好きの代わりに

 仕事が終わりスタッフルームに入ると、俺は大きく息を吐いた。

(疲れた…)

 いらない気を使っているせいか精神的な疲労感が激しい。いつも通りでいなくちゃと思う一方で、どうしても千紘のことが気になってしまう。仕事に集中すればいいと思うのだが、無意識のうちに視線も想いも千紘のことを追ってしまう。仕事中のそれはもう癖のようなものだ。すっかり身に染み付いた習慣になってしまっている。気がつけば千紘のことを考えていて気が沈んでいき、これではいけないと無理やり引き上げる。気がつけば千紘の姿を目で追っていて、目が合いそうになると慌てて逸らす。そんなことを繰り返しているため普段の仕事の3倍ぐらい精神がすり減る。

(千紘さんと顔を合わせないうちにさっさと帰ろう)

 いつもなら必要以上にだらだらと居残って千紘と会話ができないものかとチャンスを伺うところだが、今日はできるだけ急いで着替える。これ以上精神的ダメージを負いたくはなかった。どこにいたって心の傷が癒えないのにはかわりないが、少しでも早く帰ってせめて体だけでも休めようと思った。

 だが、着替え終わってカバンを背負ったところで背後から声をかけられ、俺はびくりと体を強張らせた。振り向かなくても千紘だとわかる。

「なあ、諒。おまえさ…」

 俺のあからさまなギクシャクした態度に気づいていないはずはないのに、千紘は何もなかったみたいにいつも通りの口調でそう言った。あの日のことが原因であることなど、当事者の千紘にわからないはずはない。

 なのに、このまま何もなかったで済まされてしまうのだろうか。

なかったことにしないでと俺は言ったのに、千紘はあくまで「聞かなかったこと」にするつもりなのか。そもそも聞いてしまったことを聞かなかったことにするなんて可能なんだろうか。こんなにもあふれ出てやまない俺の想いは千紘にとってその程度のものなのか。そんなことを考えてまた悲しくなった。

「明日、暇か?」

 勤務態度について注意でもされるのかと思ったが、あまりにも普通にそんなことを聞かれた。明日といえば、定休日だ。先週までは千紘に会いたい一心で、用もないのに毎週顔を出していたけれど、さすがに明日はやめようと思っていたところだ。仕事を離れて二人きりで会って、どうしたらいいかわからない。千紘だって迷惑に違いない。そう考えていたのだが、まさか千紘の方から誘ってくるなんて、一体これは何の罠だろうか。

 言葉上は俺に選択権がある形で暇かと尋ねてはいたが、千紘からは有無を言わせない圧を感じる。

「あ…別に…特に予定はない、けど…」

 断る口実を考える余裕もなく、素直に答えてしまった。そもそも定休日は千紘に会うための日だと思っているのだから予定なんて入れているはずもない。

「じゃあ来いよ」

 先程よりずいぶん声が近い気がして恐る恐る振り返ると、千紘の姿は俺のすぐ目の前にあった。威圧するような雰囲気を醸し出す千紘の表情は笑うでも怒るでもなく全く感情が読めなくて、怖い。やっぱりここ数日の勤務態度のことで日を改めてこっぴどく叱られるのかもしれない、そんなピリッとした空気があった。

(もしかして俺…クビ、とか…?)

 そんな最悪なことを考えてしまうぐらいにはやばそうな雰囲気が漂っていたのだ。

 けれど俺の目の前で両腕を組んで凄むように上から見下ろした千紘は想定外も甚だしい言葉を紡ぐ。

「髪、切ってくれるって言ったよな。明日やってもらってもいいか?」

「へっ?」

 拍子抜けして思わず変な声が出た。

 そういえばあの日そんな話もしたっけなと思い起こす。そのあとが衝撃的すぎてすっかり忘れてしまっていたが、千紘はしっかり覚えていたようだ。なるほど、あくまで俺の告白に関してはスルーで普通に話を進めるつもりらしい。毎日うじうじしている俺とは精神構造が基礎から違っているのかもしれない。

(にしても…それが人に物を頼む態度ですか)

 なぜ頼み事をされるのにこんなに凄まれてビクつかなければいけないのだろうか。理不尽じゃないか。そう思ったけれど口に出してはいけない気がしてぐっと飲み込んだ。

「…あ、うん、わかった。道具持って来るよ」

 緊張から解放され、ちょっとだけ肩の力を抜いた会話ができた気がする。もしかしたらこれも千紘の計算だったりするのだろうか。よくわからないが相変わらず千紘に振り回されていることだけは確かだ。上がったり下がったり激しい恋。いつまで続くのだろうか。振られた事実があったって、これは俺の心の問題なのだからどうしようもない。どうやったら無くなるのかわからない。

「じゃ、頼むわ。おつかれさん」

 千紘は俺の肩をトンと軽く叩いて厨房へ戻っていった。

 大した意味もない何気ない仕草であるが、このところ俺がずっと避けていたから、千紘の体と触れるのは久しぶりのことだった。触れられたところの温もりを感じるように、自分の手を重ねる。俺はバカだ。性懲りも無く、こんなことで浮かれる。あんなにも怖がっていたのに、あんなにも諦めなきゃと思っていたのに、ほんの少し触れられただけで好きが溢れる。本当に、どうしようもない。




 次の日、いつものように学校帰りに店に寄る。いつも通りに振る舞える自信はなかったが、仕方がないと腹はくくった。髪を切るという目的があるのだからありがたい。ただ話がしたいとか言われるよりずっと気が楽だ。

 ひょっとすると事態を打開できるきっかけになるかもしれない。大きく深呼吸をして気合を入れてから店に入ったのだが。

「待ってたぞ、諒。さあ行こうか」

 待ち構えていた千紘に即座に表に引っ張り戻され、何の説明もないままに電車に乗せられていた。

 二人並んで立ち、いつもの学校帰りとは違う景色が車窓を流れて行くのをぼんやり目で追う。

「あの、千紘さん、どこへ?」

「ん?俺ん家。店で切るわけにいかないだろう、衛生的に」

「千紘さん…の、家…?え、まじで!?」

 驚きのあまり大きな声が出てしまい、自分の手で口をふさぐ。公共機関で騒ぐのは良くない。続けてこぼれそうになる言葉を飲み込み、頭の中でだけ叫び続ける。これは一体何という展開なのだろう。落ち着いて考えれば、髪を切れる場所なんて自宅以外にないというだけのことなのだけれど、これまで固く閉じていた千紘のプライベートという隠された空間のど真ん中に何の心の準備もなくいきなり放り込まれるのだ、落ち着いていられるはずもない。

「そんな大した家じゃないから期待すんな」

 挙動不審になる俺を見て千紘が堪えながら笑う。

(あ、久しぶりに笑った顔見たかも)

 それだけでキュンとなってしまうチョロい俺を、この人はどこまで振り回したら気がすむのだろう。振られたところから家に連れていかれるところまでのこの落差に俺の体は耐えられない。理性なんて保てるわけがない。


 俺の家に帰るのとは違う線の電車に乗って3駅、思ったより近くに千紘の住むマンションはあった。通勤の効率も考えた上での出店場所なのだろう。

 鍵を開ける千紘の後について、何となく恐る恐る千紘のプライベート空間に踏み入れた。無駄な物のない、千紘らしいスッキリした部屋だ。綺麗に片付いているが、普段からこうなのか俺が来るから片付けたのかは不明だ。なんとなくいつもきっちりしていそうなイメージはあるのだが、鍵を机の上に放り投げ、そこらへんにどさりとカバンを放置するのを見るとそうでもないのかもしれない。

「んで?なんかいるものあるか?」

 冷蔵庫から出したお茶のペットボトルを差し出して千紘が問う。あんまり欲望に忠実に観察しすぎるのも失礼だなと少し襟を正した。今日俺は髪を切るという使命でここに来ているのだ。

「あ、道具は全部持ってきたよ。椅子を置いて下に新聞紙敷けばいいかな」

 リビングにはフローリングの真ん中に小さめの座卓があるだけだったが、千紘は奥の部屋から椅子を運んできた。あちらにもう一部屋あるらしい。寝室だろうか。椅子があるのだから書斎かもしれない。

 椅子に座る千紘に持参したカットクロスを掛けると、「おお、本格的だ」と千紘が楽しげにする。

「どんな風にしたらいいの?」

「適当に短くしてくれたらいい。お前に任せる」

「わかった、しばらく切らなくてもいいようにすればいいんだね?」

 少し緊張しながら千紘の髪に触れる。あの日以来初めて、自分から千紘に触れる。少し、指先が震えているのが自分でわかった。

 ハサミを入れると、やわらかめの髪がハラハラと床に落ちていく。一つにまとめられるぐらいに伸びた髪を思い切ってザクザク切っていく。失敗してはいけないと集中した俺はひたすら無言で髪を切り、千紘もそんな俺に話しかけるとやばいと思ったのかずっと無言だった。ハサミの音と、床に敷いた新聞紙の立てる音だけが静かに響く不思議な時間だった。

 後ろからサイドに回って順に切り、そして前に回る。

「あの、千紘さん、前髪切るから目瞑って」

 間近でじっとみつめられ、思わず目をそらす。今日はがんばって割と普通に会話はできている気がするが、まだ平気で向き合えるほどに俺の精神は回復していないのだ。髪を切るという使命の元で平然を装っているが、まだ千紘との適切な距離がつかめていない。

 千紘は小さくため息をついて大人しく目を閉じた。距離を測りかねているのは千紘も同じなのかもしれない。

 気まずさを覚えながら前髪にハサミを入れた。

 目を閉じていてくれたらほっと一安心するのはなぜだろうか。こうしている間は何をしても気づかれないだろうと気が大きくなり、千紘の顔を至近距離でまじまじと見つめる。

(かっこいいなあ)

 綺麗に整っているけれど男らしい骨格で彫りも深い。思わず触れてなぞりたくなるその輪郭に見惚れながら、いけないと自分を律してカットを続ける。触れればもちろん気付かれるし、手を止めてもどうしたのかと目を開けられてしまう。今この瞬間だけ大好きなこの人を心置きなく見ることを許してほしいと心の中で祈りながら、ゆっくりと髪を切っていった。

 大方切り終わり、微調整をしようかなという頃に、目の前で千紘の瞼が開く。声をかけるまでは閉じていてくれるだろうと油断していた。至近距離で目が合う。

「まだだよ。目、瞑ってて」

 少しかがんでいた背を伸ばし距離を取ろうとすると、顔をぐっと両手で挟まれ、動くことを阻止された。クロスが揺れて切った髪がパサパサと下に落ちていく。

「嫌だね。こうしねえとお前、俺のこと見ないし、逃げるし」

 ほんの15センチほどの距離で、千紘は感情を押し殺した声で囁く。

 もしかして、千紘は怒っていたのだろうか。まともに見ることも話すこともできなくて避けている俺に苛立っていたのだろうか。

(そりゃ、こんなあからさまに避けられて嬉しい人なんていないよな…)

 それでも大人の対応で見逃してくれていたのだろう。なのにいつまでたっても一向に変わらない俺の態度に我慢ならなくなったのか。

「だって、どうしたらいいかわからないんだ」

 逃げられない。そんなに強く掴まれているわけではないが、体が動かない。

「いいから聞け。俺を見ろ」

 小さな子供を諭すみたいな口調で言われて、俺は涙目になりながら言われた通りに千紘を見るしかなかった。

 ゆっくりと千紘の顔が近づき、こつんと額と額が触れる。

 怒っているというようりも、頑なに閉ざし続ける俺をなだめようとしているのかもしれない。触れた額からやわらかく熱が伝わる。

「俺はお前のこと振ったつもりなんてねえんだよ」

 それだけ言うと解放される。言葉の意味が理解できずぽかんとしていると、千紘は先程までと同じように目を閉じてきちんと椅子に座り、「続けて」と言った。

 再び黙々と作業を進めながら、心の中でぐるぐるとその言葉の意味を考える。振ったつもりがないというのはどういうことなのか。

(俺が勝手に振られたと思っているだけ?)

 いや、でも、あの状況は振られたと同義だ。俺の気持ちが受け入れられなかったという事実がある。

(なかったことにしたいと言ったじゃないか)

 この人は一体俺にどうしろというのか。

 他にヒントはないものかと次の言葉を待ってみたが、それ以上何の言葉もない。ただおとなしく俺の前に座っているだけだ。

(なんかもう、いつもわかりにくい、この人!)

 もっとストレートに言葉にしてくれれば悩まずにすむのに。でもきっとそれでは惚れることもなかったのだ。千紘がこういう人だからこそ惹かれてしまうのだ。どうしようもないではないか。

「千紘さん、終わったよ」

 結局、俺の中で答えが出ることはなく、作業は終わってしまった。

「髪の毛いっぱいついてるからそのままお風呂入ってきて。俺ここ片付けとく」

 付いた毛が飛び散らないようにそっとクロスを取ってやると、千紘は立ち上がって伸びをする。

「お、だいぶ頭が軽くなった」

 作業が終わってしまった今、このあとどうしたらいいものかと悩んでいる俺のことなんてお構いなしで、千紘は上機嫌に自分の頭を触ってみている。鏡がないからどうなっているのか気になるのだろう。早く風呂に入って洗面台の鏡でも見ればいいのに。

 自分の体に付いた毛を新聞紙の上に払い落としながら、俺はこのあとの展開を想像する。まだ何も解決していない。途中であんなことを言うからには、千紘的にはこの状況を何とかしようというつもりはあるのだろう。ただ何もなかったことにしようとしているわけでもないらしい。髪を切るのなんてただの口実だったのかもしれない。

(やべー、なんか怖い)

 何が怖いのかよくわからないけど、無性に逃げたい気分になる。

「俺、風呂行くけど、お前絶対帰るなよ。後で話がある」

 絶妙なタイミングできつく言われ、俺は壊れた機械みたいにぎこちなく頷く。風呂に入っている隙に逃げようかなとか少し考えていたのを完全に見透かされている。

 決して逃げてはいけないところだと頭ではわかっている。今ここが大事なところなのだということは感じ取っている。だからこそ突発的に逃げたくなるのだ。ここ最近の弱った精神状態ではこの緊張感に耐えられない。いっそ今すぐバッサリと斬り捨てられてしまいたい。ただでさえ家主が風呂に入っている間という持て余した時間をどう過ごしたらいいのかわからないのに、こんな宙ぶらりんな状態で生殺しなんて。

「暇だったら家ん中好きに物色していいぞ。別に見られて困るもの置いてねえし」

 俺とは違って実に軽いテンションでそんな言葉を残し、千紘はバスルームに消えた。一人残された俺はとりあえず辺りに散らばった髪を下に敷いた新聞紙ごと丸めてゴミ袋に突っ込む。やることがあるうちはまだいい。新聞からこぼれた髪も一本一本丁寧に拾い完全に綺麗にしたが、まだバスルームからはシャワーの水音が響いていた。




 やることがなくなり時間を持て余しはじめた俺は、そうだ、椅子を片付けようと奥の部屋をそっと開ける。どこを見てもいいと言われたが、なんとなく後ろ暗い気持ちになるのはなぜだろうか。物音を立てないようにそっと覗くと、リビングと同様に綺麗に片付いた机と本棚とベッドが置いてあった。そこの机に使っていた椅子を戻すと、そのままベッドの上に腰を下ろした。布団はまっすぐ伸ばされているが、使った形跡はある。ここで毎日千紘が寝ているのかと思うと少し興奮する。布団の中に入り込みたくなる欲をぐっとこらえ、気をそらすように本棚を見やる。お菓子作りに関する本がたくさん並んでいた。お菓子以外の様々なジャンルの料理本もある。それから経営学の本に語学の本、経済の本。実に千紘らしい実用的な本棚だ。

「あれ、この辺は…?」

 一角に有名なミステリー小説が並んでいるのを発見した。

「へえ、こういうの、読むんだ」

 ちょっと意外だった。常に現実的な千紘しか見ていないからかもしれない。フィクションを読むというイメージがそもそも存在しないのだ。

(家の中を見るって…なんかいい)

 一連のごちゃごちゃしたことを全部忘れて幸せな気分になる。今まで触れさせてもらえなかった深いところに触れた気分だ。急にこんなに緩いから、だから余計に混乱するのだ。懐の奥深くに抱きしめられて、それで俺は何を許されているのか、何も許されてはいないのか。千紘は矛盾だらけだ。

「ここにいたのか。エロ本探しても出てこねーぞ」

 いつの間にか風呂から上がった千紘がタオルで髪を拭きながら俺のいた部屋に入ってくる。

「あっちにいねえから逃げられたのかと思ったわ」

 すぐ隣に千紘が腰を下ろし、ベッドがぐんと沈む。

「逃げないし」

 実はちょっとだけ本気で逃げようとしていたなんてことは隠して強がる。強気でいかないとダメな気がする。

「あ、ねえ、ちひろさんミステリー小説とか読むんだね。意外だなーと思って見てたんだ」

 なんとなく追い詰められる獲物のような危機感を感じ、話の矛先を変えてみる。

「ああ、割と好きだな。最近時間なくて読めてねえけど、昔はよく読んだ。意外か?」

「うん、なんかあんまり想像がつかない」

「そ?」

 なぜだか千紘は少し満足げな様子で笑むと、髪を拭いていた手を止めてタオルを外した。

「なかなかよくできてるな、髪。おまえ、こういう髪型好きなのか?」

 誘導されるように、視線を千紘に向けてしまった。短くなった髪型はもちろん切っている途中にしっかり見ていたのだが、濡れた髪が乱れていて色気が倍増している。見慣れないその感じにぞくりとする。心臓が激しく脈打つ。

「なんか…その…見慣れなくて変な感じがするね。だいぶバッサリ切ったし」

 一度見てしまったらもう目が離せなかった。視覚的破壊力が強すぎて、身動きが取れない。

「なあ、おまえさあ、俺がさっき言ったことの意味、わかってる?」

 千紘の手が俺の頬に触れ、俺は思わず後ずさる。

「わかってねえな、全然」

 千紘は苦笑し、手を引っ込めた。

「あー、こないださ、聞かなかったことにするって言ったけど、それはあれだ、別におまえの気持ちが困るとかそういうことじゃなくて」

 言葉を選んでいるのか、千紘は困ったように頭をかき混ぜる。

「単純に今のままでいたかったんだよ。だから変な気使うな」

 一生懸命説明してくれようとしているのはわかる。けど言っている意味はよくわからない。これまでに言われたことと同じではないか。

 ただ俺が千紘を好きでいることは別に迷惑ではないというところは俺の認識とは違っていたかもしれない。好きでいてもいい。けど見て見ぬ振りをする、ということか。確かに今まで通りと言われればその通りではあるけれど。

「…それじゃ、俺はどうすればいいの?」

 俺の気持ちはどうなってしまうのか。受け入れもしないのに諦めろとも言わない。一見自由に思えるけれど、それは俺の気持ちの存在意義を奪うのではないだろうか。好きになるなと言われた方がまだ楽かもしれない。報われもしないのに好きでい続けろなんて酷いことを言う。

「うーん、ごめん、全然伝わってねーわ」

 俺の表情から俺の思考回路を察したのか、千紘は頭を抱えた。どうやら俺の考えは間違っているらしい。本当に伝えたい千紘の気持ちがぜんぜんわからない。

「これはおまえには言いたくなかったんだけどな…」

 千紘は嫌そうに眉を顰めた。何か隠していることがあるらしい。だから話がややこしくなるのだ。

「親父さんに止められてる」

「え?」

 予想だにしない名前が飛び出してきて俺の頭はなおさら混乱する。親父さんというのはもちろん俺の父親ということだろう。父が一体何を止めているというのだ。

「おまえに手を出さないことがうちでのバイトを許可する条件だった」

 そんなこと、全くあずかり知らぬ話だ。確かに当初バイトをすると言ったらああだこうだと少し口うるさく言われた記憶はある。けれど千紘と話をしたなんて聞いたことがない。しかもその会話はどう考えても千紘の性癖を知ってのことだろう。そんなディープな会話をする機会があっただろうか。

「ちょっとまって、それいつの話?」

「おまえがバイトを始めた時。息子が働く店がどんなところか見にきたんだよ。俺はおまえに手を出すつもりなんてなかったし、それはありませんと約束をした」

「そんなの俺聞いてない」

「だろうな。あの人の溺愛っぷりはちょっとやばい」

 頭を撫でられる手を、今度は避けようとは思わなかった。それどころじゃない。

(あのおやじ、余計なことを…)

 怒りがこみ上げる。しかし怒っている場合でもない。

 つまり、その制約があるから千紘は俺の気持ちに応えられない、というわけで、それがなければ千紘は応えてくれるということなのではないだろうか、ひょっとして。

「まあ、そんな条件なくても、俺の信条的にも公私混同はないからな、おまえがうちのバイトであるうちはそれ以上の関係になるつもりはない」

「じゃあ俺が…」

 バイトをやめればいいのかと言おうと思ったその口を、千紘の人差し指が止める。

「バイトをやめられるのも困る。それは望んでない」

 それはもちろん俺だって望んでいないけれど。千紘がいることを抜きにしても、今のバイトは楽しい。

「だからさ、俺の立場的には今のままがいいんだよ。ごめん、俺のわがままだ。悪かったな、辛い思いさせて」

 だったら最初からそう言ってくれればいいのに。ちゃんと説明してくれれば俺だって納得するのに。そうすれば、辛くないとは言わないけれど、あんなに泣くことはなかっただろう。

(あれ、もしかして、俺に納得して欲しくなかったのかな)

 言われれば俺は遠慮する性格だと千紘にはわかっていただろう。諦めるとまではならないものの、千紘を困らせちゃいけないと自制するに違いない。そういうことをなしにして、曖昧なままで俺との恋愛を楽しみたかったのだろうか。だから「俺のわがまま」だと。

「わかった。なんかいろいろ理解できた気がする。けど、一つだけ聞いていい?」

「幾つでも」

「本当は千紘さんも、その…俺のこと好きって理解で合ってる、のかな…?俺、ちゃんと空気読めてる?」

「ん?そうだな…多分おまえが思ってるよりずっとな」

「…ずるい、千紘さん」

 好きという言葉が聞きたくてわざわざ聞いたのに、千紘は分かっていてそれを口にしない。そういうことは言わないと前に聞いたことはある気がするが、本当に徹底している。

(それでも俺は聞きたいよ、千紘さん)

 こんなにわかりにくい人なのだから尚更だ。絶対に俺ばかりが好きな気がしてしまうのに。

 口を尖らせて不満を表現してみたが、尖らせた口をぎゅっとつままれて笑われるだけだった。悔しい。

「ただ一言、俺もおまえが好きだって言ってくれたら、ちゃんと全部わかるのに、千紘さんはそれをしないからダメなんだよ」

 完全に振られたと思っていたのに、実は両思いでしたとか、わけがわからない。俺の涙を返せ。そんな思いを乗せて吐き出した。

「うわ、生意気」

 千紘は少しカチンときたのか俺の胸ぐらをぐいと掴む。そして言葉の代わりにくれたのは息ができなくなるぐらいの情熱的なキスだった。いつの間にかベッドの上に押し倒され、指と指を絡めて、何度も角度を変えて口付けられる。いつか、大人になったら試してやると言っていたやつだ。全身の力が抜けて、頭が真っ白になる。

「これでわかるだろ?」

 もう死ぬかもしれないと本気で思った頃、千紘は俺を放して体を起こし、ぺろりと赤い舌で自分の唇を舐めた。

「これ以上は歯止めが効かなくなるからダメ。こういうのももう今日限りしない」

 立ち上がった千紘はベッドに転がったまま動けずにいる俺を見下ろし、わしゃわしゃと頭を撫でる。

「今まで通り、おまえは好きにしな。待ってろとも言わない。心変わりしたならそれはそれでいい。まだ若いからな、いろいろあるだろう。だけどその時まだおまえの気持ちが変わらないんだったら、そんときは覚悟しな」

 また小難しいことを言うなあと思いながら、頭の中で翻訳する。つまり、俺がバイトを辞めた時にまだ好きだったら付き合おうということだろう、多分。けれどその約束で俺を縛るつもりはないと、そういう大人ぶったことを言うのだ。憎らしい。それまで俺を好きでいろとか言えばいいのに。

「それは、千紘さんだって、心変わりするかもしれないってこと?それでも許せって?」

「俺はおじさんだからな、おまえが感じるより長い時間じゃねえし、そうそう変わるもんもねえよ」

「俺だって変わんないし」

「そうか、そりゃありがてえな」

 千紘は落ちたタオルを拾い上げると背を向けた。

「髪の礼に飯作ってやる。できるまでゆっくりしとけ。あと家の人に飯食ってくって連絡しとけ」

 俺を完全に子供扱いしてさっさと部屋を出て行く。

(あの人本当に俺のこと好きなの?)

 まだ恋人になったわけではない。だけどあまりにもあっさりしたその態度に不安になる。こんなことでこの先やっていけるのだろうか。

(千紘さんは俺のことなんてなんとも思ってないって思ってた方が楽だったんじゃないの?もしかしてー!)

 暴れまわりたくなったがまだ体に力が入らない。完全にあのキスで腰砕け状態だ。

 この思い出だけで後何年耐えればいいのだろうか。

 それでも。

 嬉しいと感じてしまう俺は本当にバカなのかもしれない。



<終>

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