聖なる夜に
クリスマスというのは、多分一年で一番ケーキ屋さんが忙しい日だ。
ひっきりなしに客がやってきて、息をつく暇もない。
普段はカフェの客の方が多いのだが、こういう日は持ち帰りの客が多く、いつもはカフェの方にしかいない俺までそちらに借り出され、ともすれば厨房の手伝いにまでまわされる始末だ。
いつもより一時間遅らせた閉店時間が訪れると、俺はぐったりと椅子に崩れ落ちた。
「つっかれた~」
「なんだい、若者が」
ウエイター仲間の晋平は、へっちゃらな顔でフロアのモップがけをしていた。
「クリスマスっていつもこんな?」
「何言ってんの。今年は楽に決まってるだろ。人手が多いんだから」
「マジで!?」
俺が入る前はアルバイトを入れず、店長と二人でやっていたのだ。たった二人でこの目まぐるしさをこなすってどんなだろう。想像さえつかない。今日は一時間前、カフェの閉店時間までは七生もいたし、去年までの倍の人手があったにも関わらず、この疲労だ。どうやったら二人で回せるのか、もう意味がわからない。
「もっとも、諒ちゃんや七生くん目当ての常連さんが増えてることも確かだけどね」
何にしても、タフだ。晋平も千紘も、あまりにタフだ。若さだけではたちうちできそうにない。
「う~…」
テーブルの上にくたっと伸びる俺を見て、晋平は笑う。
手伝いなさいなんて言うこともなく、暖かい目で俺を見守っている。
大人だ。いい人だ。
そんな風に思っていると、晋平はあっという間に掃除を終え、あっという間に着替えをすませ、「じゃ、お先に」と手をあげた。
「早っ!」
「だって今日はクリスマスイブだよ。当然この後約束があるでしょ」
晋平はただでさえ甘いマスクをゆるゆるに蕩けさせて、空を飛んじゃうんじゃないかという軽い足取りで店を出ていった。
疲れなんて、かけらもない。
「そっか、デートか」
俺にもそんな予定があれば、もっと元気が湧くのかな。なんて思うけれど、残念ながら相手がいない。片想いの身は辛い。
「どうした、諒。へばってんのか?」
厨房から出てきた俺の想い人千紘は、グラスに入った水をぐっとあおりながら俺がくたばっているテーブルの向い側に腰を下ろした。
「疲れた。もう駄目。その水飲んでいい?」
「ほとんど入ってねえぞ?」
「うん」
俺はグラスに四分の一ほど残っていた水を一気に飲み干す。
ただの水だが、千紘の飲みかけの水だと思うとものすごく元気が湧いてくるような気がする。
そんな少々変態チックな発想をしてしまうのも、片想い故の悲しさである。
「すごいねー、クリスマス」
へたっていた体を起こし、両腕をのばしてうーんと伸びをする。
「一番の稼ぎ時だからな」
晋平と同じく疲れなど微塵も感じさせない千紘は、きっと売り上げの多さにウハウハなのだ。
「ちくしょっ、金の亡者め」
自分だけがこんなにヘロヘロになっているのが悔しい。
彼らと俺との間にある差は年の差だけではないらしい。
俺だってそれなりに体力はあるつもりなのに。
「晋平は帰ったのか?」
「うん、ソッコー飛ぶように帰ってったよ」
「おまえはいいの?約束ないの?」
「ないよ、悪かったね」
そんなこと、千紘に言われたくない。
千紘との約束がなければ、俺に約束なんてあるわけないのに。
自分の思いを告げたことはないけれど、きっとこの人は気付いていると思うのだ。
知っていてわざとこういう意地悪を言うのだ。
「千紘さんこそ、どうなの?」
「職業柄クリスマスは約束しない主義だ。帰ったら爆睡する」
ずるい返事だ。心の内は晒さない。
視線で抗議しても、千紘は知らないふりだ。
「かわいそうな諒太郎くんに、俺からのプレゼントだ」
トンと、テーブルの上に置かれる白い箱。今日幾度となくお客様に手渡したあれだ。
「って、ケーキじゃん!俺甘いの食わないって」
嫌がらせかよと噛み付くと、千紘はいつになく優しい顔で、「家の人に持ってけよ」なんて言う。
その低い声にくらりとする。
「持ってってやる恋人もいないなら、親孝行でもしてみたら?」
付け足さなくてもいい軽口に、沸き上がる気持ちを抑えきれない。
速いペースであっちへこっちへと気持ちを揺さぶられ、止めるべき方向を見失う。
「千紘さんと食べたい。約束、ないんでしょ?」
「ん?まあ、な…」
「千紘さん家行きたい」
「だーめ。あんなとこ一人で行ったら襲われちゃうぞ」
「いいよ」
「こらこら、バカなこと言ってんなよ」
俺は本気なのに、千紘は取り合ってはくれない。冗談でかわしていく、ずるい大人だ。
「ったく、しょうがねえなあ」
ぐりぐりと俺の頭をまぜて立ち上がった千紘は、厨房に消えていったかと思うとやがてカップを二つ手にしてやってくる。
目の前に置かれた紅茶のカップから立ち上る湯気からは、花のような香りがする。すーっと心が落ち着いていくのを感じた。
「お疲れさん」
俺のカップに自分のカップをコツンと軽くぶつけて千紘は紅茶を一口すする。
「違うよ、千紘さん。メリークリスマス、でしょ?」
カップを差し出すと、千紘は笑ってカップをあわせる。
「紅茶ってのが雰囲気出ないけどな」
「でもおいしいよ」
ほんの少しの時間でも、こうして付き合ってくれることが嬉しい。
家に連れていってはもらえなくても、ほんの少し俺のために傾けてくれるその気持ちがたまらない。
千紘に自覚はあるのだろうか、意地悪をしつつもこうして時折見せる優しい心遣いが俺の心を捉えてやまない。
そこに恋心がなくとも、優しくしてもらえるのは嬉しい。
「さあ、今日はいつもより時間が遅いんだから、飲んだら帰れよ」
「はーい」
まだ片付けが残っているに違いないのに、千紘は俺につきあってのんびりと紅茶を飲み、やがて立ち上がる。
「千紘さん」
厨房へ消えていこうとする背中に呼びかけた。
「お土産、ありがと」
千紘がわざわざ売らずにとっておいてくれたケーキの小さな箱を掲げると、千紘は少しだけ口元を緩め、照れたように「おう」と言った。
<終>
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