秘密

 バイトが休みで早く帰ってきた俺は、つまらないなと思いながらリビングでテレビの前にゴロンと転がっていた。

 平日の夕方なんて、面白いテレビ番組がやっているはずもなく、落ち着きなくチャンネルを変えながら無駄な時間を過ごしている。

「諒」

 キッチンから俺を呼ぶのはこの家の主夫である幸喜だ。血縁上も戸籍上も俺とは何のつながりもないが、父親の伴侶であり、俺を育ててくれた親である。母親代わりと言ってしまえば簡単だが、幸喜は男性であり、きっと普通の子供にとっての母親とは全く異なるものなのだと思う。母親の記憶がない俺にはよくわからないけれど。

「暇なら手伝いでもしなよ」

 決して女性的というわけではないが、役割分担的に家事は全て幸喜の管轄である。この時間は夕飯の準備で忙しいらしい。

「はーい」

 ちょうど退屈していた所だ。たまには台所に立つのも面白いかもしれない。

「なにすりゃいいの?」

「皮剥き。はい、これ」

 じゃがいもとピーラーを渡され、幸喜の隣に並んだ。

 幸喜は器用に野菜を刻んでいる。俺を引き取るまでは料理なんてしたこともなかったらしいが、今ではそこいらのお母さんにひけをとらない。継続は力なりとはよく言ったものだ。

 俺も幼い頃からたまに手伝いはさせられていたが、お手伝いの域は出なく、一人で何かを作り上げられる腕はない。

 大人っていうのはすごいなあと、最近よく思う。親や先生以外の大人と密に接するようになって、見えてきたものがたくさんある。

 体格こそ大人と大差ないぐらいになったけれど、俺にできることなんてまだほとんどないのだ。守られて助けられてようやく生きている自分を認識する。

 同じように俺が歩けるようになるまでに、あとどれぐらいかかるのだろう。


「ねえ、諒さあ、好きな人出来たよね?」

 ぽつりと、隣で幸喜が呟いた。

 あまりにも唐突な話題に驚いて、俺の手からじゃがいもが転げ落ちた。

「なんで断定?」

「見てたらわかるし」

 シンクを転がっていくじゃがいもを追いかけながら、この動揺っぷりは肯定したも同然だなと自嘲した。別に隠そうと思っているわけではないが、親に知られるというのはどこか気恥ずかしい思いがあるのだ。

「バイト始めてからだよね。店の人?」

「ああ、うん、まあね」

 更に突っ込んでくる幸喜に、観念して頷くと、なぜだか少し気持ちが軽くなったような気がした。このまま全部話してしまおうかなという気になる。

「やっぱりそうなんだ。てことはあれだよな、相手は男か」

 幸喜は少し困った顔をする。

 男を好きになるなと言える立場ではないけれど、それでも息子には真っ当に幸せになってほしいと望むのだろう。親であれば当然だろうし、その大変さをわかっているから尚更なのだろうと思う。

 けれど俺だって好き好んで男に惚れたわけではない。

「仕方ないじゃん」

「そうだね、仕方ないな。うん、それは、わかるよ」

 実感のこもった頷きに、この人は俺の一番の理解者だと感じた。

 父親とも母親とも違う、かといって友人とも違うこの微妙な感覚をどう表現したらいいのだろう。不幸な境遇だと言う人もいるだろうが、俺はこの人が親で良かったと思う。

「店長とウエイター、どっちなんだ?」

「店長」

 こんなふうに何でも話せる相手がそばにいることは、とても幸せだと思う。

「どんな人?」

「うーん、大人で意地悪で金の亡者、かな」

「なにそれ」

「でもね、時々すごく優しいんだ」

「ああ、そのギャップにコロッといっちゃったわけだ」

「うん、好きなんだ」

 千紘さんが好き。

 口にしたらなぜか目頭が熱くなった。

 言葉にしてはいけないと、ずっと思っていたのだ。相手が同性なだけに友達に話すわけにもいかないし、もちろん本人に告げることもなければ報われることもないのだと思っていた。

 自分の中だけに溜まる消化しきれない思い。

 ただそれを言葉として表現するだけで、こんなにも澱みがなくなるのだと初めて知った。

 人に聞いてもらうことで、心の中がきれいになるなんて不思議だ。

「泣くなよ、男だろ?」

「そんな所でタマネギ切ってるからだよ」

 幸喜は全部わかっていて急にこんな話をしたのだろうか。

 そんなに煮詰まっていた自覚はなかったのだけれど。

 報われない恋の仕方を教えてくれたのかもしれない。

 積もり積もるばかりの思いを少し抜いてやることで、思いに潰されることなく保つことができるのだと。

 やっぱり大人はすごい。経験の差というものははかりしれない。

「ねえ、俺ってわかりやすい?」

「まあね。僕は親だからわかるよ。その人が気付いてるかどうかはわからないけど」

 多分、千紘は気付いている。経験は豊富そうだ、きっと、俺の気持ちなんてだだ洩れだ。

 それでも気付かない振りをしている、その真意はわからない。

 経験の足りない俺にはまるでわからない。

 いつか、わかる日が来るのだろうか。

 俺が積んだ経験の分、同じように千紘も経験を重ねていくわけで、追い付くことは決してないのかもしれない。

 けれど、いつか知りたい。

 千紘の心の中を、知りたい。

「まあ、親だって鈍けりゃ気付かないけどな、良孝みたいに」

「父さんは気付いてない?」

「と思うよ。あいつの鈍さは筋金入りだ」

 過保護な父、良孝に知られたらいろいろとうるさそうなので、少しほっとする。

「父さんが鈍い人で良かったよ」

「困ることの方が多いけどね」

 どんなことを思い出しているのか、幸喜はプッと吹き出して笑った。

 両親を見ていると、男同士でも大丈夫なのだと、勇気が湧く。

 男同士だから幸せになれない、なんていうことはないのだ。

 俺の場合、それ以前の問題かもしれないけれど。

「コーちゃん」

「何?」

「また、話してもいい?」

「いいよ。いつでも吐き出しにおいで」

 剥き終わったじゃがいもを俺の手から取り上げて、幸喜は鍋を火にかける。

「あ、父さんには言わないでよ?」

「わかってるよ。あいつ、知ったら間違いなくぶち壊しに行くから」

 恐ろしいことをさらりと言う。

 やりそうなことを想像してみて背筋が凍った。

(あの人にだけは絶対気取られないようにしよう)

 俺は肝に命じ、神様に祈った。

「頼むよ、コーちゃん」

「大丈夫、僕は諒の味方だから」

 にっこり笑った幸喜は、いつになく頼もしい。

 一人でも、応援してくれる人がいるのは嬉しい。

「コーちゃんがいて良かった」

 少し照れくさいので背を向けてキッチンを出ていきながら告げた。

 本当に、心からそう思う。

 ひとりぼっちだった俺にこんな素敵な未来を授けてくれたのは、紛れもなくこの人たちなのだ。

「あんまり嬉しいこと言ってくれると、泣くよ?」

「いや、勘弁して。父さん怖いから」

 笑いながら俺は再びテレビの前でゴロンと転がる。

 どこのチャンネルに変えてもつまらないニュースばかりだったけれど、きっと俺の顔はゆるみきっていただろう。

 大好きな千紘を思う。

 好きだという言葉が頭の中で溢れ出して止まらない。

 たがが外れたみたいに、一気に吹き出す。

 片思いだって十分幸せな気分になれるのだ。

 じたばたと、絨毯の上を転がり回った。



<終>

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