会えない日々

 自室で勉強机に向かい、頬杖をついたまま何度目かのため息をつく。目の前には明日のテストのための勉強道具が広がっているが、先程からちっとも頭には入っていない。

 テスト開始一週間前からテスト週間という禁欲生活が始まり、テスト最終日を明日に控えた今日、ストレスも最大になる。集中力が持続しない。

(まずいなあ…)

 このままだと明日、最終日のテスト3教科の結果は期待できない。

 勉強をすること自体は嫌いなわけではない。一番辛いのはバイトに行けないことだ。愛しい人に会えないことだ。もう一週間、千紘の顔も見ていなければ声すら聞いていない。

(千紘さんに会いたいなあ)

 普段ほぼ毎日顔を合わせているだけに、たった一週間のことが長く長く感じられてしまう。

 今頃、何をしているだろう。

 俺のいない店はどんなふうなんだろう。

 少しは俺のことを思い出したりしてくれているのかな。

 俺がいなくて寂しいなんて思いはしないだろうか。

 そんなふうにすぐに思考がとらわれてしまって目の前の勉強に意識が向かない。考え出せばきりがない。

 ちらりと壁の時計に目をやった。9時半を少し回った所だ。勉強できる時間はもうそんなに長くは残っていない。

 店はもう閉店をして片付けを終えて、千紘はそろそろ帰宅する頃だろうか。俺たちバイトが帰ったあとに千紘がいつまでどんな仕事をしているのかなんて知らないけれど、想像しているだけで楽しくなってくる。


(だからこれがダメなんだって…)

 妄想を繰り広げてニヤニヤしている場合ではないのだ。なのにダメだと思えば思うほどそちらへ寄っていってしまうのはどうしてなのだろう。

(ああ、もう、ほんとこれじゃ埒があかない)

 もう何時間こんなことを繰り返しているのだろう。どうすればこの雑念を払えるのか散々悩んだ末、俺はベッドの上に放ってあったスマホを手に取った。休憩がてらベッドに体を横たえ、大きく体を伸ばす。

 電話をしてみようと、意を決する。声だけでも聞ければ、千紘を求めて止まない心が少しは静まるかもしれない。とにかく何か状況を変えてしまわなければ悶々とするばかりで何ともならないと思うのだ。

 用もないのに電話するなと千紘は怒るだろうか。ちゃんと勉強しろと叱られるだろうか。

 それでもいい。声を聞けるだけで、たった一言でも言葉を交わせるだけでいいのだ。

 まだ仕事中でないことを祈って電話を耳に当てる。呼び出し音が8回、もしかして出てもらえないオチなのかなと少しがっかりしはじめた頃に断続的に続いていた機械音が途切れ、かわりに俺の心臓がバクバクと激しい音を立てる。

「もしもし」

 耳に届く低めのトーン。少し声を抑えているようにも聞こえた。

「あ、あの、千紘さん?」

「おお、どうした?」

 口調は思っていたよりも優しくて、怒られる覚悟をしていた俺は逆に動揺してしまう。こんなに優しく喋る人だっただろうか。俺の求める気持ちが大きくなりすぎて、そんなふうに聞こえてしまうのだろうか。

「えっと、今、電話して大丈夫?」

「大丈夫だから出たんだろ」

 ふっと笑う息づかいが、本当に耳をくすぐるような気がして肩をすくめる。

「ちょうど今家に着いたところだ。ちょっと待て、中に入るから」

 黙った電話の向こうからガチャガチャと鍵を開ける音が小さく聞こえる。玄関の前だったらしい。だから声をひそめていたのだ。そのまま耳を傾けていると、ドアを閉める音、それから鍵を閉める音が聞こえた。千紘の家がどんなところで、部屋の中がどんな風になっているのか、俺は何一つ知らないけれど、音を追っていると脳内で妄想の映像が展開していく。

「悪い、何だった?」

 再び千紘の声が聞こえてくる。音が聞こえるわけではないけれど、多分靴を脱いで家に上がり、荷物をどこかに放り投げ、電話片手に器用に上着を脱いだりしているのだろう。そんなところを想像していると、なんだか電話と一緒に自分もそこにいるような錯覚を覚える。

「うん、べつに何か用があるって訳じゃなかったんだけど…」

「なんだ、明日の話かと思ったら違うのか。明日から来るんだろ?」

「あ、うん。明日でテスト終わりだから」

 仕事のことで何か伝えるべきことが発生したのかと思ったらしい。だから普通に電話を取ってくれたのだ。そうではないとわかったらどうなるだろう。冷たくあしらわれて切られてしまうだろうか。ほんの少しの沈黙にどきりとする。

 バタンと大きめの音が聞こえて、それからプシュッとよく耳にする音がした。これは、缶のプルタブを開ける音だ。

「…ビール?」

 返事のかわりにゴクゴクと喉の鳴る音が続き、ああっと大きく息を吐くのが聞こえた。

「仕事の後の一杯はうまいんだぞ。子供にはわかんねーだろうな」

 電話の向こうはすっかりリラックスモードのようだ。それは気を許した相手に対する態度のように思えて嬉しい。俺が勝手に同じ部屋にいるような気分になっているからそう感じるだけで、千紘にしてみれば一人きりの部屋なのだから関係ないのかもしれないけれど。何だか千紘の私生活を覗き見ているみたいでドキドキする。

「本当は風呂入って汗を流した後が一番いいんだけどな、まあ今日は諒の話を肴に一杯やるとしよう」

 思いがけず、千紘はしっかりと電話の相手をしてくれるつもりのようだ。すぐに切られるだろうという方向にしか考えていなかった俺は少し戸惑ってしまう。さて、何を話したらいいのだろう。声が聞きたいとそればかり考えていたけれど、特に話したいことがあるわけではないのだ。声が聞きたかっただけだなんてそんな恋人同士みたいな事を言えるわけがなく、俺は慌てて話題を探した。

「用がないなら電話するなって言われるかと思って、ほんとはちょっとビビってたんだよ」

「おまえ、俺を何だと思ってんの?」

「だって、前にそう言ってたじゃん」

「言ったか?ああ、まあ、言ったかもな。あれだ、毎日店で会ってんのに急用でもないのに電話すんなって話だ。今日は久しぶりだからいい」

「そっか、よかった」

 要するに千紘の気分次第ということなのだろう。今日は機嫌が良さそうでよかった。こんな風に穏やかに会話が出来るとは思っていなかった。決心した数分前の俺を褒めてやろう。

「勉強してたんだけどちょっと煮詰まっちゃって、ちっとも集中できないから気分転換をしたかったんだ」

「ふうん。ま、一週間も詰めてりゃそういう時もあるわな」

「かといって、勉強中の同級生に電話するわけにもいかないじゃん」

 我ながら良い言い訳が出来たと思った。これならば自然だろう。本当は学校の違う友達ぐらいいくらでもいるけれど、そういうことはこの際いいだろう。俺がどこの友達とどんな付き合いをしているかなんて千紘は知らないのだから。

 けれど千紘は電話の向こうでにやりと笑った。いや、電話なのだから顔は見えないのだが、間違いなくそんな顔をしているだろうと思うのだ。俺をからかう時のあの顔。

「なるほど、俺の美声が聞きたかったわけか」

「そんなこと一言も言ってないよ!明日からバイトだなーって考えてたら千紘さんのこと思い出したの。もう仕事も終わった頃だろうし暇だったらちょっとぐらい相手してくれるかなって思っただけだよ」

 うまい言い訳を出来たと思ったのに、すっかりばれている。必死で言い繕えば繕うほど、墓穴を掘っていることはわかるのだが、俺にはそうするしか出来なくて、悔しい。電話の向こうからは少し押し殺したような上機嫌な笑い声が聞こえてくる。どんな顔をして笑っているのか、容易に想像がつく。そうやって俺をからかって酒の肴にしているのだ。趣味が悪い。

「明日は何の教科だ?」

 俺が膨れっ面になっていることも千紘にはわかっているのだろう、宥めるように別の話題をふってくれる。本当に普通に雑談に付き合ってくれる気らしい。それが嬉しくて、俺の不満なんてすぐにどこかへ飛んでいってしまう。こんな単純だから、きっと千紘にとって俺の扱いなんて簡単なものなのだろう。

「古文と地学と世界史」

「記憶力勝負がほとんどだな。電話してる場合か?」

「そうなんだけど、だから集中できなくて困ってたんじゃん」

 ベッドの上でジタバタと足をばたつかせる。とにかく覚える、という教科にとって前日という時間はとても大切なのだ。それがわかっているからこその苦肉の策だったのだ。電話を終えれば残り時間は集中してひたすら記憶、という予定になっている。ここで集中力を取り戻せるかどうかは千紘にかかっている。千紘には迷惑な話だろうけれど。

「お前って勉強はできる方なのか?」

「学校の中じゃ真ん中よりちょっと上ってぐらいかな」

「お、わりと努力家なイメージだったんだけど、案外普通だな」

 千紘の店で働きはじめてもう結構な時間が経つけれど、俺の成績の話なんかはしたことがなかった。そんなことは千紘には興味がないだろうし、自慢できるほどの成績でもないのだから話題に上ることがないのだ。

「普通で悪かったね。ほんとはわりと出来る方なんだけど、英語が壊滅的すぎて平均したら普通になっちゃうんだよ」

「へえ、意外だな。コミュ力高いのに」

「コミュ力関係ある?」

「あるだろ、言葉なんだから」

「そう?」

「教科書とにらめっこばっかりしてるからダメなんだろ」

 その着眼点は意外だった。単語は覚えられないしスペルはわからないし何言ってるか聞き取れないし、とばかり思っていたが、確かに言葉なのだからコミュニケーション力というのは大事な要素なのかもしれない。けれど外国人とコミュニケーションをとろうとした経験がない。だからわからないのかも、と考えて、あれ、と思い至る。

「もしかして千紘さん英語喋れる人?」

 実際にコミュニケーション力が必要と感じたからこその感想なのだろうと思ったのだ。

「英語とフランス語を少々。修行ってほどでもないけど、ケーキを学ぶためにいろんなところに行ったしな」

「うえっ!?なにそのハイスペック」

 あの口から英語やフランス語が出てくるところを想像したが、想像力が追いつかない。賢い人なんだろうなというのを感じることはいろんな面であるけれど、そんな語学力まで持ち合わせていたとは想定外というか、なんかちょっとムカつく。

「お前が思うほどいいかげんに生きてないんだぞ」

 言いながらげふっとビールのげっぷをしているのを聞いて、何ともやるせない気持ちになる。

(俺、もっと真面目に勉強しよう)

 結果が出ないといろいろと報われない気がする。中途半端な人間が一番損をするのだ。

「ねえ、俺がいない間の店ってどんな風?」

「なんだ、おまえ、白々しく話題変えんな。信じてねえな?」

「そんなことないよ。悔しいから俺もちゃんと勉強しようって心に誓ったところだよ。で、どんな風なの?」

 千紘は小さく舌打ちをして、そしてビールをゴクゴクと飲み干した。飲み干したとわかるのは二本目が開く音がしたからだ。一気に飲みすぎなのではないだろうかと少し心配になるけれど、別段酔った様子は感じない。



「そうだなあ、諒がいねえと平和だな」

「なにそれ、どういうこと?」

「なんつうか、空気が落ち着いてる感じがするな。おまえんとこの学校のやつらが来ないから客が少ないってのもあるけど、七生のファンと諒のファンって微妙に色が違うんだよ」

「色?」

「おまえんとこは派手な黄色、七生んとこは赤に近いピンクって感じだな。普段は混ざってっからオレンジだ」

「…よくわかんない」

 パティシエというのはある種芸術家の域なのかもしれない。そういう抽象的な表現は俺にはよくわからない。なんとなくわからないでもないけれど、なんとなくしかわからない。

「なんかもっとこう、俺がいないと寂しいとか、そういうのないの?」

「ん?寂しいよ、おまえいないと」

 急に声のトーンを落としてそんなことを言うから心臓がバクンと跳ね上がる。だが上擦った気持ちは続く言葉であえなく叩き落とされる。

「売り上げがな」

「金かよ!」

 わざとだ。絶対わざとだ。だからあんな妙に芝居がかったような言い方をしたのだ。

「金だろう。おまえ、自分にどんだけの価値があるかわかってないだろう。お前につられてくる来客数、相当なもんだからな?」

「千紘さんこそもっと俺の価値をわかった方がいいんじゃないの?」

 商売道具としてではなく、人として。どれだけ千紘を思っているか、とか。こんなに意地悪されても尚千紘を好きだと一途に思う人間はそうはいないと思うのだ。

「なんだよ、俺はちゃんとお前を評価してるぞ」

 その方向性が違うのだと俺は言いたかったのだが、千紘にはわからないらしい。金勘定で語られたって嬉しくない。

「じゃあさ、諒。明日学校終わったらそのまま来いよ。午前で終わりなんだろ?」

「うん、そうだけど」

 テスト終わりでバイトに出る時はいつも一旦家に帰って昼ご飯を食べた後、普段学校が終わるぐらいの時間帯に出るようになっていた。ケーキ屋が忙しくなるのはやはりおやつの時間帯からなのだ。早い時間の接客は晋平一人で事足りる。一度帰るのは面倒だと言ったが却下された過去がある。暇な時間帯にバイトを入れるとバイト代が無駄になると、そういう部分は徹底している人なのだ。一体どんな風の吹き回しだろうか。

「俺が昼飯を作ってやる」

「えっ、千紘さんの手料理?やった!行く行く~」

 先程の会話を評価が足りないと受け取ったのだろうか。その埋め合わせを昼ご飯で誤摩化そうということか。

 俺の思っていた方向性とはやっぱり違っているのだけれど、それでも千紘の手料理というのは魅力的で、俺は諸手を上げて乗っかってしまう。ずるい、自分の価値をあの人はわかりすぎている。カードの切り方を心得ている。

「よし、じゃあしっかり宣伝して客引き連れてこいよ。テスト終わりの女子高生ゲットだな。ごはんにもなるようなやつを特別メニューで作っておく」

「うわ、出た、金の亡者」

 転んでもただで起きないというのはこういうことを言うのだろう。俺に飯を作る、早い時間からバイト代を出す、というのと引き換えに、テスト終わりの女子高生たちのお昼ごはんという商売を手に入れたのだ。よく瞬時にそんなことを考えつくものだと感心する。

「よし、じゃあ俺は今から何を作るか考えて仕入れの手配をする。お前はしっかり勉強しとけ」

「あ、うん」

 やることが出来た途端に素っ気なく電話を切ろうとするのだから、その徹底ぶりにはもう笑うしかない。こういう人だからこそ惹かれてしまうのだからしょうがないけれど。

「じゃあ千紘さん、また明日」

 名残を惜しむ暇もなく切られた電話をベッド脇に置き、俺は大きく息を吐いた。想像の中の千紘の部屋へトリップしていた俺は現実に引き戻される。目の前にはいつもの天井があって、背中の下にはいつもの布団。勉強机の上には教科書が広げられたままだ。

(ああ、楽しかった)

 無意識に顔がにやつく。あんな他愛もない話をしているだけで、こんなにもドキドキしてこんなにも幸せになる。散々心を揺さぶられて、今はとても落ち着いている。

(千紘さんてすごいな)

 すごいのは千紘なのか、それとも人の持つ恋心というメカニズムの成せる業なのか。

 何にせよとてもすっきりした気持ちで俺は再び机に向かった。そこからの集中力は自分でも驚くほどだった。2時間が一瞬に感じ、けれど中身は4時間分ぐらい濃密だった。



 明日、テストが終われば千紘さんに会える。



<終>

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