上書き
女の人というのは、たいがい可愛いものが好きだ。男の俺でも可愛いものはまあ可愛いと思う。だが女の人は可愛くないものも可愛いと思うらしい。そこらへんの思考が男の俺にはいまいち理解できない。男を女装させたり、男同士でいちゃいちゃさせたり、そんなことがわりと大多数に受けるのだから不思議だ。決して男らしいといえる外見ではない俺は、往々にしてそんな彼女らの恰好の餌食となる。
七生が店にきてから、ここの客層はだいぶ変化したと思う。その大半が若い女性であることに変わりはなかったが、俺と七生のタイプがずいぶんかけ離れているため、それを好む人のタイプもずいぶん違うのだ。それから、俺と七生をセットで愛でる人たちというのもこのところ増えている気がする。俺たちが仲良くしているのを見てキャーキャー言う、そんな楽しみ方もあるらしい。これに関して俺自身はさほど乗り気ではないのだが、元々俺を気に入ってこの店に入ったらしい七生はノリノリで俺に絡んできては彼女らを喜ばせている。俺が嫌がる感じもそれはそれで受けるらしく、正直全く理解はできないけれどそれで客が楽しめるならばそれはそれでいいのだと思ってはいる。
けれど最近、徐々にそれがエスカレートしている気がして少し困っている。何というか、七生がエロさむき出しで、時々冗談に思えないことがあるのだ。そういうところも七生の売りだと言ってしまえば確かにそうなのだが、通常の友情を築きたい俺としては俺に向けてフェロモンを発して欲しくはないのが正直な気持ちだ。必要以上に距離が近いのも触れられる回数が多いのも、好きな相手ならば嬉しいけれどそうでない相手からは少なからず不快を感じてしまうものだ。
しかし、なんとかならないものかと思いながらも、客受けはいいし、俺も男なので好きな相手にそうしたい七生の気持ちもわからなくもなく、なしくずしに容認してしまう方向で進んでいた。
そんな俺の態度がよくなかったのだ。嫌なことは嫌と、きちんと言っておくべきだった。
と、今更後悔したってどうにもならないけど。
七生が帰ったあとのスタッフルームで俺はパイプ椅子の上に膝を抱えて座り、額を膝に乗っけて落ち込んでいた。
いちゃいちゃパフォーマンスの度が過ぎて、客前で七生にキスされてしまったのだ。すぐに晋平が七生を引きはがしてくれて冗談ということで納まったのだが、俺の中では大ショックだった。七生がいるうちはそのまま冗談ということで笑い飛ばしておかないと逆に大変なことになってしまいそうな気がして平気な顔をしていたが、本当はちっとも平気なんかではなかった。
七生の方は年下だけれど経験も豊富そうだし、キスなんてたいしたことではないのかもしれない。けど俺は、これまで誰かと付き合ったことはないし、キスなんて、以前酔っぱらった千紘に寝ぼけてされた事故のような一回のみで、あれはノーカウントかな?初めてはちゃんと…なんて乙女チックなことを思っていたぐらいなのだ。ダメージは思ったより大きい。
前回は事故でも相手が千紘だったからいい。むしろときめいてしまって困ったぐらいだ。相手に好意がない場合、こんなにも嫌なものなのだと今日初めて知った。男とキスなんて冗談じゃないと思う。この場合、もしかしたら相手が女性でも同じなのかもしれないが、やはり男として男に奪われるというのは屈辱感が半端じゃない。好きという感情がなければありえない。
気持ち悪さと情けなさと後悔と憤りと、いろんな感情がごちゃまぜになって立ち上がれそうにない。
ドアが開く音がしたが、俺は膝に顔をうずめたまま動かなかった。七生でないなら別にいい。格好悪くたって千紘や晋平に対してはそんなの今更なのだ。とはいえ、できれば俺に構わず通り過ぎて欲しいと気配を殺していたのだけれど。
「おわっ」
驚く声は千紘だった。
「何してんの、お前。もう帰ったと思ったのに、びっくりするだろう」
それでも顔を上げない俺に、千紘が歩み寄ってくるのがわかる。放っておいて欲しい、けれど構って欲しい、矛盾する気持ちが胸の中でせめぎあう。
「何?落ち込んでんの?」
身を屈めて俺の顔を覗こうとする千紘の視線から逃れるように顔を背ける。
「もしかして、七生にキスされたってあれ?さっき晋平から聞いたぞ」
わかっていて千紘はぐりぐりと俺の傷口をこじ開けようとする。
「別に初めてでもないんだろ?」
断定的に言われてドキリとする。思い起こすのは俺の正真正銘初めてのキス。未だにはっきり覚えているその感触が蘇り、頬が熱を持つ。千紘はしこたま酔っぱらっていて何も覚えていないようだったのだが、もしかして本当は覚えていたのだろうかとそんな都合のいいことを思ってしまう。
「心配すんな、お前の親父がぶっちゅぶちゅお前のファーストキスなんてとっくに奪いまくってるさ」
色気たっぷりだった妄想が、すっと現実にかえっていく。俺を溺愛する父は、確かにやったに違いない。ひょっとすると幼い頃の話だけでなく、今でも寝ている間にしているかもしれない。それほどの愛を日々感じている。
「千紘さんのバカっ。そういうのは普通数に入れないんだよ。気持ち悪いこと想像させんな」
自分の想像が怖くなって思わず顔を上げて怒鳴ると、千紘はしてやったりな顔で薄く笑った。
「さすがに泣いてはいなかったか」
俺がもう一度俯かないように、千紘は俺の顎を捕らえる。
「なんで俺が七生に泣かされなきゃいけないんだよ」
泣かされるのは千紘だけでいい。千紘だからこらえきれないほど心を揺さぶられるのだ。普段から泣き虫なわけじゃない。
「落ち込んでんのは俺の後悔なの。もっとちゃんと拒絶しとけば良かったって反省してたの」
「あいつにキスされるのは嫌か?」
「嫌に決まってんだろ、気持ち悪い。そういうのは好きな人じゃないとやだ」
「純情少年だね」
馬鹿にされたのかと思ったが、千紘の顔はわりと真剣だった。その表情を確認してはっと気がつく。顔が、とても近い。俺の顔を上げさせようとする一連の流れから成るこの構図だが、まるでキスする直前みたいな距離だ。そんなことを意識してしまったら急に動悸が激しくなり、どんなふうに呼吸していたのかもわからないぐらいになる。
目に見えてあっぷあっぷしだした俺に気付かないわけはないだろうが、千紘は何も気にする様子もなく、体勢を変えようともしなかった。
「そんなに嫌ならあいつ辞めさすか?」
「い、いいよ、そんなことしなくて。そんな気もないくせに」
優しい言葉に流されてはいけないと俺の理性が警鐘を鳴らす。七生効果で売り上げが上がっているのだ、金儲けの鬼の千紘がそんなことで七生を手放すわけがない。そこら辺の千紘の思考は歪みなくて俺にだってわかる。
「そうか。なら、うまいこと躱すか、いちいちショックを受けないことだな。俺も注意するけど営業中のフロアのことはほとんどわかんねえし」
「わかってるよ」
そんなことは言われずともわかっていると不満げに返事をした瞬間、唇を塞がれた。
「……!」
何が起こったのか、頭の中が大パニックを起こす。至近距離にあった千紘の顔は何の前触れもなく零距離まで近づいて唇を重ねたのだ。
柔らかな感触を伴った熱い唇は一瞬で離れ、何事もなかったみたいに先程までの距離に戻る。
呆然とする俺の目の前で千紘の顔はいたずらっ子みたいな笑みを浮かべると、
「記憶の上書き」
内緒話をするみたいにこっそりと囁いた。
捕らえていた俺の顎を放し、屈めていた腰を伸ばした千紘は、俺の頭にポンと掌を乗せると背を向けた。
「早く帰れよ。もう遅いんだから」
去ろうとする千紘の白い服を、俺は咄嗟にぎゅっと握って引き止める。きっと、度重なるパニックに脳みそがおかしくなってしまっていたのだろう。
「もっと、して」
上書きだったら、もっと、ちゃんと。
「だって、七生の奴、舌入れやがった」
そんな触れるだけのキスでは足りない。他人の舌が触れるあの背筋がぞっとするような感覚が消えない。
「マジか、あのくそガキ…ほんとにクビにするか」
怒りを含んだ声で吐き捨てる千紘を見上げる。その苦々しい表情を見たら不思議と心が満たされた。なぜだろう、急に七生のしたことがどうでもいいことのように思えてきた。千紘がその行為を心底嫌だと思ってくれたことで、救われる気がしたのだ。
「お前な、俺を誘うなんて10年早いんだよ」
降ってきたのはキスではなく、デコピンだった。
「いったー」
しかもかなりマジなやつで、俺は額を押さえてのたうった。
「さすがに俺がそれやったらまずいだろう」
千紘も同じように額に手を当てて、独り言なのか俺に向かって言ったのかわからないような調子で呟く。
「なんで?」
「そりゃおまえ、あれだ、お前の腰が立たなくなる」
「ど、どんなだよ」
「大人になったら試してやるよ。お子様にはまだ早いね」
言いながらすっと目を細めた千紘は普段とは別人みたいな色気をまとい、獲物を狙う肉食動物みたいな獰猛さを浮かべていた。それはほんの一瞬であったが、俺を黙らせるには十分だった。全身が粟立つような感覚が走り、身が竦む。怖い、けれどどうしようもなく惹かれる。
きっと、恋愛モード全開になった千紘はこうなのだ。俺に対してどれだけそういう感情がないのかが身に染みる。完全に子ども扱いで対象外なのだと絶望する。実際子どもなのだから仕方がないけれど、少し近づいたと思ったら千紘はいつもそうやって子どもだからと俺を放り出す。それを言われたら俺に返す言葉があるわけがなく、ずるい。
大人になったならチャンスはあるのだろうかと期待しながらも、永遠に追いつかないこの年の差に苛立つ。千紘の言う大人とはいつなのだろう。18才?20才?それとも社会人になった時?結局いくつになっても俺から見たらまだまだお子様だとか言われそうな気がする。一体いつになれば千紘の恋愛対象になれるのだろう。あるいは問題は年齢ではないのだろうか。
(わりと好かれてる方だと思うんだけどなあ)
少なくとも、キスができるぐらいには。
千紘のことだから、俺とは違ってキスなんて好きじゃなくてもできるのかもしれない。それでも、嫌いな人にはしないと思うので、どこかにボーダーラインはあるだろう。単純に好きか嫌いかで分ければ好きな部類には入っていると思うのだ。
いつか、本気であの顔をさせてみたい。あんなふうに、俺を求めて欲しい。それを怖いと思わなくなるぐらい、大人になりたい。
「くっそ、覚えてろよ!」
意味の分からない啖呵を切って俺は勢い良くパイプ椅子から飛び降りた。衝撃で半ば折り畳まれてしまった椅子が大きな音をたてて倒れる。
「おまえ、暴れんな」
掌で耳を塞いだ千紘は顔をしかめて俺を叱る。
こんなだからいつまでも子ども扱いなのだと反省してももう遅いか。
おとなしく倒れた椅子を引き起こし、元通りになおしながら、次第に冷静になる頭でふと気がついた。
(あれ?)
そういえば、と、一連の流れを反芻する。
(俺、好きな人じゃないとやだって言ったのにキスされた…ってことは、俺が千紘さんのこと好きだって認識されてるってことだよな)
そんなこと、きっと常日頃の俺の行動でバレバレだろうとは思っていたけれど、あらためてはっきりとした証拠を突きつけられた感じだ。
(しかもそれで俺が嫌がらないってことはもう告白したも同然なんじゃないか?)
今更と言えば今更なのだが、それこそこちらもはっきりとした証拠を提出したようなものだ。
「うっわ」
頭を抱え、そして逃げるように急いで帰り支度をしてお疲れさまでしたと店を出る。そんな俺を見て千紘がどんな顔をしていたかなんて確認している余裕はなかったから知らない。ただ、千紘のひとつひとつに一喜一憂する俺の様を見て可笑しそうに笑っている姿は容易に想像がついた。
「やばい。なんかもういろいろやばい」
いろんなことがありすぎて動転する。
(千紘さんと、キス、しちゃったし)
以前のものとは違う、ちゃんとお互い認識した上でのキスだ。状況は特殊で、愛情からのキスとは違うけれど。
蘇る感覚に心臓が破裂しそうだった。
記憶の上書きとはよく言ったもので、今や七生の唇の感覚なんて欠片も残っていない。
俺の中はいつだって千紘でいっぱいだ。
余分なものはひとつもない。
いいことも嫌なことも全部、千紘で満たされる。
それが幸せだ。
<終>
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