心に巣食う魔物

(あれ?)

 定休日なのに、店に入る前から甘い匂いが鼻をくすぐる。甘いものは苦手であるが、その香りは嫌いではない。あまり甘ったるすぎるのはちょっと胸やけ気味になったりすることもあるが、基本的には美味しそうだなと思うのだ。なぜか味覚としては受け付けないのだけれど。

 ドアを押して明かりのついていない店内に足を踏みいれると、一層香りが強くなる。カウンター越しに厨房を覗き込むと、私服姿の千紘が何やら作っているようだった。

「千紘さーん、何作ってんの?」

 ずいぶん集中していたようで、俺が声をかけると千紘は驚いたようにこっちを見やり、そしてふっと息を吐いた。張り詰めていた空気がゆるくなるのがわかる。

「新作の試作品をいくつか作ってみたんだけど、どうもいまいちピンとこねえんだわ」

「新作出すの?」

「限定の季節もんな。女子は期間限定に弱い」

「確かにねー」

「季節は毎年繰り返してんのに、去年とは全然違うものを出さなきゃいけないって酷だろ?美味さとインパクトの両立とか結構大変なんだぜ?」

 珍しく、千紘が弱音を吐く。いつだって俺様で、どんなこともスマートにこなしてしまうハイスペックな男が、これは珍しく落ち込んでいるのではないだろうか。その様子に、何だろう、きゅんと胸がときめく。千紘には申し訳ないが、胸が高鳴って止まらない。

 見たことのない表情を見られたのが嬉しいのかもしれない。思いがけないレアケースに、胃の裏のあたりがふわっとするような妙な感覚がする。

 俺が何とかしてあげたいなんておこがましいけれど、慰めたり元気付けたり、ちょっとぐらいできることがあるのではないだろうかと考える。

 基本的に千紘は他人に頼ったり助けを求めたりすることが非常に少ない。それは俺が子供だからとかそういうことではなく、彼の基本姿勢だ。親友であるだろう晋平に対しても、通常の同じレベルの関係性の人々と比べると極端に少ないように感じる。

 そんな人が今俺にちょっとだけ弱みを見せている。俺にしてあげられることがないか、それはもう必死に脳をフル回転させるしかない。

「ちょっと休憩したら?気分転換したら何かいいアイディア浮かぶかもしれないし」

 朝からずっと試作作業を続けていたのだろう、ちらりとのぞき見えるだけでも5、6種のケーキが完成した状態で置かれている。見えないところにもっとあるのかもしれない。

「そうだな。ちょっとばかり諒太郎と遊んでやろうかな」

 タオルで手を拭きながら千紘はフロアの方に回ってくる。

「俺が試食できたら良かったんだけど…」

 こんな時、甘いものが好きなら食べて意見を言えたりするのだろうが、俺にはそんな手助けすらできない。食べられたところで、ケーキの知識も商売の知識も何も持ち合わせていない俺に気の利いたことが言えるのかどうかなんてわからないし、千紘にとってそれが必要なものなのかどうかもわからないけれど、そこに立つことすらできない自分が悔しい。

「別にお前にそんなもん求めてないよ」

 俺のそばまで来た千紘は、俺の腕をぐいと掴み、客席の奥の方へと引っ張っていくと、長椅子の上に強引に座らせた。何なの?と思っている間に千紘は座らせた俺の膝を枕にゴロンと体を横たえた。

「これで十分」

 気持ちよさそうに目を閉じる。

「…こんなことでいいなら、いくらでも」

 もしかして、これは甘えられているのだろうか。それとも物理的に寝心地の良さを追求しただけなのだろうか。判断に迷うところである。前者と見せかけて後者だったというパターンがこれまでの経験では多かった気がするが、それでも前者を期待してしまうのが恋心のなせる技だ。なかなか学習してくれない厄介な奴だ。

「あー、やべ、これまじで寝るかも。ちょっと疲れたわ」

「いいよ、寝ても」

「お前膝枕舐めてるな。眠った人の頭って想像以上に重いんだぞ」

「したことあるんだ」

「そこ驚くとこか?俺いい年したおっさんだぜ?」

「まあ、そりゃそうなんだけど…」

 膝の上に誰かを乗せている図が全く想像できない。逆ならまだ、今現に目下に広がる光景であるし、なんとなくわかるのだけれど、千紘が誰かを自分の膝に乗せて可愛がるなんていったいどんな状況なんだか全くわからない。誰か知らない過去のその人に激しく嫉妬する。俺もそんなことが許される存在になりたい。

「もし寝落ちてても足辛かったら起こせよ」

「うん」

 普段意地悪ばかりするくせに、妙なところで優しい気遣いをする。まあ、もしそうなったとしても、俺はきっと起こさないだろうけど。だって俺の膝の上で千紘さんが眠っているとかそんな幸せな状況を自ら放り出せるわけがない。千紘もきっとそれをわかっているからわざわざそんなことを言うのだろう。

 本当に眠るつもりなのかどうかわからないけれど膝の上でじっと大人しくしている千紘を見おろす。こんな角度で見る千紘の姿が新鮮で、なんだか愛おしさがこみ上げる。髪を撫でたら怒られるだろうか。

 休日仕様でばさっと投げ出された髪が、小さく身じろぎするたびに太ももの上を流れる。それに触れたい欲求がこみ上げる。

「髪、ずいぶん伸びたね」

 言い訳みたいにそんなことをつぶやいて、そっと髪先を指ですくう。

「ああ、そうだな。そろそろ切らないとと思ってるんだけどな」

 千紘は俺が髪に触れるのを咎めなかった。調子に乗って撫でるように髪を梳いてみてもされるがままだった。やばい、これは、幸せだ。意外とサラサラと気持ちの良い髪質と手のひらに伝わる体温が俺の心臓を跳ねあがらせる。平静を装うのに必死だ。

「別に伸ばしてるわけじゃないんだ?」

「切るのをサボってるだけだな。知らない人間に頭を好き勝手されるのも嫌だし、時間もったいねえとか思っちまうし」

 好き勝手されるのが嫌だと言いながら好き勝手されているこの状況は一体なんなのだろう。それは俺だから許されているのだと自惚れてもいいのだろうか。

「だけどさすがにそろそろ切らねえとな。飲食業にあるまじき様相になっちまう」

「ねえ、俺切ったげようか?」

 ふと思いつきで提案した。俺が触るのは嫌じゃないみたいだし、わざわざ理髪店に出向いたり待たされたりすることもなくていいんじゃないかと思ったのだ。

「は?」

 パッチリと、千紘の瞼が開く。千紘が目を閉じていたから好き勝手できたが、この距離で目が合うと急に照れる。

「いや、俺、結構うまいよ?うちの親、体弱くて長く寝込む事もあるから、たまに俺が散髪してあげるんだ。だから道具も家にあるし、多分千紘さんが思ってるより俺手先器用だよ」

「マジか」

「うん」

 実は俺の隠れた特技なのだ。親以外の髪を切ったことはないが、なかなかの仕上がりだとは思う。勉強したことがあるわけではないからもちろんプロのようにうまくはいかないが、普通に成人男性が生活していてなんら違和感のない髪型ぐらいにはなる。

 俺の言葉に偽りがないか確認するように見上げてくる目に少し頬を紅潮させながら、それでも自信があるよと若干得意げな顔で見返した。

「なんかすげー不安だけど、条件的にはおいしいな」

「言ってくれればいつでもやるよ。まあ、気に入らなかったらプロに直してもらってよ」

「うまくいったら報酬出すよ」

「やった。じゃあ本気出す」

 別に報酬なんてなくたっていいと思ったけれど、千紘に触れたい俺の下心を隠すためにおどける。

「これで気になってたこと一つ解消したわ」

 千紘は珍しく柔らかい表情を見せる。ここへ来た時の張り詰めていた感じがすっかり抜けている。千紘のためにできることを俺が持っていたことが嬉しかった。気に入ってくれるかどうかはまだわからないけれど、それでも今少し千紘の気が晴れてくれたのならいい。俺のすることで千紘が喜んでくれるなら、俺はどんなことだって全力でやる。いつもしてもらうばかりで、子供の俺ができることなんてほとんどないのだから。

 やる気に溢れる俺を見て小さく笑った千紘は再び目を閉じた。

「残る問題は新作だな。どうすっかなあ。悪くはねえんだけどピンとこねえんだな」

 閉じた瞼の向こうにはイメージが広がっているのだろう。

 多分ものすごく繊細な感覚の部分の話なのだ。いわゆる芸術の域というやつ。でもきっとまた食べたいと思うケーキとそうでないケーキの境目は、俺にはわからないそういう感覚の部分が大事なんだと思う。

「よくわかんないけど、春だしカラフルで可愛いのがいいんじゃない?」

「だよなあ。女子高生対象だしなあ」

 気の利いたことも言えないし、たいして身のない会話しかできない。それでも、何かを思いついたのか、持ち上げた千紘の両手が空で動き始める。イメージトレーニング的なものだろうか。きっと目を閉じた千紘の頭の中ではケーキの作製が始まっているのだろう。その器用な指の先で何が行われているのか、製菓知識のない俺にはわからなかったが、しばらくリズミカルに動いた後、その両腕はぱたりと重力に任せて落ちた。ふうと大きく息を吐き、満足げな表情を浮かべたから、頭の中ではうまくいったのだと思う。多分。


 動きを止めた千紘の頭が、しばらくすると俺の膝の上でぐんと重みを増した。

(あれ、本気で寝落ちた…?)

 深い呼吸でゆっくりと胸が上下する。

(ほんとだ、人の頭って重い)

 けれどこれはとても幸せな重みだ。

(やばい、千紘さんが可愛い!)

 こういうのを愛しいというのだろうか。ドキドキと心臓が激しく跳ね回るようなものではなく、ただ静かにきゅっと胸が締め付けられる。この人が好きだと叫び回るのではなく、ただストンと胸に落ちる。大好きでたまらなくて、このまま手放したくなくて、俺のものにしたいと強く思う。

「千紘さん…」

 小さく呼びかけてみても、千紘が目をさます気配はない。ふわりと髪を撫でてみても、身じろぎもしない。

 こんなに深く眠っているのならと、欲望が頭をもたげる。きっとこの時の俺はだいぶ調子に乗っていたのだ。そういう条件が整い過ぎていた。

 身を屈め、眠っている千紘の額に自分の唇を押し当てた。唇にしなかったのは俺のなけなしの良心だ。いや、ただのヘタレ心だ。

「千紘さん、好き…大好き…」

 起きている時には決して言えない告白を、小さく小さく囁いた。

 本人が聞いていないと知りながらも、それでもずっと我慢していたものを吐き出すのは気持ちが良かった。くすぐったいような気分で、自分で照れた。

 そしてゆっくりと背を伸ばし顔を上げた瞬間。

 俺は凍りついた。膝の上の千紘の両の目が開き、バチリと視線が絡み合ったのだ。

「ち…ひろ…さん……起きて……」

「あー、悪い、さすがにデコにチューされてたら目ぇ覚めるわ。人の上でそこまで熟睡できねえし」

 頭が真っ白になる。それで目が覚めたということは、その後の言葉ももちろん聞こえていたということだ。どんな小さな声だって、この距離で聞こえないわけがない。

 さすがの千紘も気まずそうな雰囲気で、よいしょと身を起こして俺の膝の上から体を退かすと、自分の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。

「聞かなかったことにするから気にするな」

 俺が落ち込んでいると思ったのか、慰めるようにぼそりと千紘が言った。

「えっ…」

「だっておまえ、ずっとそれ言わないようにしてたんだろ?」

 そうだ。千紘の言う通りだ。受け入れられるわけがないとわかっていたから、言えば終わりになってしまうと思っていたから、だからずっと黙っていた。俺の態度できっとバレバレだろうとは思っていたが、それでもはっきりと告げなければ答えを出されることもないと、それがこの恋の最後の砦なのだと思ってきた。そんなことさえ千紘にはお見通しだったようだ。

 だけど。

「お前が言うつもりがなかったことなら、なかったことにしてやる」

 俺のためにそう言ってくれたのだろうと思う。それはわかっていたけれど。

(なんか…むかつく)

 真っ白になった頭に真っ先に浮かんできたのはなぜか怒りの感情だった。

(なかったことにするって…何?)

 俺の気持ちなんてずっとわかっていて無視していたんだ。これから先も千紘はそうしたいってことだ。俺の思いなんて、なかったことにしたいんだ。

 そう思ったら悲しいより先に腹が立った。

 確かに告げるつもりなんてなかったのだけれど。

「なかったことになんてされたくない」

 千紘が俺をどう思っているかということより前に、俺の気持ちを勝手になかったことにされたことがショックだった。告白の返事として、その言葉は最低だ。

「は?何言ってんの、お前」

「聞かなかったことにしなくていいって言ってんの。どうせずっと知ってたんでしょ、俺の気持ちなんて」

「ちょっと待て、今そういう話じゃないだろ」

 千紘の言っていることが正しいのかもしれない。俺の論点はずれているのかもしれない。それでも、一度溢れ出した気持ちをせき止めることができなかった。

(好きだ。好きだ。好きだ)

 口になんてするんじゃなかった。心が主張してやまない。

「そもそも、悪いのは千紘さんだ。俺の気持ちを知ってるくせに、期待させるようなことばかりする。受け入れる気がないならちゃんと拒絶してよ。最初の頃はちゃんと頑丈な壁作ってたじゃん」

 これ以上入るなと線を引かれている方が楽だったかもしれない。あの頃はそれがつらかったが、いざなくなると今度はどこまで踏み込んでいいのかがわからない。俺が築いた砦は、もうずいぶん奥に入り込み過ぎていたのだ。崩したら途端にゲームオーバーだ。

(俺はバカだ)

 ずっと守ってきたそれを自分の手で壊してしまった。事故みたいなものだけど、調子に乗った俺が悪いのだ。千紘さんが悪いなんて言ってしまったけれど、ただの八つ当たりだ。そうしていないと心が折れてしまうから。全部俺のせいだ。勝手に好きになって、千紘を困らせただけだ。

「俺帰る。なかったことにはしないで。仕事はちゃんと続けるから」

 逃げるように店を出た。千紘は何も言わなかった。どんな表情をしていたかもよく覚えていない。焦りと怒りと欲と羞恥と痛みと後悔といろんな感情がこんがらがってしまって、ただわめいて逃げてきただけだ。

(何やってんだ、俺)

 片思いでいいと思っていた。気持ちを伝えなくても楽しければいいと思っていた。

(このままでいいって望んでいたのは俺の方だったのに)

 いつの間に、千紘を好きな自分の思いにこんなにプライドを持ってしまっていたんだろう。

 否定されたくない。報われたい。あわよくば、気持ちを返して欲しい。

 そんな欲を、いつからこんなにも抱えていたのだろう。

(俺が一番わかってなかった)

 なかったことにしないでくれと、俺の心が一番懇願していたのは俺に対してだったのかもしれない。

「やべ、冷静になったら急に悲しくなってきた」

 泣くのは家に帰るまで我慢しようと思っていたのだが、できそうにない。

「あーあ、ふられちゃったな」

 涙がこぼれないように上を向いたが、目尻から耳の方へ熱いものが伝うだけだった。

「明日から俺どうやって仕事しよう」

 自嘲しながら手のひらで涙を拭う。

「つか、どうやって電車乗るんだよ、これで。かっこわり」

 泣きながら、声を出して笑った。



<終>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る