酩酊する大人

 ドタドタと激しい音を立てながら家のドアを入った千紘は、そのまま靴も脱がずにトイレに駆け込んだ。一呼吸する間もなく、胃の奥から込み上げるものを吐き出す。安堵とすっきり感で少し落ち着きを取り戻し、肩で息をしながらトイレを水で流し、よろよろと洗面室を後にした。まだ少し胃の中がムカムカしたが、先ほどまでの顔面が蒼白になる感じはなくなった。

 リビングへ向かおうとした途中で自分が土足であることに気付き、靴を脱いで玄関に放り投げる。ついでに上着も脱ぎ捨て玄関に放置した。

 キッチンへ行って口をゆすぎ、そしてコップ一杯のミネラルウォーターを一気に飲み干す。乾いた大地に染み渡る水のように、冷えた感覚が腹の中に広がる感じがする。

「…あー…飲みすぎたな…」

 空になったコップにもう一度水を注ぎ、机に置くと、そのままゴロンとリビングの床に寝そべった。フローリングの冷たさが、熱を帯びた体を冷ましてくれるようで気持ちが良い。

 仕事帰りに晋平に誘われ飲みに行ったのだが、ペースが速かったのかあるいは精神的なものなのか、飲んだ量はいつもとさほど変わらないはずなのだけれどひどく酔っていた。もともと酒は弱い方ではないし、こんな風に吐くほど飲むのはまだ自分の許容量を知らず雰囲気に任せて無茶な飲み方をしていた若い頃以来だ。




 飲みに行くよと強制連行された時点で晋平の言いたいことはわかっていた。あの日からずっと様子がおかしい諒太郎のことだ。あえてこちらからは何もアクションを起こさずそっとしておこうと思って数日が過ぎたけれど、あれ以来諒太郎はこちらを見ないし、仕事で必要なこと以外話しかけてもこない。作り笑い以外の笑顔も見ていない。当事者であるからして原因はわかっているが、正直あんな風になるとは思っていなかった。いつもみたいに強がりながらもぶつかってくると思っていたのに。

 諒太郎の異変はもちろん晋平にもわかっていて、普段から鋭い晋平だけでなく七生や客までも勘付くほどだった。これは自分が何とかするべきなのだろうと漠然と思い始めていた。そんなタイミングでの誘いだ、晋平が何を言いたいのかなんて火を見るよりも明らかだった。

「俺はね、人の恋愛ごとに口を突っ込むのは好きじゃないんだ。だから俺が言うのは仕事の話ね」

 幾らか酒を飲んだ後、そう口火を切った晋平は、千紘が思うより怒っているようだった。いつも物腰穏やかな晋平がこんな風に厳しい口調になるのも冷ややかな表情になるのもかなり珍しいことだ。15年ほどの付き合いだが、数えるほどしか見たことがない。

「正直今の諒ちゃんは使い物にならないよ。このままじゃ商売に影響が出る。やめさせるべきだと俺は思うよ」

 晋平の口から出る厳しい言葉に絶句した。

「俺を薄情だと思うか?俺はちーさんの代弁をしただけだよ。仕事には不要な情だ、違う?」

 がつんと頭を殴られたような気がした。そうだ、間違いなく自分という人間はそういった判断の仕方をする。必要のないものをいつまでも持ち続けるなんて馬鹿げている。仕事とはそういうシビアなものだ。要不要の切り分けは情でなく数字で行うべきだ。それが千紘のやり方だし、変えたつもりは毛頭ない。

 けれど。

 思いつきもしなかったのだ。諒太郎を切るという判断を迷うでも躊躇うでもなく、端からそれは選択肢として自分の中に存在しなかったのだ。そんな事実に愕然とする。

「ちーさんらしくないよ。振るんだったらそれぐらいの覚悟はしておくべきだったんじゃないの?」

 正論を突きつけられて、ただただ目の前のグラスをあおるしかできなくなっていた。

 自分の愚かさ、浅はかさを猛省する。そして自分の理念を覆していても気づかないほど諒太郎を手放したくないと思っていることを痛感する。

 頭を抱えながらひたすら酒を流し込む千紘を目の前にして、晋平はくすりと笑いを零した。厳しい雰囲気はすでにそこにはない。

「恋愛沙汰でそんな風になるちーさんを見られる日が来るとはね」

 見ているだけで酒が何杯でも飲めると眼を細める。

「俺個人的には諒ちゃん好きだし、面白いもの見れるからちーさんのそばにいて欲しいと思ってるんだよ」

 ふふふと楽しそうにこちらを見る視線に耐えきれず、さらに酒をあおった。

「…つーか、俺、別にあいつを振った覚えはないんだけど…」

 そんな愚痴がこぼれるほどに酔いがまわる。

 なぜそんなことになったのか、正直まだピンときていなかった。

「え?だって諒ちゃんが振られたって言ってたって俺は聞いたよ?」

「は?誰から?直接聞いたんじゃねえの?」

「七生くんだよ。俺の立場からして諒ちゃんに直接聞くのはちょっと憚られるかなと思って遠慮したの。どうせ原因がちーさんだなんてことはわかりきってるからさ」

「ふーん、七生には言うんだ…」

「そこで嫉妬するぐらいなら受け入れてあげればいいのに」

「だから振ってねえって。ただ、あいつも言うつもりなかったみたいだから、聞かなかったことにしてやるって言っただけだ」

 そう言ったら諒太郎は怒って出て行ってしまって、次の日にはあんな風に落ち込んでいた。カッとなってやってしまったことを後悔していたり、千紘に向き合うのが恥ずかしかったりするのだろうと思っていたのだが、まさか振られたと思っていたとは。今こうして伝え聞いて初めて諒太郎のあの態度に納得がいった。きっと、千紘に申し訳ないだとか迷惑なんじゃないかとかそんなことを思って近付けずにいるのだろう。切なくて泣きたいのを我慢しているからあんな貼り付けたみたいな作り笑いしかできないのだろう。強がりきれずに自分を押し殺して、なんて諒太郎らしく健気なのだろう。

「どんな状況だかは知らないけどさ、諒ちゃんが告白して、それに対して聞かなかったことにするって答えたわけね」

 晋平はこれ見よがしに大きく溜め息をつき、呆れたよと盛大にアピールする。

「ほんとさ、いい歳して恋愛初心者かっての。諒ちゃんかわいそ」

「なんでだよ」

「だって、それって『俺はお前のこと好きじゃない』って言ってるのと同じだろ。百歩譲ってちーさんが中高生ぐらいだったら、恥ずかしいし、付き合うとかよくわかんねーし、みたいなこともあるかもしれないけど、三十超えたおっさんだよ?そりゃ『お前にはそういう興味ないわ』っていうのと同意にしか思えないよ」

 大人なんだからもっと人の気持ちを慮りなさいよと叱られる。言われてみれば確かにそうかもしれない。だけど少年の思考回路なんてとうの昔に忘れてしまった。自分が少年時代に諒太郎のような純粋な心を持っていたかどうかは甚だ疑問であるが、時間が変えてしまったものも随分とあるだろう。

「…そうか。けど、おっさんだからこそいろいろあんだよ。わかるだろ?おまえだって」

「俺はね。だけど諒ちゃんにはわかんないよ」

 そうだ、諒太郎にはわからない。まだ千紘の半分しか生きていない。純粋に感情だけで恋愛をするわけじゃないなんて、きっと理解できないだろう。

(そんなガキ相手になにやってんだ、俺は)

 あんな風に絶望させるつもりなんてなかった。ただ諒太郎の気が楽になればと思ったのだ。

(いや、ただの保身か)

「俺はダメな大人なんだよ」

「うん、知ってる」

 頭がふらふらして、テーブルに突っ伏した。

 酔いすぎた。

「子供が怖いんだよ」

「そうだね」

 それから記憶は曖昧だ。

 気付けば自宅の玄関の前で吐き気に襲われながら必死で鍵を探していた。




「なんかもう、いろいろ最悪だな」

 ぐるぐる回る天井を見上げながらゆっくり何度も瞬きをする。目を開けていても閉じていても目の前が気持ち悪く揺れる。こうやって千紘が酒に逃げている間にも諒太郎は絶望と悲しみの中にとらわれて沈んでいるのだろう。

「諒ちゃんかわいそ」

 他人事みたいに晋平の口調を真似て口に出した。どうしてこんなどうしようもないおっさんに惚れてしまったんだろうかと心底気の毒になってくる。

(俺もいいかげん覚悟決めないとな)

 別れ際、念を押すように晋平がもう一度きつく言った言葉を思い返す。

「だけどちーさん、ここまで来ちゃったら、諒ちゃんの気持ちを受け入れるか、クビにしてさよならするか、二つに一つしかないと俺は思うよ。だってそれがちーさんの生き方でしょう?俺はそんなちーさんが好きで一緒に仕事してるんだからね。よく考えて」

 その通りだ。いつまでもダラダラと続けたって良いことなんて何もない。迷っている間に金も信用も逃げていく。千紘が何より大切にしているあの店を守らなければいけない。くだらない逡巡を続ける意味はない。

 ふらつく体をよいしょと起こし、コップの水をもう一度飲む。さっきより少しぬるくなっていたが、それでもそのひんやりした温度に頭がクリアになっていく感覚がする。

「だけど高校生と付き合うとかないだろう。俺32だぜ?」

 机をガツンと拳で殴る。

 けれど手放す気には到底なれない自分にはもうとっくに気付いている。来るもの拒まず去るもの追わずの付き合いしかしてこなかった自分が、ここまでこだわり振り回されることの意味はわかっている。

 足りないのは、余計なしがらみと向き合う覚悟だけだ。正面切って見つめ合う勇気だけだ。

「もう、逃げらんねえなあ」

 コップを空にして、千紘は長い溜め息を吐いた。



<終>

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