お気に入り
いつもより少し遅れて店に入ると、店内はいつになくお客で溢れて、晋平が忙しなく働いていた。焦った感じは微塵もその態度に表れていないのがさすがだが、店内の状況を見れば人手が足りていない事は一目で分かる。
「ごめん、晋平さん、すぐ出るよ」
そう声をかけると、晋平は安堵した笑みを向けた。早くしてとそう顔に書いてある。こんな時に限って遅くなるなんて、あとで千紘に何を言われるやら。
急いで着替えなくちゃとスタッフルームに飛び込むと、扉の向こうでこちらに出ようとしていた千紘と正面衝突した。がっちりとした白いパティシエ服の肩にしこたま顔をぶつけた俺が反動で後ろによろけるのを千紘の手が止めてくれる。
「…っと、わり」
同じようにぶつかってもこちらが一方的に弾き飛ばされる体格差がちょっと悔しい。そろそろ大人サイズになってもいい年頃だと思うのだが、まだまだヒヨッコだと言われているようで。
(いいや、俺はまだまだ成長期)
自分に言い聞かせて俺は顔を上げる。そんな事で凹んでいる暇はないのだった。
「やっと来たか、諒。あんまり忙しくて俺がフロアにかり出されるところだったぞ」
「ごめん、委員会の仕事で長引いちゃって」
「遊んでたんじゃないならしょうがない。学業が優先だからな」
千紘はまだ何かを言おうとして、けれど口を噤んだ。その左手が俺の頬に触れる。
何?と思っていると、ぐにっと俺の右頬が引っ張られた。痛いほどではないものの、気持ちの良いものでもない。
「ちょっと、何すんの」
俺のちっちゃな抗議に満足したように目を眇めた千紘は手を離すと俺の背をポンと押す。
「早く着替えて出ないと晋平が拗ねるぞ」
そう言ってフロアではなく厨房へ戻っていった。
(二人いれば大丈夫だけどね。あれ、今日七生は休みだっけ)
そんな事を思いながら学生服から店の制服に着替える。襟をピッと正して、そして自分の右頬に触れる。
そこに残る千紘の指の感触。
大きいけれど繊細なものを作り出す器用な手はいつも温かい気がする。
抓られるという行為の善し悪しはともかく、好きな人に触れられるというのは嬉しいものだ。ほんの少し指先が触れたそれだけで、心臓は跳ね上がる。こんな些細な事で、どうかしている。
それからというもの、ちょくちょく千紘に頬を抓られている。ふとした拍子に何の脈絡もなく俺の頬に手を伸ばしてはぶにっと引っ張るのだ。
(なんだろう、気に入ったのかな)
千紘がそうするように自分で自分の頬を引っ張ってみるが、別段何か特別な感触がするわけでもないし、そうした顔が面白いのかと鏡を覗いてみてもいたって普通な感じだった。この行為の何がそんなに千紘のお気に召したのか全くわからない。
俺としては千紘に触れられる機会がそれだけ増えたという事で嬉しい限りではあるが疑問は残る。
きっと大して意味なんてないのだろうけれど。
定休日、今日も開いていたドアに胸を躍らせて静かに店内に入ると、一番奥の席で帳簿をつける千紘の姿を見つける。集中しているのかこちらを振り向きもしない千紘の正面にちょこんと腰を下ろした。
「おお、諒か。もうそんな時間か?」
ようやく俺に気付いた千紘は腕時計に目を落として、フウと息を吐いた。
「忙しい?」
「いや、別に。このところ儲かってっから帳簿付けるのが楽しくてな」
金の亡者になった時のいつもの悪い笑みを浮かべた千紘の手が、いつものように俺の頬に伸ばされる。またビヨンと引っ張られる感覚に覚悟を決めたのだけれど、その手は頬をそっと撫でただけだった。
「あれ?」
「ん?」
拍子抜けした俺の妙な反応に千紘も疑問を返す。
「や、なんか最近千紘さんいつも俺のほっぺ引っ張るじゃん」
「そうか?」
千紘は今俺に触れたばかりの自分の手をじっと見つめる。もしかして、自覚がなかったのだろうか。そりゃまあ、意識しているのは俺だけなんだろうけど。
「そんなにしてるか?」
「うん、多分、普通に生活してたらありえないぐらいには。そのうち俺の顔が下膨れになっちゃうんじゃないかと」
「それは言いすぎだろ」
「あー、ちょっと言い過ぎたかな」
なぜだか千紘が困ったような表情をするから、俺もまたそわと視線を空に漂わせる。
小さく千紘が舌打ちする音が聞こえた。と同時に両方の頬がぐいっと引っ張られた。
「ちょ…、千紘ひゃん!?」
「引っ張りたくなる顔してるおまえが悪い」
「なにそれ」
いつもより痛かった両の頬を千紘は苦笑いしながら温かい掌で撫でた。もしかしたら赤くなっているのかもしれない。
「子供のほっぺたはやわらかくて気持ちがいいんだよ」
「そ、そこまで子供じゃないよ」
まるで幼児レベルの扱いに腹が立つ。けれど気持ちがいいと思わせられている事にときめく自分もいて複雑だ。
触ってもらえるのは嬉しい。少なくとも好意の表れだと思うから。それを気持良く感じるというのならなおさらだ。
頬を抓る時のように親指と人差し指の先端を数回きゅっと合わせた千紘は、目を逸らして自粛するかと小さく呟いた。それは多分ただの独り言だったのだけれど。
「やめなくていいよ」
ついうっかりそう返してしまった。
(何言ってんだ、俺)
この反応はおかしい。抓られる事を喜んで許可するなんておかしなやつ過ぎるじゃないか。
「いや、あの…千紘さんに触られるの、結構すきっていうか…」
取り繕おうとしながら墓穴を掘っていく。
(だから何言ってんの、俺!)
顔から火が出そうで、穴があったら猛スピードで飛び込みたい。
こんなことを言う俺を千紘はどう思うだろか。好きだという気持ちなんてとっくにバレているとは思うけれど、それとこれは別というかなんというか。
「ばーか」
千紘は可笑しそうに笑いながら俺の頭をグリグリとかき混ぜた。
「おまえがドMだというのはよーくわかったよ」
何か悪い事を考えている顔をした千紘は帳簿の上に転がっていたボールペンを手に取ると器用にくるりと指の上で回し、諒太郎が来る前と同じように電卓を叩き始めた。
「なんでそうなるかなあ」
食って掛かりたい気持ちはあったけれど、仕事モードに戻ってしまった千紘の邪魔をするわけにもいかず、ただ小さく不満をこぼす。
どこまでわかっていて、どこまでわざとそうしているのだろうか。
煽られていると思えば知らない振りをする。
その心の真意は一体どこにあるのだろうか。
こんなにも好きだという俺の想いをどこに置けばいいのかわからない。
そんなにも揺さぶらないで。
だけど。
本当はもっと揺さぶって欲しい。
死んでしまうぐらいにドキドキしたい。
(あれ、ほんとに俺ドMかも?)
出来れば切ないものでなく、幸せに胸をときめかせたいのだけれど。
千紘は意地悪だからそんなもの一生与えてくれないのかもしれない。
でも、それでもいいと思う自分がいる。
おもちゃみたいにいじられるだけでも、千紘のお気に入りでいられるなら嬉しいんだ。
<終>
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