進路調査

 定休日の午後、俺はいつものように千紘が一人で事務仕事をする店内にいた。奥の方で電卓を叩く千紘からは少し離れた窓際の席で、だらしなく背もたれに身を預けてひなたぼっこをしながら小さなプリントを眺めてぼんやりする。いくつかの進路希望を書き込み学校に提出するためのその用紙には、無難な大学名が既に記入されているが、正直な話、特に行きたいわけでもなければ、行って何をする目標があるわけでもない。ただ、提出するために自分の学力で行けそうなところを書いてみただけだ。

 将来の夢と言われても、何も思いつかない。どんな仕事をしたいとか、こんなことが得意だとか、これまでほとんど考えたことがなかった。ただ漫然と日々楽しく生きているだけだ。自分に何の才能があるのかなんて、自分で見つけられるものなのだろうか。

「どうした、諒。盛大なため息だな」

 いつもとは違う俺に気がついたのか、千紘が怪訝そうな顔でこちらを窺っていた。

「俺だって悩むことぐらいあるの」

 基本的に前向きな態度で生きるようにしているけれど、そうでない時だってある。普段の悩みの種である恋愛ごとに関しては目の前に張本人がいることもあり強がりやらプライドやらで乗り越えているが、今回はそうではない。むしろ人生の先輩に甘えたい気分でいっぱいなのだ。

「なんだ、青春してんなあ」

 千紘は眩しいものでも見るように目を眇める。

「どれ、ひとつおじさんが相談に乗ってやろうかね」

 仕事は一段落したのか、帳面を閉じると俺の目の前の席に移動してくる。偉そうな態度でどっかり座ったその顔は、からかってやる気満々の表情をしていたが、真面目に相談すればちゃんと真面目に返してくれる人だと知っている。人一倍意地悪だけど人一倍優しい人だ。

「千紘さんはさ、どうしてパティシエになろうと思ったの?」

「なんだ、進路調査か」

 千紘は俺の持つプリントをチラ見して懐かしいなあと呟いた。

「あれは中学の時だな」

 腕組みをし、窓の外遠くに視線を漂わせた千紘は記憶を呼び起こしながら柔らかい表情をする。あまり見たことのないその顔を見て、中学生の千紘はどんなだっただろうかと想像を膨らませる。

「うちの学校は男女の別なく家庭科があったんだけど、調理実習でカップケーキを作らされたことがあったんだ。その時の出来映えがあまりにも天才的でな、俺はこれだなと思ったわけだ。まあ今思えばなんてことはない普通のカップケーキだったんだけどな」

「それだけ?」

「それだけだな。だいたいそんなもんだろ。ご大層な夢抱えて職に就く人間なんてそんなにいねえよ。晋平なんか聞いてみろよ、俺に誘われたからってそれだけだぞ、多分」

 きっかけなんて多分些細なことでいいのだ。偶然出会うそれを掴み取ることで、それは運命と名を変える。後に運命となりうるそれを掴み取れるか、気付かず過ぎてしまうか、そこがきっと人生の分かれ目に違いない。簡単なようでいてそれはとても難しい。選びとる時点では誰にも正解がわからないのだから。

 俺にもそのうちひょっこり掴み取れるものがあるのだろうか。あるいはもう気付かないうちに既に掴み損ねてしまっているのかもしれない。

「まあ、人の言うこと聞けないから自営しかないかなっつーのは昔から思ってたから、そん時はこれしかないっつって閃いちまったな。ガキの浅知恵なわけだが、こうなってみると俺の勘もあながち間違ってはいなかったな」

 中学の頃にもうそれを掴んでいた千紘が、今更ながらとてもすごい人のような気がしてきた。きっとそれからたくさん努力をして腕を磨いてきたのだろう。

 完成形の千紘しか知らない俺はこれまで考えたことがなかったが、ここに至るまでの千紘の人生を想像してみると急に親近感が湧くというか、大人と子供という越えられないと思っていた壁が思うほど高くないのではないかと思えてきた。別世界と思っていたものがちゃんと階段で繋がっていることを視認できた気分だった。

「俺は何が得意なのかな。今まで俺これ出来る!って思ったことないよ?」

「その辺は俺とお前の性格の違いもあるだろうよ。今何も見つけられないなら大学行ってから考えたっていいんじゃねえの?」

 なんとなく書いただけの大学名を指で弾かれる。

「父さんにもそう言われたんだけど、途中で見つけたものが全然違うとこだったら無駄になっちゃうかなって思うとさ」

 うちはそこそこ裕福な家庭だと思うが、それでもはした金とは言えないそれをどぶに捨ててしまうのはどうかと思う。普段は滅多に気にしないけれど、こんな時はやっぱり血のつながった親子でもないのにと思ってしまうところもある。あの人たちの自分への溺愛ぶりを見ると、早く自立した方がいいとかそんなことは微塵も思わないけれど、かといって人並以上の苦労はかけたくない。もう少し未来を見据えた上で選択するべきと思うのだが、思えば思うほど未来は見えなくなる。

「回り道が無駄になるかどうかはお前次第だろ。実際余分に金がかかるのは事実だろうが親父さんがいいって言うなら甘えとけ。子供は大人の顔色なんて窺わなくていいんだよ。窺われると正直腹が立つな。他人の俺でもそう思うんだから、お前んとこが実の親じゃないとか関係ないぞ。逃げ道にそれ使われると親は絶対辛い」

 俺の考えていることなんて全部お見通しみたいで、何も言っていないのにそう釘を刺される。

「千紘さん、子供いないじゃん」

 遠慮ない正論が居たたまれなくて、俺はつい憎まれ口を叩く。別に、親でもないくせになんて言葉通りに思っているわけではないけれど、なんとなく素直にわかりましたとは言えなかった。見透かされている感が悔しかったのだ。そんな俺を鼻で笑った千紘は不意にぐっと顔を近づけて真剣な目でじっと俺を見つめた。

「俺に子供がいないなんて誰が言った?」

「えっ…」

 俺は言葉を失う。瞬時にしていろんな想像が脳内を巡る。いないと言い切れるほど俺は千紘のことを知っているだろうか。一人暮らしだということは知っているが、過去のことはわからないし、離婚して妻子とは一緒にいないだけの可能性もないとは言い切れない。あるいは未婚であろうと過去に過ちがなかったとも言い切れない。俺が知っているのは俺が出会ってからのほんの一年足らずの千紘だけで、しかもプライベートにはなかなか踏み込ませないこの人の秘密なんてひとつだって暴けてはいない。俺の人生の倍を生きているのだから、俺には想像も及ばない出来事がいくつあったっておかしくないのだ。

 一瞬のうちにそこまで深く考えた俺の心の内はいつものようにすっかりと顔に出てしまっていただろうか。直後、千紘はブフッと吹き出して俺のことを指差し、腹を抱えて笑う。

「嘘に決まってんだろ。俺がゲイだって知ってんだろ?どんだけやっても男はガキを産まねえよ。お前ほんとそのうち誰かに騙されて泣くことになるんじゃないか?」

「今まさに泣かされてるよ、もう」

 真面目な話をしていると思っていたのにこのタイミングで冗談を挟むなんてと唖然とする。深刻にあそこまで考えた自分が馬鹿らしくて泣ける。きっと憎まれ口を叩いた俺への仕返しなのだろう。

「ひどいや、俺は真剣だったのに」

 けれどおかげで肩の力が抜け、追いつめられていた心が少し軽くなったような気がした。

「千紘さんはいつから男の人が好きなの?」

「あー、そうだなあ、それこそさっきの話よりも前からかな」

「そんなに?じゃあ子供はいないね」

「俺も養子もらおっかな。お前みたいな可愛いチビッコ育ててみるのも面白いかも」

「俺は千紘さんみたいなお父さんは嫌だよ」

 机の下でえいっと千紘の足を蹴ってやった。

「いてっ、なんだよ」

 俺は素知らぬ顔で空を見上げ、太陽にかざすみたいに小さなプリントを眺めた。

「どうしよっかなー」

 答えは無理矢理ひねり出すものではないとわかったけれど、かといってこれでいいものなのか。目標もなく進学して何か意味があるのだろうか。それはわからないままだ。

「もういっそのこと千紘さんに雇ってもらおうかな」

 ほんの冗談の口調でなんとなしに言ってみる。半分は本当に冗談で、でも半分は本気。俺がしたいことと言って今一番に思いつくのはここでの仕事なのだ。バイトとは別次元の問題だとわかってはいるけれど、ずっと千紘といられたらとそう思う。

「それはダメだ」

 けれどそれは思わぬ強い口調で打ち砕かれた。冗談で返してくれると思っていただけにそれは強い痛みを伴って俺の胸の中深くに突き刺さる。

「そういう逃げ道は持たない方がいい。第一うちは正社員二人も抱えられるほど儲かってねえよ」

 ピンと額を指で弾かれ、これで話は終わりとばかりに立ち上がる千紘を目で追いながら、涙目になっている自分に気がついて下を向いた。別に傷ついてなんていないふりをして、プリントを鞄の中にしまう。

「今日はもうお仕事終わり?帰る?」

 そのまま鞄を手に千紘の後を追うように立ち上がると、振り向いた千紘に鞄を奪われた。俺の鞄はそのままポイと近場の椅子に放り投げられる。

「ちょ…」

「お悩み相談してやったんだ、茶ぐらい付き合え」

 それはとても嬉しい申し出だったが、ここにとどまったらそのまま泣いてしまいそうな気がした。我慢しているのにこういう時に限って引き止めないで欲しい。

「俺帰る」

「帰るな。帰り道でビービー泣かれても困る」

 違う、こういう時だからこそ引き止めるのだ。ずるい。全部わかっていてそうするのだ。

「泣かないよ」

「泣かないなら座っとけ」

「さっきと言ってること違う」

「違わない。座れ」

 何を言ったって俺が千紘に勝てるわけがなかった。俺はおとなしくさっきまでいた席に座り、机の上の両腕に顔をうずめた。

「千紘さんのバカ。いじわる」

 満足げに厨房へ向かう足音を聞きながら、こっそり悪態をつく。

「くっそ、絶対泣かないし」

 鼻の奥の方にツンとこみ上げるものを必死でなだめすかした俺は、お茶の用意ができるまでのわずかな時間でなんとか無事に平静を取り戻すのに成功した。

 想像もつかない将来のことよりも、千紘の一挙一動に振り回される目の前の毎日に俺は必死なのだ。



<終>

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