね、店長?」

 穏やかな笑顔で諒太郎を丸め込む晋平が意味深な視線を送りながらこっちに話を振ってくるけれど、無視だ。晋平が俺に何を言いたいのかなんてことは聞かなくたってだいたいわかる。それぐらいの長い付き合いだ。けれど、はいそうですねと受けられる話でもない。

「そんな可愛い諒太郎くんに彼女が出来たらしいという噂を小耳に挟んだんだが本当か?」

 そんな事よりも先程から喉に刺さった小骨のように気になって仕方がない事をさりげなく話題に乗せてみた。いや、さりげなくはなかったかもしれないが、からかう調子で自分の心はしっかりと隠した。

「は?」

 諒太郎はぽかんと口を開け、俺が何を言っているのかも理解していないみたいだった。噂は噂に過ぎないのだと確信する。わかりやすくてありがたい。

「え、何、ちーさんが噂とかどこで仕入れてくるわけ?」

 よほど俺には似つかわしくないセリフだったのだろう。晋平までもが驚いた顔でこちらを見る。

「いや、今店の前で女子高生が話してたのが耳に入っただけ。諒太郎が美人とデートしてたって」

「そうなの?へえ、諒ちゃんやるね」

 彼女でなくとも目撃証言があるのだから美人と一緒にいたのは間違いないのだろうと思うのだが、それでもまだ諒太郎は思い当たる節がないようで首をひねっている。

「俺、彼女なんていないよ?」

 しばらく考えた末、諒太郎はそう言って俺の袖をキュッと引っ張った。

 俺にだけは誤解されたくないと思っているのだろう。俺を好きだという気持ちを必死で隠しているくせに、そんな事を俺に言ってしまう諒太郎の浅はかさが可愛くて仕方がない。全く隠し切れていないその思いが、今日はことのほか嬉しい。まだ俺を好きなのだと安堵する。最低だ。

「わかってるよ、そんなもん」

 きつく抱きしめたい気持ちを抑えて、軽く頭を撫でるだけにとどめる。

「お前のさっきのアホみたいな顔で心当たりがないのは一目瞭然だろう」

 クククと意地悪く笑って沸き上がる感情を誤摩化した。

「アホみたいな顔なんてしてないし!」

 プリッと怒った諒太郎は生意気な目で俺を睨んだけれど、ふと何かに気付いたようで急に「ああっ」と声を上げた。

「わかった、それミソノだ」

 どうやらデートの相手に心当たったらしい。どれだけ認識されていないんだとその美人が少し気の毒になる。

「ほら、たまに来る俺の友達の中に背の高い女子いるでしょ」

 言われて思い出せば、あの子かと思い当たる顔はある。確かに造形は整っているが、美人というには女子力が足りない気がする。自分を飾るという事を全くしないタイプの子だ。諒太郎だって美人と言われて全く認識しなかったのは同じように思っているからだろう。きっと諒太郎の中では全く恋愛対象ではないのだ。

「友達なら今更そんな噂になるかな」

 晋平がもっともな疑問を投げる。いつもの仲良しグループは隠すでもなく堂々とつるんでいる。同じ学校の子であればそんな事は周知の事実だろうし、色気の欠片もないあの子と噂になることなどないだろう。

「いや、あのさ、親戚の結婚式かなんかで着飾ってて別人だったんだよ」

 諒太郎はその姿を思い出して失礼にもブフッと吹き出した。

「駅前でたまたま鉢合わせたんだけど、毎日顔を合わせてる俺ですら一瞬誰かわからなかったからね」

 諒太郎のその反応はどうかと思うが、彼女はすれ違う男がみんな振り返るような美女に化けていたらしい。女というのは恐ろしい生き物だ。

「俺的には、男友達を女装させたら思いのほか美人になってしまったみたいな感じなんだよ」

 失礼極まりない事を言って諒太郎は腹を抱える。けれどあの子はきっとそんなふうに言われる事も大して気にはしないのだろう。人の気持ちにはわりと敏感な諒太郎のこの態度を見ていればわかる。

「で、デートしたのか?」

 思いのほか美人だったのでうっかり惚れてしまったという可能性だってあるだろう。一時的であっても、若い頃の思いなんてそんな移り気なものだ。けれど諒太郎はそんな俺の杞憂をすっぱりと両断する。

「だってさ、俺に見つかった時にすっげえ苦虫をかみつぶしたような顔すんだよ?そりゃもう連れ回すしかないでしょ」

 きっと彼女は好きでその格好をしていたわけではないのだろう。誰にも見られたくないと思っていたに違いない。

「お前、案外ドSだな」

「ちょっと、諒ちゃん、最近ちーさんに似てきたんじゃない?だめだよ、こんなのに毒されちゃ」

 晋平がさらりと失礼なことを言うけれど、もしかしたら俺のせいかなと思わなくもない。ピュアな少年を俺は少しずつ染めてしまっているのかもしれない。あまりよくないと思う反面、どこか嬉しくもある。純粋な少年でいて欲しいと願うと同時に俺という濁った色で染め上げてやりたい欲望も感じる。二つの思いがせめぎあっているから俺はどちらにも動き出せずに、ただ狡く躱し続ける事しか出来ない。俺なんかに惚れた諒太郎は本当に可哀想な子だと思う。

「え、やだな、そんなんじゃないよ。ただ貴重な体験だって思っただけだし」

「デートの経験も出来て良かったんじゃねえの?」

「デートとか思ってないし、向こうもこっちも」

 可哀想だ。拒むくせにこうして気持ちを試すような事ばかりする。

「まあ、どっちでもいいけど」

「やだなあ、千紘さん、嫉妬?」

「アホか」

 諒太郎は人の気持ちに聡い。

 さっきから俺の胸の奥でささくれているのはそれだ。俺以外の誰かとデートしていた事が気に入らないのだ。子どもじみた独占欲。

 俺のものにする勇気もないくせに。

「俺、ミソノがどんな美人に化けようとドキドキする事なんてないし」

 ドキドキするのは千紘さんだけだと言外に念を押されるのを心地良く思う馬鹿な男だ。

 こんな男に振り回されるのはやめた方がいい。だけどずぶずぶに溺れて欲しい。


「ちょっと、二人とも、お客さんだよ」

 晋平の声で我に返ると、カランとベルを響かせて先程の彼女たちが店に入ってくる。

「さっき噂してたのあの子たちだよ、諒。誤解を解いてきたらどうだ」

 諒太郎の背中を叩き見送ると、俺はふうっと大きく息を吐いた。うまく誤摩化せただろうか。俺は欲望にまみれた目であの子を見ていなかっただろうか。

「いろいろダダ漏れてたよ、ちーさん」

 こつんと嗜めるように友人の拳がこめかみの辺りを小突く。まだまだ子どもの諒太郎は騙せても、長年の友人の目は誤摩化せない。

「ああ、わるい」

 自覚してしまってからこっち、時々セーブが効かなくなるような時がある。

「まずいと思ったら止めてくれ」

「それって本当に止めた方がいいのかな」

 全部投げ出して楽になりたいと思う事もある。けれどそれは大人としてやってはいけないことだ。自分の思いよりも、大事なのは諒太郎だ。

「…頼む」

「わかったよ。ちーさんは頑だね」

 俺の腕をトンと叩いた晋平は懐の深い笑みを見せる。隣にこいつがいれば俺は大丈夫だと無条件で思えるような安心感。



「で、誤解は解けたのか?」

 浮かない顔で戻ってきた諒太郎にいつも通りに声をかける。

「困った、ミソノだって言っても信じてくれない」

「そうやってきゃあきゃあ何でも話題にしたいんだろ?」

「こうなったらミソノにまたあの格好をさせて見せるしか…」

「さすがにそれはやめてやれ。気の毒だ」

「うそ、千紘さんにもそんな感情があったの?」

「なんだ、こら。そんなことを言うのはどの口だ」

 両頬をぐいっと掴んでタコの口にしてやる。

「俺がお前を苛めるのはまた別の話だ」

 顔をぐっと近づけてニヤリと笑えば諒太郎は顔を真っ赤にしてジタバタと抵抗する。

 いつまでこんな風に俺を好きでいてくれるだろうか。

 いつか愛想つかされる日が来ても俺は自分で選んだ道だと納得できるのだろうか。

 後悔なんてするに決まっている。

 こんな些細な噂にだって振り回されるぐらいなのだから。

 それでも。

 それでもこれは俺のエゴなのだから仕方がない。

 それでもこの時の俺は。

 ただ諒太郎の未来を守りたかったのだ。



<終> 

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