店長の弟子

「僕を弟子にして下さい」

 閉店後の片付け中に突如乱入してきたそいつは、モップ片手の千紘の前で唐突にそう叫んで90°以上に頭を下げた。

 テーブルを拭いていた俺も、皿洗い中の晋平も、そしてとうの本人千紘でさえもぽかんと口を開け目を丸くするばかりだった。

「お願いしますっ」

 俺と同じぐらいの年頃で、今どき髪の色も変えずに真面目そうな男だ。

「悪いけど、弟子をとるつもりなんてないから」

 千紘は困り顔でそう答える。

「だったら、あの、バイト募集とかしてませんか?」

「してないよ。人手は足りてる」

「僕、パティシエになりたいんです。だからその、修行というか勉強したいんです」

「そんな事言われてもね。他にいくらだって雇ってくれる所はあるだろう?」

「あなたのケーキが好きなんです!お願いします」

 彼は、まだ掃除の終わっていないフロアの上に土下座までする。

 千紘は眉間に皺を寄せ、頭を掻いた。

「仕方がないなあ、それなら一日だけ、見学するってのでどう?」

「はいっ、ありがとうございます」

 彼はそのままの姿勢でもう一度床に頭を擦り付けた。

「そこ、掃除してないから立ってくれる?」

「あ、はい。すみません」

 そうして彼、三原正良みはらまさよしは、次の土曜日に一日厨房の見学に来る事になった。俺が予想したより年上で、現在専門学校に通う19才だと言っていた。




 土曜日の朝、俺は定時より少し早く店に入った。正良が見学にくるというのが、気になって仕方がなかったのだ。

 千紘がケーキを焼き始めるのは俺が行く時間なんかよりずっと前だし、それを見たい正良ももちろん早くから来ているのだろう。そう思うと、ゆっくりといつもの時間に出勤、なんてとても出来そうになく、まだ早すぎるまだ早すぎると朝から何度も時計を見ながら、「早く来ちゃいました~」で何とか誤魔化せそうな30分前に行く事にしたのだ。

 千紘の隣に誰かがいるのだと思うと、どうにも心がざわつくのが抑えられなかった。晋平のシフトも俺と同じだから、店にはずっと千紘と正良二人きりになるわけである。だから何だというわけでもないのだが、気になってしまうのは俺が千紘に惚れているから。そして、千紘の心がどこにあるのか俺にはわからないから。


 スタッフルームで着替えをしつつ、何気ない仕種で厨房を覗くと、ちょうど千紘の横顔が見えた。

 真面目に仕事をしている時の千紘は、普段と違ってきりりとしていてとても格好良い大人の男だ。その横顔とか、背中とか、そこから漂う精悍な男らしさが俺は好きだ。

 俺の気配に気付いたのか、ちらりとこちらに視線を向けた千紘は、けれどすぐに仕事に集中してしまう。いつもだったら、何か一声かけてくれるのに。

(あいつがいるからか?)

 子供じみた敵意を正良に向ける。

 料理の「り」の字も知らない俺が見ても惚れ惚れとする千紘の技術は、同じパティシエを目指す正良の目から見たらもっとすごいのだろう。隣でずっと熱い視線を送っているのがわかる。

 時折何かを喋ったり手を出したりしつつ、一動作たりとも見逃さない勢いで食い付いている。

 俺には入れない場所に、正良はいる。

 あんなふうに肩を並べて仕事をする事は、俺には絶対に無理な事だ。

 それが悔しくてたまらない。

 そして、何よりも許せないのは。

 正良が俺と同じ目をして千紘を見ている事。

 千紘のケーキが好きだといった正良の言葉に嘘はないだろう。けれど、ケーキだけでなく千紘自身にも惚れている目だと、そう直感した。

 千紘を見つめる視線が、俺と同じだから、わかる。

 近付いて、その気を引きたいと、そう思っているのが手に取るようにわかって、不快だった。

 自分と千紘の間に、突然割り込まれたような、そんな嫌悪感。

 更に、予想した以上に千紘が正良に対して優しく接しているのが見て取れて、気分はもう最悪だ。

 弟子なんて取らないと言っていたわりに、随分懇切丁寧に教えている。頼まれた時の困り顔から見て、適当にあしらうんじゃないかと思っていたのに、まるで違った。

(らしくないよ、千紘さん)

 俺にはあんな優しい目を向けてくれた事がないような気がする。いつだって意地悪で、時々優しくしてくれる時でもぶっきらぼうで。

 見るんじゃなかったかなと、少し後悔する。気になってそわそわしていたさっきまでよりも、もっとイライラが募ってしまった。

 俺が大きく溜息を吐くと同時に、スタッフルームのドアが開き、晋平がやってくる。

「おはよう、諒ちゃん。今日は早いね」

「あ、おはよう」

 いつの間にかもう随分時間が過ぎてしまっていたみたいだ。着替えの手も途中に、20分近くひとり悶々としながら厨房を眺めていたらしい。

「彼が気になる?」

「たまたまちょっと早く着いただけだよ」

「そう?」

 くすりと笑って、けれどそれ以上突っ込む事もなく晋平も着替え始める。

 俺も途中までしか掛けていなかったボタンを再び留め始め、それでもやはり気になって、ちらりちらりと気付けば視線を厨房に向けていた。

「大丈夫だよ、ああいうのはタイプじゃない」

 手早く着替えを終えた晋平がいつの間にか俺の背後に立っていて、耳元でこっそり囁いた。

 心の中を見透かされたような気がして、ドキリとする。

「な、なに?」

 晋平にはわかっているのかもしれない。多分、俺みたいなお子様が考える事なんて、簡単に。

 千紘に惚れている事も、正良に嫉妬している事も。

 それでも、俺は、何でもないように装う。どんなにあからさまであったとしても、はっきり認めてしまうのは怖いのだ。

「違ったならいいんだ、気にしないで」

「だから、何が?」

 そんな子供じみた俺の思いなんて、きっと全部わかった上で、晋平は容認してくれる。

「俺の好みのタイプの話。自分より小さいのはパスだね」

「何言っちゃってんの?」

 晋平は、どこまで本気か冗談かわからないような事を言って笑い、「さあ、仕事仕事」とフロアに出ていく。

 千紘と違って、晋平はいつでも優しい大人だ。

 こういう人を好きになった方が、きっと幸せなんだろう。残念ながら俺も晋平の好みからは外れているようだけれど。

 それでも千紘を好きになってしまったのだから仕方がない。安心よりも、心揺さぶられることを選んだのは自分自身なのだ。

 恨みを込めた目で最後にもう一度厨房を覗きつつ、晋平の後を追ってスタッフルームを出る。なぜかその瞬間こちらを向いた千紘と一瞬目が合ったような気がした。




「ぅああああぁぁぁ…」

 見学を終えた正良が店を出ていった途端、千紘はおかしな声を上げながら大きく両手を伸ばした。

 営業時間も終わり、残るは片付けのみとなったところで、パティシエ見習いの正良は帰っていった。バイトではなく仕事場の見学なのだから、後片付けや掃除まで付き合う必要はないのだ。

 正規のメンバーだけが残る店内で、千紘は崩れ落ちるように客席に腰を落とした。

「やっぱ俺、向いてないわ。人に見られたり教えたり、一週間分ぐらい疲れるよ」

「もしかして、緊張したりとかするの?」

「緊張っつーか、神経すり減る」

「へえ、なんか意外」

 それでどこかいつもと様子が違ったのかと、少し納得する。たったそれだけのことで、今日一日イライラもやもやしていた事がつるんとどこかへ行ってしまうのだから、俺というのはなんて単純な生き物なのだろうと思う。

 だらしなく椅子に体を預ける千紘の肩を軽く揉んでやると、気持ち良さそうな声を出す。そんな些細なことが嬉しくて仕方がない。

「だったら断れば良かったじゃん」

「あれ?諒、知らない?あいつ、常連様だから」

「常連?理由、それだけ?」

「いつも持ち帰りだからフロアのお前とは滅多に顔合わせないのか。ほぼ毎日だぜ?大事な金づる逃したくはないからな」

「あはっ、金の亡者だ」

 ずいぶん優しくしていると思ったのも、営業の一貫というわけだ。

 あの天下一品の営業スマイルが、身内に向けられる事はまずあり得ない。俺には見せた事のない顔をしているのも当然のことだったのだ。

 特別なのは、俺の方だ。悲しいかな俺限定ではないのだけれど。

 一日思いつめていたものが、がらがらと崩れて消える。

 自分の滑稽さと、種明かしのくだらなさと、込み上げる嬉しさとで笑いが止まらない。

「泣くほどおかしいかよ」

 笑い過ぎたのと気が弛んだのとで、思わず涙が滲んだ。

「千紘さんらし過ぎる」

「そうか?」

「金で動く人だって、すっかり忘れてたよ。ずいぶん親切だなあと思って見てたのに」

「俺はいつだって親切じゃないか、人聞きの悪い。ああ、諒、悪いけど厨房片付けといて。俺、もうダメ」

 ごろんと椅子の上に体を横たえて、千紘は息絶えるふりをする。

「この、極悪人がっ」

 罵りながらも俺の心は晴れ渡っていた。スキップでもしそうな勢いで厨房へ向かい、片付けに精を出す。

「わかりやすいよねえ」

 背後で晋平が呟くのが聞こえたが、気にしない、気にしない。

 鼻歌まじりに洗い物をしていると、やがて隣に復活したらしい千紘がやってきた。厨房の細かい事はそれを使う千紘本人にしかわからないからだ。俺に片付けを頼んだところで、結局は自分がやらなければいけないと、頼んだ方も頼まれた方ももちろん最初からわかっている。

 こうして肩を並べる事は、俺にもできるじゃないか。そこにいることを、きちんと認められている。

 仕事の内容なんて、どうだっていい。俺は千紘のそばにいる。それが全てだ。



<終>

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