君だけ見えない(2)

 精神が疲弊した私は、すぐに家に帰る気は起きなかった。だから、家の近くの海が臨める場所へ来ていた。

 防波堤に波が押し寄せる音、遠くに浮かんでいる白い船、太陽に照らされてキラキラとか輝く海面。

 人の気持ちが一切入り込まないこの場所には、嫌なことがあるとよく訪れていた。


 私は防波堤の上によじ登って、海の遠くを眺める。海の果ては、霞んでいてよく見えない。私の知らない国へと繋がっている広大な海洋。

 どうして世界はこんなにも広いのに、ちっぽけなことで私は悩んでしまうのだろうと、ここに来るとよく思う。


 だけど中学二年生の私には、教室の中での出来事がすべてなんだ。その世界でうまく生きていかなければ、人生が終わってしまう。大袈裟でも誇張でもなんでもない。

 学校と家にしか存在できない私たちにとっては、その狭い空間が世界そのものなんだ。


「もう……いやだあああああああ!」


 海に向かって、お腹の底から声を絞り出すように長く絶叫する。しかしその叫びは、すぐに波音に消されてしまった。


 こんな能力さえなければ、余計なことを考えずに済むのに。知らなくていいことを知ってしまうせいで、私はきっと自分の望んだ自分になることはできない。集団生活で楽しく生きることはできない。


 本心なんて知らない方がいいんだ。私はこの能力のおかげで、すでに悟っていた。


 ――中学二年生の女の子にとって、大切なのは何でも話せる親友と、毎日を彩る恋の相手。

 新しい友達を作ることは諦めているが、幸いにも私には幼い頃からの付き合いの、気の置けない友達がふたりいる


 ――だけど、恋に関しては。

 うちのクラスの女子たちも、たまに聞こえてくる会話から察すると、みんながみんな恋に夢中になっているようだった。


 だけど私は、きっと男の子と恋愛することなんてできない。恋人同士になれば、触れ合いは多くなっていくことくらい、恋愛経験ゼロの私だって一応知っている。

 しかし私は、触れ合った瞬間彼の心が分かってしまう。そんな女、男の子の方だってお断りだろう。気味悪がられるに違いない。

 私だって、彼の聞きたくない本心をいちいち聞いた上での恋愛事なんて、出来る気がしない。


 私は人生の楽しいことを、諦めて生きていかなければならないんだ。――そんなの、生きている意味なんてあるのかな。

 たまに思うけど、幸いにも自殺を考えるほどの深い傷を受けたことはまだなくて。私はずるずると、灰色の日々を過ごしていたのだった。


 私は、明日も「クラス委員の仕事楽しいです!」という顔をして、真面目で優しい七瀬さんでいなければならない。誰かに触れた瞬間に、私への悪口が聞こえてこないようにするために。


 そんな風に、私が諦めと同義の決意をした時だった。


「すげー声だね」


 不意に近くから声がして、私は虚を突かれた。まだ若いけれど、どこか落ち着きのある男性の声だった。

 声がした方を向いてみると、数メートル離れた防波堤の上に、男の子が座っていた。海側に足を投げ出す形で。


 年のころは同じくらいだろう。茶色がかった前髪が長めの髪は、毛先が無造作に散らされている。前髪の隙間から見える大きくて髪と同色の瞳は、驚くほど透き通っていてきれいだった。

 すっと通った鼻筋に、小さく形の良い唇。とても整った顔立ちをしている。うちのクラスに居たら、人気ナンバーワンの高瀬君の地位が危ういだろうなと思った。クラスどころか、学年中……いや、学校中の女子からアプローチを受けそうな容姿だ。もしかしたら、ファンクラブが設立されてしまうかもしれない。


 見たことがない男の子だった。少なくともうちの学校ではないとは思うけれど、他校の制服でもなくジーンズにパーカーというラフな私服姿だった。


 この人、いつの間にいたんだろう。こんな辺鄙な場所には、犬の散歩かジョギングの人がたまに通るくらいで、いつも閑散としていた。だから誰もいないと私は思い込んでいたんだ。

 彼は私の絶叫を聞いていたのだ。とてつもない恥ずかしさが私を襲う。私は彼から目を逸らして、俯いた。


「それでさ。何が嫌なの? 学校? 友達? 恋人?」


 そんな私に追い打ちをかけるようなことをへらへらとした口調で聞いてくる。まるで、気心を知れた仲同士で話すような、気安い口調で。

 彼のそんな調子に、ムッとした気持ちになる。どうして名前も知らない初対面の人に、デリケートな問題を突っ込まれなければならないのだ。


「あなたには関係ないでしょ」


 いつもなら、こんなこと絶対言えない。愛想笑いを本気の笑みに見せる技術を会得している私は、他人には当たり障りのないことを言えなかった。体がもう、そういう作りになっているんだ。


 だけど同じクラスでも同じ学校でもない彼にはきっと、もう二度と会うことはないだろう。それに傷心して叫ぶという行動を取った私に対して、彼は全く気を使う様子はない。

 だから私だって、こういう時くらい思うがままに振舞ったっていいよね。いいじゃない、たまには。


「そういうことって、関係ない人に対しての方が素直に言えたりするじゃん? いいじゃん、言ってよ。もしかしたら心が軽くなるかもよ?」


 私の冷たい態度に全く臆する様子もなく、のんびりとした声で言う。

 彼のその態度に、とても苛立った。あなたに言ったくらいで、心なんて軽くなるわけない。私が何年、自分の体質に縛られてい苦しんでいると思っているの。


「言ったって意味なんてないからっ」


 思わず怒鳴るように言ってしまった。彼に出会う前からすでに心中はイライラで占められていたというのに、火に油を注がれたような思いだった。


 あなたに言ったら、私の悩みを解決してくれるの? 他人の心の声を聞こえないようにしてくれるの?

 そんなこと無理なくせに。私のことなんて何にも知らないくせに。無責任に適当なこと言わないでよ。


 そんな思いが強すぎて、彼に向かって詰め寄るように言ったせいだろう。私はバランスを崩して、防波堤の上でふらついてしまった。

 慌ててバランスを取ろうとするも、海側の方へと体が傾く。濃紺の海面が見えて、肝が冷える。

 ――え。まずい。落ちる……!


 思わず固く目を閉じてしまった私だったが、その瞬間手首を力強く掴まれて、何かに引っ張られた。恐れいていた海水の冷たさを感じることは無かった。


「セーフ」


 恐る恐る瞳を開けた瞬間、そう言った彼の顔が見えた。どこかひょうひょうとした微笑みは、とても魅力的に目に映った。

 彼がすんでのところで私の手首を取って、海への落下を防いでくれたのだった。


 きっとこんな瞬間に、女の子は恋に落ちるのだろうなと他人事のようにふと思った。恋愛を一生涯諦めている私には、関係のないことだけど。

  

「あ……りがとう」


 悪態をついていたにもかかわらず、助けられてしまった。私はバツ悪くなって、彼から顔を逸らしてそう言った。


「どういたしまして」


 落ち着いた声音で彼が言う。海に落ちそうになった女の子を、ギリギリののところで救ったとは思えないような平静とした声だった。


 私と同年代の大多数の男子なら「やっべー! 危なかったー! ってか俺すごくね? 大丈夫だった?」なんて、興奮した様子で、得意げに言いそうな場面だというのに。

 なんだか不思議な人だな、と思った。


「手、めっちゃ細いね。女の子って感じ」


 彼がいまだに私の手首を掴んでいたことに、そう言われて初めて気づく。恥ずかしくなった私は思わず振り払ってしまった。


 ――その瞬間に、私は気づいてしまったんだ。

 彼の心が読めなかった。確かに触れたというのに。

 今眼前に居て、どこか超然とした微笑みを浮かべている男の子の心の声が、私には聞こえなかったのだ。

 触っても心が読めなかった人なんて、今までひとりとして存在しなかった。衝撃的な出来事だった。


「……あなたは」


 思わず「ねえ、どうして触ったのに心の声が読めないの?」と聞いてしまうところだったが、慌てて口を噤む。


 そんなことを言ったら、頭のおかしい女だと思われてしまう。この能力は幼馴染の由梨と圭太と、家族以外には、他言無用なのだ。

 何かを言いかけてやめてしまった私は不思議に思ったのか、彼は首を傾げた。


「え、何?」

「なんでもない……です」


 私はそう言うしかなかった。

 ――どうして? あなた何者? ねえ、なんで私が触ったのに心の声が聞こえないの? 私のこの能力について、もしかして何か知ってるの?


 そうやって問いただしたい気持ちでいっぱいだったけど、もちろん何も言うことはできない。

 ――すると。


「ねえ、君はさ」


 そう言いながら、彼は優しく微笑んだ。今目の前に広がっている、海のように深くきれいな微笑みに見えた。こんな風に笑う人は、今までに見たことが無かった。一体この人、何者なのだろう。

 そして何を言われるのだろうと、私は次の言葉をじっと待った。


 ――しかし、その時。


「ちょっとー! 遅い-! もう行くわよー!」


 海とは反対側の、車道の方からそんな中年女性の声が聞こえてきた。見てみると、歩道に寄せて停車した車の傍らに女性が立っていた。車の運転席には、男性の姿があった。

 遠目で顔まではよく見えなかったけれど、髪の色が今隣にいる彼と同じだった。きっと母親だろう。


「時間切れだね」


 とても残念そうに彼は言った。まるで恋人同士の密会の時間が終わったかのような、そんな口ぶりに聞こえた。私は初めて出会った男の子に、何を感じているのだろう。


 彼は身軽な動作で防波堤から降りると、悠然とした歩調で車の方へと向かった。「もう、時間ないって言ったでしょ?」何ていう、彼の母親らしき人の声が聞こえてきた後、ふたりが乗車すると、車は発進した。

 車はすぐに右折してしまい、あっという間に私の視界から消えた。


 本当に、あの男の子はいったい何者なのだろう。

 初めて出会った、心の読めない不思議な男の子。とても綺麗な顔をしていて、言動や雰囲気もどこかミステリアスだった。

 気になって仕方がなかった。だけど、名前も学校も分からない。


 先程まで彼が立っていた場所に視線を合わせて、ほのかな余韻に浸る。すると、何かが落ちていることに気づいた。


 拾って見てみたら、それは革製で焦げ茶色の財布だった。中身が詰まっているようで、少し膨らんでいる。


 ここに来た時は何も落ちていなかったはずだ。ということは、十中八九先程の掴みどころのない美少年が落としたものだろう。


 この中には、きっと保険証やら診察券やら、お店のポイントカードがなんかが入っているはずだ。あの男の子の名前が記載されている、それらが。


 私は止められたスナップボタンを開けようとした。しかし、すんでのところで思いとどまる。


「……プライバシーを侵害しちゃ、ダメだよね」

 

 言い聞かせるように独り言を言った。もし自分が落とした立場だとして、中を探られたらあんまりいい気分はしない。もちろん彼の素性は知りたかったけれど、だからといって財布の中身を見ていい理由にはならないと思った。


 ーーそんなことより、財布を落としたら誰だって困るし、慌てちゃうよね。もしかしたらすぐに気づいてここに戻ってくるかもしれない。


 だから私は、しばらくの間防波堤に座って待つことにした。来るかどうかもわからない、財布の持ち主のことを。


 しかし二十分ほど待っても、彼は来なかった。太陽が傾き、辺りは薄暗くなりつつあった。


 諦めた私は、財布を最寄りの交番に届けに行った。拾った場所などの特徴を簡単に書類に記入したあと、警察の人に「落とし主が現れた時に、謝礼を希望するなら連絡先と名前をお書き下さい」と言われた。


  そんなことは全然考えていなかったので、私は「いらないです」と告げて、交番を後にした。


 ーーきっともう、あの人に二度と会うことは無いんだろうな。


 夕焼けに染まる街並みをとぼとぼとひとりで歩きながら、少し寂しい気持ちになる。


 もしかしたら、あまりにも絶望した私に神様がくれたプレゼントだったのかもしれない。心の読めない男の子との一瞬の交流は。

 そういう人も世の中にいるんだから、希望を捨てちゃダメだよって教えてくれたのかもしれない。


 いや、でもそんな神様がもしいたとしたら。

 最初から、私にこんな辛い能力を授けるわけなんてない。


 明日も明後日も、世界は私にとって窮屈なままだろう。

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