二人きり

「あれ?」

 学校終わりにいつものように店に入ると、珍しく客席で注文を取っている千紘の姿があった。

 パティシエ服で店内を走り回っているのはちょっと新鮮な光景だ。

 千紘のウエイター服姿というのも一度見てみたいな、なんてことを思いつつ、俺なんかには見せたこともないような絶品営業スマイルでテーブルをまわる千紘に声をかけた。

「晋平さんは?」

「おお、諒。早く着替えてこい。あいつ病欠しやがった」

 千紘は俺を見てほっとした顔をする。

 俺でも千紘にこんな顔をさせることができるのかと少し驚いた。頼りにされているというのは嬉しい。

 たった3人でまわしている店だ、1人休むと負担は大きい。

 元々は俺を抜いた2人でやっていたのだから、不可能ではないのだろうが、大変なことは間違いない。ましてや1人できりもりするなんて、とてもまわりきらない。

 これ以上お客様を待たせてはいけないと、俺は急いでスタッフルームに駆け込んだ。

「そうか、今日は千紘さんと2人きりなんだ」

 今日は忙しいぞと思いながらも、そんな考えに舞い上がる。

 仕事上のつながりしかない俺たちが2人きりになる機会は多くはない。

 2人きりになったからといって何かが起こるような関係でもないけれど。

 それでもうれしいものなのだ。


「お待たせ、千紘さん」

「じゃ、あと頼むわ。俺中入るから」

 浮かれた俺にちらりと一度視線を向けたきり、千紘は厨房、俺はホール。

 なぜかこういう日に限っていつもより客が多かったりして、千紘がこちらに顔を出すことは一度もなかった。

 仕事だし、それが役割分担なのだから仕方ないのだけれど。

 今日は2人きりだなんて浮かれた最初の俺を恨んだ。

 晋平がいなくて一人で寂しかっただけだ。ただただ忙しかっただけだ。

 変な期待はするもんじゃない。




 ぐったりした閉店時間。

「おつかれさん」

 やっとこもりっきりの厨房から出てきた千紘が、テーブルの上でのびる俺の頭をくしゃっとなでた。

 それだけのことで疲れなんて吹き飛んだ気がした。

 元気良く心臓が飛び跳ねる。

 やっぱりいい。2人きりはいい。

 ちょっとしたことがたまらなくドキドキする。

 晋平さんがいる時よりもほんの少し甘い顔を見せるような気がするのは、俺の気のせいだろうか。

 二人きりという状況にときめく俺自身の心が見せる幻想だろうか。

「明日は復活するかな、あいつ」

「だといいね」

 それでもやっぱり、晋平はいてくれた方がいい。晋平の偉大さは今日一日何度となく痛感した。普段どれだけさりげなく俺や千紘やお客様に気を使ってくれているのかがよくわかった。あの人はすごい。

 俺は頭の上に気持ちの良い重さでのっかる大きな手を取って体を起こし、そのまま握手の形に握りしめた。

「千紘さんもおつかれさまだね」

「俺はおまえみたいに軟弱にできてないんだよ」

 俺の手を軽く叩いて離してしまう千紘。優しくするくせに深くは入り込んでこないいつもの憎らしいスタンス。晋平がいてもいなくてもそれは変わらない。変わる理由もない。

 だけど。

「諒がいてくれて良かったよ」

 そんなたった一言で俺の心は満たされる。

 千紘は分かっているのだろうか。

 それが俺に対してどれだけ威力のある殺し文句なのかを。



<終>

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