大人たちの呟き

 店が終わった後、千紘と二人で居酒屋に入った。元々友人である俺たちなので、帰りに一杯やっていくかという流れになることはそう珍しくはない。けれどその多くは俺の方からの誘いであって、今日のように千紘から誘われることは珍しかった。前もって約束することはあっても急に今から行かないかというのはほとんどない気がする。おそらく、ちゃんと特定の相手がいる俺を慮ってのことなのだろうと思う。いいかげんに見えて案外そういう細やかな気遣いをする男なのだ。

 そんな千紘が珍しく俺を誘ったのだから、きっと何かあるに違いないと思っているのだが、今のところ何も変わったところはない。普通にビールを頼んで乾杯し、何食う?とか言いながらメニューを見て注文して、今日来た客の他愛無い話なんかで盛り上がる。別に何かを隠しているようでもなければ言い淀んでいる素振りもなく、本当にいつも通りだ。ただ単に急に飲みたくなっただけなのかとも思ったが、やはり何かあるような気がする。平静を装うのがうまいやつなのだ。みんな千紘の嘘にころっとだまされる。長い付き合いの俺でも彼の本心はなかなか見抜けない。けれど経験上の勘が何かあるはずだと告げていた。


「で、ちーさん、俺に話したいことは何?」

 彼の偽りの殻を破る方法なんて俺は知らないので直球勝負だ。これで何もないと言われてしまえば俺にはどうすることも出来ない。

「ん?俺、晋平に話あるって言ったっけ?」

「言ってないけどあるんでしょ?つき合い長いし、それぐらいわかるよ」

 ぐい、と詰め寄ると、千紘はほんの少し視線を揺らした。ほら、当たりだ。

「別にたいした話じゃねえよ」

「いいよ。愚痴でも懺悔でも何でも」

 話すだけで楽になることもあるし、ぐちゃっとしていた心がまとまることだってある。俺は常日頃から千紘にもっといろいろ吐き出して欲しいと思っているのだ。強がりな彼は人に弱みを見せるということがあまり得意ではないのだろう。別に俺との間に壁を作っているつもりなんてないのだろうが、時々寂しく思うことがある。


「あー、あのさ…、ほんとしょーもないことなんだ。別にお前に話してどうこうなるものでもないし、ただこう…ちょっと後悔してるというかなんというか…」

 千紘は言いにくそうにどうでもいい前ふりをだらだらと並べる。それでも話してくれる気にはなったらしい。俺は満足して気長に核心を待った。

 店にいるときにはしっかり括っている長めの襟足をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、グラスに残っていた少しのビールを飲み干し、店員を呼んで焼酎を注文する。心の中で(長いな、おい)と突っ込みながら、これだけ溜めるのだから一体どんな爆弾ネタが投下されるのだろうかとドキドキしていたのだが、ほどなくしてやってきた焼酎のグラスに口をつけながら千紘が呟いた言葉は驚くほど些細なことだった。

「諒に携帯の番号教えちまった」

「え、なに、そんなことで落ち込んでたの?」

「落ち込んでねえよ。ただちょっとしくじったなと思っただけだ」

 少し照れたような拗ねたような顔をした千紘がとても愛おしく見えた。といっても、もちろん俺たちの間には友情以外の情はないけれど。千紘のこんな顔を見るのは久しぶりで、若い頃の千紘の姿を思い出したのだ。それこそ今の諒太郎と同じような年の頃、思い返してみれば今に比べたらずいぶん可愛らしいものだ。


「ちーさん、がっちり予防線はってたもんね」

「だって、あいつ明らかに俺のこと好きだろう」

「まあね」

「親父さんからも釘刺されてるし、深入りさせちゃまずいだろうが」


 これまでに何度か諒太郎から個人情報を教えてくれとねだられて、嫌だときっぱり断る千紘の姿を目にしている。それ以外のことに関してもあからさまなぐらいに千紘に踏み込むのを良しとしない態度を取っていた。そのくせずいぶん大切に優しく扱っているものだから、諒太郎にとっては酷な話だ。しかし、俺も同じ大人側の立場であるから、その心境はわからなくもない。つまりは諒太郎のことが大事なのだ。


「だけど諒ちゃんのことだから、番号教えたところでむやみに電話かけてくることなんてないだろう?」

「そうなんだよ。あいつ、ガキのくせにほんとそういうとこ気遣うのな。嫌なら消すとか言うんだぞ、あんなに欲しがってたくせに」


 大人としては、子供に気を遣われるなんていうのは出来れば避けて通りたい事態である。背伸びも我慢もさせたくはないのだ。子供扱いするなと向こうは思うのかもしれないが、自分にはもうない純粋さを大事にして欲しいと願う。大人のエゴかもしれないが、それはきっと俺にも千紘にも共通した思いだ。


「だからまあ、結局何が変わるわけでも無し、その事実に関してはいいんだ。ただなあ…」

 千紘は再び言い淀む。酔いでごまかそうとでもするようにグラスをあおる。

「そのいきさつがちょっと、なあ…」

「そうだよ、それだけ気をつけてたのになんでそんなことになったんだ?」

「ついうっかり、自分の携帯であいつの携帯にかけちまったんだ。履歴に番号残るとか、そういうのすっ飛んでて」

「ちょっ、なにそのちーさんらしからぬ迂闊さは」

「だろ?だから後悔してるっつーか凹んでるっつーかさ」

 千紘は大きなため息をついた。さっきは落ち込んでないなんて言ったけれど、やはりへこんでいるんじゃないか。吐き出してしまいたいと思うほど戸惑っているんじゃないか。普段人付き合い、殊に恋愛ごとに関しては、深入りせず深入りさせずのらりくらりと上手に渡り歩いている千紘がこんなふうに心を乱しているなんて驚きだ。諒太郎みたいな純粋培養の子にはきつい恋だと思っていたけれど、もしかしたら逆に相手にしたことがないタイプなだけに千紘を揺さぶることが出来るのかもしれない。


「何がそんなに周りが見えなくなるほどちーさんを焦らせたわけ?」

「あー、それを聞くか?」

「そりゃ聞くよ。ここまできてそれを逃したら夜も眠れないだろ」


 千紘は心底嫌そうな顔をした。ここが一番触れられたくないポイントのようだ。一番見せたくない弱み、つまり一番心の根底にあるものだ。ここまできたら全てを暴いてしまいたい。逃すものかと強い意志で千紘の目を見つめる。

 視線だけの戦いが始まり、そしてやがて千紘の方が先に目を逸らせた。

 観念したように背中を椅子に預け頭の後ろに手を組んだ千紘は店の天井をぼんやり見上げながら投げやりに呟いた。

「定休日にさ、諒が七生と一緒に遊んでるのを見かけたんだ。それだけだよ」

「ちーさん、それって…」

「あいつら学校も違えば使う駅も家の方向も違うんだ。わざわざ待ち合わせて会ってるってことだろ?」

「ねえ、完全にさあ…」

「七生は諒のことが好きなのに、あぶねーだろ、そんなの」

 俺が言おうとする言葉を言わせまいとするように千紘は言葉をかぶせてくる。その先にあるものは千紘だって自覚しているのだろう。

「ちーさん、親心的に心配しているんだって主張したいんだろうけどそれどんどん墓穴掘ってるから」

「………」

 息を飲み、そして両手で自分の頭をかき回した。まるで初めて恋をした子供みたいだ。経験豊富な千紘とは思えない。

「嫉妬だよね」

 耳を塞ぐ言葉を俺はあえて口にした。目を逸らしていたってしょうがないと思うから。

「自分が思ってるよりも、好きになってるんじゃないの?」

 大人として選ぶ道があることもわかっているが、だとしてもそれなら尚のこと自分の思いを理解していなければいけない。

「中途半端に逃げるのは良くないよ」

 そんなこと、きっと千紘は百も承知なのだろうが、俺は逃げ道を断ちにいく。それが俺の役目だと思うのだ。千紘が俺に話して聞かせたのは、覚悟を決めきれない自分の背中を押して欲しいと思ったからなのだろう。結果、どちらの方向に向かうのかはわからないが、いずれにせよ覚悟は必要なのだ。


 しばらく押し黙ってグラスを傾けていた千紘は、はたして頭の中でどんなシミュレーションを繰り広げたのだろうか。

「あー、逃げてえなぁー」

 その声があまりにも切実で、思わず吹いてしまった。

「今のままじゃダメなのかなぁ…」

「ほんっとダメな大人だよ。諒ちゃんは気の毒だよ」

 だけど千紘の気持ちもわかるのだ。この年になると立場とか常識とかプライドとかいろんなものがしがらみとなって思いのまま恋に溺れるなんてことは簡単に出来ないのだ。若い頃のように熱い思いだけでは突き進めない。怖いのだ。人は年を重ねるたびにいろんなものが見えてくると同時に臆病になるのだ。千紘ほど逃げずに恋心と向き合っている俺だって、やっぱり怖い。どちらを選ぶかなど、ほんの紙一重だと思うのだ。


「だよなあ。なんであいつ、俺なんかに惚れちゃったかなあ。可哀想に」

 他人事みたいに酷い言葉を吐いた千紘は、何か吹っ切れたような笑みを見せた。

 結果どこへ向かうのかは他人の俺には計り知れないが、とりあえず千紘の心は晴れたらしい。秘め事は吐き出すだけで楽になる。俺はそれをそっと自分の胸にしまった。この後どうするか、どうなるかは本人たち次第なのだ。俺が口を出すべきことではない。


「ま、俺はちーさんも諒ちゃんも悲しまないでいてくれたらそれでいいよ」

「くそっ、晋平、おまえ後で店出たら唇奪ってやるからな、覚悟しとけ」

 ここまでハイペースに酒をあおってきた千紘はもうずいぶん酔いが回っているらしい。酔えばキス魔になるたちの悪い男だ。脅しにも聞こえるこれは、実は感謝や喜びの意だということを俺は知っている。本当にたちが悪い。

「後でクマに襲われる覚悟があるならどうぞ」

「返り討ちだな」

「はいはい、好きにして」

 その後も明日の仕事が心配になるほど飲んだ千紘は、一体何を思い描いているのか知らないが、時折幸せそうな笑みを浮かべていた。



<終>

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