第111話 双方の驚き

 サヨが鳴紡殿を出たのは、夕餉よりも早くだった。コトリを一人にするのは心許ないことだが、たまたま部屋に訪れたナギと楽しそうにしていたのと、最近ソラ王家から派遣されてきたという凄腕闇集団の監視があるので、単独行動に踏み切った次第である。いや、厳密に言えば一人ではない。少し遅れて、ミズキもまた、薄暗くなった都の路地にその身を眩ませたのだった。


 菖蒲殿は、都の中にいくつもの屋敷を持っている。この日、ミズキが呼び出されたのは西門近くの静かな住宅街の中。踏み入るのはまだ、三度目の場所でもあった。


 入り口の衛士に、今夜の合言葉を告げる。


「紫の蝦夷菊」


 サヨとの逢瀬では、よく花の名前が使われる。無学なミズキには、花言葉など分からない。故に今日も今日とて、特にこれといった先入観も無く、単なる記号として口にするのだった。


 間もなくして、奥へ確認をとってきた衛士が戻ってきた。続いて、屋敷の下女らしき者も灯りを片手に表をへ出てくる。庶民の家ならば、こうも面倒な手続きをせずにズカズカと上がり込めるものだが、やはり相手は貴族の娘。分かってはいても、身分の差をまざまざと見せつけられる気分になるのであった。


 ミズキは、無意識に寄せていた眉間の皺を解くと、中へ歩みを進める。今夜は、サヨの希望通りに男の格好をしてきた。このために、わざわざ紫の隠れ家へ立ち寄ってからやって来たのだ。誰か、女の格好では不味いような客でも来ているのだろうか。しかし、思い当たる者などいない。となると――――。


「まさか、な」


 ミズキは独り言ちながら、沓を脱いだ。まさか、菖蒲殿の当主が直々にお出まし、という事態ではないだろう。そうならば、もっと屋敷中がピリリと張り詰めた空気になっているはずだ。今はどこか、浮ついた雰囲気を感じる。きっと、サヨに仕える事を喜びと感じる者共の気持ちが、こういった行き届いた清掃や、生花、礼の仕方一つにも出ているのだろう。そうにちがいない。


 だから、怖がることはないのだ。

 ただ、好いた女に呼ばれて顔を合わせに来ただけなのだから。


 そう言い聞かせて、灯りのついた部屋へ誘われていくのであった。


「届けさせたものを着てくれたのね」


 御簾をくぐると、常よりも手の込んだ衣を着たサヨの姿があった。ミズキは無言で頷く。ミズキももちろん男のとしての衣ぐらい持っているが、下級貴族に毛が生えたような装いしか無い。日頃女の格好をしているので、わざわざ着るものなんぞに金をかける余裕は紫には無いのだ。


 故に、高位貴族としてのサヨとの面会に釣り合いのとれた格好ができると、それだけで武装したかのような、どこか安心した気持ちになれる。それを知ってか知らずか、サヨは少し頬を染めて、満足そうに頷いていた。


「よく似合ってるわ。さ、こちらへ」


 ミズキはサヨの向かい側に腰を下ろしながら、辺りを見渡す。下女も下がってしまって、二人きりである。


「それで、今夜はこんな大層な格好をさせてどうしたんだ?」


 ちょっとした話し合いならば、いつも通り鳴紡殿のミズキの部屋で事足りる。わざわざ別の場を用意した限りは、何かあると思うのが普通であろう。


「こちらから呼び出したのに、呼び出し返されるとは思わなかった。しかも日を改めてまで。貴族というのは、こういうのが普通なのか?」


 サヨは、一瞬気まずげに視線を泳がせたが、ミズキの言葉を無視して、扇をあおぎ始めた。


「先に、ご用件を伺いますわ」


 なぜか、いつもよりも令嬢らしい言葉遣いである。ミズキは少し調子が狂いそうになりながらも、告げた。


「二つある。一つは、やはり帝国の密偵がクレナにも出入りしているようだ」


 帝国の手の者と言っても、帝国人というわけではない。元々クレナに住む者を手懐けて、そういう仕事をさせているようだ。


 というのも、都からは香山の関へ通じる街道や主要な村々は、粗方を紫が押さえるようになったため、不自然な荷動きや人の行き来を確認できるようになったのである。


「帝国はこちらの文字が使えないが、暗号としては読めるようだ。例えば、『帝』の代わりに『庭』の字を使うという風に、秘密のやり取りをしていることが分かった。敢えて荷の中に文を入れるのではなく、複数の荷札を繋ぎ合わせれば読めるようになっているらしい」

「わざわざ、そういう物を探し出して謎解きふる者が、紫の中に居るというの?」


 サヨは、扇の影で目を丸くしている。


「あぁ。他は駄目でも、そういうのが得意な奴っていうのはいる。ちょっと変わった奴を見抜いて拾ってくるのは、ハトが得意なんだ。俺も、ある意味拾われた口だな」


 サヨは、その縁に自分もあやかっているのかもしれないと思いつつ、ミズキが押し出してきた巻物を手に取る。


「詳細はそこに。今読むか?」

「いえ、これは後ほど。それで、もう一つは?」

「姫空木殿が、紫に接触してきた」


 サヨは、今度こそ驚きを隠せなかった。


「正妃様のご実家……どういう事をおっしゃってるの?」

「王の配下、かなり中枢に近い人物を取り込んだから、傘下に入れてくれって話らしい。これ、後で裏切られたりしないよな? ハトには、勝手に話を進めないように言い含めてある」


 遠征前に、ユカリから聞いた話では、コトリの母親を謀って殺したのは正妃ではなかった。しかし、後宮を取り仕切っていたのは彼女。コトリを尽く除け者にしてきた事は、今でも許せない事実なのだ。


 それを今更、コトリを琴姫と仰いで頂く組織に連なりたいなど、どの面下げて来たのだと怒鳴りたい気持ちになる。


 その一方で、状況が大きく前進しそうな予感もあった。もし、本当に紫側についてくれるならば、王宮内から王の味方はほぼ消えることになるだろう。姫空木殿も、菖蒲殿に匹敵するぐらい格の高い家だ。これに追随する貴族も見込めることは間違いない。


「どうする?」


 ミズキの視線は、一人考えに耽るサヨを射抜いていた。


「情報が足りないわ」

「だが、もたもたしていては、遅きに失する。仲間に入れた途端、乗っ取られるような弱みはもちたくない」

「分かってる。全ては姫様のために、すべき事をするだけよ」

「姫様か。サヨは、どこまでいっても姫様ばかりだ」


 ミズキは、わざとらしく大きな溜息をつくと、膝を何度かパンパンと叩いた後に立ち上がった。


「こちらからの用件は以上だ。帰らせてもらう」


 彼の気を害してしまったらしいことは、さすがのサヨにも分かってしまった。今夜は、これだけは避けねばならないことだったのに。


「待って、行かないで」


 いつになく、しおらしいではないか。そう思ったミズキは、ふと振り返る。


「お願い、一緒にいてほしいの」


 サヨは、瞳を潤ませていた。扇を持つ手が僅かに震えている。ミズキは、無意識に片方の口角を上げていた。こうも可愛らしく強請られたならば、応えてやらねば男が廃る。


「そうか。そんなに言うならば、寝台の上で朝まで共に過ごそうか」


 どうせ、またキャンキャンと子犬のように何か言い返してくるのだろうと思っていた。だからこそ、サヨがさらに顔を赤らめて、ミズキの衣の裾を握りしめ、小さく頷いたのには、嬉しさを通り越して、度肝を抜かれてしまったのである。


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