第198話 すれ違う夫婦
紫国。古来よりこの土地では、夜に男が女の家を三度訪って夫婦とみなされる。これが高貴な身分ともなると、婚姻後に同じ屋敷に住んでいたとしても、女に会いに行くのは男の方だ。これが常識であり、反対に女が男の元へ向かうことは大変はしたないとされている。
しかし、サヨは長く続く独り寝に耐えかねて、自らが忙しいミズキの元へ行くという掟破りに踏み切った。昨夜のことだ。
夜着に身を包んだサヨを守るようにして、スズ達、サヨの側近や侍女達が、暗がりに身を溶け込ませるようにして王宮の長い廊下を進む。そして、見てしまったのだ。ようやく辿り着こうかとした時、前方を横切ったのは、あの女だった。
金茶の長い髪。いかにも異国風といった衣。そんな女が、ミズキの寝所へ滑り込んでいった。そして、待てど暮らせど、そこから出てくる気配はなかったのだ。
目撃したのはサヨだけではない。数人の証言があり、決して見間違いではないのである。
「あれは、アイラ様でございましょう?」
翌朝、サヨは王の執務室を訪れて、淡々と言い放った。その言葉の奥にあるのは、強い怒りと深い悲しみ。
高貴な身分の暗黙の了解として、男が別の女の元を訪れるようになると、実質的に婚姻が解消されたと見なされることが多い。
とは言え、王の妃ともなると、そう簡単にその立ち位置が無くなるわけではないのだが、それでもサヨにとっては裏切りにほかならなかった。
ミズキは、その日も寝不足のようで、まだ朝にも関わらず疲れ切った顔をしている。それが、アイラを相手してやった故のことだと思うと、尚更腹立たしい。
「女の本音を引き出すならば、寝所が一番だと思ったんだ」
しばし、二人は無言になった。サヨは、そんな弁解を聞きたかったわけではない。さらには、確かにそうかもしれないと、うっかり納得しかかってしまった自分のことも嫌いになる。
そういえば、サヨがミズキの手に落ちたのも寝所だった。
初めは、コトリを守るためという名目で自ら近づき、取引相手として関わっていたというのに、気づけば彼の腕の中にいた。貴族の娘だというのに、庶民で、しかも女の成りをするような男に思いを寄せてしまうなんて、普通であればあってはならないことだった。
サヨも、かなり葛藤した。けれど、幾度となくミズキと寝所を共にし、いかに彼がサヨを好いているのかを半ば洗脳するかのように、体と心に教え込まれた日々。夜毎睦言を囁かれ、何をしてもミズキの事が気にかかってしまう。もはや、これは運命とばかりに腹をくくり、厳格な父と交渉してまでして妻の座を得たことは、まだ記憶に新しいものだ。
なのに、新たな国、紫が立って以来、すっかりミズキは変わってしまった。
やはり、自分はミズキが王となるための駒の一つにすぎなかったのだろうか。という事がサヨの頭を掠める。
いや、王という立場の者は、日々目が回るような忙しさだ。まずは、守るべき民のため、身を粉にして働く必要がある。そこに、建国間もない今、サヨという私情を挟み込む余裕なんて、無いのが当たり前。理解のある妻を演じるならば、そっと見守るのが筋なのだろう。
例え、ミズキが他の女に手を出したとしても。
アイラが腹に何を抱えているのか、なぜこうも紫国に固執して、なかなか故郷であるアダマンタイトに帰らないのか。それは、問いただしたくても矜持の高い彼女とは、なかなか会話になる者もおらず、未だに謎のまま。早く追い出すためには、地位ある者が誘導して、真の目的を聞き出すしか方法は無いのである。
それ故の、寝所だ。きっと、そうだ。しかも、ミズキがアイラの元を訪れたのではなく、アイラが客人の分際で勝手に押しかけたのだ。
だから、サヨはまだ、捨てられたわけではない。
そう思いたいのに、久しぶりに顔を合わせた妻に対して、この夫はそれ以上のことを何も口にしない。一言で良いのだ。ただ、サヨがミズキを想い続けて良い理由を、一つでいいから作って欲しい。これまてと変わらず、彼のことを信じさせてほしいのに、後もう一歩が足りないのだ。
知らぬ間に、生温い水滴が、サヨの頬の上を伝っていった。衣と床板にぽたり、ぽたりと落ちて、深い色の染みを作る。
王には世継ぎが必要だ。慣例通りならば、妻となる妃は四人娶ることになっている。理由はどうあれ、サヨ以外に目を向けることを表立って責めるなんて、できようもない。いつから自分はこんな狭量な人間になってしまったのか、と自身に絶望してしまう。
サヨは、一度ぎゅっと目を閉じると、踵を返して地面を蹴ったた。後ろから、慌てふためいた女官や侍女達の声が追いかけてきたが、全てを振り切って走った。
◇
「泣かないで」
幼い声が問いかける。
まだ手入れが行き届いていない王宮最奥の裏庭。伸び盛った背の高い草の陰で、青みがかった丸い目が、サヨを労るようにして見つめていた。
「ダヤンね?」
「そうだよ」
ダヤンはアイラが連れてきた彼女の息子だ。母親も流暢な紫の言葉を話すが、息子もあっという間に溶け込んで、今ではこの土地の子どもたちと同じぐらいに話すことができる。
利発な少年だ。そして、あの女が産んだ子供だと思えないほど、純粋で可愛らしくて、媚びたところがない。頻繁に母親の目を盗んでは部屋を抜け出し、王宮の中を一人で散策しているようだ。様々な者に自ら声をかけ、多くを学び、多くを知ろうとしている。
その異国人特有の見目から、口さがない言葉をかける者もいるが、泣くでもなく、肩をすくめて少し悲しそうにするだけ。その反応がまるで大人のようで、いたいけな様子が特に女達の間で密かな人気となっている。
サヨは、差し出された手をそっと握った。否、その先端を摘んだに等しいかもしれない。ダヤンの手はまだ小さくて、普通にすると今のサヨならは握りつぶしてしまいそうだった。
ダヤンは、にっこりとする。それを見てしまえば、間違っても、「お前の母親に夫を盗られた」などと文句言うこともできない。代わりに、溜息が出た。
「サヨさま」
「なあに?」
「ぼくは、サヨさまが、すきだよ」
サヨは、一瞬何を言われたか分からなかった。ただ、動悸がする。どうして身の回りの世話をしてくれる者達を撒いてまで、今このような場所に見を潜ませていたのかを思い返し、何とか冷静になろうとする。
「ダヤン?」
「サヨさま、ぼくを、おいださない」
「そうね」
「でも、おにいさま、わるいことする。いたいの、する」
「そうなの?」
「うん。でも、ここ、みんなやさしい。むらさき、すき」
ダヤンは、近くにあった紫色の花を手折って、サヨに差し出した。
「ありがとう」
サヨは素直に受け取った。名も知らぬ雑草なのに、こんなに嬉しいなんて。
ダヤンのように真っ直ぐ気持ちを伝えてくる者なんて、これまで出会ったことがない。こんな表現の仕方は、紫国には無いものだ。
この少年は、どんな環境で、どんな風に育てられてきたのだろうか。どんな人と関われば、このようになるのだろう。きっと――――。
「世界って、広いのね。私も、見てみたいわ」
そんなこと、叶わないけれど。という言葉は飲み込んでおく。
「ぼくも、もっとみたい」
味方がほとんど居ない中、見知らぬ土地へしなやかに順応するだけでなく、サヨの心をも救おうとする少年。癒やされると同時に、また別の醜い心が頭をもたげ始めた。
こんな息子をもつアイラが妬ましい。紫でも、婚姻した女は子供を産んで一人前と見なされる節がある。しかし、サヨ達はずっとすれ違い。懐妊の兆しなんて、あるわけがない。
そこへ、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「こんなところにいらっしゃったのですか」
顔を上げると、スズがいた。スズの視線は、ダヤンを射抜いている。ダヤンは居心地が悪そうに俯いた。サヨは、慌てて立ち上がり、努めて明るい声を出す。
「異国の話を聞いていただけなの。あ、この花。後で部屋に生けてちょうだい」
その後、サヨはスズの勧めもあり、密かに王宮を出てチグサの屋敷に住まうこととなった。神具についてチグサから学ぶためという名目だが、実質上、ミズキとの別居である。
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