第197話 笑顔のコトリとカケルの嫉妬

 火にくべられた木が、パチパチと弾けた音を立てている。周囲からは、低い獣の唸り声が聞こえてくるが、穏やかな空気が流れていた。


「この子達も、お腹が空いているのかしら?」


 コトリが、月明かりの中、僅かに光る何対もの瞳の群れを眺めて言った。


「さぁな。少なくとも、あんた達があいつらの餌食になることはないから、心配しなくていい」


 向かいに座るエンジュは、懐から小刀を取り出すと、慣れた手付きで足元の小枝の先端を尖らせるように削った。それを水でふやかした餅に挿して、火にくべる。


 それをカケルは、クレナの者にしては手先が器用そうだなと考えながら見つめていた。いや、それ以上に興味と警戒をもって目の前の男の動向を観察している。


 コトリとカケルがエンジュと出会ったのは、森の入口でのことだった。数え切れない程の多種多様な獣に囲まれてしまったのだ。地を揺るがすような獣が発する低音と威圧。さらには、そこへ流れてくる風変わりな細く澄んだ音色は、都会育ちの二人を一瞬にして混乱へ陥れた。


 先に動いたのはカケルだった。アダマンタイトの城から二人で抜け出す際にも役立った、気配を限りなく薄くする神具。自身とコトリを守って欲しいと念を込めるようにして発動させたそれは、すぐさま二人を周囲の景色と同化させたのだが、獣の感覚は敏感である。例え何かが見えなくなったとしても、未だそこに在るのを理解して、微動だにしなかったのだ。


「シェンシャンを使います」


 今度はコトリが、元王女らしい凛々しくも冷静な声色で宣言した。


 カケルの中で、暫時不安がよぎる。相手は獣だ。人でもなく、意思を持たない自然物でもない。果たして、神の言葉たるシェンシャンの音が通じるのかどうか。


 しかし、幸いにもコトリの奏ではたちまち事態を軟化させた。獣達がシェンシャンの音に陶酔している。空を見上げ、その身に降り落ちる神の奇跡を浴びて、表情も安らかにしているのだ。


 さらに驚くべきことに、元より流れていた怪しげな旋律が、コトリの演奏に絡みつくようにして、変化をみせていた。その音は、明らかにシェンシャンではない。よく通る単音。誰かの息遣い。


 やがて、眠るようにして蹲り始めた獣達を割るようにして、やさぐれた様子の粗末な衣の男が現れた。その手元を見て、コトリはようやく古い記憶を呼び起こす。


「古の笛の使い手」


 これは、かつて王宮に住んでいた頃、年配の女官からだったか、聞いたことのある話だ。


 クレナには、その昔、シェンシャン以外にも楽器があった。一つは太鼓。これは、今でも田舎の村の祭りで時折使われている。腹に響くような独特の音を放つ。そしてもう一つ。笛だ。


 笛はシェンシャンと同じく、神の声を紡ぐとして重宝されていた。しかし、ある王の御代で、その姿をすっかり消してしまう。王宮内でシェンシャンと笛の競いごとがあり、負けた笛の名手が都落ちして野垂れ死にし、怨霊となったと言われているからだ。


 怨霊は、死んでもなお、神の世界へ行くことのできない彷徨う悪しき影である。笛を吹くと、その者が再びこの世に現れて、吹き手にとりついて殺してしまうと言われていた。そうして、誰も笛を吹かなくなり、廃れていったということだ。


 王宮でまことしやかに囁かれる噂は、根も葉もないものであることも多い。しかし、火がない所に煙が立たないのも事実だ。故にコトリは、話半分は正しいのではないかと考えて、覚えていたのである。


「あなたは、かつて王宮を追われた笛の名手なのですか?」


 コトリは意を決して男に尋ねてみる。見たところ、足もついているし、物理的な肉体があり、怨霊ではなさそうだが、もしも、ということもある。


 男は、少し戸惑った様子で苦笑した。


「未だにそんな伝承を覚えてる奴もいるんだな。さては女、王宮の出だな?」


 コトリがおずおずと頷きかけると、カケルは慌てて二人の間に立ちふさがる。


「この御方を誰と心得る? 琴姫様だぞ」


 日頃、権力に傘を着るようなことは絶対にしないカケルだ。しかし、目の前の男は明らかに小物そうなのに、濃密な神気を漂わせている。神具師の勘が、激しく警鐘を鳴らしていた。


 すると、男は先程よりも驚いた顔をした。


「琴姫。本当に、その女が、あの琴姫なのか?」

「いかにも」


 カケルは、本人でないにも関わらず自信たっぷりに答えてしまった。


「そうか。ようやく俺にも、ツキがまわってきたんだな。ずっと探してたんだよ、お前のこと」

「お前よばわり……そんな呼び方が許されるとでも」


 カケルは怒りを滲ませていたが、男は全く意に介さない。


「俺は、エンジュ。元、神苑の笛吹だ」


 それから間もなく日が落ちて、今に至る。

 コトリは、初対面でも物怖じしない性格のため、ゆったりと焼けた餅を食んでいた。


「それにしても、やはり王宮の噂はアテにならないものですね」

「そりゃぁ王宮っていやぁ、ここいらの森よりも深い闇があるって話じゃないか。そりゃぁいろいろあるだろうよ」

「それは先代までの話です。今の王が作った新たな都、新たな王宮は、これまでとは違いますよ」


 同じ奏で手として、エンジュに心を開いているコトリ。カケルは胡散臭い男を到底信じ切ることはできないが、コトリの気持ちを無碍にもできず、独り焦りを感じていた。


「神苑の笛吹という高尚なお役目があって、今も廃れずに代を重ねていること。そして何より、ずっと獣を従え続けて、この国を影から支え続けてきてくださったことは、新たな王の耳にも入れておきたいですね」

「それはありがたい。今代の神苑の笛吹は、まだ年端もいかないガキだからな。そろそろ王宮とは誼を結んでおいた方が、あいつの身を守ることにもなるかもしれん」


 コトリは、ただただ尊敬の眼差しをエンジュに向けていた。


 その昔、エンジュよりずっと古くに遡る神苑の笛吹は、王に使える官の一人だったという。そんなある日、シェンシャンと笛の競いが行われて、うっかり王に勝ってしまった。


 決して王の怒りに触れたわけでもなかったのだが、笛吹は、王の威光を陰らせるようなことをしたのを侘びて、都を離れることを決意する。そもそも神苑の笛吹は、森の民でもあった。人工的で綺羅びやかな王宮へ長く居座って、務まるような役目でもないのだ。


 神苑の笛吹の本懐は、獣を手懐けて国の各地へ放ち、王の目となり耳となり、さらには悪しきものを退治することにある。


 だが、それも代を重ねるごとに変化を遂げていた。今では、純粋に獣を従える業だけが受け継がれている。一応エンジュの代では、人の住まう地域で獣が悪さをしないよう、各地を巡りながら笛の音で獣を大人しくさせることをしていたようだが、今代の少年にはそこまでのことを期待できそうにはないらしい。


「森の民であるにも関わらず、すぐに転けて膝を擦りむくような奴だ。もし会うことがあれば、あいつとも一緒に奏でてやってほしい」

「名は?」

「ハクアだ。あいつは孤児だったが、俺が育てた。素直で可愛いぞ。今は何とか独り立ちさせて、どこにいるかも分からないがな」


 実は、エンジュの方も、かなりコトリに心を許している。かつて村々を巡る中で耳にしていた高貴な姫としての琴姫像とはかけ離れた、快活な少女。見目は噂に違わぬ美しさだが、その弾き手としての力は、実際に聞いてみると、鳥肌が立つほど魅せられるものだった。


 出会いは険悪な雰囲気だったかもしれない。けれど、互いの奏でを交らわせ、音で語り合った結果、エンジュはコトリのことを見込んだ通りの女だと思うようになっていた。


「ハクアも、あなたのように笛がお上手なのかしら」


 相変わらず、カケルは黙ったまま。コトリの柔らかな声がエンジュへ問いかける。


「そこそこ、だな。笛を極めたとは、まだ言えないが、次代としては十分だ。なぁ、お前」


 ここで、エンジュはコトリの顔を凝視した。三人で囲む火の明かりで、コトリも興奮しているように赤らんで見える。


「笛のことを、どう思う? 俺は、シェンシャンに負けないと思っている。こんな山の中や、森の奥に仕舞っておくには、あまりにももったいない代物だ」

「そうですね。ご存知の通り、私は元姫ですから、そういった視点からお話させていただきますと、あなたの力はもっと陽の目を見せて、広く使われるべきものだわ」


 これはお世辞ではない。コトリ自身、初めて聞く音色だったが、その秘めたる力強さや、人の心を貫くようなよく通る音、シェンシャンとはまた違った美しさには心が打たれるものがあった。獣という、通常は人の制御のきかぬ者達へ効果を及ぼすというのも、類まれな力だ。掛け値なしに、称賛すべきものである。


「そう言ってくれるか」

「えぇ。私の兄の一人が、王宮で文官をまとめて、地方にも目を光らせる仕事をしています。彼ならば、きっと興味を持つでしょう。もちろん王も奏者ですから、あなたの気持ちを理解してくれると思います。同じ、奏でを愛する者として」


 にっこりするコトリ。エンジュとの間に、特別な連帯感が生まれた。


 これは、拗ねたように横目で睨んでいたカケルの、堪忍袋の緒が切れる頃合いでもあった。


「コトリ、今夜はもう休もう」


 早くエンジュから引き離そうと、カケルは少々乱暴にコトリの手を引く。エンジュは、面白そうに小さく笑うと、離れていく二人に手を振った。火も、若い二人を見送るように、ひらひら踊って燃え盛っている。


 その後、エンジュは、可憐な少女の喘ぎ声に悩まされて、眠れぬ夜を過ごすことになったのは、また別の話。


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