臨時休業

 昼休み、いつものようにいつもの仲間たちと弁当片手にくだらない会話で盛り上がっていると、ポケットに突っ込んであったスマホがぶるぶると震えて着信を知らせた。話の途中だったのでどうせメールだろうと放置していたのだが、バイブレーションはいつまでも止まらずそれが電話であると気付く。

「電話なんて珍しいな」

 学校だとわかっている時間に電話をかけてくる相手なんてまずいない。何か緊急の連絡だろうかと少し緊張しながらディスプレイを見ると、そこに並んでいたのは見知らぬ番号だった。間違い電話だろうかとも思ったけれど、出てみることにする。

「もしもし」

「あ、諒ちゃん?ごめんね、今平気?」

「晋平さん?」

 聞こえてきたのは聞き慣れた晋平の声だった。店からではなく晋平個人の携帯からかけているらしい。無視しなくて良かった。

「この時間なら昼休みかなと思ってかけたんだけど大丈夫かな」

「うん、平気。ごはん食べてた」

「あのね、急で悪いんだけど、今日お店臨時休業にしたから、バイトもなしにしてもらっていいかな」

 電話の向こうの晋平はいつも通り少しおっとりしたような優しい口調だったけれど、漂う雰囲気がどことなくテンパっているようなそんな感じがした。

「何かあったの?」

 考えてみれば、この手の連絡を店長の千紘ではなく晋平がしてくるというのもおかしい気がして不安がよぎる。何か良くないことでも起こったのだろうか。

 そんな俺の不安が伝わってしまったのか、晋平は「いやいや、別にたいしたことじゃないんだよ」と電話口で俺を安心させるように小さく笑った。

「店長が体調不良なだけでね。うちはほら、ケーキ焼けるのあの人だけだから、あの人が倒れちゃうとお店が成り立たないんだよ。病気なんて滅多にしないんだけどね」

「千紘さんが病気!?お店休んでまで寝込むって相当酷いんじゃないの?大丈夫なの?」

 晋平はたいしたことじゃないと言うけれど、俺にしてみれば千紘が病気で倒れるなんて相当な大事件だ。どんな些細なことだったとしても、好きな人が苦しむのは辛い。

「さっき様子は見てきたけど、熱が結構高いみたいでね。診断としては過労ってことらしい。あの人働きすぎだからね。もう若くもないし、疲れがたまってたんじゃないかな。まあ、薬ももらってきてたし、安静にしてたらすぐ治るよ」

「ほんとに?過労死とかしない?」

「しないしない。俺が後でまた世話しにいってくるから心配しないで。明日どうなるかはまた明日連絡するから」

「うん。俺にも手伝えることがあったら言ってね、晋平さん」

 本当は、俺が今すぐ千紘の家にいって看病してあげたい。だけど俺は千紘の家さえ知らない。助けてくれと頼られることもないだろう。晋平に少し嫉妬する。それは至極当然で仕方のないことなのだけれど、その心の近さとか、対等である関係性とか、俺には持ち得ないそれらを羨ましく思う。結局、何もできない自分が情けなくて歯痒くて切ない。

「ありがとう。俺がアワアワしてるのは慣れない事務処理をいろいろ任されちゃったってだけだから、諒ちゃんは気にしなくていいからね」

 晋平は、不安になる俺の心を和らげるように笑いながら、苦手だからって任せっきりじゃダメだよねと反省の言葉を残して電話を切った。

 普段、店のことはほとんど千紘がひとりでやっていて、晋平は少しお手伝いをする程度しか関わっていないらしい。こうしてあらためてみるとどれだけたくさんの仕事をひとりでこなしていたのかがよくわかる。俺一人いなくたってもちろん店は変わることなく回っていくし、晋平がいなくてもそれなりにやっていけるだろう。けれど千紘一人いないと全く何も回らないのだ。普段俺が目にする千紘は店でのんびりしていることも多いが、見ていないところで一体どれだけ働いているのだろうか。千紘の背負う責任の重さは計り知れない。それがきっと大人だということで、そして彼の魅力にもつながっていくのだ。




 千紘に会えない一日というのはなんとも味気ない。バイトがないならと遊びに誘われたが、そんな気分にもなれずに断って帰ってきてしまった。

 今頃千紘はどうしているだろうか。店長とバイトという事以上のつながりを持たないため、店がなければ会うことすらできない。もしかしたら明日も明後日も、千紘の体調が戻るまで言葉も交わさず過ぎるのだ。

(切ないなあ)

 こんなとき、もしそれ以上の関係であったならと考えてしまう。

 好きだと告げてしまったなら、何か変わるだろうか。

 今のつながりを大切にしたいと口を噤んでいるけれど、それでも足りないというのならば、それ以上を望むのなら、失うリスクを負ってでも告げるべきなのだ。そのリスクを負う勇気のない俺は、ただこうして心の中でひとり悶々と悲しむ他にない。

 着替えもせずにベッドに転がり、その見慣れた天井を眺めながらぼんやりと千紘のことを思う。ただこうして思うだけ。片思いなんてそんなものだ。それでもいいと選んだのは俺だ。

 ため息とともに寝返りを打つと、ポケットに入れたままだったスマホが痛くて取り出した。

(電話、かけてみようかな)

 唯一のプライベートのつながりである携帯電話の番号、それを持っていることはわかっていたけれど、その番号を押すことはいつも勇気がなくて。用事がないならかけるなと言われたあの時一回きりしか使っていなかった。毎日のように店で顔を合わせるのにあえてそれ以外の時に電話をしなければいけないような用事なんてそうそう転がっているものではないのだ。

 今回の場合、これは電話をかけてもいい状況だろうか。判断に迷う。心配だから少し様子を聞きたい、それは必要なことに入るだろうか。俺からしてみたら必要だけれど、千紘にとってはそうではないかもしれない。通話ボタンをタッチしようかどうしようか、画面に触れる間際のところで指をうろうろと行き来させる。そんなことを何度も繰り返しながらベッドの上でゴロゴロと寝返りを繰り返した。

(だけど眠っているかもしれないし)

 体を休めることの邪魔はしたくない。それは勇気の出ない言い訳というわけではなくて、正直に。

(メアド知ってたらメールするのに)

 メールならばもっと気軽に、相手の状況に関わらず一方的に発信できるのだけれど、そこまでは教えてもらっていない。それをわかっているからあえて教えてくれないのかもしれない。この手にあるのは千紘の過失でうっかり知ってしまった電話番号ひとつきりだ。毎日顔を合わせているから忘れがちだが、そんな希薄な関係しかないのだ。

 切ない目で恨めしく手の中のスマホを見つめる。

 その瞬間。タイミングよくスマホがぶるっと震え、驚いて手から取り落とす。自分の胸の上に乗っかったそれを慌てて再び手にしたが、バイブレーションは一回きりで止まってしまった。なんだ、メールか、と画面に目をやると、予想に反してそこには着信を知らせる文字が並んでいた。

「えっ、千紘さん!?」

 思わず声に出しガバッと飛び起き、正座してもう一度それを確認する。

(…千紘さんから電話…)

 その事実だけで悶々としていた頭の中が一転、歓喜にあふれ、軽いパニック状態になる。

(だけどすぐ切れちゃったしな…)

 コールは一回きりで終わってしまったのだ。こちらからかけ直していいものなのかどうか逡巡する。

「うう~…」

 どんな意味があるのかとあれこれ深読みしてみるけれど、そもそも千紘の思考回路なんて今まで読めたためしがないのだ。思い至ったのは、少なくとも今その動作をしたということは千紘は眠ってはいないという事実だけ。

(寝てないなら、かけてもいいかな。少し様子を聞くぐらいなら…)

 再びタイミングを逸してしまう前に!という勢いでもって通話ボタンに触れた。押してしまった。

 そして、ドキドキしながら相手が出るのを待つ。なんていう間もなくすぐに繋がってしまった。考えてみれば向こうも電話を操作している最中だったわけだから当たり前のスピードであるが、心の準備をする暇が全くなくて焦る。

「あ、あの、千紘さん?」

「おー、諒か」

 電話から聞こえてくる千紘の声は、いつもと変わらなかった。熱でかすれたような声をしているかもとか、いつもより弱った声を出すかもとか、電話をしようかどうか迷っている間に散々妄想を膨らませたあれこれが儚く散っていく。だけど、元気そうなのは嬉しい。

「えと、その、千紘さんから着信あったから、何かなと思って」

 妄想はいろいろしたけれど実際喋ることは何も考えていなくて、とりあえず言い訳みたいな事を口走る。

「あー、わりぃ、晋平んとこかけようと思って押すとこ間違った」

 すぐに切ったんだけど履歴は残るわな、と自嘲気味に喉で笑うのが耳元近くで聞こえて妙に顔が紅潮した。

「なんだよ、間違いかよ」

「何だと思った?」

 見ていなくてもドキドキ焦っている俺の反応はわかってしまうのだろうか、千紘はいつもそうするみたいにからかい口調で俺を試す。

「べ、べつに、調子悪いって言うし、何かあったかなと心配しただけで…」

 本当は、もしかして俺の声が聞きたいと思ってくれたのかなとか、そんなありえないことを考えたりもしたけれど。

「がっかりした?」

「しないよ。元気そうでなによりです」

「残念ながら諒太郎くんに助けを乞うような悲惨なことにはなりませんでしたよ」

 言い繕ったって千紘には俺が思っていることは筒抜けなのかもしれない。おかしそうにふざけて笑う声が妙に胸に刺さって、なぜか涙がこぼれた。悲しかったのか切なかったのか嬉しかったのか安心したのか、自分でも何の涙だかわからない。電話で良かった。千紘から俺の顔が見えていなくて良かった。

「今日は悪かったな」

「急に暇になっちゃって困ったよ」

 声が震えてしまわないように細心の注意を払いながら答える。

「守銭奴の千紘さんが一日分の売り上げを諦めるなんてよっぽどの事かと思って心配してたんだよ」

 ずっと千紘のことで頭がいっぱいだった。心配で、心配で。

 声が聞けて本当に良かった。それだけでこんなに安心できるなんて。間違いでも、俺の番号を押してくれた千紘のその指先に感謝する。

「食品扱ってるからな、病人が無理して菌ばらまくわけにいかねえだろうよ。信用落としたら一日の売り上げなんかよりずっと損するんだぞ」

「過労なんでしょ?」

「結果的にはな」

 いつだって金儲けのため金儲けのためと言っているけれど、千紘は自分の仕事に対してとても真摯だと思う。根っこのところではとても真面目だ。多分俺なんかには想像もできないぐらいずっとずっと深くいろんなことを考えている。普段あまり表には出さないけれど、時折垣間見られるそういうところにまた惹かれてしまう。

 そして惚れ直すと同時に、俺なんて浅はかなただの子供だと見せつけられているようで腹が立つ。いつになればあの隣に並べるようになるのだろう。どうすれば晋平につまらない嫉妬をしないでもいいぐらいになれるのだろう。少なくとも、告白する勇気もないようではてんでお話しにならないレベルだ。もっと強くなりたい。

 こんなことで泣いている場合ではないと、腕でごしごし涙を拭った。もっともっと、大人になりたい。いつか、千紘を支えられるようになるぐらい、強く。

「まあ、おかげさまで一日寝てたら治ったわ」

 弱さの欠片も見せない態度で千紘はあっさりと告げた。

「治ったの?」

「ああ、さっき目を覚ましたらすっかり平熱でいつも通りだ。だから明日は営業するからな。っと、それを晋平に電話するところだったんだ。切るぞ」

「あ、千紘さん」

 そっけなく会話を終わらせようとする千紘に、俺は慌てる。もうちょっと、その声を聞いていたいのに。晋平への電話の方が大事だとわかっているけれど、それでも、いつもと違う電話越しのこの時をもう少し味わっていたい。それに、まだ何も伝えていない。強がった言葉しか言っていない。

「ん?」

「あのさ、無理しないでね。千紘さんは働きすぎだって晋平さんも言ってた」

 一番伝えたかったこと。こんなふうに体を壊して欲しくない。いつだって元気でいて欲しい。

 だって、会えなくなるから。千紘はきっと俺には弱いところを見せてくれないから。元気でいてくれないとそばにいることもできない。ただ離れたところで何もわからず心配するだけの辛さを嫌というほど味わった。たった一日でこれなのだ、何日も寝込まれたらどうなってしまうのだろう。

 俺の真剣さが伝わったのか、千紘は少し考えるように間をあけた。

「あー、…お前が泣かないように善処するわ。だけど俺仕事好きなんだよね。あんま辛いとか思ったことねえし、休めって言われても困るんだよなあ」

 いつもと同じ冗談のようにも聞こえるが、これは多分千紘の真剣な思いだ。なんとなく、そう感じる。

「…つか、べつに泣いてないし!」

 あんなに必死に隠したのになぜバレてしまうのか、悔しい。

「そっか?ならいいけど」

 全然信じていないくせに白々しく笑われて、悔しい。

「じゃあな、また明日」

 悔しがっている俺を堪能した千紘の最後の言葉が予想外に優しくて、また泣きそうになる。

(絶対泣かないけど!見られてなくても泣かないけど!)

 ぷつりと切られた電話をぎゅっと両手で握りしめた。

 涙をこらえて笑う。

「千紘さんが元気になって、よかった」

 途端にやる気が湧く。意味もなく張り切る。先程までとは別人のようにきびきびと動ける。

 俺にとってそれぐらい、千紘が全て。俺の感情の全てが俺の意志に関係なく千紘の手によって揺り動かされるのだ。

 あっちにこっちに揺さぶられて、けれど揺さぶられれば揺さぶられるほど強くしがみついてしまうから。

 とらわれたまま離れられない。



<終>

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