ハプニング4-sideC

(やっべえ…)

 そう思ったのは旅館のベッドで目を覚ました瞬間だった。

 眠りにつく寸前の記憶は鮮明に脳内に残っている。諒太郎の唇の感触さえありありと刻まれている。

 大量に酒を飲んでも基本的に記憶はしっかりしている方だ。酒を飲んでの行動を翌日どっぷり後悔するなんていうことはよくあることだ。よくあることなのだけれど、これはよくない。大人として非常によろしくない。

 あの後、諒太郎は一体どうしたのだろうか。

 体を起こし、酷い頭痛に頭を押さえながら隣のベッドを覗き込んだ。

 布団を抱きかかえるような格好でよく眠っている。案外平和そうな顔をしている、なんて勝手なことを思った。現実逃避しようとする自分に苦笑する。

 心安らかに眠れたはずがない。

 純粋培養の高校生が酔っ払いの奇行に慣れているはずもなく、そもそもキスの経験だってないかもしれない。俺の恋愛対象が男であることも知っているし、一体何を思ったことだろう。

(いや、一番の問題はそこじゃない)

 どうしても核心の部分から逃げようという思考の動きをしてしまうが、一番問題なのは諒太郎が俺に好意を持っていることだ。

 諒太郎が気持ちを口にしたことはないが、そんなものは見ていればわかる。子供のちっぽけな駆け引きなんて可愛いものだ。わかっていてあえてこれまで気付かない振りをしていた。

 そんな今までの行動が水の泡。自らの手で引き金を引いてしまった。

 両思いだなんて勘違いされたら、正直困る。

 諒太郎とそういう関係になる気はないのだ。

 諒太郎の事を好きとか嫌いとか、そんなこと以前の問題だ。自分の半分ぐらいしか生きていない子供だし、店長としてバイトに手をつけることはあり得ないと思っているし、そして彼の父親から釘も刺されている。

 だから今までのらりくらりと躱してきたのに。

(はあ…)

 史上最大の失態だ。言い訳をあれこれ考えてみるが、どれもぱっとしない。

 どうでもいい相手であれば、冷たく突き放せばそれでお終いなのに。

 諒太郎の事は酔っぱらっていたとはいえキスをしてしまうほど気にいっているのだ。

 酔った時の俺はキス魔なのだ、そこに恋愛感情はないのだと、真実をそのままに告げてしまえばいいのかもしれないが、諒太郎がもしも期待を抱いていたとしたらそれはひどく残酷なことのように思える。

 期待なんて抱かせたままでいいとは思わないけれど、傷つけたくはないのだ。

 都合のいい話かもしれないが、できるだけ諒太郎を傷つけない形でなんとかしたい。

 なんて格好良いことを言って、本当はただ手放したくないだけかもしれない。

 俺を好きである諒太郎でいてくれることの快感を失いたくないだけなのかもしれない。

(酷いやつだな、俺は)

 受け入れることも切り捨てることも出来ないくせに、一番やってはいけないことをやってしまった。

 二日酔いの頭がガンガン疼いて、絶妙な案なんて思いつきやしない。

 とりあえず残っている酒を抜くことが先決だと、大浴場へと向かうことにした。温泉旅館はこれができるから好きだ。




 風呂にゆっくり浸かると随分頭がスッキリした。

 もう少しゆっくりしようと、大浴場を出たところにあったマッサージチェアーに座る。

 日頃の疲れが次々ほぐされていくような気がする。最近のマッサージ機はとんでもなく高性能だ。

(なんて逃避ばっかりしてる場合じゃないな)

 これから部屋に戻って、そろそろ起き出してくるだろう諒太郎にどういう態度で接するべきか、方針を決めなければいけない。

 風呂で聞いた晋平からの情報では、諒太郎は俺の想像以上の勘違いをしているらしい。

 ベッドで甘くキスを交わすような相手が誰かいるのだと。

 もちろん俺に今現在そんな相手はおらず、夕べのキスも相手が諒太郎であるとわかっていてしたことなのだが、諒太郎はそうは思わなかったらしい。

 自分が好かれているのかもなんて微塵も思わない辺りがなんとも控えめでいい。

(やっぱ俺、あいつ好きだわ)

 酒が入っていなくてもキスしたくなるほど可愛いと思う。

 それは諒太郎の思いに応えられるような気持ちではないけれど、置かれている状況が違えば、違う結果になっていたかもしれない。

 それでも現実はこうなのだから仕方がない。

 本当は俺なんかに惚れるべきではないのだ。

 諒太郎には申し訳ないが、このまま勘違いさせておくのが一番いいのかもしれない。

 多分それは一番狡い選択なのだけれど。

 正直、晋平の話をきいて、ラッキーだと思ってしまった。

 なんて都合のいい展開なのだとほくそ笑んだ。最低だ。

 大切な誰かがいるのだと思っているのなら、そう思わせておけばいい。

 俺の手で直接的に諒太郎の思いを断ち切るわけでもなく、それでいて深入りすることも牽制できる。

 そしていつか、そうやって躊躇しているうちに、諒太郎は俺なんかよりもっと好きな人を見つけるのだろう。

 それがきっと諒太郎にとっても幸せだなんていうのは俺のエゴだろうか。

 ただ俺が、逃げたいだけだろうか。

 俺には意気地も覚悟もない。

 狡くて酷い最低の大人だ。

 夕べの事は俺は覚えていない、何も話さない、聞かれてもすっとぼける。そのスタンスでいこう。それできっと今まで通りだ。

 俺がその態度でいけば、諒太郎は多分突っ込んでは来ない。

 俺に好きだと告げることもできないのだから、己の首を絞めることにもなりかねないような軽率な行動は取らないだろう。

 そこまで計算尽くで俺は心を決めた。

 記憶を封印するように、諒太郎の唇の感触が残る己の下唇を指で軽くなぞった。



 部屋に戻ると諒太郎はまだ寝ていた。

 可愛いこの少年を俺はどこまで苛め抜くのだろう。

 その頭を軽く撫でて、心の中でごめんと呟いた。

(こんな狡い大人に恋なんてしやがって)

 俺の意地悪なんかに本気で傷付かなくたっていいのに。

 俺は諒太郎に幸せなんて感じさせてやれないのに。

(バカだよ、お前は。…まあ、俺もだけど)

 しばらくその寝顔をじっと見つめて、それからぱちんと軽く諒太郎の頬を叩いた。

「ん…あれ、もう朝?」

「いつまでも寝てると朝飯食いっぱぐれるぞ」

「あ、うん」

 両手を挙げて大きく伸びをした諒太郎は、俺の顔を見て一瞬表情をくもらせた。

「ねえ、千紘さん、昨日の、さ…あの…」

「ん?なんだ?」

 諒太郎の言いたいことはわかる。けれど、俺は気付かない振り。特別なことなんて何もなかった態度で接する。その徹底した演技で諒太郎は俺にその記憶はないのだと理解してくれたようだった。

「なんでもない。おはよう、千紘さん」

 本当は俺に言いたいことがその胸にいっぱい詰まっているだろうに、にっこりわらった諒太郎の笑顔はいつも通り、くもりはなかった。強がりというのではなく、きっと諒太郎の中である程度昨日の事態は消化されているのだ。俺の記憶があるかないかの賭けだったのだろう。記憶がないことにもしかしたら諒太郎はほっとしたのかもしれない。

 俺が罪の意識すらなく睡眠を貪っている間にきっと諒太郎はたくさん悩んだのだろう。健気な諒太郎の姿に俺の胸は少し痛む。

 でも後悔はしない。

 決めてしまった以上は貫き通す。

 狡い大人にもそれぐらいの意地と誠意はあるはずだ。

 ここで俺がぶれるのは反則だ。後悔してしまったら、あまりにも諒太郎が気の毒だ。

 既に随分可哀想なことをしているのだけれど、酷いことをするならするなりに、その仁義は通さなければ、更に傷口を抉ることになる。

 それがいたいけな少年へのたった一つの俺の思いやりだ。

 諒太郎の眩しさに堪えられない汚れた大人のたった一つの拠り所だ。

「ねえ、今日は一日どうするの?どっか行く?遊べる?」

「お子様は元気だなあ。まあせっかくだから観光でもしていくか?」

「うん」

 千紘さんと一緒なのは嬉しいとその顔に書いてあるのを確認して安心する俺は、どこまでも腐った大人だ。

 悪い男に引っ掛かった哀れな少年を、それでも俺は手放せない。



<終>

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