寝言

 定休日でも店のドアを押してみるのがいつの間にか当たり前になっている。必ず千紘がいるわけではないけれど、いるのだとしたら会いたいわけで、学校からそう遠くないここまで足を運ぶぐらい何の苦でもない。

 鍵のかかっていない入り口を確認すると一気にテンションが上がる。

「ちーっす」

 入り口をくぐると、営業時とは違うちょっと薄暗くてがらんとした独特な空間がそこにはある。ちょっとわくわくするようなこの感じが俺は結構好きだった。

「千紘さん?」

 いつもならば誰もいない店の中に一人動く千紘の姿がすぐ目に入るのだが、今日は見当たらない。厨房の方からも何の音もしない。

 けれど鍵が開いているという事は千紘は来ているはずなのだ。

「おーい、不用心ですよ~」

 店内を探しまわると、客席の一番奥、長椅子になった部分に横たわる人物が目に入った。

(わ、寝てる…)

 足音を殺して近づき、目の前にしゃがみ込んで目線を同じ高さにしてみる。

(なんか、ドキドキするね、これ)

 秘密を覗き見しているみたいなドキドキ感を胸にその寝顔を見つめる。

 無防備にすやすやと眠る千紘の顔はいつもよりもちょっと幼く見えて不思議だ。寝顔を見るのは初めてではないけれど、前に旅行の時に見たのはべろべろに酔っぱらって締まりなく緩んだ顔だったのでだいぶイメージが違う。

 仕事のときはいつも後ろでくくっている少し長めの後ろ髪も休みの今日はそのままで、首元に流れている。

 思わずごくりと唾を飲んだ。

 意地悪を言わない千紘はなんて素敵にかっこいいのだろう。

 このままずっとこうして眺めていたいけれど、これは起こした方がいいのだろうか。まだ仕事が残っているのなら寝すぎてしまうのもいけないだろう。

 不用心にも鍵を開けたままで眠っているのは俺が来て起こしてくれる事を当てにしているのかもしれない。

(あ、そうか、鍵、俺のために開けておいてくれてるのか)

 ふと思いついた事実に頬が緩む。そういえば最初の頃は中にいても施錠している事もあった気がするが、最近はいつ来ても鍵が開いている。まあ、これだけ頻繁に来ていれば当然なのかもしれないけれど。

(だけどやっぱりもったいないな。もうちょっとだけ)

 時計に目をやって、あと10分だけこの貴重な光景を眺めていようと決めた。

 しかし、テーブルの向かい側の椅子に腰を下ろす俺のほんのちょっとした物音でぱちっと千紘のまぶたが開く。

「うわっ、びっくりしたー。来てたのか、諒」

「こ、こっちがびっくりだよ」

 瞬間的にスイッチがオンになる千紘に、心臓が飛び出しそうになった。別に悪い事をしていたわけではないのだけれど、こっそり覗き見ている立場としてはなんとなく後ろめたい気分があるのだ。

「何してんの?」

「…千紘さんの寝顔観察…?」

「起こせよ」

「だって気持ち良さそうに寝てたし、わざわざこんなとこに横になってるんだからうっかりうたた寝しちゃったってわけでもなさそうだし」

「お前が来る物音で目が覚めるかなと思ったんだけど…全然気付かなかったな。疲れてんのかな」

 体を起こした千紘は両腕を上げて伸びをする。

「体痛えな、ここ狭いわ。おまえ、来てからだいぶ経つ?」

「ちょこっとだよ。もうちょっと寝てるとこ見ててやろうと思ったのにさ」

「趣味の悪い事やめてくれる?」

 千紘は眉間にしわを寄せて心底嫌そうな顔をした。

(あれ?なんか、これは…)

 いつもと立場が逆の感じなのではないだろうか。ふと自分が上位に立っている事に気がつく。

「寝言言ってたよ?」

 調子に乗った俺はにやりと笑って言ってやる。もちろん嘘だけど、寝ている間の事は本人にはわからないのだからこれは言いたい放題だ。

「あ?」

「愛してるって甘い囁きをしてたけど、誰の夢見てたの?」

 思いつきでそんな事を言ってみる。いつも見えない千紘の本音がぽろっとこぼれたりしないだろうかとちょっぴりそんな期待をする。

「夢?別にこれといって見てなかったけど…」

 けれど千紘は少しの動揺も見せる事なく、のんびりした様子で寝乱れた服や髪を整えていた。俺が千紘を揺さぶろうなんてやはり無理な話なのか。

「おまえさ、それ嘘だろ」

 揺さぶるどころか逆に反撃されてしまう。

「な、なんで?」

 ものすごい確信を持って言われてしまったものだから、俺はあっさり動揺してしまった。

「俺そういう事言わねえもん。好きだの愛してるだのそんな愛の囁きしたことねえわ」

「ええっ!なんで!?そしたらどうやって恋人同士になるわけ?」

 まさか遊びばかりで本気でつき合った事がないとか、そんなわけはないだろう。

「ほんっとおまえは純粋培養だなあ」

 にっこり笑って大きな手で俺の頭を撫でた千紘は、すぐににやりと悪い顔をする。

「向こうが言い寄ってこればそれでオッケーだし、俺からいくなら押し倒しちまえばいいだけだ。簡単だろ?」

 しれっとそんな事を言い放つ千紘に返す言葉を失う。

「つきあってからもなあ、つきあってるからこそそんな言葉言えねえわ。どんな顔してそんなくっさい事囁くわけ?」

「…ひどい人だとは思ってたけど、ほんと徹底してるよね…」

「俺、シャイだからさ」

「どこがだよ!びっくりするわ」

「よし、仕事しよ。邪魔するなら帰れよ?」

 千紘はぱちんと自分の膝を叩いて立ち上がり、厨房に向かって歩いていく。

 いつもすぐに「帰れよ」なんて言うけれど、追い返したいという気は特にないみたいだ。自意識過剰かもしれないけど、こうして俺とくだらない話をしていると楽しそうだし、俺が来るのを待っていてくれているみたいだし。

 何を手伝うわけでもなく、俺はぼんやりと千紘が仕事をするのを見ながら宿題をやってみたりして時間をつぶす。



 日の差し込む暖かい窓際の席に座ってノートを広げていると、湯気の立ったカップを二つ持って来た千紘が俺の隣に腰を下ろした。

「休憩?」

「今日はもう終わりだよ。宿題か?」

「うん。でも千紘さん帰るならもう片付けるよ」

「いいよ。終わるまでやってけ。俺見てっから」

 いい香りのするコーヒーをすすって千紘はわざとらしく俺のノートを覗き込む。

「やりにくいんだけど…」

「気にすんな。もう高校の勉強なんて忘れちまってるしな、そこの単純計算が一桁間違ってるなんて見てても気付かねえから」

「気付いてるし!」

 何気なく指摘されてしまったケアレスミスを慌てて直す。

(なんだ、この家庭教師ごっこみたいなの…)

 じっとりと変な汗が湧き出る。終わるまでやめられない空気の中、俺は早くすませてしまおうと必死で問題を解いた。

 その後、千紘が俺の宿題に何か口を出す事はなかったけれど、ずっと注がれっぱなしの視線が気になって仕方がなかった。

 全部終えて鞄にノートをしまうと、冷めてしまったカップの紅茶を喉に流し込む。この異様な喉の渇きは千紘のせいだ。俺がだまって寝顔を眺めていた事がそんなに嫌だったのか、あるいは嘘をついた俺のいたずらが気に入らなかったのか、今日の千紘はいつも以上に意地悪してやろうという気が満々のような気がする。

「なあ、諒」

 いつもならだいたい向かい側に座る千紘がぴったり隣に座っている時点でかなりヤバいと思うのだ。その空間を更につめるように千紘は俺の首に腕をまわしてぐっと引き寄せる。

「ななななに?」

「おまえはさ、言って欲しいんだ?」

「な、なにが?」

 何の話だかわからなくて、この距離感にドキドキしすぎて頭が回らなくて、俺はあわあわするばかりだ。

 千紘は更に体を密着させると内緒話をするように俺の耳に唇を寄せた。

「愛してる」

 低い声が甘くかすれて俺の耳を侵す。息がかかるぐらい近く、唇が触れるぐらい熱く。

 ぞくぞくと全身に鳥肌が立つような感覚が走り、体に力が入らなくなる。多分顔は真っ赤で、心臓は口から飛び出してしまっていたんじゃないかと思う。

 千紘はそんな俺の反応を見て楽しそうに爆笑していた。

「ほんっとかわいいなあ」

 泣きそうな俺を慰めるみたいに暖かい両手が俺の頬を挟む。

「お前みたいな真っ白なやつは俺みたいなひねくれた恋人は持たない方がいいぞ。しっかり見極めるんだな」

 不意に真面目な顔でそんな事を言うから、思わず涙がこぼれた。

 叶わない恋だとわかっているけれど、面と向かってダメだと告げられてしまうのは辛い。どんな意図で千紘がそんなことを言ったのか俺にはわからないけれど。

「泣くなよ。ちょっといじめすぎたか」

 俺の涙の意味が分かっているのかいないのか、千紘は自分の服の袖で濡れた俺の頬を拭った。

「くそっ、泣くつもりなんてなかったのに」

 恥ずかしくて俺はがしがしと乱暴に目をこする。

「そのうち俺だってこんなことへっちゃらになるぐらい大人になるんだからな」

 別に俺は真っ白なんかじゃない。ただ経験が足りないだけだ。子供過ぎるだけだ。

 早くもっと大人になりたい。

「その頃には俺はじじいだな」

 ぽつり呟いた千紘のセリフが妙に切ない色を帯びていておかしかった。ぷふふと笑うと千紘はちょっとだけ安心したような表情を見せた気がした。



 千紘をからかってみようなんて大それた事は二度と思うまい。

 俺はその時しっかりとそう胸に刻み込んだんだ。



<終>

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