ずるい大人
カチャカチャと食器が触れ合う小さな音と流れる水音、そして時折移動する自分の足音。聞こえるものはその程度で、動くものも自分だけ、そんな閉鎖的な時間がわりと好きだ。窓の外は闇に包まれ、己の他には何の存在もなく、ただ店の片付けに没頭し大切な商売道具たちの手入れをするこの時間は、忙しない一日が終わった後の精神的癒しであり、そして明日へとリセットをかける大事なプロセスでもある。閉店後の店内でただひとりになる時間は、物理的なこと以上に俺の心の中で一日の仕事を終えるために欠かせず、よほどのことがない限り誰かと肩を並べて店を後にすることはない。
そんな心穏やかに落ち着くその時間を経ても尚、今日の俺の胸の中はざわざわと騒ぎ立て、いつまでたっても癒されることがなかった。胸の真ん中奥深くがくすぐったくなるような感覚と、背筋が凍り付き全身が粟立つような感覚、そして怒りにも似た熱さが胃の裏の当たりにこみ上げるような感覚、そんなあれやこれやが代わる代わる襲いかかり、落ち着く暇がない。
己の中身を己で制御できない状態など久しぶりのことだった。年齢を重ねるにつれ人は丸くなるというが、それは感情の起伏が緩やかになるからだと思う。経験則からいろんな物事に動じなくなる。周りの状況も自分の感情も、見知らぬものが少なくなるから難なく対処できるし制御だって出来る。けれどいくら大人になろうとも、どうにもならない衝動がなくなるわけではないのだ。三十路に入ろうとも、全てを悟るにはまだまだ足りない。自分が思う程大人にはなりきれていない現実を突きつけられる。
若い頃によく感じた苛立ちのようなものを抱えたまま、フロアのテーブルの上にはずした前掛けを投げつけ、長椅子になっている客席に身を投げる。
「くっそ、これやべえな…」
電気を落としたフロアは、厨房から漏れる光でうっすらと照らされ、思い悩みむには格好の仄暗さになっている。遠くから流れてくる微かな光が現実の遠さを象徴しているようで、まるで自分が己の深層世界に潜り込んでいるような錯覚を起こさせる。
少しは己と向き合わなければいけないと痛感していた。いつまでも逃げているからこんなことになってしまったのかもしれない。行動の向こうに必要な認識が足りていなかったのだ。少なからず自覚はあったはずなのに。
両手で顔を覆うと、さらに感覚が閉塞される。己を省みる。
自分の掌が唇に触れる感触で蘇るのは数時間前に交わした軽いキス。あんなものキスとも言えないぐらいの、ただ触れるだけの行為だ。なのにゾクリと体の芯が疼く。
諒太郎にキスをしたのはこれが初めてではないし、七生への怒りからつい軽い気持ちでしてしまったのだが、以前とはその感覚が全然違っていた。前の時はしこたま酔っぱらっていたから、とかそんな理由ではなく、諒太郎に対する思いがあの頃とは違っているのだ。疼くのは明らかな性欲。これ以上はお子様には無理だなんて諒太郎のためのように言ったけれど、本当は自制心に自信がなくなったからだ。歯止めが利かなくなる前に一線を引いたのだ。
最近、忙しさにかまけて誰とも体を重ねていないからかとも思ったが、問題はもっと根本的な部分にある。自分的にはもっと、弟のような息子のような、身内に近い感覚でいるつもりでいたのだ。諒太郎が自分に恋愛感情を抱いていることはわかっていたし、そう思われることに悪い気はしていなかったものの、性的対象であるという感覚には乏しかった。少年趣味はなかったし、仕事の邪魔になるものの一切を排除することに関しては絶対的な自信があった。そもそも、恋心などというものに左右される性生活を送っておらず、性欲など理性をもって効率よく御せるものだったのだ。自分の反応に一番驚いているのは自分だ。
(とりあえずだれかとやっとくか…?)
これ以上おかしな衝動に駆られないようにと、携帯を手に取り相手を思い浮かべながら自分の気分と照らし合わせる。特定の相手なんて必要ない。気分に合わせてチョイスすればいいだけだ。自分はこういう人間だっただろうと思い返しながら胸に刻む。惚れたはれたなんて面倒なことはいらない。互いに心地良ければそれでいい。電話一本で今夜の相手なんていくらでも見つかる。
そう考えている最中にも、気付けば想像の中の相手がいつのまにか諒太郎にすり替わり、そんなことを考えている自分にぞっとした。
自分が怖い。
恋心ではなく諒太郎を大切に思う気持ちだって真実なのだ。
(俺の手で諒太郎を穢したくない)
ただの想像でさえ、忌まわしい。それぐらい大切に思う。だからこれはきっと家族に近い気持ちなのだと思っていたのだ。
なのに欲望は確実に己の内にある。その矛盾した思いがじりじりと俺の胸を焼く。
(諒太郎はダメだ)
自らに言い聞かせる。大切に可愛がろうと決めたのだ。諒太郎の親からも頼まれている。あんな純粋な子どもを引き込みたくないし、プライベートな原因で仕事に問題が起きても困る。だから俺は諒太郎の思いに気付かぬ振りでここまでやってきたのだ。
様々な理由が俺を縛る。自らが率先して戒める。そうしないとあっという間にさらわれてしまいそうだ。
「俺はあんなお子様に色気を感じたりなんかしねえ」
口に出して決心を胸に刻むけれど、それは逆効果だったかもしれない。
仕事モードで束ねてあった髪を解き、ぐしゃぐしゃとかき回す。完全に今、男の顔をしていることが自分でわかる。飢えた目をしているだろう。
この場に諒太郎がいなくてよかった。きっと、怖がらせてしまう。
「明日っから俺平気かなあ」
弱音がこぼれるが、きっといつも通りの振りはできる。自分を偽ることぐらい難なくこなす自信はある。ましてや仕事の最中であれば尚のことだ。
ただ、自覚してしまったという事実は大きい。知らなかった時のようにはいかない。蓄積されるであろう我慢の数々が何かの拍子に爆発してしまわぬよう、それだけは気をつけなければいけない。それをすればきっと諒太郎を傷つけてしまう。そんな自分にだけは決してなりたくない。
(俺は、俺のエゴのために我慢するんだ。それがあいつの望まないことだとしても)
最初からずっと、ずるい大人だ。貫き通せばいい。
ただ、それだけ。
自分の気持ちがどう変わろうと、諒太郎と築くのは店長とバイトという関係それ以上でも以下でもない。我が店の大事な戦力を大切に可愛がっていくだけだ。
心を決め、胸のもやもやを強引に奥深くに押し込めた。
立ち上がって先程投げ捨てた前掛けを回収する。
明かりのついたままのスタッフルームに戻り、着替える。もやもやする思いは消えたわけではないが、チクチクした不快さは伴わなくなった。そうしていくうちに今日の衝動もだんだん忘れていくだろう。
店を出る前に再び携帯の電話帳を繰り、逡巡する。けれど結局通話ボタンを押すことなくポケットにねじ込んだ。
「今日は真っ直ぐ帰るか」
今頃諒太郎は唇の感触を思い出してジタバタしているんだろうなという簡単な想像をしながら帰路につく。思い悩んでいたことなんてどこかに飛んでしまって、自然と口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
あの純粋さがたまらない。大人になどならず、ずっとあのままでいてくれないだろうかと願うのは、まるで幼い子を持つ親のようだ。
(これでいいじゃないか)
余計なものは、出てこないようにしっかりと胸の内に鍵をかけておけばいい。
劣情など、諒太郎の前には晒さない。
<終>
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